紺馬に乗ったおじ様
最近、やっと通勤電車に慣れてきた。この朝晩のラッシュだけで、一日の体力をかなり消耗すると思う。でも、人間って良く出来たモノで、知らずの内に体力が付いてきたりする。コツを覚えたりする。
慣れない頃はいらぬ力があちらこちらに入り、次の日に原因が分からない筋肉痛になったりもした。
慣れてくると、自然と余裕も出て来るわけで、いろんなモノが五感に飛び込んでくる。立ちながら器用に新聞を読む人とか、今日たまたま隣りに立つ人の香水の匂いとか、触れたくもないのに鞄を抱える手の甲に触れる前の人の背広の感触とか。もうすぐなくなりそうなのど飴のミルクミントの味とか。
毎日電車に揺られていると、声も視線も交わした事ないのに、顔見知りが出来る。いつも同じ駅から乗る女子大生らしき女の子とか、途中の駅から乗り込むかったるそうにいつも欠伸をしている男子高校生とか。朝っぱらから疲れた顔をしているおじさんサラリーマンとか、かなりメタボリックなおばさんとか。特に疲れた顔をしているおじさんは乗る駅、降りる駅が同じだった。
そのうだつが上がらなそうなおじさんは、今日も少し離れた場所でボーッと窓の外を見ている。隣りには脂ぎっているバーコード頭が見える。
私は軽く溜め息を吐いた。あと、二駅で私とおじさんが降りる駅。今日は気が付けば、私の前におじさんは並んでいた。昨日は私の横にいた。一昨日は斜め前にいた。
初めておじさんに気が付いたのは、鬱陶しい梅雨時期だった。電車を待つ私の隣りで、朝っぱらから大きな溜め息を吐いたのが、おじさんだった。
その手には新聞があったが、目を落としてはいるものの読んでいるわけじゃなさそうだった。歳は四十代半ば。上背はかなり高め。使い込んでいるスーツを着た身体は、別に肥っているわけでもなく痩せているわけでもない。
溜め息で気が付いたおじさんだが、日に日に疲れた顔になっていくのが気になり、自然と駅に着くと探してしまう。
もちろん、いない日もあった。その次の日は少し疲れが取れた顔をしていた。でも、しばらくするとまた疲れた顔をしている。
たまに帰りの電車も同じになる事がある。もうその時の顔は疲れたを通り越していた。悲愴感たっぷりで、見ているこっちが悲しく感じてしまうほどだ。
その時、気が付いた。朝のおじさんは降りる駅に着くと、疲れた表情が幾分消えている。夜、降りる時はさらに疲れた顔をしている。
電車は私達が降りる駅に滑込み、人々を吐き出し、また、違う人々を飲み込んでいく。
いつの間にか、おじさんが私の前を歩いていた。
「高名課長」
私は目の前を歩くおじさんに危うくぶつかりそうになった。いきなり、おじさんが立ち止まるんだもの。
おじさんは私に軽く頭を下げてきた。
私は首を振り、おじさんの横を通り抜け、少し振り返った。若めのサラリーマンがおじさんに近付いていく。
「おはようございます、高名課長」
おじさんは高名さんというらしい。しかも課長さん。
私は改札を抜け、自分の会社に向かう。
あの若いサラリーマンに話掛けられた高名さんの表情から、疲れが成りを潜めていたのには驚いた。
ウチの会社にも疲れたサラリーマンはいっぱいいるが、会社の中でも会社の外でも、疲れた顔をしている。
でも、高名さんは違うらしい。
「――ふうん。で、そのおっさんに、詩織はラブなんだ」
私は冷たいお茶を噴き出しそうになった。
「違うわよ。顔見知りってだけだし、第一、あんなおじさん、タイプじゃないもの」
同僚の由美子がストローを加えた。
「そういや、詩織の彼氏って同い年だもんね」
「元彼氏ね」
由美子は肩を竦ませる。
「大学生の後輩に乗り換えられちゃったんだっけ?」
私は食べ掛けのおむすびを見詰めた。
「――しょうがないよ。あっちはまだ学生で、私は新社会人。いろいろ頑張ったけどダメだった。時間が違い過ぎるんだもん。最後はケンカばっかりだったしね」
由美子は苦笑いを浮かべる。
「学生時代とはわけが違うってヤツか」
「そうそう。なんで私ばっかりあいつに合わせなきゃいけないのかなって考えたら、急にバカバカしくなっちゃってね」
