最終話 理不尽な世界
セスの悲痛な叫びが私の胸に突き刺さった。
殺してやってくれという、ヨハンの叫びもまた深く。
もうやめてとローレンスに縋った手は無情にもすり抜けた。
「"クルスの調べ"とはね、リリスに自死を禁じられた天族が、どうにかしてそれを可能にできないか研究し尽くして生まれた術なんだ。リリスの意思に反する術を生み出しておきながら、彼らはアルディナの元に魂を導くとされているクルスの名を術名に模した。私に言葉を教え、私を裏切ったクルスの名をね。それによってリリスの計画が水の泡になるなんて、何とも皮肉なものだと思わないか?」
後ろに立つミハイルが、そんな私を気にも留めずに言った。
いい気味だ、そう言っているように聞こえた。
「そんなことはどうでもいい!」
「はは、君にとってはそうだろうね」
振り返って睨みつけたが、ミハイルはやはりそんな私を気にも留めることなく笑ってそう言った。
それがひどく癪に障り、掴みかかってやろうかと足を一歩踏み出した瞬間、視界が黒一色になった。自分の姿さえも飲み込まれて、何も見えず何も聞こえない。
それは一瞬なようで、とてつもなく長い時間のようで、不安に心が掻き乱されるくらい禍々しいものだった。
気付いたら、見慣れた路地に立っていた。
足元にはセスとヨハンが横たわっている。
「な……なにが……?」
状況が全く理解できないが、ひとまず跪いて2人の息を確かめる。
相変わらず触れることは叶わないが、わずかに胸が上下している様子が見て取れて、私の心にわずかな安堵感を生み出した。
ここにはもう、ローレンスの姿はない。これ以上2人が何かをされるということはなさそうだ。
小さく息を吐き出して立ち上がった瞬間、景色が歪み、辺りは白一色になった。
セスの姿も、ヨハンの姿もどこにもない。
あるのはミハイルと私の姿だけ。
こうやってミハイルは今まで他の転生者を視ていたのだ。
まるで自分もその場にいるかのようだった。いや、実際いた。干渉もできない精神体として。
「良かったね。2人が無事で。これで満足したかな?」
穏やかな笑みを浮かべてミハイルが問う。
「……満足? できるとでも思ってるの? 毒を飲んだあの時、ここに来れていればこんなことにはならなかったのに」
「ごめんね。君に殺してもらえなかったことに絶望しすぎて、上手く波長を合わせられなかったんだ」
責めたてた私の言葉から逃げるように、ミハイルは目を伏せた。
そんな訳の分からない理由で拒絶されたというのか。あんなにも私がここに来ることを望んでいたくせに。
「こんなことになるのなら、最初に会ったあの時、躊躇わずに貴方を殺せばよかった」
そう言いながら腰に帯びている短剣を引き抜いた。
それは投げ出したくなるほどに重く、熱を全て奪われそうな程冷たい。
一歩、二歩と踏み出した。
地に足はついている。なのにどこか宙に浮いているような感覚がして、眩暈を覚えた。
「そこで躊躇うのが、君という人間だ」
ミハイルが悲しげな笑みを浮かべて呟いた。
どこか諦めているような言葉に、言い知れない怒りが湧き上がってくるのを感じる。
ミハイルに対してなのか、あの時にそれができなかった自分に対してなのかは分からない。
分からないが、今ならその怒りに任せてこの手を血で染められる気がした。
「もう躊躇わない。僕には失うものなんて何もないのだから」
「そんなことはないだろう。君は"クルスの調べ"によって救われた。だから次は君が救ってくれ。君の魂が輪廻してしまう前に。これはセスから与えられた、最後のチャンスだ」
歩を進めながら言う私を前にして、ミハイルは自嘲気味な笑みを浮かべてそう返した。
怖じ気づいて後ずさるでもなく、むしろ迎え入れるように両手を広げている。
最初からこの人はそれを望んでいたのに、なぜ躊躇ってしまったのだろうか。
狂った世界で私は何故、狂いきれなかったのだろうか。
「そんなことをしても僕には何の得もない。魂が輪廻したって、記憶がなければそれはもう僕じゃないんだから」
「案外、彼の近くに生まれ変われるかもしれないよ。強い魂の繋がりは、そう簡単に切れないらしいからね」
「それは僕じゃないって言ってるだろ。でも、いいよ。救ってあげる。あまりにも哀れな貴方と、こんな狂った世界で生きていかなければならない他の転生者を」
手が届く位置まで歩いてきた私を、ミハイルはただ静かに見つめている。
「……ほら、そう考えると気持ちが軽くなるだろう?」
そして柔らかく笑ってそう言った。
「ふざけないでよ。軽々しく人の命を奪えるほど、僕は狂っていない」
「狂ってしまえばよかったのに」
怒りを含ませた私の言葉に、ミハイルは嘲笑うかのようにフッと視線を外した。
その言葉で一気に熱が上がる。
「簡単に言うな! それができたらこんなにも後悔の念に駆られていることはない!」
「……ぐ……ぅ……っ!」
勢いに任せて持っていた短剣をミハイルの胸に突き刺す。
しかし肉を裂く鈍い感触と手を濡らす生温い液体の感触に、私はハッと我に返って短剣から手を離した。
声も上げず崩れ落ちていくミハイルを前に、私の体も崩れ落ちそうになる。
「ああ……あああぁぁぁ……っ」
湧き上がる慟哭の声を抑えることは叶わなかった。
「……ありがとう、シエル……」
「うわああああああああぁぁぁ!!」
か弱い声を掻き消すように叫びながら、私は血濡れた手で耳を塞いだ。




