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歴史の謎を探る会〔編〕『日本の三大宗教』読書まとめ ②(宗教関連・儒教)

歴史の謎を探る会〔編〕『日本の三大宗教 神道・儒教・日本仏教』(河出書房、2005)からのまとめ。

「儒教」についての基礎知識部分の説明。

◆ 孔子の生涯とその教え


孔子の教えは、人間がいかに生きるかに重きを置く、現世的な教えだった。


孔子は、紀元前551年、中国の春秋時代、魯国の農村に生まれた。

父は農民上がりの下級武士で、母は「儒」とよばれた祈祷師の家系だったという。

しかし、家は貧しく、両親に早くに死に別れるなど、家庭環境に恵まれなかった孔子は、社会の底辺でかなり苦労したとみられる。


「吾、少くして賤し、故に鄙事に多能なり」


「鄙事」とは、農村庶民の知恵や技術のことで、若いときに身分が低く貧乏暮らしだったため、いろいろ日常生活に関するこまごまとしたつまらないことができるようになったのだと、後に孔子が告白している。

貧しかった孔子が、学問の道を志すようになったのは、15歳のとき。


「吾十五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして~」


と、当時、高い身分の子弟たちは、幼年期から学問をはじめていたため、15歳はむしろ遅いほうだった。

孔子は19歳のときに宗国の幵官(けんかん) 氏の娘と結婚し、伯魚という子をもうけ、20歳を過ぎた頃に村役人に、20代後半で魯国の礼楽(儀礼と音楽)関係の役人に登用される。

しかし、魯国で自らの学識が評判になると、思いきって役人の職を辞し、魯国の都の曲阜に、中国史上初とみられる私塾を開いた。

そこは、行政官僚を目指す若者が集まり、社会や政治についての教養を身につける場となった。


孔子はその後、自分が学んできた祭祀祈祷の「儀礼」を、社会・国家というより大きな単位の規範にまで高めることを、ライフワークとした。


孔子が生きた春秋時代は、周王朝の権威が衰え、諸侯が勢力争いをくり広げていた時代で、孔子の故郷・魯国でも、君主の昭公が、八代前の君主・桓公の三人の兄弟の子孫である「三桓」に完全に実権を奪われるというような状況にあった。

そんな時代にあって、孔子は、魯に周の建国当時のような社会を築くという理想に燃え、孔子は、祖先に「礼」を尽くし、その功績を「楽」で称える「礼楽」の世の社会を実現することを目指した。


孔子は魯の隣国の斉に旅に出たとき、斉の君主・景公に「政治の要諦(もっとも重要な点)」を聞かれて、


「君、君たり。臣、臣たり。父、父たり。子、子たり」


と答えた。

各自がそれぞれの本分を尽くすことが、正しい政治のありようで、乱世を治めるためには、各自が分をわきまえることが必要だ、と孔子は考えた。


孔子は、30代から40代後半までを在野の思想家として過ごしたが、その間、多くの弟子を率い、社会的影響力を持つようになった。

そんな孔子が、50歳を過ぎてからのこと、魯の君主・定公から、中郡の宰相(首都の知事のような役どころ)として招かれ、そこで政治的ポジションを得て改革に取り組んだ孔子は、一年も経たないうちに実績を上げ、さらに中央の要職に就いた。

53歳のときには、隣国・斉との外交交渉の場で、一触即発の危機を救っている。


しかし、やがて定公との関係がうまくいかなくなると、紀元前479年、孔子は50代半ばで、政治的地位を失い、弟子たちとともに行くあてもない旅に出ることとなった。

孔子は政治家としての希望を捨てず、魯を出て衛に赴き、陳、蔡、楚といった諸国をめぐったが、この放浪の旅は14年半にもわたった。


時は群雄割拠の乱世であり、徳よりも法を優先せざるをえない時代で、残念ながら、孔子が時代から求められることはなかった。

乱世の時代を生きる君主たちにとって、孔子の説く「徳治主義」はおもしろくなかった。


「子曰く、之を道びくにまつりごとを以ってし、之をととのうるに刑を以ってすれば、民免れて恥無し。之を道びくに徳を以ってし、之を斉うるに礼を以ってすれば、恥有りて且ついたる」(『論語』為政篇)


と孔子は説いたが、「政」とは法律禁制のことを指す言葉で、つまり孔子は、規制して、はみ出した者を刑罰で整頓するようなことを批判していた。

しかし、君主たちにしてみれば、刑罰を行使することによってこそ国は治まると思っているため、孔子のいうように、民に「恥」が有ろうが無かろうが、彼らにとってはそんなことはどうでよいことでしかなかった。