由美子は大きく頷いている。
「分かる分かる。取りあえず、詩織はフリーになったって事で、今夜どう?」
「何が?」
「決まってるじゃない、合コンよ、合コン」
由美子はニンマリ笑った。
いきなり合コンなんて言われても困る。でも、断る理由もない。いや、断るタイミングを逃してしまった。
いつもそう。タイミングを逃してしまう。別れよう別れようと思っていても言い出せず、相手から言われたり。頼まれ事をされて、断ろうと思うともう断れない状況になっていたり。何かを買おうと思って、店員に声を掛けようとすると、他の人に取られたり。
鈍くさいんだと、自分でもよく分かっている。
結局、由美子や他の同僚達と共に合コンに参加することになった。
合コン相手はどこかの商社マン。うんまあ、はっきり言ってつまらなかった。でも、つまらない顔が出来ない。適当に話を合わせつつ、一次会で私とやはり外れだと言っていた由美子は、体よく退散した。
由美子とは路線が違い、改札で別れ、階段を上がり、電車を待つ列の後ろに並ぶ。
電車を待つ人達は各々のスタイルを持っているみたいだった。新聞を読む人、本を読む人、雑誌を捲る人、音楽を聞く人、携帯電話を弄る人、携帯ゲーム機で遊んでいる人。
通勤にもだいぶ慣れたし、私も本とか読んでみようかな。今日は取りあえず携帯電話でも弄ってみよう。確かゲームアプリがあったはずだから。
聞き覚えのある声に、ふと、顔を上げると、三人前にあのおじさん、高名さんがいた。
高名さんは隣りの今朝とは違うサラリーマンと、話をしている。
声は聞こえるけど、話の内容は分からなかった。でも、高名さんの声は、低めで落ち着いた雰囲気。思わず高名さんを見詰めてしまっていた。
高名さんがいきなり私を見た。いや、私が見詰めていたから、視線を感じただけか。
私は軽く会釈をする。高名さんは一瞬訝しがったが、表情が明るくなり、会釈を返してくれた。
なんだろう。ちょっと胸が弾んだ。
電車がホームに滑込み、大きな口を開ける。降りる人はほとんどいない。朝よりも混み具合が酷い。さらに朝と違うのは、車内に充満するアルコールと汗と食べ物の移り香の匂い。
私は慌ててハンドタオルを出した。かなりキツい。
『詩織はさ、匂いに敏感過ぎるんだよ』
これでもかと香水を着けていた短大の同級が、言っていた言葉を思い出した。
そんな事はないと思う。あれは彼女が鈍感過ぎるんだ。香水の着け過ぎで、嗅覚がバカになっているんだ。
私は周囲の匂いを誤魔化すためにのど飴を口に放り込む。優しいミルクミントの味が少しだけ、清涼感を私にくれた。
出入り口付近のポールに掴まりながら、止まる駅名を確認する。朝はかなり早く時間が経つのに、夜だとなかなか最寄り駅に着かない。それに朝以上の混み具合にうんざりしていた。
扉が開き、人がまた乗ってくる。私は身動きが取れなくなった。幸いにして、鞄は自分の胸元にある。通勤電車に乗り初めの頃、手に鞄を持っていて、鞄が所在不明になった事があった。お陰で電車を降りそびれた。
ふと、後ろに違和感を覚えた。電車の揺れと共にお尻に何かが当たる。身体を少し捩るとその違和感は消えた。
私はホッとする。だが、次の瞬間、背中に悪寒が走った。
お尻を触られた。絶対に触られた。鞄とか雑誌とかじゃない。あんな無機な物じゃない。かすかに手の形が分かった。
私は咄嗟に身体を捩る。今度はべったりと手をお尻に置かれた。
私の身体は防衛本能で全身に力が入る。
身の毛がよだつと同時に嫌悪感を感じた。でも、恐怖で体が動かない。動かなきゃ相手の思う壺なのに、足は小刻みに震え始め、立っているのがやっとだった。
気持ち悪い。吐き気がしてきた。それと同時に恥ずかしさと情けなさが込み上げて来る。
声さえでない。
なんか、テレビか雑誌で見た気がする。痴漢はそういう女性を上手く探すんだとか。
私はそういう女性なのか。たぶん、そうだと思う。
電車の扉が開いた。私のお尻から手が離れる。
ホッとした。駅に助けられた。顔を上げると、電車を降りた人達がプラットホームを歩いている。
