歴史の謎を探る会〔編〕『日本の三大宗教』読書まとめ ①(宗教関連・神道)
歴史の謎を探る会〔編〕『日本の三大宗教 神道・儒教・日本仏教』(河出書房、2005)からのまとめ。
「神道」についての基礎知識部分の説明。
◆ 日本人の「重層信仰」
日本独自の宗教である「神道」では、「八百万の神々」を尊び、信仰する。
その八百万のなかには、仏もキリストも含まれるほどで、
日本人は、さまざまな宗教的行事、初詣は神社、結婚式はキリスト教会、葬式は仏教寺院で行い、
さらに、バレンタイン、お彼岸、お盆、七五三、クリスマス、ハロウィンまで、
何の違和感を抱くことなく、さまざまな宗教行事をこなしてしまえる。
日本人の宗教観の根底にあるのは「重層信仰」と訳される「シンクレティズム」であり、複数の異なる宗教への崇敬心を共存させて、何の抵抗感も抱かない。
◆ 自然環境の違いからくる宗教観の違い
・日本の宗教観が生み出された背景
日本列島は、春夏秋冬があって、毎年台風が訪れ、地震も多い島国。
自然の恵みに恵まれているが、同時の自然の脅威にもさらされる国。
昔は、自然現象が科学的に解明されていたわけではないので、季節が移り変わるのも、台風が訪れ、地震が起きるのも、雪が降るのも、米ができるのも、海に魚がいるのも、鳥が飛んでいるのも、
すべての自然現象は、それぞれをつかさどる神様のなせる業、と考えられていた。
八百万という発想が生まれたのは、文字どおり"自然"のなりゆきだった。
・キリスト教とイスラム教、ユダヤ教が生まれた背景
いっぽう、キリスト教とイスラム教、そしてその双方の土台となるユダヤ教は、砂漠で生まれた宗教。
その厳しい地に暮らす人びとは、なぜ自分はこんな過酷な環境で生きなければならないのかと考えるよういなり、宇宙には何か超越的な存在があり、その存在がわれわれに試練を与えているのだ、という思想が生まれた。
その超越的存在が、唯一神となった。
ユダヤ・キリスト・イスラム教などの一神教の「神」と、神道の「神」とは、まったく異なる概念。
日本人は、自然現象をはじめとするさまざまな表れを、ひとつの絶対者によるものではなく、さまざまな神様のもたらすものと考えてきた。
そういう発想から、異民族の神様も比較的簡単に受け入れてきた。
もともと八百万の神様がいるのだから、ひとつやふたつ増えても、民族を割るような大問題にはならなかった。
◆ 「八百万の神」の種類
「八百万の神」とは『古事記』にある言葉で、『日本書記』では「八十神」という。
どちらの数も、単に「たくさん」という意味であり、厳密な数値をあらわしているわけではない。
「カミ」という言葉の由来には、「上」という意味のカミ、火と水という意味など、諸説存在するが、いずれにしても、これらの諸説に通底するのは、「自然=神」という見方。
これら「八百万の神」は、いくつかのグループに分類できる。
・「日本神話に登場する神々」・・・天照大神など、日本神話に登場する神々で、これらの神々は天皇家の祖先にもあたる。
・「自然神」・・・山の神、海の神、太陽の神、月の神など、自然そのものを神とするタイプで、日本神話の神々の多くは、同時に自然神でもある。
・「人間が神格化した神」・・・人間そのものが神格化して神になったもので、これには氏神様とか鎮守様のように、その一族、あるいは地域の祖先を神とするものと、超人的な活躍をした人を、その死後に神として崇拝する信仰がある。
これら日本の神々には、無眼に複製することができるという特徴がある。
八幡神社や稲荷神社が各地にあり、いずれも同じ神様なのは、儀式によって「分祀」することができ、"クローン"として複製されたから。
◆ 神道と仏教の混交
日本では、大多数の人々が、仏教と神道を同時並行的に信仰してきた。
寺院の境内地で神道の鳥居を見かけるのは珍しいことではなく、後白河法皇のように「出家」した天皇も少なくない。
天皇といえば、天照大神の子孫であり、神道信仰の中心でもあったが、同時に仏教徒だった天皇は少なくない。
