歴史の謎を探る会〔編〕『日本の三大宗教』読書まとめ ③(宗教関連・神道)
歴史の謎を探る会〔編〕『日本の三大宗教 神道・儒教・日本仏教』(河出書房、2005)からのまとめ。
「神道」の「教えと考え方」についての説明。
◆ 「教義」や「戒律」が存在しない神道の教え
・神道は宗教なのか?
神道には、仏教における「経典」や、キリスト教の「聖書」、イスラム教の「コーラン」のような文書化された教義がない。
『古事記』は、神話が歴史として書かれているだけで、教義や宗教的な戒律などを記したものではなく、また、『古事記』には、建国神話に登場するさまざまな神様が、どんな神様かということは書かれていても、肝心の「神とは何か」という定義がおこなわれているわけでもない。
神道には、神にかんする基準というものが、事実上存在しない。
神道では、天照大神も神であれば、山や海や川、あるいは石とか木樹、あるいは動物等、自然物も神とされる。
さらには、菅原道真や徳川家康のような実在した人物を神様とすれば、それぞれの先祖を神様ともする。
国学中興の祖・本居宣長は、「神」について、
「さておよそ迦微とは、古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、それを祀れる社にまします御霊をも申し、そを祀れる社にましまし御霊をも申し、また人はさらにもいはず、鳥獣本草のたぐひ海山など、そのほか何にまれ世の常々ならずすぐれたる特のありてかしこきもの」(『古事記伝』)
という言葉で定義した。つまり、神というのは、
「必ずしも人間でなくてもよく、普通では見られないきわめてすぐれた特質を持っているもの」で、
しいていえば、人々が、あるモノやヒトを神様だと思えば、それが神様になる、というのが神道の神様という存在。
また、
「すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの優れたるのみを云ふに非ず、悪しきもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神とは云ふなり」(『古事記伝』)
と、「尋常でないもの」「すぐれたるもの」といっても、必ずしもそれがプラスの方向にすぐれている必要もなく、日本の神道では、「邪神」や「怨霊神」でさえ、神として祭られることがある。
神道では、人は尽きせぬ恨みを抱いて死ぬと、その恨みが、現世に対してさまざまな災厄、飢饉や疫病、不作、戦争などをもたらすと考えられていて、すべての災厄は、悪神のしわざだと考えられていた。
平安時代に、藤原氏に陥れられ、左遷された先で憤死を遂げた菅原道真を、怨霊として祭り、その霊を慰めたことなどがその代表例。
「神道」という言葉自体は、もともとは中国語で、古代中国で「神道」という言葉が初めて見られるのは『易経』の中の一節。
だがそこで「神道」という言葉は、自然の原理といった意味で使われているという。
作家の井沢元彦氏の定義では神道とは、
「日本古来の神様を、日本人のやり方で祭っていく宗教」
とのこと。
神道が宗教としてはっきりとした定義付けがしにくいのは、神道が、さまざまな考え方を包含している教えだから。
ひと言に神道といっても、そこには多面的な信仰が含まれ、自然崇拝のアニミズム的な面もあれば、氏神を信仰する儒教的な祖先崇拝の面もある。
また、日本神話の神を崇拝する信仰という面もあれば、明治維新から敗戦までのように、国家神道として一神教的な性格を濃厚にしていた時代もある。
しかし神道には、これらの多様な側面を統一する体系が存在しない。
さらに、神道には教義がないため、信者になる条件もない。
カトリックであれば、洗礼を受けてはじめて信徒として認められるが、神道の場合、日本人であれば誰でも信者だということができる。