扉が閉まり、電車が動き出す。
だが、終わりじゃなかった。体が硬直する。恐怖と羞恥心で何も考え付かない。
ポールにしがみつき、早く駅に着くのを祈るしか出来なかった。
通勤ラッシュに慣れたはずだった。でも、今は地獄だ。どんなに乗る場所や時間を変えても、必ず見つかってしまう。会社に行くのさえ、苦痛になってきた。
「どうしたの? 最近、疲れてるよ?」
由美子が心配げに顔を覗き込んできた。
私が口に出そうとすると、背中に悪寒が走る。
私は由美子に首を振った。
「――なんでもない」
「そう? 最近、おじさんの話が出ないけど、見掛けなくなっちゃったの?」
「そういうわけじゃないけど、今、ケータイのゲームにハマッているから」
私はそう言って、由美子にケータイを持ち上げてみせた。
「通勤時間って意外と暇なんだよねえ。あたしはもっぱらケータイ小説読んでる」
「ケータイ小説?」
由美子のツボだったらしい。いろいろと教えてくれた。恋空から始まって、無料で読めるケータイサイトとかも教えてくれた。
私は由美子が今読んでいるというケータイ小説を開いてみたが、どうやら好みじゃなかった。
「ごめん、由美子。もっと小説小説したのない?」
「んー、あると思うけど、探した事ないし。さっき送ったサイトの中にはあると思うよ。好みを探すのも楽しみだよ」
私は由美子の言葉に納得した。確かにそうかもしれない。
私はふと視線を感じ顔を上げると、久しぶりにおじさん、高名さんを見た。
高名さんが軽く会釈をしてくれた。私も会釈し返す。
何となく嬉しかった。でも、なんで、高名さんがウチの会社にいるんだろ?
「あれ。詩織、経理課だよね」
「え、うん、そうだけど」
由美子の言葉に首を傾げた。由美子は不思議そうに首を傾げ返した。
「なんで高名課長、知ってるの?」
「へ? そういう由美子こそ、なんで知ってるの?」
「え、なんでって、海外事業部企画二課の課長だよ、高名課長。ウチの営業一課とよくプロジェクトで一緒になるから」
「え、おじさん、ウチの会社の人だったの?」
由美子は大きい目をさらに大きく見開いた。
「ああ! おじさんって高名課長だったんだ。っていうか、詩織、随分失礼じゃない。高名課長はおっさんじゃないよ。っていうか、高名課長…… おかしいなあ」
由美子は首を傾げた。
「何がおかしいの?」
由美子は手招きをし、小声でおかしい訳を話してくれた。
私は帰りの電車を待つ間、由美子の噂話を思い返していた。
由美子が仕入れた情報だと、高名課長の家庭事情は、あまり良くないらしい。どうやら離婚をするために別居をしているようだった。ただ、奥さんがなかなか首を縦に振らないらしい。
由美子曰く『そりゃ、高給取りの高名課長をそう簡単に手放したくないでしょ。高級マンションからだって出なきゃいけなくなるしね。でも、自業自得なんじゃない? 高名課長が渡米してた時、浮気三昧だったんだから』と、言う事らしいけど。
私は話を聞いて納得した。高名課長のあの疲れた顔は、生活面の精神的な疲れだったんだ。
近々高名課長に昇進の話があるともっぱらの噂らしい。私は経理課で国内事業部担当という事もあり、全く接点がなかった。
「お疲れ様」
私はその声に顔を上げると、高名課長が隣りに立っていた。
「あ、お疲れ様です」
「同じ会社だったんだね。今日初めて知ったよ」
高名課長はそう私に笑い掛けてきた。
「私も同期の前田さんに聞いて、今日初めて知りました」
高名課長は内ポケットから名刺を一枚取り出し、私に差し出した。
「社内の子に上げるのも変だけど」
私は高名課長の名刺を受け取った。
「ありがとうございます」
高名課長はしばらく私を見詰め、左手を差し出してきた。薬指にはプラチナの指輪が光っている。まだ、奥さんの事、好きなのかな。
「名刺交換しようか?」
私は慌てて鞄からあまり減っていない名刺を取り出し、マニュアル通りに、高名課長に差し出した。
「私、オリフィアコーポレーション経理部経理課国内事業部担当の赤坂詩織と申します」