その結果、江戸時代までの多くの歴代天皇の墓は、寺院のなかにある。つまり、天皇は亡くなると、仏様になったのだった。
なぜ、神道と仏教は混ざり合ったのか。
最大の理由は、神道が、もともと開祖も教義も経典も、教団ももたない宗教だったから。
しかも神道は多神教なので、「八百万の神」のなかに、仏教の仏たちが加わっても、矛盾が生じることもなかった。
また、仏教のほうも、仏教はキリスト教や石ラム教のような一神教ではなく、柔軟性に富む宗教で、インド仏教、中国仏教、日本仏教と、それぞれの国、地域で独自の発展、変貌を遂げた。
多少、もとの形は変わっても、仏の教えが広まるのであれば、それを許容するという懐の深さをもっていた。
◆ 神道と仏教が融合した「神仏習合」と「本地垂迹説」
仏教は、日本伝来直後こそ、日本固有の宗教だった神道と反目し、朝廷内の勢力争いともからんだ宗教的抗争に発展したが、朝廷が仏教を国教として認めると、日本人全般に受け入れられるようになった。
ただし、その仏教は、オリジナルな形がそのまま信仰されたわけでなく、日本風にアレンジされ、独自の日本仏教として発展していく。
その過程で、神道と仏教は「私物習合」、あるいは「神仏混淆」という、融合が進んでいった。
当初は、朝廷が主導して仏教を普及させるため、仏も神のひとつであるとして、庶民が抵抗を覚えることなく、仏教の教えを受け入れられるような解釈が広められた。
この時点では、仏教は神道の一部という考え方が主流だったが、ところが、平安時代になると、さらに融合が進むなか、日本の神は実は仏だったという「本地垂迹説」が考え出されるようになった。
「本地」は「本体」、「垂迹」は「迹垂れる」、つまり仮の姿という意味。
要するに、仏が本来の姿であり、日本の神々は、仏が人々を救うために姿を変えてあらわれたという考え方で、その考えのもと、日本の神々の本当の姿は、どの仏なのかと考えられるようになり、
たとえば、天照大神は大日如来、あるいは観音菩薩の仮の姿と称され、
すさのおのみことは勢姿菩薩、八幡神は阿弥陀如来、熱田明神は不動明王だということになった。
もともと日本の神様の多くは、人々が自然界のさまざまなものに霊性を見出して、信仰をしていたもの。
山の神、海の神といっても、姿や形があるわけではなく、それが、しだいに擬人化されていったのも、仏教による影響が大だった。
◆ 神道にはどんな宗派があるのか
神道は、「神社神道」と「学派神道、「教派神道(宗教神道ともいう)」の三つに分類できる。
・「神社神道」
神道は、キリスト教やイスラム教のように、教義を中心に置く宗教ではなく、祭祀儀礼を中心とした宗教で、そのように、神社を中心の場として、おもに祭祀儀礼をおこなう神道を「神社神道」と呼ぶ。もっとも古典的な神道。
・「学派神道」
ところが、中世から近世にかけて、『古事記』『日本書紀』の研究が進むと、神道もしだいに理論化、体系化され、生まれたのが「学派神道」。いろいろな学者が、それぞれの神道理論を打ち立てた。
伊勢神宮を神社の根本としたのが、「伊勢(渡会)神道」。鎌倉時代の末期に基礎がつくられ、南北朝時代に成立した。
室町時代末期になると、老荘思想(中国の思想家老子と荘子による虚無を宇宙の根源として、無為・自然の道を重んじる思想)や仏教の影響を受けた「吉田神道」が登場し、日本固有の思想として「惟神の道」を主張する。
「惟神の道」とは、人為のない神の心のままの道という意味。
江戸時代に入ると、神仏習合を排して、神道と儒教の一致を説く「儒家神道」が生まれ、「吉川神道」はその代表の一つ。
「垂加神道」は、道徳的性格の強い神道で、伊勢神道、吉田神道などの諸派を集大成したもので、これは江戸時代後期に生まれた。
そして、江戸時代後期、本居宣長によってとなえられ、平田篤胤がまとめたものが、「復古神道」。
『古事記』『日本書紀』に立ち返り、仏教や儒教といった外来宗教の色彩を消さなければならい、というもので、これが明治時代になってからの神道の国教化、「国家神道」の誕生につながっていく。
