52話 必ず、聞きだしてみせる
今回、映画のタイトルなどが多く出てきます。わからない方も多いと思いますのでお写真をつけ、あとがきでも少し補足をしております。 わからなくても全然大丈夫ですので、そのまま読み進めてください。
「二十世紀にもどるつもりがない?」
思わず椅子から立ち上がり、驚くアン。その声は窓の外まで届き、ベランダのふちにとまっていた鳩が飛び立つ。
アイリスも、
「伯爵、あなた、まさか十八世紀で生涯を終えるつもりなの?」
立ち上がりこそしなかったが、普段の彼女らしくない大きな声を出す。
サンジェルマン伯爵はゆっくりと足を組み替える。
窓から差し込む光がテーブルの色を淡く見せる。
日差しの中に空気の中を舞う、ちりやほこりも見える。
この時代の室内はどこでも薄暗い。だがこの部屋は太陽光がきちんと入ってくる。
余談になるが、これは伯爵がいい部屋に宿泊している、と同義語だ。
伯爵はぼんやりとした視線で淡く光っているテーブルの面を見て動きを止める。
「――ええ。その通りです。戻らないと決めたのです」
穏やかな声のままだ。
「確かに十八世紀は良いことばかりじゃありませんよ。不便も多い―――」
「じゃあ、なぜ? もとの世界に残した人もいるでしょうに。なぜこの時代に居続けるの?」
「最初は戻るつもりでしたがね……今の私は十八世紀のフランスで生きると決めたんです。
―――ほら、住めば都というでしょう?」
いや、そういう問題じゃないでしょう!
住めば都だからで、タイムスリップ先で生きると決めていいはずはない。というかそんな気持ちになるはずがない。 そんな変な人いる?
三人は衝撃を受ける。他人の話だからどうでもいいはずだが、こんな話を聞いたらやっぱり動揺する。
一体この男は、自分たちに何をしたいのだろう? 前回会った時と同じく衝撃波が飛んできて、そのたびに混乱する。
サンジェルマン伯爵は、驚きの表情を隠せないアンたちの顔をひとりひとり見つめる。
……次に何を言いだすの? 身構える三人。
でも彼がしたことは、ゆっくりと紅茶の入ったカップを口元に持っていっただけだった。
一秒、二秒、十秒と無言のまま、時間が経つ。
「ねえ、伯爵」 沈黙を破ったのは、アン。
「あなた二十世紀でファンだった女優っているの?」
超 唐突な問いだ。女優? ファン? アイリスとフィービーはアンの意図がわからず、何が起きたのかと身体を固くする。
一方、サンジェルマン伯爵は、怪訝な顔をするかと思えばそうではなかった。
「――いましたよ」
「誰か教えてもらっていい?」
「そうですね……キャンディス・バーゲンには憧れましたねえ」
「彼女は素敵な女優だわ」 無条件にアンは同意する。
(キャンディス・バーゲン)
「『風とライオン』の彼女は素晴らしかった。ルイ・マル監督と結婚したときはずいぶん落ち込んだものですよ」
(※1あとがき参照)
「……監督は亡くなられたわ」
アンもカップの紅茶に初めて口をつける。
「――おや。そうでしたか。 私が戻れば彼女と結婚できるでしょうかね?」
「それは無理。再婚されたから」 少し微笑みを見せるアン。
「――あ、でも再婚までに戻って知り合えばできるかも」 言い直す。
「冗談ですよ。幸せに暮らしていらっしゃれば私はそれで満足ですよ。あとは、カトリーヌ・ドヌーブにも憧れましたね」
キャンディス・バーゲンもカトリーヌ・ドヌーブも息の長い活躍をしている美人女優だ。ハリウッドに居なくても世界中の女優なら誰もがその名前を知っているだろう。
(カトリーヌ・ドヌーブ)
アイリスはこの会話に入ろうとしない。入ろうと思えばいくらでも入れるが、耳と目にすべてを集中し、サンジェルマン伯爵の表情と言葉を心に録画している。
―――ここまできて、アイリスはアンの意図に目星をつけはじめていた。
「彼女も長くご活躍よ、私も憧れているわ。『インドシナ』がすごくよかったわ」
(※2あとがき参照)
「『インドシナ』? ……知らない映画です。私がこちらに来た後の映画でしょう。 私が印象に遺しているのは、『終電車』ですよ。フランソワ・トリュフォー監督の」
(※3あとがき参照)
「トリュフォー監督の最大のヒット作だわ」 アンは目を伏せて紅茶を優雅に含む。
「アン殿――。ずいぶんと映画にお詳しいのですね。映画ファンですか?」
「映画ファンかと言われたら、そうかもね……」
アンは、自分がハリウッド女優だとは言わない。濁す。