春秋末期の食うか食われるかの時代、徳治主義は悠長すぎるとされ、孔子とその集団が慢性的失業状態に置かれるのも無理なことではなかった。

『史記』の遊侠列伝には、


「儒は文を以って法を乱り、侠は武を以って禁を犯す」


という韓非子の言葉を引用した儒者批判が載せられている。



その後、魯の哀公の招きで、孔子の一行が放浪の旅から14年ぶりに魯に戻ったのは、孔子69歳のときだった。

老齢の孔子は、現実の政治とは決別し、ひたすら弟子の教育にたずさわるようになっていたが、やがて74歳でこの世を去る。

死の七日前、弟子の子貢が、


「一言にして以って終身これを行うべきありや」(生涯それだけを実行すればよい、ひと言があるでしょうか)


と、たずねると、孔子は、


「其れじょか。己の欲せざる所は人に施すなかれ」


と、答えた。

他人への思いやりの心「恕」が、孔子の遺言となった。


孔子は、魯の曲阜郊外の小高い丘の上に葬られ、その一年後には、魯の哀公が孔子の旧宅を「廟(祖先や偉人の霊をまつる所)」にしたとされ、それが孔子廟の起こりとなった。




◆ 日本への儒教の伝来


日本に儒教が伝わったのは5世紀のはじめころで、広く知られるきっかけとなったのは、513年、百済から「五経博士」が来日したこととみられている。

「五経」とは儒教の根本聖典とされている『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』からなる五つの書のことで、五経博士とは、その五経に通じた学者のこと。


儒教が日本に伝来したのは仏教伝来とほぼ同時期で、その後、仏教のほうは、聖徳太子の「仏教興隆の詔」(594年)によって、国家の公式イデオロギーとされた。

しかし、聖徳太子が取り入れたのは仏教だけではなく、聖徳太子は、603年に「冠位十二階の制」を、604年には「憲法十七条」を制定しているが、そのいずれにも儒教の思想が色濃く反映されていた。


たとえば、第一条の「和を以て貴しと為す」は、『論語』の「礼の用は和を貴しと為す」(学而篇)からとられたものだと考えられる。

ほか、「天皇に服従すべきこと」(第三条)、

「礼法を基本とすべきこと」(弟四条)、

「勧善懲悪を徹底すべきこと」(弟六条)、

「各々の職掌(職務)を守るべきこと」(弟七条)、

「信を義の根本とすべきこと」(弟九条)、

「人民を使役する際には時節を考えるべきこと」(弟十六条)、などは、

いずれも『論語』や『礼記』に見られる教えとなっている。


また、冠位についての最初の法律「冠位十二階の制」も、儒教と密接に関係していて、この法が定める冠名は、「徳・仁・礼・信・義・智」の六つをそれぞれ大小に分け、十二階としている。

すなわち、大徳、小徳、大仁、小仁、大礼・・・・・・といった具合に、冠名が儒教の徳目と一致している。


さらに645年の大化の改新以降の日本は、中国の制度に習った本格的な律令体制を目指していくが、天皇が自分の土地を人民に授ける「班田収受法」など、儒教的な理念が多く含まれていた。




◆ 儒教と神道の関わり


儒教と同時期に伝わった仏教は、儒教と同じように、すでに祖先崇拝の考えを取り込んでいたため、このことによって日本古来のアニミズム的な祖霊信仰と自然に融合することができ、また、この二つの宗教の影響で、それ以前、明確な教義や教学をもたなかった神道も、宗教としての神社神道の形に発展してくことができるようになった。


その後、儒教は宗教としてというより、基本的に貴族や僧侶の教養として学ばれていき、とくに、「朱子学」が伝わってからは、禅宗の寺院の基礎教養として広まっていった。

 

しかし江戸時代に入って、儒教は日本で宗教として歴史の表舞台へと躍り出ることとなる。


江戸時代前期、神道のなかから、神道と儒教の合体をとなえる「儒家神道」が生まれる。

「吉川神道」はその一つで、吉川神道は、京都で「吉田神道」を学んだ神道家・吉川惟足が創始者で、吉田神道では神道の脇役としてとらえられていた儒教を、吉川惟足は徹底して「神儒一致」を唱え、君臣の義や徳といった儒教の倫理を押し出した。

吉川惟足の弟子には、会津藩主・保科正之のほか、紀州徳川家の藩祖・徳川頼宣、代五代加賀藩主・前田綱紀といった大名らが名を連ねていた。


江戸中期には、伊勢外宮の神職・度会延佳が、儒教でいう君臣、親子、兄弟、朋友(友達)の道を神道の道として説き、伊勢神道を再興した。


こうして、江戸時代に入ると、儒教は神道の論理的な裏づけとなって、幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えることとなった。

儒教は「君、君たり。臣、臣たり」と君臣の上下関係に厳格で、また王の統治の正当性を脅かす反乱行為を倫理的に厳しく糾弾したため、江戸時代に幕府や諸藩の武士階級に好んで採用されたが、日本の南北朝時代、室町幕府を開いた足利尊氏に対抗し、吉野に南朝を打ち立てた後醍醐天皇や南朝の朝廷や神道家たちからも、儒教は理論武装の格好の材料として積極的に取り入れられた。