信徒としての戒律などもないく、キリスト教では、人間はすべて生まれたときから原罪を背負っているという考えがあり、仏教でも、人間には108つ煩悩があるとされるが、神道にはそういう人間観は存在せず、世界・宇宙にかんする定義もない。
神社の神主が唱える「祝詞」も、仏教的な意味での経典などではなく、仏教の経典は、仏の教えや信仰の規範が記されたものだが、神道の祝詞とは、神への願い事が書かれたもの。
◆ 神道における「死後の世界」
「黄泉の国」という地下世界の存在についても、仏教のような極楽と地獄というような考えはない。
神道では、神は上に、天空におられるという考え方があり、そのような神のおられる天空を、「高天原」と名づけた。
そしてその高天原にまします神が「天つ神」。
対して地上の世界を、神道では「蘆原の中つ国」といい、蘆原の中つ国におられる神を「国つ神」という。
さらに地下世界があり、その地下世界を「根の国」という。
ただし、根の国はたんに地下世界ではなく、海の彼方の遠くにもあると考えられていて、これを「常世の国」といった。
「常世の国」は空間的に、「高天原」より下の空間を地下まで貫いて覆っていて、そのなかに「根の国」や「黄泉の国」が存在している。
黄泉の国とは、地下世界である根の国のなかのうちでも、中つ国の真下に存在するのもので、そこはスサノオノミコトが治める国とされている。
・「現世」と「他界」
神道においては、三つの異次元の世界があると考えられている。
われわれが生きている現実世界を「現世」と呼び、これに対して次元を異にした世界の「他界」(沖縄ではニライ・カナイと呼ばれる)が存在し、この異次元世界である他界が三種類存在する。
「他界」とは、不老不死の世界で、神々の世界で、そしてまた死後の世界でもある。
「他界」とは次の三つ。
1、山中他界
2、地中他界
3、海上他界(海の底もふくまれる)
「地中他界」とは、地上より下にある根の国や蘆原の中つ国の下にある黄泉の国を指し、
「海上他界」とは、根の国の海上に浮いた部分の常世の国のことを指す。
「山中他界」とは、我々が住んでいる蘆原の中つ国と同じ空間内の地上の上に存在するが、人の住む世界とは次元を異にした山の中に存在する神のいる異次元世界のこと。
神道では、死の直後の死者の霊を「死霊」と呼ぶ。
この死霊には、接した人たちを感染させる「死穢」とよばれる穢れがあるが、子孫がこの死霊を祀ることによって、死霊からだんだんと死穢がとれて、浄化されていく。
そして一定の年月が過ぎて、完全に浄化された死霊は、「祖霊」となる。
死霊は最初の段階では山の低いところにいるが、これが昇華、浄化されて祖霊となるにしたがって、山の高いところへと登っていく。
高山の上に昇るにつれて、死霊は少しずつ穢れや悲しみから超越して、清い和やかな神(祖霊)になる。
そしてこの祖霊がさらに昇華されると、「祖先神」となり、それが「氏神」と呼ばれる。
死霊の死穢れがとれて祖霊に浄化されるまで、30年から50年かかる。
「根の国」や「黄泉の国」も人の死後魂が行き、死者が生活するとされるところだが、そこは蛇やムカデといった害虫の生息する暗く汚い場所だった。
しかし同時に地上に恵みをもたらす生産力の根源の場でもあった。
◆ 神道の「穢れ(ケガレ)」と「禊」
神道独特の概念に「穢れ(ケガレ)」がある。
「穢れ」とは、もともと「気枯れ」に由来し、「気」とは「霊」のことで、それが枯渇した状態をいう。
穢れるとは、命のエネルギーが枯れることで、尽きれば「死」へとつながる。
・「死穢」と「血穢」
具体的に「穢れ」とされるのは、死そのものと出血。前者を「死穢」といい、後者を「血穢」という。
どちらも「不浄」とされ、死者が出た家は、穢れを他人におよぼさないように、昔は外を出歩くことさ禁じられた。
この死穢は伝染するとされ、平安時代の初期に定められた律令の細目である『延喜式』には、この穢れがどのように伝染するか記されている。