アイリスもフィービーも黙っている。ハリウッド女優だなんて余計な情報を与えるのは、この男の信用が積みあがってからでも遅くはない。
またアンは話を変える。
「伯爵、いつまでこの宿屋に居るの?」
「ここに何日いるかはわかりませんね。二週間分の宿泊費は払いましたが」
最初の頃の表情より、おだやかな顔になり、アンとの間にあったバチバチの雰囲気も溶けている。
「気分でパリにいることもありますし、ヴェルサイユに来ることもありますし、他国へ出かけていることもありますし」
「アドレスホッパーね、あなた」 二十一世紀の言葉を使ってみる。
「アドレスホッパーというのですか? 私は『サンジェルマン伯爵、旅行中』と表現しているのですがね」
住所を旅行中と表現する? これは……この表現は……
アンたち三人にはすぐわかる。一瞬でわかる。ハリウッド女優だもの。
この表現は大女優、オードリー・ヘップバーンが演じた 映画『ティファニーで朝食を』からだ。
主人公、ホリー・ゴライトリーの名刺には「旅行中」と書かれていた。
「映画が本当にお好きなのね」
「オードリーは『マイ・フェア・レディ』 が一番でしたよ。美しかったなあ、彼女は」
サンジェルマン伯爵はどこか懐かしそうだ。遠くの思い出と再会して楽しんでいる。
(※4あとがき参照)
「お三方、お茶はもう冷めてしまいましたかな。階下に頼んでお湯をもってこさせましょう」
伯爵は呼び鈴を鳴らし、人を呼ぶ。 差し湯はすぐに来た。
ポットに沸かしたてのお湯をつぎ足し新しい紅茶が注がれる。
人が入って、動きが生まれ、雰囲気も切り替わる。
その機をみて――再び突然、アンが口をひらく。
「ねえ、伯爵。十八世紀にはあなたと私たち以外に、何人来ているの?」
「ええっ?」
サンジェルマン伯爵ではなく、隣にいたフィービーがか悲鳴にも似た声をあげる。
何のことかわからないという顔だ。
アイリスがフィービーに目配せする。意味は黙っているように、だ。フィービーは目を白黒させながらも、すぐさま紅茶を含み、驚きをごまかした。
フィービーが驚いた質問にも、サンジェルマン伯爵は動じない。
「……私たち以外に何人か来ているようですよ」
「来ているよう? はっきり知らないの?」
「ええ。向こうは私の立ち振る舞いから、気づいているかもしれませんがね」
「誰がタイムスリップしてるか知らないのに、タイムスリップしている人間がいるとわかるわけ?」
「簡単ですよ。マリア・テレジアが二度目のタイムスリップの時にそう言っていたのです」
「―――彼女はなんと?」
「過去にも送ったことがあるが、なかなかうまくいかない、と」
「男? 女?」
「それは話してはくれませんでしたね」
「じゃあ、ポリニャック夫人に私たちのことを話したのは、その人だと?」
「その人なのか、その人たち、なのかはわかりませんがね」
「私、何を聞かされているの? 何てことなの!! 信じられないわ」 今度はアンが悲鳴に近い声を上げる。
アイリスも手を口に当て言葉を失う。フィービーはアンとアイリスを交互に見ておろおろしている。心の不安を隠せない。
――――サンジェルマン伯爵がタイムスリップしてきた二十世紀の人間だと知った時の衝撃よりも、この衝撃は大きいかもしれない。
「あなた方を不安に陥れて喜ぶ趣味はありません。ここらでお伝えしておきましょう」
今までとは全くトーンが違う声だ。
「私はあなた方の味方にはなれないかもしれませんが、敵ではない。十八世紀で一生を終える決意をした私は、マリア・テレジアの依頼などどうでもいい。このままここで暮らせればそれでいいのです」
※1 『風とライオン』 1975年のハリウッド映画。ショーン・コネリーとキャンディス・バーゲンが出演。
キャンディス・バーゲンは1981年にフランス人のルイ・マル監督と結婚し、1995年に死別。2000年に不動産関連の仕事をしている男性と再婚している。(ウィキより)
(『風とライオン』のワンシーン)
※2 『インドシナ』 1992年のフランス映画。カトリーヌ・ドヌーブ主演。1992年 アカデミー外国語映画賞 ゴールデングローブ賞 外国語映画賞 セザール賞 主演女優賞
※3 『終電車』 1980年のフランス映画。カトリーヌ・ドヌーブ主演。フランソワ・トリュフォー監督。
※4 『マイフェアレディ』は1964年製作のオードリー・ヘップバーン主演の映画。彼女の代表作のひとつ。二十一世紀の日本では、神田沙也加さんの主演などで舞台版が上演されています。