「赤坂さんね。大変よく出来ました」
高名課長は名刺を受け取りながら、私に軽く笑い掛ける。
「赤坂さんは駅から近いの家?」
私は慌てて視線を逸らし、頷いた。
「はい。駅からバスで十分ぐらいのところです」
「もう、通勤には慣れた?」
私の脳裏にあの恐怖が過ぎる。
「――はい」
「そう。私はまだダメだなあ。車社会に慣れてしまった所為かもね」
高名課長はそういいながら、ホームに入ってくる電車を目で追い掛けた。
私は久しぶりに怖くない電車に乗る事が出来た。
あれから高名課長と話しながら通勤する事が多くなった。強いていうなら、私が探すのだ。特に朝。高名課長と一緒にいれば、痴漢に遭わなくてすむから。高名課長と話すようになってから、あの若いサラリーマンの大塚さんとも話すようになっていた。
「聞いたよ、詩織」
社内食堂で海苔段々のお弁当を広げると、由美子がトレーを持って小走りにやってきた。
「何を聞いたの?」
「最近、大塚さんと仲いいんだって?」
私は首を振った。
「別に大塚さんと仲がいいわけじゃないよ。高名課長と話してると、自然と話すようになっただけだよ」
由美子はサラダうどんを啜りながら、肩を竦ませた。
「なんだ、高名課長経由なの。ついに高嶺の花が落ちたのかと思ったのに」
「でも、大塚さん、彼女いるよ?」
私は由美子に首を傾げた。
「あのね。確かに大塚さんもエリート組だけど、高嶺の花は詩織、あんたよ」
「またまた冗談を。私は昔っからモテないよ」
由美子は人差し指を振った。
「甘いな、詩織。学生と社会人じゃモテるタイプが違うのよ」
「ふうん。でも、それは由美子の欲目よ」
私はそう由美子に微笑んで、海苔段々を口にした。
帰りのホームで私は自然と高名課長の姿を探してしまう。でも、今日はいなかった。そういえば、今朝、大塚さんが言ってたっけ。課内コンペだか会議だかがあるって。大抵、その後は飲みにいくのが企画二課の通例らしい。
同じ会社にいるのに、携わっている仕事が違うと、全く分からない。
『会社なんてそんなモンだよ』
高名課長の笑顔が浮んできた。そういえば、最近、疲れた顔見てないな。奥さんと縒りが少し戻ったのかな。
私は目の前に着た電車に乗った。
電車はいつものように混んでいる。今日は一番前に並んでいた所為か、出入り口と反対方向に追いやられた。
それがいけなかった。
私の耳に掛かる生臭い気持ち悪い息。
「ダメだよお、逃げられないよ」
妙に高い曇った小声。
私は必死にハンドタオルを口に押し当てる。必死に腰を捩ろうとする。
だが、今日はがっしり腰を掴まれた。逃げるに逃げれない。痴漢の足が私の足の間に割り込んでくる。
「今日はあの親父、いないんだねえ。残念だったねえ」
キツく閉じた瞼の裏に高名課長の笑顔が浮ぶ。
「あの親父としたの?」
私は思いっきり首を振った。高名課長をそんな言葉で穢されたくない。
突然、目の前にデジカメが現れた。画面には、下半身が映っている。画面が次々に変わる。隠し撮りされた私が映っている。
「よく撮れてるでしょ。これをばらまかれたくなかったら、温和しく言う事聞くんだよ」
私は目の前が真っ暗になった。
不機嫌そうな由美子が私の目の前に座っていた。仕事の後、この喫茶店に呼び出されたのだ。
「詩織、いい加減にしてよ」
私は由美子に首を傾げた。
「何の事?」
「高名課長、心配してるよ? いったいどうしちゃったの?」
私は自分の浅はかさを恨んだ。由美子の存在を忘れていた。
「何にもないよ。面白い小説を見付けたし、通勤時間を早くすれば座れる事が分かったから」
「だからって、先週、もう声を掛けないで下さいって言ったんだって? あんまりじゃない?」
私は由美子を見詰めた。由美子に、高名課長に相談出来れば、どんなに楽だろう。でも、あの写真をばらまかれたら……
「ごめんね、由美子」
私は謝る事しか出来なかった。
「何を一人で抱えてるの? なんの為にあたしがいるの? ねえ、詩織。一人で抱えないでよ」
「由美子……」
私は悔しくて涙が溢れてきた。助けて欲しい。でも、報復が怖い。あの男の報復が怖い。
