歴史の謎を探る会〔編〕『日本の三大宗教』読書まとめ ④(宗教関連・儒教)
歴史の謎を探る会〔編〕『日本の三大宗教 神道・儒教・日本仏教』(河出書房、2005)からのまとめ。
「儒教」の「教えと考え方」についての説明。
◆ 儒教の教えと考え方
儒教は、「天」を敬い、祖先を崇拝し、「仁」にもとづいて道徳的秩序を保ちなさいと説く。
「仁」というのは、「人を愛すること」で、自己中心的にならず、他者に「忠」(真心)と「恕」(思いやり)をもって接することを指す。
儒教では、高次の愛である「仁」を強調し、現実世界の価値観を超えた理想世界について語られている。
また、「仁」にもとづいておこなわれる政治(=「王道」)を理想とし、武力を用いて国を治める「覇道」や、法にもとづく「法治主義」の上に置く。
「仁」という言葉は、孔子以前にも使われていたが、『論語』の中で100回以上にわたって使われているところから、儒教における最高徳目とみなされるようになった。
◆ 儒教における「天」の存在
ユダヤ教やイスラム教などの一神教の「神」の位置にあるものとして、儒教には、
―「天」―
という考え方がある。「天」があって「わたし」がある、というタテの原理が儒教。
ユダヤ教などでは、神と人とが契約を結び、契約にもとづいて神は人々に命令し、人々はそれを法律として守る。
儒教における「天」は一神教の神のように、人々に命令するわけではないが、何らかの意思は持っていて、
―「天命を知る」―
ということが基本原理となる。
◆ 儒教の「礼」
儒教は「礼教」とよばれることがあるように、「礼」を重要なエッセンスにしている。
「礼」とは、儒教成立以前の古代中国において、神を呼んだり、祖霊を呼び戻すときの儀礼を起源とする。
当時は、神に対する恐れから、神と関係を結ぶための手続きが重んじられた。
やがて「礼」は、宗教性を帯びた招魂儀礼はもちろん、年中行事における手続き、冠婚葬祭での立ち居ふるまい、国政典礼、さらには社会で生きていくうえで必要な慣習などに細分化され、社会的な規範として重んじられるようになっていった。
孔子は、そうした「礼」を社会秩序の基礎に据えようとした。
「人民を導くのに政(法制)を用い、これを鎮めるのに刑(刑罰)を用いれば人民は(法の網の目)を免れることばかりを考えて罪を感じる意識を持たなくなる。人民を導くのに徳を用い、これを鎮めるのに礼を用いれば、人民は恥を重んじて心の底から正しくなる」(『論語』)
孔子は、法を第一に説く「法治主義」ではなく、徳や礼にもとづく「徳治主義」によって、理想社会を打ち立てようとした。
◆ 儒教教団の成り立ちと孔子が理想とした周王朝の礼楽文化
陳舜臣氏の『儒教三千年』によると、「殷」代では、あらゆることが占卜で決められていたという。そしてその占卜は王が主催し、殷の王はあらゆる祭祀権を独占していた。殷王は神聖王朝のあるじであり、殷は聖職者である王によって支配されていた。
殷では王の埋葬の際に、おびただしい数の殉死者が殉葬されたが、これは殷王が現人神と考えられていた証しとみることができると。
殷では殉葬だけでなく、祖先の祭祀をおこなうときの犠牲に、牛、羊、豚などだけでなく、人間も殺されて供えられていた。
この祭祀国家であった殷をほろぼしたのが西方の部族だった「周」。
『史記』には、
「紂(ちゅう:殷王の名) の軍隊は七十万という多さだったが、戦意はなく、心のなかで周の武王がはやく攻めてくるのを望んでいた。彼らは兵器をさかさにして戦い(寝返ること)、武王を迎え入れた」
というような記述がある。
殷では一時に数百頭の牛・羊が殺されたが、周での祭祀の犠牲は、一牢(一牛、一羊、一豚)というかんたんなもので、殷でおこなわれていた人間の犠牲も廃止された。
