二話
その日の夜。
霧夜は風呂に入りながら考えにふけっていた。
「この世界に飽き飽きしてる、か」
店長の言葉を復唱しながら見慣れた水滴だらけの天井を仰ぐ。
言いたいことはあるが、しかし確かにそうかもしれない、という気持ちはある。日頃から溜まっているうっぷん。その原因は如月が言っていた内容そのものだ。霧夜が培ってきた技術、技量、武術。それらを表沙汰に発揮する場所はここにはない。力があるのにそれが使えない、ましてやそれが努力してきたものならストレスも溜まるというもの。それを解消するには喧嘩が一番手っ取り早い。都合がいいことに霧夜はここら辺では少しは名の通っている不良だ。喧嘩をしかけてくる連中は多くいる。故に相手に困ることはなく、存分にぶっ飛ばすことができる。
けれど、そこから与えられるのは一瞬の満足感。それだけだ。ふと我に帰ればまた出てくるのは自らの力を証明したいという我欲。だからまた不良相手に鬱憤を晴らし、満足し、また暴れるの繰り返し。先日女子生徒を助けたのだって、そういう理由が大半を占めている。
そのせいだろうか。自分が敵わないような敵に徹底的にやられる、そんな夢を見てしまったのは。
しかも腹のたつことにそれが女というのが彼の怒りを増加させる。
「くそっ」
そんな言葉を吐き捨てながら霧夜は風呂から出る。気分を変えるために風呂に入ったというのに、余計なことを考えてまた苛々が募っていく。こういう時こそ不良相手に運動するのが一番いいのだが、先日の今日だ。学校の連中に目を付けられている状態で無謀なことをすることもできない。
「冷蔵庫ん中にあるアイスでも食べるか……俺のじゃねぇけど」
以前姉が冷蔵庫の奥に高級アイスを隠しているのを霧夜は知っている。姉には悪いが、今の彼には食でストレスを解消する方法が手っ取り早いのだ。まぁ後で嵐のように怒る姉の姿が頭に浮かんだが、別に問題はない。そもそも、その日のうちに食べていないのが悪いのだ。
などと、自分勝手な言い訳を考えながら身体を拭き、下着を穿いた。
その時である。
―――我、汝に役目を与える者。
―――汝、我に奇跡を与える者。
「……あ?」
奇妙な声音がどこからか聞こえてきた。男……どちらかといえば、少年の声だ。家の誰かがテレビでもつけているのかと考えたが、両親は帰ってきておらず、姉もバイト中のはず。
ならば、この聞き知らない声は一体どこから?
―――我と汝、共に星の宿命に導かれる者。
……いや待て。この声音を霧夜はどこかで聞いたことがあった。確かあれば、先日の不良グループを壊滅させた時。全員を戦闘不能にさせ、帰ろうとした時にも同じような言葉、そして声が聞こえたのだ。
―――応じよ、守護精。応じよ、守護星。
そうだ。あの時は空耳だと思って無視したのだ。けれど何やら奇妙な円……陣と呼んだほうがいいのか。とにかくそれが彼の足元に現れたのだ。
今のように。
「なっ!?」
驚愕する彼にしかして現実は待ってくれない。
―――今、ここに汝の姿を顕現させん。
廻る。
廻る。
景色が視界が見えるもの全てが廻る。
まるで自分だけが止まっていて世界の方が高速回転しているような、そんな光景。集中させなければ即座に酔ってしまいそうな現象にけれども霧夜は耐え続ける。頭がくらくらし、身体には石でも巻き付けらえたような重力感に襲われながら、それでも彼は意識を保ち続けていた。
そして、景色がようやく回転せず、一つに収まる。
そこは夜、森の中だった。
いずこと知れぬその場所がどこなのか全く理解できなかった霧夜であるが、それでも分かることが三つあった。
一つ。ここは自分がいた場所ではないこと。
二つ。目の前にいる茫然としている少年と少女。方法は不明だが、このどちらかが自分をこんな場所へと呼び出したであろうこと。
そして三つ目。
自分と彼らを中心として囲んでいる見たこともない怪物の群れ。数は十五、六といったところか。姿形は猿に似ている。だが、体長が二メートル程あり、かつ身体中に角が生えている猿など見たことも聞いたこともない。はっきり言って異形だ。そしてそれら全てが少年少女、ひいては霧夜に敵意……というか殺意を向けている。
まぁ簡潔に簡単に言えば、だ。
