序
勝てない。
目の前の剣士に対して少年―――山堂霧夜はそう結論付けた。
理由は色々とあった。まず相手は剣を持っており、自分は無手。相手の身体は細身でありながら、訓練されたであろう引き締まった体格。さらに言えばこの異常事態を前にしながら全く動じていない。
だが、それらよりも大きな原因が一つある。それは風格だ。
別に霧夜は剣術家でも格闘家でもない。武術は身につけているものの、それだけだ。しかし、そんな彼にも剣士の纏う空気が尋常ではないことは察することができる。そして、それはただの気のせいではないというのを今まさに実感している最中だ。
「くそ、がっ!!」
繰り出す手刀。それは霧夜の自慢であり、唯一誇れる物。彼が必死になって身につけた数々の技を、けれどもまるでものともしない。
普通に考えて無手が剣士に勝てるわけがない。だが、これはそういうことも想定されて編み出された技術。剣だろうが銃だろうが関係なく対応できるようになっているはずなのだ。
にも関わらず、霧夜の攻撃は全く届かない。
切り裂く一擊、突き抜く一擊、粉砕する一擊。どれもこれもが必殺と呼ぶべき代物。今の彼には殺人をしてしまうかもしれないという恐怖心はない。ただ己の一擊を相手に叩き込み、勝利することのみを考えていた。
しかし届かない。
殺意の篭った攻撃はけれども全てギリギリのところで避けられてしまう。ギリギリ、とはいってもそれは別段霧夜が追い詰めているわけではない。敢えてそうすることで最大限無駄な動きを抑えているだけに過ぎない。これこそが霧夜と相手の実力差であった。
だが、それでも霧夜は戦うことをやめない。
もはや彼の頭にはどうして剣士と闘争するに至ったのか、その理由すらどうでもよくなっていた。ただ、彼の中に沸々と湧いてくる本能のようなものに従い、突き進んでいるだけである。
両手を使った手刀の連撃。それらは全て、ただの手刀ではなく、切り裂く技。触れれば鋼であろうと関係なく真っ二つにできる代物。闇雲に放たれているかと見えるが、実際は急所を狙っている。有り得ない事を成し遂げる正しく秘奥の技。人間の限界を超えたものと言ってもいいだろう。
そのため防御は無意味……のはずの攻撃を、しかして剣士は全く調子を狂うことなく回避していく。直撃どころか、掠る気配すら感じられない。だが、それは承知の上。もはや自分の技が通じないことは霧夜も遺憾ながら理解していた。
重要なのは連撃から生じる虚。
本来、紙一重の回避とは容易いものではない。極限までの集中力が必要不可欠。けれど、人間誰しもそれをずっと維持し続けるというのは困難な生き物だ。一瞬だけならともかく、当たれば死ぬかもしれないという状況下。その中での連続攻撃。確かに当たることは無くとも隙を生じさせることは可能のはず。
そして、その時はやってきた。
三十六戟目の上からの一擊。永遠と繰り返されるかと思った回避の中、剣士は地面にあった小石に足元を取られたのを霧夜は見逃さない。
(ここだぁあああああ―――!!)
空いていた右手を大きく引きながら捻る。さながら大きく弓を引く弓兵のように。左手は狙いを定めるために前方へと突き出す。照準は敵の心臓ただそこのみ。彼の技は手刀を主とする奇抜な体術ではあるが、それだけではない。そして、これはその数少ない例外の必殺。
「貫手技・水月っ!!」
放つ。
何者をも貫き必殺の一擊が空気を突き抜け、回転しながら標的を狙う。例え盾で防ごうとも防御甲冑で身を固めていようとも無駄。これはそれら全てを貫く防御無視の攻撃。加えて今はゼロ距離にほぼ等しい間合い。これらのことから考えて、彼の一擊が剣士の腹部を貫く。
だが。
「ふん」
剣士は防御も回避もせず、あろうことか剣の腹で貫手を払った。
何の迷いもなく。
何の驚きもなく。
ただ平然と顔色一つ変えずに対処したのだ。虚をついたはずだというのに、まるでこちらの手を最初から見抜いていたかのような反応速度にこちらが唖然とする他なかった。
読みの差。経験の差。技能の差。分かっていたし、理解もしていた。それでも超えられると確信していたのだ。だが、それが過信であり、盲信であることを叩きつけられた時に既に勝敗は決していた。
攻守の切り替わり。今まで回避に専念してきた剣士が血を思わせるかのような赤銅の剣を振りかざす。
本能が囁いている。これを喰らうのはまずい、と。
危機を察知し、回避しようとする刹那。
「徒手空拳による技の数々。見事だった」
今まで一言も発しなかった剣士の言葉が耳に入る。
「だが、お前には決定的に足りないものがある。それに気づかない限り、お前は私に勝てん」
なんだそれは。
自分には足りないもの……それは数多く存在する。技術、経験、何もかもが足りないのは承知の上。だが、それ故に決定的に足りないものといわれても何なのかが霧夜には分からない。
けれど、次の瞬間。
身の毛もよだつ一撃が、霧夜の意識を刈り取った。
朦朧とする意識の中、見えたのは剣士の―――名もしれない女の背中。彼女は何も告げることもなく、身を翻す。その背中に思うことはただ一つ。
必ず殺す。
絶対にだ。