周は建国まもなく武王が死に、その弟の周公が、幼い威王を補佐し、新王朝の礼楽や制度を整えた。
祭祀の犠牲をかんたんにしたのも周公の意思によったといわれるが、殷と周の交代は、「殷周革命」といわれるほど、がらりと変わった。
白川静氏は、「儒」を「雨乞いをする巫祝」と解した。
「巫祝」とは、まじない師、祈祷師のたぐいで、「儒」の淵源をたどれば、雨乞いのまじない師に代表される巫祝らしい。
殷王朝では、王が巫祝だった。夏の桀王を伐ったあと、7年も旱魃が続いたが、湯王はみずから巫祝となり、「斎戒剪髪、断爪」して禱ったという。
孔子は、周の文化の賛美者だった。
孔子は周初、周公がさまざまな礼楽を定めた理想の時代と考えた。
そして、つねに周公を慕っていた。
殷の最後の王である紂は、『史記』によれば
「其の先祖の肆祀(しし:ならべて祀ること)を棄てて答いず」
だったといい、それが、周が殷を討つ一つの理由になっていた。
周公は、「長子相続・喪服」などの制度を制定し、それがのちに儒の根幹となった。
殷の神権政治を、周公が人間的なものに改め、「礼」を社会の基調にした。
神政から人間政治への転換。
周ではすべてを占卜に頼ることはなくなり、合理的に、そして現実的にものを考える時代になったが、
儒の集団は、まじないや占いから、しだいに葬送を主要な仕事とした祭祀の専門集団へとなっていった。
「孔席暖まらず、墨突黔まず」
といわれたように、儒の集団は、葬儀のあるところを求めて東奔西走して走りまわったため、旅によって見聞が広められ、やがて、葬送の専門家だった儒家グループは、他人に助言する、処世の指南役の色彩を濃くしていった。
・葵邱の会盟
春秋時代、孔子が生まれる100年ほど前、当時、「覇者」として諸侯を束ねていた斉の桓公は、宋、鄭、衛、魯などの中原の諸侯を集めて会議をひらいた。
そのころ、南方の楚が勢力を伸ばしていて、しばしば北上して中原諸国をおびやかしていた。
当時は、周の王が健在で、中原の諸侯は、「公」と称するだけで、まだ誰も王と名乗っていなかったが、楚は、
「我は蛮夷なり。中国の号謚にあずからず」
とうそぶいては、勝手に王と称していた。
礼儀知らずだが、戦争のやたら強かった楚に対し、中原の諸侯は結束を固める約束をして、共通のルールを定め、たがいにその遵守を誓約しようとしたのが「葵邱の会盟」だった。
そのルールとは、
1、「不孝を誅せよ。樹子を易うること無かれ。妾を以て妻とすること無かれ」
2、「賢を尊び才を有し、以て有徳を彰せ」
3、「老を敬い幼きを慈しみ、賓旅を忘るること無かれ」
4、「士は官を世(世襲)すること無かれ。官事は摂(兼任)すること無かれ。士を取ること必ず得よ。大夫を専殺する(ほしいままに殺す)こと無かれ」
5、「防を曲ぐること無かれ。糴(てき:穀物の輸入)を遏むること無かれ。封ずること有りて告げざること無かれ」
というものだった。
この葵邱の盟の内容は儒教の理想に合致したもので、400年後の孟子がこれに言及し、
「むかしの諸侯はその盟約をよく守ったが、いまの諸侯はみな五禁を犯している」
となげいた。
◆ 「君子」と「小人」の関係
儒教では人を、「君子」と「小人」の二つに分け、天命を知ることのできる者が「君子」で、エリートで、天命を知らない者が「小人」として蔑まれる。
「君子に三畏あり。天命を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れず。大人に狎れ、聖人の言を侮る」(『論語』)
君子が人に接するとき、儒教では、同じ君子に対しては「礼」で対し、小人には「刑」で対する。
「礼」の本質は「仁」であり、すなわち「人を愛すること」。
しかし、「愛」とは相手を束縛するものでもあるため、そこに「思いやり」の要素となる「恕」が入ってくる。