絶対絶命の窮地であった。
「……おいおい。こりゃあどういう状況だ?」
流石の霧夜もこの状況にはついていけない。
風呂から出て着替えていると変な現象に巻き込まれ、気が付くと森の中に立っており、何故だか異形の生物に囲まれている。
……文章にするだけでも相当頭のイカれた内容だ。
しかしどんなに荒唐無稽なことであろうとそれが現実であるのなら受け止めなければならない。
故にまずやることは。
「おい、そこの二人。色々と聞きたいことがあるが、どっちのせいで俺はここにいるんだ?」
「……君を召喚したのは僕だけど」
「取り敢えず死ね」
必殺の拳が空を切る。
見るとどうやら寸でのところで少女の方が少年を自分の方へとひっぱり回避したらしい。偶然か、それとも必然か。どちらにしても関係なく次で仕留めるが。
などと考えていると驚きの表情を浮かべている少女がは思いっきり両手を突き出して待ったをかける。
「ちょ、ままま、待って下さい!! 何でいきなり殺す気まんまんなんですか、あなた!!」
「理由が必要か? なら言ってやるよ。人が風呂から出て着替えている最中に訳も分からない場所に呼び出された挙句、しかもその場所は今にも絶体絶命のピンチの状態。こんな状況に巻き込まれたら混乱するだろ普通。当然だよな。そう思うよな、お前も。というわけで死んでくれや」
「ええと……はい。そうですね。八割方の言い分はその通りだと思いますし、申し訳ないと思っています。誰だって下着一枚で召喚されれば怒るし混乱するのが普通です。しかも状況が状況ですので余計に理解できます。けれど、それでもどうかご主人様を殺すのは勘弁して下さいとういうか今まさに殺されそうな雰囲気なので助けてくださいませんか!?」
命乞いどころか助けを乞い始めた少女は既に半泣き状態だった。
しかし少女の言う通り、今は自分が理不尽に呼ばれたことよりもこの状況をなんとかしなければならない。見たところ二人とも服はボロボロで傷も負っている。現状戦えるのは己のみ。対して相手は異形な猿が十数体。
本来、未知の敵との戦闘は恐怖が生じる。それが人間相手どころか、人ですらない怪物となれば尚更だ。加えてこちらは武器も無し。否、そもそも武器があったとしてそれが連中に通じるかどうかも分からない。不安、焦りがさらなる恐怖を生み出し、人の思考を鈍らせる。まして彼は全く状況が分かっていない。
霧夜は特殊な体術を獲得している。長年かけて培ってきたそれは常人の武術を超えており、人間相手ならばほとんど勝利してきた。不良やチンピラはもちろん、そこらにいる武術家にだって負ける気はない。それだけの努力をしてきたし、それ故に自信もある。
だが、人間以外は今まで戦ったことがない。
異形は無論、猪や虎、熊や獅子。そういった動物相手とやりあった経験は皆無。当然だ。普通の生活の中でそういった類のものと戦闘になることなど有り得ない確率なのだから。
けれども動物という生き物は本能のままに生き抜く。
人間と違い、彼らは生きるか死ぬかの世界を常にいている。狩る側、狩られる側。どちらにいたとしても命の危険はどこにでもあるのだ。故にその闘争本能、並びに生存本能は研ぎ澄まされているといっていいだろう。
その獣が―――一斉に動き出す。
爪が、牙が、角が、殺意が。ありとあらゆるものが霧夜達に向かって遅いかかる。無論、逃げ場はない。あったとしても、霧夜は別としてあとの二人は動けない状態にあるため、逃亡も不可能。
結果、彼らの死はここで――――。
「せぇぇぇえええええいっ!!」
瞬間。
霧夜を中心に突風が四方八方に吹き荒れる。飛び掛かった者はそのまま空中で吹き飛ばされ、地面にいたものはその場に何とか留まろうとするも、やはり後ろへ吹き飛んでいった。
「手刀術・円月」
小さく呟くその言葉に反応するものはいない。
それを分かってか、霧夜は拳の骨を鳴らしながら奇妙な猿達に言い放つ。
「お前らに何か言ったところで理解できるのか分からねぇ。獣相手に何やってんだって言われても仕方ねぇかもしれねぇ。けどな、俺はこの状況を全く理解できてないんでな。もしかしたらこっちが悪いのかもしんねぇ。その上で言わせてもらうぞ」
一拍の間。