仏教が渡来してからというもの、神道は仏教の影響を大きく受け、神仏混淆が当たり前の状況が長く続いてきた。
日本人にとって、仏は神様の一人であり、神様は仏でもあった。
しかし、明治時代になると、天皇を頂点とした近代的な立憲君主制国家を目指すようになり、天皇を最高の神とする思想が打ち立てられた。それが「国家神道」だった。
・「教派神道」
こうして神道は国教となり、国家の祭祀を担うようになったが、やがて神道のそうしたあり方に不満を抱く人々もあらわれ、神道を独自の教義をもつ宗教としてとらえなおす動きがあらわれた。
そうして誕生したのが、「教派神道」と呼ばれるもの。
それらのなかで、明治政府によって公認されたものが一三派あった。
出雲大社教、御嶽教、黒住教、今光教、実行教、神習教、神道修成派、神道大教、神理教、扶桑教、禊教、神道大成教、天理教の一三派で、これらは、新興宗教の元祖的存在ともいえるものだった。
◆ 明治政府によって行われた「神道の国教化」
素朴な自然崇拝、祖先崇拝にはじまった神道は、明治維新で新政府ができると、「国家神道」に性質を変えていった。
その背景には、江戸時代の国学者・平田篤胤の思想があった。
平田の影響下にあった神道家たちは、神武天皇(『古事記』『日本書紀』にあらわれる伝説上の初代天皇)の創業の精神にもとづいて、日本を王政復古による祭政一致の国家とすべきと主張した。
その一方で、政府指導者には、日本を欧米型近代国家にするためには、キリスト教のような国家・社会全体を貫く基礎的な思想が必要だと考える人たちがいた。
この両者の考えが相まって、神道が国教化され、天皇を政治と祭祀の両面で頂点とする明治国家が生まれた。
しかし、近代明治憲法下では、「信教の自由」が定められた(もちろん日本にキリスト教を広めたい欧米列強の要請で)ため、国が特定の宗教に関与し、国費を使うのは違反行為だった。
そこで、当時の政府見解では逆に、「神道は宗教ではない」ということにして、その国教化を図ることとした。
そのため神道は、他の普通の宗教とは別格扱いで、内務省に神社局という部署が設けられ、全国の神社を管理し、神社の造営も公費で行われることとなった。
しかし、神道が国教化されて、神社が喜んだかというと、そうでもなかった。
国の管理下に置かれたため、統廃合が進み、明治39年(1906)の「神社合祀令」によって、三年間で4万社もの神社が取り壊された。
これは、国家が神社の土地を収用するための政策ではないかとまでいわれた一種の宗教革命だった。
神道の国教化により、地域の氏神信仰は大打撃を受け、多数の祭りが禁止され、神社のまつる祭神も、その土地で昔からまつられていた神様から、『古事記』『日本書紀』にある天皇につながる神々に変更されたものが多かった。
そのため、現代では、神社そのものの由来が何だったのか、よくわからなくなってしまったケースも少なくなく、国民にとっても神社にとっても、神道の国教化は、決して喜ばしいことへなかった
◆ 敗戦後のGHQによる国家神道の解体と「神社本庁」の誕生
敗戦後、国家神道は、天皇を絶対視し、軍国主義を支えた思想として、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって解体された。
具体的には「神道指令」がGHQから日本政府に覚書の形で通達され、国家神道にたいする政府保証、支援が撤廃された。
国家の保護がなくなった全国の神社は、民間の神社関係団体であった皇典講究所・大日本神祇会・神宮奉斎会の三団体が集まって、「神社本庁」を設立。
現在、神社本庁は、伊勢神宮を本宗として、日本全国約8万社の神社を包括する日本最大の宗教法人となっている。
しかし、日光東照宮、伏見稲荷神社、明治神宮などの有力社や、靖国神社は、それぞれ独立の宗教法人であり、神社本庁には属していない。
教派神道も、それぞれの宗教法人となっていて、神社本庁には属していない。