「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」(「論語」)
いっぽう、天を知らない小人に対しては「刑」で臨むことになる。
「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」(「典礼」上篇)
「士大夫」というのは高級官僚のことで、「士」は一般の官僚で、「大夫」は大臣クラスの人。
士大夫の位には、刑罰は科さず、小人に対しては礼は適用させない。
注意されて自分で行動を改められるのが君子で、言っても聞かない小人には刑罰を科すしかない。
刑罰を受けたくないのであれば、君子になることが求められる。
だから逆に、もし士大夫が悪いことをすれば、その者は士大夫でなくなる。
士大夫でなくなれば小人として刑罰を与えられることになるが、もし士大夫であろうとするなら、その場合は自殺しなければならず、それが士大夫として「礼をまっとうする」というあり方となる。
儒教とは、天とわたしの関係の宗教であり、その者が「君子」であることを前提にした教え。
対して、庶民(あるいは小人)が主体となった宗教が「道教」。
儒教は、政治をよくして民を救うという集団救済の宗教で、病気を治すとか、長生きいしたいとか、個人の救いなどには何の役にも立たない。そこで個人救済は道教が受け持った。
道教は超能力による救済を容認し、仙人になる術、不老不死をもたらす術などが道教の売り物だった。
◆ 儒教道徳の基礎となった「五倫五常」
「五倫」とは、対人関係において実践すべき徳のこと。「四書」のひとつ『孟子』によれば、
「父子の親」「君臣の義」「夫婦の別」「長幼の序」「朋友の信」の五つを指す。
「父子の親」とは、父と子が自然な親愛の情で結ばれていること。
「君臣の義」とは、主君と家臣が正しい義(あり方)で結ばれていること。
「夫婦の別」とは、夫と妻のあいだには別が必要であること。
「長幼の序」とは、年長者と年少者の間には序列があること。
「朋友の信」とは、友は互いに信頼で結びついていること。
これらの儒教倫理は、日本人の日常生活に深く溶け込んでいる。
日本人が他人の年齢を気にしたり、兄弟姉妹のうちで長男を重んじるのも、儒教の教えが根づいているから。
そして儒教にはさらに、「五倫」のような具体的な人間関係の倫理道徳とは別に、「五常」と呼ばれる徳目がある。
五常とは、仁、義、礼、智、信の五つの徳のこと。
この五つのうち「仁、義、礼、智」の四徳は、孟子が説いたもので、
残る「信」は、のちに漢の儒者・董仲舒がつけ加えたもの。
◆ 孔子の思想の核となる「孝」
儒教では、身近なところから、徳を段階的に広げることを教えの原理にしている。
まず、社会の基本単位としての「家」があり、家の原理を共同体レベルに広げ、さらに国家にまで拡大することで、「徳治主義」が実現できると説く。
儒教がときに「家の宗教」と呼ばれるのもそのため。
そして、その家の土台をしっかり固めるために、「孝」という考え方が出てくる。
「孝」という字は、「老」と「子」で成ることからもわかるように、「孝」は本来、老人を養うことを意味していた。
つまり、子が親を養い、敬うことが「孝」の基本。
そこから、親が死んだあとも尽くすことが求められるようになり、祖先をまつることも「孝」の一部となった。
さらに、祖先の祭祀をつづけるには、子孫を絶やさないことが必要となる。
そこから、子を生み育てることも、「孝」にふくまれるようになった。
「孝」には、「祖先の祭祀」「父母への敬愛」「子孫の繁栄」という三つの側面がある。
・「孝」と「仁」や「礼」との関係
孔子は『論語』のなかで、
「孝と悌(てい:年少者が年長者によく従うこと)は仁の本なり」
と説いている。「孝」は「仁(仁愛や仁徳)」の基本だと。