後醍醐天皇の側近・北畠親房の著書『神皇正統紀』は、「大日本は神国なり」という出だしではじまり、君主の徳や政治の良し悪しについて論じられていた。




◆ 徳川幕府の支配原理となった儒教


江戸時代になると、儒教は、国家統治のための重要なイデオロギーへと大変貌を遂げたが、それをバックアップしたのが、徳川家康の政治顧問のひとりだった儒官の林羅山。

羅山は、仏教を非現実的だとして排除し、幕府の封建支配に役立つ思想として、朱子学を押し出した。


朱子学は、万物の存在根拠「理」から、天然自然や人間社会の秩序が生まれるとする。

そして、その秩序は絶対であり、不動であるとした。

この考えは、将軍を頂点とする封建体制を保つうえで、極めて都合がよかった。

その論理に基けば、将軍が国家に君臨するのも、家臣が主君に仕えるのも、万物の根源「理」にかなう行いということになる。

さらに、羅山は「孝」より「忠」を重視する思想を打ち立てた。


「舜(古代中国の聖人君主)たとひ孝行にして父を愛すと云ふとも、私恩を以て広義をやぶるべからず」(『論語集注』)


私的な「孝」の感情よりも、公的な「忠」の原理が優位に立つという考えは、「忠」より「孝」を重んじる儒教の伝統的な考え方とは異なる。

しかしその優位関係をひっくり返した日本的な解釈の朱子学では、幕府にとって都合のいい支配原理として確立されていったのだった。


林羅山の私塾を五代将軍・綱吉が湯島に移したのが「湯島聖堂」で、後の「昌平坂学問所」の前身となった。

また、綱吉は羅山の孫の林鳳岡を「大学頭」に任じ、こうして、朱子学は、権力構造のなかでゆるぎない地位を獲得していった。




◆ 中国における儒教の発展


儒教は孔子の死後、春秋時代につづく戦国時代の末期、儒教の継承者たちによって「儒家八派」と呼ばれる学派に分裂をする。

八派とは、子張、子恩(孔子の孫)、顔氏、孟子、漆雕、仲良子、荀子、楽正子の系譜を指し、

彼らはそれぞれに自分たちこそが正統派だと主張し合った。


そして戦国時代ののち、紀元前221年に秦の始皇帝が国家を統一すると、儒教は弾圧の対象となった。

多くの書が焼き払われ、儒者が穴埋めにされる「焚書坑儒」がおこなわれた。

とくに秦の法家主義とは相容れず、この頃はまだ儒教の徳治主義は反体制の思想として扱われていた。


が、秦が漢の高祖に滅ぼされて、第七代の武帝の時代になると、紀元前126年、儒教はついに国教となった。

以来、儒学は体制の学問となっていったが、同時に出世の道具という負の側面も生じてくるようになった。


また、当時の儒教では、『論語』よりも「五経」(易経、詩経、書経、礼記、春秋)のほうが重視され、

しかも難解な読み物だったその「五経」の読解のため、漢から唐代にかけては、語の意味を研究する「漢唐訓詁学」という「訓詁学」(注釈学)が発達した。

ただ訓詁学はその資質上、どうしても学問のための学問になりがちで、さらに隋代に「科挙(官吏登用試験)」で、儒教の素養が問われるようになると、その傾向はいっそう強まり、孔子の説いた実践の道から遠く離れる結果にもなってしまった。


活力を失っていた儒教に新風を吹き込んだのが、南宋の朱子で、朱子は「五経」にかえて「四書」(論語、大学、中庸、孟子)を学問の中心にすえた。

朱子が大成した「朱子学」では、宇宙の根源であり、道徳の源である「理」を説く。

そして「理」に立ち返るためには、「窮理」(個々の事物に見出される「理」を一つ一つ極めて、「理」そのものに至ること)、および「居敬」(いかなる時も心を安静の状態に置くこと)が必要だとした。

その後、朱子学はたちまち儒学の主流となり、元代には科挙の課題とされ、清代まで官学の地位を保った。


いっぽう、明代には、朱子学に対抗する形で、王陽明の「陽明学」が起こる。

陽明学は、「理」は外にあるのではなく、わが心こそが「理」であると主張する徹底した唯心論だった。


しかし明が滅び、異民族による清王朝が成立すると、朱子学や陽明学は空理空論に走った学問として退けられるようになる。

そして、古典を実証的に解明しようとする、より現実的な「考証学」が起こった。


20世紀になって、1912年に辛亥革命によって清王朝が滅び、近代国家としての中華民国が出現すると、王をいただく政治体制を支えてきた儒教は、その存在意義を失い、儒教は封建道徳の象徴として批判されるようになり、さらに社会主義による中華人民共和国の成立後は、さらに儒教を否定する政策が次つぎに打ち出されていき、こうして、体制を支えるための原理としての儒教は中国では衰退していくようになっていくのだった。






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