たとえば、A家でだれかが亡くなったとき、A家にBさんが行って着座すると、Bさんも死穢に汚染され、だけでなく、Bさんの家の者全員も汚染される。
そのBさんをCさんが訪れて着座すると、Cさんも汚染される。
しかし、穢れもだいぶ薄まっているため、Cさんの家族まで汚染はされない。
だが、BさんがC家を訪れて着座してしまうと、C家の全員が汚染される、というもの。
『延喜式』では、その死の穢れの期間も規定されていて、それが「四十九日」。
その間、死の不浄を持っている人は、伝染病をまきちらすため、ほかの人と接触してはいけないとされる。
そして、死穢の不浄を持っている人が、他人との接触を避ける期間のことを「忌」といい、
また「忌中」の間、自発的に故人のために自分の行動を慎むことを「喪」という。
いっぽう、「血穢」は、女性の出血を忌む概念。
毎月生理がやってくる女性は、そのたびに穢れた存在となってしまい、地方によっては、生理のときは家族から離れて暮らさなければならない風習が戦前まで残っていた。
出産にも出血はつきもののため、昔はこれも「穢れ」とされ、出産を控えた妻とは接触することすら、避けられていた。
「血穢」に対する女性への不浄観は時代を経るごとに深刻さを増し、日本では、聖域への立ち入りを制限する『女人結界』から、女性自体を規制する『女人禁制』という強い禁忌にまでなっていくようにもなった。
◆ 神道の「禊ぎ」と「祓い」
神道では、たとえ「穢れ」を受けても、「禊ぎ」をすれば、もとの清い状態になるとされている。
「禊ぎ」の方法とは、「水に流す」こと。
冷たく清らかな水で身体を洗うのが「禊ぎ」の代表格で、これを「禊祓」という。
日本では古来、水には清浄化する力があるとされてきた。
川の流れや滝の水、あるいは海水で、身体を洗えば清められるという発想は、『日本書記』の、伊邪那岐命が、黄泉の国を訪れ、死の穢れと触れたとき、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原の川原で身を清めたという故事にちなむともいわれる。
他には、神社の境内に手水舎が設けられ、手や口をすすぐのも、禊祓いの一種で、滝に打たれたり、水を浴びる水行、冷水を浴びる寒垢離、飲食や行動を慎んだうえで水を浴びる斎戒沐浴などがある。
そして、災いがつづくようなときに、神主さんにお払いをしてもらうことを「祓い」といい、祓いは禊ぎと並ぶ神道の清めの方法。
祓いには「悪の祓い」と「善の祓い」があり、まず、「悪の祓い」をして穢れを清め、それから「善の祓い」をして吉事を招く。
伊勢神宮をはじめとする全国の神社では、6月と2月に「大祓い」という行事が行われるが、これは、日本の国土すべての穢れを清めるための行事。
また、それとは別に、個人的に災いがつづいたときや厄年などで、個人的に「祓い」を受けることは「修祓」と呼ばれる。
神主が木や竹の祓串に麻をつけたものを、左右にふって清めてくれるが、このとき、穢れは麻に付着して、身体から離れていくものと考えられている。
◆ 神道の「お祭り」の意味
・神が地上に降りてきて関係を結ぶ
ひろさちや氏によれば、神道には特定の開祖もなく、経典もなく、これが神道の教義だといった明確なものもないが、日本の神道の教えとは、
―神々とのつきあい方―
の教えだと。
神道は「いかに神さまとつきあえばよいか」という智恵を授けてくれる教え。
神道の「八百万の神」とは、多神教の神で、高天原という天上界に存在しているが、のちに仏教の神仏像の姿を参考に擬人化されたが、本来は、実体などなかった。
エーテルのようなもので、高天原におわすエーテルのような「カミ」が、地上におりてくる。
「カミ」は、地上に降りてきたときには「気」というものになる。
カミは地上に降りてきてはじめて、「気」として人間と関係を結ぶことができる。
「気」は、霊力であり、エネルギーであり、空気や気配のようなもの。人間の世界では、カミは「気」として存在している。