加えて、「孝とは何か」という弟子の質問に対して、
「生(生きている親)に対しては、これに事うるに礼をもってし、死(亡くなった親)に対しては、これを葬るに礼をもってし、これを祭るに礼をもってす」
と答えている。
つまり、親に対してただ敬意をもつだけでなく、それを「礼」であらわすのが「孝」だという。
儒教の経典のひとつ『孝経』(孔子の弟子、曾子の作とみられる)には、
「身体髪膚、これを父母に受く。あえて毀損(わざと傷つけないこと)せざるは、孝の始めなり」
「身を立てるには道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕わすは、孝の終わりなり」
と書かれている。
◆ 根本聖典「五経」に書かれていること
儒教の大切な教えをつづった書物として「四書五経」がある。
このうち、儒教の根本聖典とされているのは、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』からなる「五経」。
五経は、前漢の武帝の時代に儒教が国教化されたとき、その基本的な経典として採用された。
古来、五経は孔子が編纂したものとされてきたが、『書経』と『詩経』を除く三経については、孔子が編纂にかかわったかどうかはっきりしない。
・『易経』
易経は、陰陽の原理によって宇宙の根本を説いた書で、ひと口にいえば占いの書。
・『書経』
書経は、夏・殷・周にいたる古代の王と、それを補佐した人々の言行を伝える書。儒家の理想である王道政治(古代の王がおこなった仁徳にもとづく政道)の理念を示した書。
・『詩経』
詩経は、中国最古の詩集。孔子が活躍した春秋時代にいたるまでの数百年間に詠まれた305篇の歌謡を収録。書経とともに尊重される書で、孔子は書経と詩経を用いて、弟子を教えたと伝えられる。
・『礼記』
礼記は、礼にかんする書。王朝制度、伝統的な礼の根本精神について述べられているほか、孔子とその弟子らの礼にまつわる逸話が収録されている。
・『春秋』
春秋は、春秋時代の魯国の公式記録で隠公から哀公にいたる242年間(前722~前481)にわたって、孔子の祖国である魯国を中心とした外交、戦争、宮室の婚姻、自身・洪水などに災害について、簡潔に述べられている。
◆ 「四書」に書かれていること
儒教をマスターするうえで、五経に次ぐ必読の書が「四書」。
四書は、「朱子学」の創始者である南宋の朱熹が、聖人の教えを学ぶさいの、基本的な書として定めたもの。
『大学』『中庸』『論語』『孟子』の四つからなる。
・『大学』
大学は、もともと五経のひとつ『礼記』の一篇だったもの。それを朱熹が独立させて、一冊の書物とした。そのなかには、儒教の理念をわかりやすく伝える一節が見られる。
「意実にしてしかる後心正し。心正しくしてしかる後身修まる。身修まりてしかる後家斉う。家斉いてしかる後国治まる。国治まりてしかる後天下平らかなり」
まず、自分自身を正して、それから家、国家、世界の順に治めていくという儒教の基本発想(修身斉家治国平天下)が簡潔にまとめられている。
儒教では、みずから修養して得た成果を、近くから遠くへ広めなさいと説く。
たとえば、孔子の説いた「仁」も、無差別に人を愛せといっているのではなくまず家族を愛し、次に国家、さらに天下へと愛情の輪をしだいに広げる、という考え方を基本にしている。
その意味で、「汝の敵を愛せ」に代表されるキリスト教的な博愛主義は、儒教にはない。
日本の二宮金次郎像が読んでいる本も、この大学の本。
・『中庸』
中庸も大学と同じく、もともと『礼記』のなかの一篇を朱熹が独立させたもの。孔子の孫である子思の著作とされ、書名のとおり、「中庸の徳」について書かれている。中庸は過剰も不足もない状態のことで、『論語』の孔子の言葉に「中庸の徳たるや、其れ至れるかな」とあるように、古くから人間が実践すべき徳として重んじられてきた。その中庸の徳を強調し、「天から与えられた性に順って人として調和のとれた生き方をすべし」と説く。