「あれ? 前田さんに赤坂さん」
私はその声に体を縮ませた。由美子は私の後ろを見て、手を上げる。
「やっほう、市原君」
「相変わらず仲いいねえ」
「まあね。詩織は私の大事な親友だもの」
私はテーブルを凝視していた。顔が上げられない。怖くて顔が上げられない。
「詩織。今日はお泊まりしていい?」
「え、うん」
「兄貴がさ、彼女連れ込む日なんだよね」
由美子はそういいながら、伝票を手に取った。私は由美子の後を追い、あの男の隣りを擦り抜ける。
由美子は振り返り、私を見て、視線をさらに後ろへと移動させた。
「市原君。まだ諦めてないの?」
「何を?」
「分からないならいいんだ。詩織帰ろ」
由美子は私の腕を引き、歩き出した。
由美子は結局あれから、詰め寄ってきたりしなかった。そんな事など忘れたかのように、映画の話や社内の噂話などを寝るまでしてきた。
ホッとした半分、話したい半分の気持ちがあった。でも、話せない。
まさか同期のあの男が痴漢だなんて思いも寄らなかった。まだ、課も社屋も違うのが、助かっていた。でも、同じ会社に籍を置いているのは変わらない。
私は由美子のタオルケットを掛け直し、溜め息を吐いて目を閉じた。今日は安心して寝れそうだった。
由美子が一緒に出勤ということもあり、前と同じ時間の電車に乗った。いつもの癖で高名課長を探してしまう。探してから、慌てて顔を背ける。
自分でもバカだって思う。高名課長は結婚してて、しかもおじさんで、全然タイプでもなかったのに。
高名課長と視線を交わすのが嬉しかった。高名課長と話すのが楽しかった。高名課長の顔を見るだけで、安心出来た。高名課長が気が付かない剃り残しを発見して、大塚さんと茶化すのが楽しかった。高名課長の指から、いつか指輪が消えるのを願っていた自分がいた。
「気が付いちゃった?」
由美子が車窓の外を見ながら、そう呟いた。
「――由美子」
「詩織より場数踏んでるんだから、分かるわよ」
「なんで人を好きになるのかな」
由美子は肩を竦ませた。
「さあ。いろいろ言われてるけど、どれも正解でどれも嘘なんじゃないかな。心なんて自分でさえ分からないんだから」
由美子は私を見て微笑んだ。
「心はどこにありますか?」
私は胸の真ん中を軽く押さえた。由美子は大きく頷いた。
「考えるのは頭なのに、感じるのはハートなんだよね。ただ、詩織を見てて思ったのは、同い年以下より年上の方が絶対にタイプだって思ってた」
「そう?」
「そう。年上に可愛がられるタイプだよ」
由美子はニンマリ微笑んだ。
会社はお盆休み前の調整で、何かと忙しかった。
お陰で、あの男との通勤時間が食い違うようになり、痴漢の被害はあれから被ってはいなかった。
久しぶりに定時に仕事が終わり、いつもの帰りの電車の時間。
はっきり言って迷った。どこかで時間を潰して、違う電車に乗ろうか、高名課長や大塚さんを待ってみようか。
『これをばらまかれたくなかったら、温和しく言う事聞くんだよ』
悪魔の言葉が思考を破壊する。恐怖が思考回路を破壊する。
「ほら電車きたよ」
私は目の前に来た電車に乗るしかなかった。
逃げられない。誰にも言えない。
ハンドタオルで口を押さえ、吐き気を我慢するしかない。身体を這う手が気持ち悪い。名前も考えるのが嫌なほどのあの男は、どんどんエスカレートしていく。
助けを呼びたくても声が出ない。助けを請いたくても怖くて顔が上げられない。
助けて……
頭に浮かぶのは高名課長。
「次の駅で降りようか」
低い冷静な声と同時に、私の身体が開放された。
「この人痴漢です!」
いつも明るく心配してくれた声が聞こえてきた。
「赤坂さん、大丈夫?」
いつも楽しい話をしてくれた声が聞こえてきた。
私は慌てて振り返ると、高名課長の眉毛が下がった苦笑いがあった。
「ごめんね、もっと早くに気が付けばよかった」
私は首を振り、思わず高名課長の腕にしがみつき、子供のように大声を張り上げて泣き出してしまった。
私の身体を誰かが包み込む。優しくて力強く私を包み込む。