「死にたくなかったら消えろ。さもなきゃ殺すぞ」
その言葉に、その覇気に、猿達は身を震わせた。獣である彼らの本能が微かであるが、死を思わせたのだ。
この人間と戦えば死ぬかもしれない……本来の普通の獣ならばそこで生存本能が働き、彼らは立ち去っただろう。
けれど、目の前の異形達は逃げ出さない。さらに牙を剥き出し、闘争本能を全面に押し出してきた。
そして、再び襲い掛かる。
「そうか……なら殺すぞ」
もはや言葉は不要と判断し、自らも駆け出す。
まずは前方。こちらへ突っ込んでくる敵に対し、打ち返すかのような形で貫手で腹に一発入れる。見事に入った一撃は腹を貫通し、血が噴き出す。しかし、それに目もくれることもなく腹から腕を引っこ抜き、その勢いで後ろから飛び掛かってきた二体に手刀を入れる。
本来、打撃技である手刀だが、しかし霧夜のそれは打撃技に非ず。鍛錬に鍛錬を重ねたそれはもはや打撃ではなく、斬撃へと進化していた。正しく「手刀」と言うべき一撃によって獣の首が二つ飛ぶ。
今ので合計三体。
「残り、十三っ!!」
返り血を全く気にせず、霧夜はそのまま突き進む。
牙が迫る。その牙を叩き折り、顎ごと粉砕する。
爪が迫る。その爪を真っ向から切り裂き、右腕ごと切断した。
殺意が迫る。それらを全て受け止めながら、何倍もの殺意を込めて駆け抜ける。
霧夜には分かる。彼らは必死だ。必死の想いで殺しにかかってきている。危険を取り除くべく、恐怖を払うべく、彼らは牙を、爪を、殺気を研ぎ澄ませるのだ。そんな彼らの猛攻を手加減して対応できるほど、彼は起用ではない。むしろ、殺しにかからなければやられるのだと自覚している。
相手は動物。獣。人外。だから仕方ない……などとは思わない。
人ではない。しかし、生きているのだ。例え言葉が喋れず、人間と姿が違っていたとしても、呼吸をし、行動し、生きようとしているのだ。その命を奪う行為を仕方ないで済ますつもりは毛頭ない。
しかし、だからといって、はいそうですかとこちらが簡単に死ぬつもりはもっとないのだ。
言い訳はしない。こちらも生きるために殺す。これは、ただそれだけの話なのだ。
そんなことを考え、心の中でつぶやきつつつも霧夜は目前に迫っていた敵の腹を掻っ捌く。
「っ、あと、六っ!!」
十体の死骸を見渡し、声を切らせながら霧夜は再び手刀を放つ。味方を殺されてか、敵もまた咆哮を上げながら仕掛けてくる。
鋭い爪が腕をかすり、血が流れる。しかし気にせず、そのまま右から手刀を振るい、腕を捥ぎ取る。だが、それでも息があったためか、敵はそのまま牙をたてようとするも、その大きく開かれた口に貫手を放ち、今度こそ絶命させた。
命を奪うという行為に精神が削られる。
だが、止まれない。ここで止まれば確実にそれは自らの死を意味する。
血液を流し、既に動かなくなった死体。それは現実のものであり、幻想などではない。故に自分だけはそうならないという絶対的な保証はどこにもなく、次の瞬間、地面に転がるのは自分かもしれないという恐怖。
それらを押し殺し、闘争を続ける。
既に自分のか敵のか、判別ができない程血まみれになった状態になった時、敵は残り一体となっていた。
両者共に睨みあいながら動かない。どちらも傷だらけの状態であり、下手に動けばそこが隙となり致命傷を喰らってしまう。
長期戦の可能性は既にない。決まるとするのなら次の一撃。
そこからどれだけ経っただろうか。一瞬とも、一時間とも思える時間の後。
「キシャアアアッ!!」
森中に響くであろう雄叫び。敵は両手を大きく広げながら真っ直ぐ突っ込んでくる。恐らく至近距離からの爪で切り裂くつもりなのだろう。一方の霧夜はその場から動かず、右手を腰に当て、左手をまるで狙いを定めるかのように突き出す。
そして、両者の射程距離内に入ったと同時、鋭い爪と凶器の手刀が交差する。
結果は―――
「……貫手術・水月」
見ると獣の爪が交差する寸前で霧夜の貫手が敵の身体を貫いていた。ずっしりとした感触が彼の手に伝わる。
断末魔すらあげる間もなく絶命した獣はその場に倒れこんだ。
瞬間、訪れたのは静寂。まるで先程の戦いが嘘のように思えるほどの静かさの中で、霧夜は呟く。
「悪いな……俺の勝ちだ」