・『論語』
論語は、孔子とその弟子たちの言行録。書名の「論」とは論難、つまり相手の誤りを指摘して正すこと。「語」はその答えを意味する。おもに、君子のあり方にかんする孔子の考え方がまとめられている。
・『孟子』
孟子は、孟子の言行をその弟子たちが編纂したもの。孟子は、孔子のおよそ150年後の戦国時代中期に活躍した思想家で、孔子の孫の思想の流れをくむ。孔子とともに、儒教の発展に貢献したもの。儒教の教えは「孔孟の教え」ともいわれる。
本書では有名な「性善説」のほかに、「民を貴しと為し、社稷(=国家)之に次ぎ、君を軽しとなす」という、孟子の理想主義的な主張が見られる。
孟子は、この考えにもとづいて、人民こそが根本であり、その民意に離反した君子は退陣すべき(易姓革命)と強調したため、当時の為政者には危険分子と見なされていた。
◆ 儒教における死後の世界
孔子以前、「原儒」とよばれる儒教の原型のようなものでは、霊魂の存在とそれにもとづく先祖崇拝を考え方の軸としていた。
それは、人間を精進と肉体に分け、精神をつかさどる神霊を「魂」、肉体をつかさどる神霊を「魄」ととらえる死生観で、
それによると、魂と魄は人間が生きている間はうまく共存しているが、死ねば互いに分離して、魂は天に昇り、魄は地に降りるという。
逆に、分離した魂と魄とを呼び戻し、人間の体内で一致させれば、ふたたび「生」の状態に戻すことができる。
ここから、儒教では、魂と魄を結びつける「招魂復魄の儀式」を重視し、中国では古来おこなわれてきた。
中国では、死者の遺体を焼く火葬を嫌い、土葬中心の埋葬がおこなわれてきたが、これも死後、抜け出た魂のよりどころが必要だと考えられてきたため。
また、日本人が死者のお骨を大切にするのも、儒教のこお部分の影響をうかがわせる。
なぜなら本来の仏教では、人は死ねば、悟りを開いて解脱しない限りは輪廻してまた生まれ変わると考えられているためるため(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界のいずれかに転生する。「六道輪廻)、仏教に霊魂の考えは存在せず、死者の肉体は単なる物体とみなされるだけ。
僧侶は葬儀をおこなわず、霊を崇めるということもせず、墓すらつくらない。
にもかかわらず、日本では葬儀のときに故人の棺を拝んだりするのは、仏教というより、儒教の死生観の影響を受けているためと思われる。
死者の霊をまつる「位牌」を仏壇に安置するのも、儒教の儀礼を取り入れたものと思われる。
儒教では死んだ霊魂を「鬼」と呼ぶ。
「鬼籍に入る」とは、あの世の籍に入るということ。しかし死んでもすぐに鬼籍に入るわけではなく、子孫が、先祖祭りをやることによって、はじめて鬼籍に入る。
「魂」という字の「云」の部分は「雲」を表していて、雲が漂うあたりに、魂がのぼっていく。
「魄」のほうは、白骨となって、地上に戻る。
子孫は、死者の分離した魂魄を、祭りによって合体させ、それによって鬼籍に入れることができる。
儒教では「生まれ変わり」をすることはなく、「あの世」に行くと考えられている。
あの世に行ったら戻ってくることはない。
鬼籍に入るまでの間は、位牌をつくって祀ることになる。
位牌を祀る期間は、身分によって違う。
一般の庶民の場合には三代、天子や君子の場合には、33代などと長くなる。
偉い人の場合は7代。
一般的には、孫の代までが祖父母の位牌を祀ればよく、そうすれば、故人は鬼籍に入ることができる。
今回はひろさちや氏、陳舜氏、小室直樹氏の著作も参照にして補足してあります。