また「気」とは、命のエネルギーのようなもので、人は「穢れ」たとき、すなわち「気が枯れた」とき、命のエネルギーが不足したとき、
「カミ」の「気」を吸収することでその不足を補っていくことができる。
神道では、エネルギーが枯れて「気枯れ」た状態になると、不調和をきたして災いのもととなると考えられているため、「穢れ」を最も嫌う。
そこで、新たに「気」というエネルギーを充填して、リフレッシュして元気を取り戻すために、「祭り」を行う。
カミを祭ることによって、人間は再び元気を回復することができる。
が、しばらくすると、やがてまた「穢れ」てくるが、それで、リフレッシュするために、またカミを祭ることでエネルギーを満たしていく。
このカミの「気」は、人間にとっての食べ物と同じで、日本では食物のことを「け」ということもある。
また「神人共食」といって、神祭にさいして、神に神饌をささげ、その食事を共にいただく「宴会」を行うことによっても、リフレッシュすることができる。
高天原の神は、人々の日常生活とは無縁だが、地上に降りてきているときだけに、人間とのつながりを持つ。
地鎮祭や結婚式といったお祭りをやるとき、天からカミさまに降りてきていただいて、儀式が終わればまた、天に戻っていただく。
・「神楽」とシャーマン
神社に奉納する「神楽」の起源は、アマテラスオオミカミが天の岩戸に篭ったとき、なんとか出てきてもらうために、アマノウズメノミコトが岩屋戸の前で神がかりして踊ったことに発するといわれる。
古代日本人にとって、神は形ある人格神ではなく、姿なき神で、呼べば地上に降りてくる。
その神の降りてくる場所が「神座」で、そこで歌舞と饗宴がなされ、神様と人間の交歓が行われる。
その歌舞が「神楽」で、古くは「神遊」と呼ばれていた。
神と人が交歓することによって、鎮魂の儀式が行われる。
神楽には、宮中で行われる「御神楽」と、民間で行われる「里神楽」に大別される。
「御神楽」は正しくは「内侍所御神楽」といい、長保四年(1002)に一条天皇によってはじめられたと伝えられ、天皇即位のときなどに催される。
「里神楽」は、さらに次の四つに大別され、民間で各地で催される。
1、「巫女神楽」・・・巫女が舞う神楽で、出雲大社や住吉大社に伝わる。
2、「出雲神楽」・・・島根県八束郡の佐太神社の神楽が諸国に伝わったもの。
3、「伊勢神楽」・・・伊勢神宮に行われた湯立神楽に代表される神楽。
4、「獅子神楽」・・・獅子頭を回しながら悪魔祓い、火伏せや息災延命を祈願する神楽。いわゆる「獅子舞い」と呼ばれているもの。
ちなみに「巫女(みこ、ふじょ)」の「巫」とは、女性のシャーマンのことをいい、男性のシャーマンは「覡」と呼ばれる。
「シャーマン」とは、みずから宗教的エクスタシー(恍惚)状態にはいって神霊・精霊などと直接接触し、その霊的存在の力を借りて占卜・治病などを行うことのできる特殊な宗教的職能者のこと。
◆ 「共同体」意識の強い日本の神道
・神道は共同体の宗教
神道には、一神教のような「カミとわたし」という「タテの原理」がない。
一神教の神は「われ以外のものを神とするな」という唯一絶対性を要求するが、神道の神は「八百万の神」で、限りなく神が存在するため、人間を裁いたり命令したりするようなことはない。
「カミとわたし」というタテの関係とは「個人原理」で、カミと人とが一対一で向かいあって独立している。
神道は、カミと一人一人が向き合うものではなく、カミと、ヨコの「共同体の原理」でつながった人の集団で向き合う、人と人との「ヨコの関係」の宗教」、共同体の宗教といえる。
そこから、「滅私奉公」といったような、「わたしの利益よりも、共同体の利益を優先する」というあり方も出てくる。
日本の社会では、「わたし」を強く主張すると、とても嫌われる。
今回は、ひろさちや氏や井沢元彦氏の著書等を参照に、補足して補っています。