あれからいろいろ大変だった。警察に嫌な事を何度も聞かれた。でも、隣りにはいつも頼れる腕があった。
あの男は痴漢の前科があるらしかった。このままいけば、服役になるという。
しばらく電車に乗るのが怖かったが、高名課長や大塚さん、由美子や他の同僚達のお陰で、今では怖くなくなった。
高名課長がお詫びと私の完全復帰のお祝いに、由美子と大塚さんを誘って飲みに連れて行ってくれた。そこで驚くべき事実が発覚した。私は口を開けている事しか出来なかった。由美子の彼氏が大塚さんだなんて。
高名課長も驚いているようだった。
「全然気が付かなかった」
「当たり前じゃないですか! 細心の注意を払ってたんですから。ねえ、実」
由美子は嬉しそうに大塚さんに寄り掛かった。
「由美子、お前呑み過ぎ」
大塚さんが由美子に苦笑いを浮かべ、立ち上がった。
「高名課長、帰ります」
「おう。ちゃんと送って帰れよ」
真っ赤かの由美子は嬉しそうに手を振って、大塚さんに引き摺られていった。
私は隣りに座る高名課長のグラスを見て、首を傾げた。一軒目もここもずっと烏龍茶だった。
「高名課長、お酒飲まないんですか?」
「赤坂さんはもうお腹いっぱい?」
「はい。凄い美味しかったです!」
「そう、良かった。じゃあ、我々も帰ろうか」
私は名残惜しかったけど、高名課長の後に続いた。
高名課長に改めてお礼を言って、駅に向かおうとすると、高名課長は駅とは反対方向に歩き出した。
「高名課長。駅は反対です」
高名課長は笑顔のまま、手招きをする。私は首を傾げながら、高名課長の横に並び、歩き出した。
「どこ行くんですか?」
「会社に用があってね」
「仕事が残っているんですか?」
高名課長は私を見詰め、ゆっくり首を振る。
「仕事じゃないけど、大事な用があるんだ」
私は首を傾げた。
高名課長と私は会社の地下駐車場に降り、蛍光燈の下で紺色に輝く外車の前にきた。
「正式に辞令が降りるのは明日なんだけど、部長に就任することになった」
「うわっ! おめでとうございます!」
高名課長は私をしばらく見詰め、嬉しそうに笑い返してきた。
「ありがとう。一番に知らせたくてね」
私は思わず自分を指差した。
「わっ、私にですか?」
「そう。でね、明日からは電車通勤しないんだ」
私は思わず下を向いた。悲しい。それしか思い浮かばない。あの事件の後、時間を許す限り一緒に電車に乗ってくれてた人。しかもわざわざアパートまで送り迎えもしてくれた。
「だからね。詩織も電車通勤やめない?」
私は名前で呼ばれた事に驚き、高名課長の顔を見詰めてしまった。質問の意図も分からない。
高名課長は蟀谷を掻き、辺りを見渡した。
「本当だ。前田さんの言う通りだ」
由美子の言う通り?
次の瞬間、私は高名課長の腕の中にいた。
「詩織」
低い甘い声で私の名前を囁く。過去の誰よりも胸が震え、気持ちが甘くなる。
「先週、やっと決着がついた。バツイチでよければ、詩織、今日からずっと隣りに座ってくれないか?」
おじさんなのに、全然タイプじゃなかったのに……
いつの間にか、私の胸の中心にいた。
白馬じゃないけど、王子様じゃないけど……
しかもまだ付き合ってもないのに……
でも、この人がいい。
私は思いっきり抱き付いた。
後書きまでお読みいただきありがとうございます。
タイトル……
著者の私でさえ、思わず練馬とか群馬とかと読み間違えてしまう。
練馬に乗ったおじサマ
群馬に乗ったおじサマ
確実にいますよねえ、練馬ナンバー、群馬ナンバー。
でも、練馬や群馬じゃ意味ないし。
高名おっさん。なんかかっこよくなっちゃいましたね。
最初はホントうだつの上がらないおじさんに、しようと思ってたのに。
キャラが勝手に育つ弊害ですかね。
産みの私の理想とは違う育ち方をするキャラ。かなりいたりします。
まあ、著者の私がかっこいいおっさんが好きなんで。
しかし、やはり私は短編を書くのが苦手だ。
読める短編を書ける著者はマジで尊敬してしまう。
なして、書けるんだろう。
つか、文字制限が苦手なのか?
趣味で書き続けて来た弊害だな、こりゃ。