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三幕 ここは地獄か天国か

「す、すごい……! ま、魔物をただの木の棒っきれだけで倒すなんて……」


 その場にへたりと座り込んでしまった童子が、この場で起こり得た驚愕を口にすると突然視界が暗くなる。見上げると、関羽の巨体が陽を遮っていた。


わらしよ、怪我はないか?」

「わ、わらし……? ———って ぼぼ、僕はそんな歳じゃないぞ! これでも14歳だ!」


 差し伸べた関羽の手を払い除け、子供は元気よく立ち上がる。関羽に不服の顔を向けるものの、たちまちバツの悪そうな表情へと変貌した。


「……いや、ご、ごめん。あっと……その、危ないところを助けてくれて、ありがとう」


 関羽の目が眇められる。

 少年の自尊心を傷つけてしまったことへの、謝罪の気持ちも含まれていた。

 だから一人の男として、遇する気持ちを込めて言う。


「いやいや、気にせんでよい。わしこそすまなんだ。して、其方の名前を教えては貰えぬだろうか」

「……シエル」


 しえるとは。

 また聞き慣れなない名前であるな、と思ってみてもそれを口に出す非礼を関羽はしない。先程の魔物然り、ここは到底理解し難い事象があっても不思議じゃない天国ところ。名前ひとつで心揺れるほど、関羽という男は小さくない。まさに豪胆と寛大さを兼ね備えたふところである。


 だから関羽は不憫に思う。この若人わこうども死人なのか、と。

 力弱き者が虐げられる様を、不条理に殺戮される様を、生前幾度となく目の当たりにしてきた関羽はシエルに情を重ねてしまっていた。だが当の本人はと言えば「ねえ! あんたの名前も教えてよ!」と、哀愁などまるでない声音で尋ねてくる。


「おお、これはすまぬな。わしはのう、性は関、名は羽、字は雲長と申す」

「セイハカン・ナハウ・アザナハウンチョウ……? なんか長い名前だね。どこかの貴族か何かかい?」

「いやいや、シエルよ。そうでない。性は関と言い、名は羽でな……」

「性ってなに? 名前がウってことでいいの? 短すぎない? ウさんって呼べばいいかな?」

「……いや、もう関羽でよい」

「カンウ……カンウさんって呼べばいいんだね!」


 帽子からこぼれ落ちた金髪の束が揺れていた。中性的な面貌めんぼうは、成長すればおそらく二枚目の部類に入るであろう、シエルの幼顔に笑みが浮かんだ。


 しかしその笑顔は長くは続かない。


「……あっ! 血が出てるじゃんか!」

「なんの心配無用。これくらいの擦り傷など、もの数に入らぬ」


 歴戦の武将なのだ。骨に達していない傷など騒ぐほどのことでもない。

 しかしシエルがそれを許さなかった。背を伸ばし、かろうじて関羽の右手をがっしり掴むと腰を下ろせと体重を掛けてくる。


「いいから座ってって! さっきの魔物、森の牙(ウッドファング)は爪に遅効性の毒を持っているんだよ。これくらいの傷なら死ぬことはないかもだけど、念の為に回復と解毒をしないと」

「この傷が……よもやそのような……?」


 右肩の傷を注視するあまり、関羽の肘から先が持ち上がる。同時にシエルの足が宙に浮く。


「うわっ!? ちょ、ちょっとカンウさん! 僕を持ち上げるなよぉぉぉぉ!」

「おぉ。すまぬ、すまぬなシエルよ」


 続けてうわっははと、短く野太い哄笑こうしょうが腹の奥から吐き出された。


 ††††††††


 改めて腰を下ろした関羽とシエル。シエルは関羽の傷口に手をかざす。


「聖なる光よ舞い降りたまえ。かの者の邪悪を打ち払い、平穏を賜らんことを」


 すると、どうであろう。

 手から暖色の光が放たれると捲れ上がった薄皮が閉じ、皮膚が再生されていく。関羽の肩の傷はスローの逆再生を見るかのように、すっかり塞がった。


「おお、なんとこれは……シエル、其方は不思議な法術が使えるのか……わしの長い人生でも経験したことがない」

「ええ? こんなの一般的な民間魔法だよ? 全然珍しくも難しくもないんだけど」


 当然だが関羽が生きた後漢時代は魔法などと無縁の世界。自然の事象や災害などをあたかも己の力だとうそぶいていた者は五万ごまんといたが、実際はタネも仕掛けもあるトリックで、信用に値する法術など関羽は一度たりとも見たことはない。


 故に感嘆してしまう。シエルの魔法にすっかり目を奪われていた。


「それにさ、なんだかヘンだよカンウさん。さっきからワシ、ワシって……年寄りみたいな口調でさ。大体そんな歳じゃないだろ?」


 ぬぬ? と関羽は己の頬を撫でてみて、強烈な違和感が掌から伝わってきた。 

 続いて関羽は立ち上がり湖へと向かう。湖面は波紋ひとつもなく、森の静寂と華麗さを写し出している。そこへ、恐る恐る覗き込む。


「こ、これは……若い時分の姿ではないか……!」


 顔に皺など一切ない。髭も艶やか。何より顔に精気が満ち溢れている。

 そしてそれは顔だけにとどまらない。腕もよく見れば鋼の線を束ねたようで、若々しい筋繊維で弾けそうなくらい膨張している。戦歴の証の傷跡さえ見当たらない。

 左手を天に翳しまじまじと見つめてみる。


 やはり、か。

 関羽が死する少し前に魏の猛将龐徳から受けた矢傷。ここ近年稀に見る負傷であった。名医華佗の手当がなければ、左腕は腐り落ちていただろう。故に見落とすことなどない大きな傷跡すら、綺麗さっぱりなくなっていた。


「理解に苦しむが……若返ったということか。いやはや、不思議なことが立て続けに起こるところよ」


 そこでようやく思い至る。そもそもここは天国なのか、と。

 死んだ人間の行き着く先のひとつである場所にしては、生々しすぎる。目にする景色が、新緑の香りが五感を震わせ臨場感を醸し出してくるのだ。


 ———もしや、シエルなら。何かを知っているやもしれぬ。


 関羽は湖面に写る自分に背を向け、シエルの側まで歩いていく。そして大きな背を曲げて、努めて優しく話しかけた。


「シエルよ。ここは天国であろう?」

「は? 天国って死んだ人間が行くあの天国?」

「さよう」


 真顔の関羽を見てシエルはぷぷと吹き出した。


「ははは! カンウさん、面白いこと言うね! ここはアルガート帝国の北にあるフェルスタジナ領だよ」

「い、今なんと? あ、あるが……ふぇる……だと? ここはまさか異国に地であるのか?」

「異国って……まあ帝都から見たら西の外れにあるここは、遠い異国なのかもしれないけどね。……ところでカンウさんは何処からきたの?」


 荊州と言いそうになり、関羽は口を止める。

 ここは天国じゃない。

 自分はもう一度、生を受けたのか。


 関羽は天を仰いだ。

 心残りが胸を突く。だが同時に心は踊っていた。

 せっかくの機会を与えてくれた何者かに、深く感謝する。それが関羽という人だった。


「遠い遠い、地より参った。そうだな……きっとシエルが知らない地であろうな」

「そっか……それじゃ僕の家に来てよ。お腹も空いているだろう? 助けてくれたお礼もちゃんとしないとね」


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