第九話 善意
荷車を牽き、アルマーナフは先導するオルネアの後を歩いていた。サリアはオルネアと並び、たわいもない話をしつつ、時折、気遣うように後ろを振り返る。
最初はオルネアが今まで通り自分が荷車を牽くと主張していたが、アルマーナフが無言でその役目を買って出た。それから黙々と、歩き続けている。
何か他意があって、役目を買って出たわけではない。この程度は、些細な事だと思っただけだった。恩返しというほど大層な事ではなかったし、恩を着せるほど立派な事でもない。他意を持つことすらはばかられるような、そんな行為だと感じた。だから何も考えず、顔ぶれを見て自分がすべきことだと直感のまま、行動に移したにすぎない。
やがて、道も半分ほど進んだ頃だろうか。森の一角が拓かれ、土を盛り棒を差した、墓のようなものが無数にある場所が見えてきた。アルマーナフが尋ねるよりも先に、オルネアが足を止めて言った。
「塀のこちら側で亡くなった方は、火葬にして遺骨をあそこへ埋めました。塀の外の人たちは私たちの火葬の煙を嫌がりますので、この辺りまで運ばなければいけなかったのです。この辺りは、人が住んでいませんから」
「火葬にする必要はなかったんじゃないのか?」
アルマーナフが聞くと、今度はサリアが答えた。
「病気が心配されたのです。それに、わずかとはいえ狼の姿が目撃もされていたので、集まってきて掘り返されたりするのも防ぎたかったから」
「風のない日は、火葬の煙がまっすぐと空に昇るんです。そしてあの灰色の雲に溶けてゆく。まるで、死んでもなお【呪木】に囚われているような、そんな悲しい気持ちになりました」
そう言ったオルネアの手を、サリアは優しく両手で握る。
「神父様、いつかきっと人々は青空を取り戻すことが出来ます。かつての世界に広がっていた、青く澄んだ空。聞いた話だと、空が水面に映って湖なども青く輝くそうです。色とりどりの花が咲き、鳥がさえずる、そんな世界がやがて訪れます。私たちは生きていないでしょうが、多くの犠牲は決して無駄にはならないはずです」
「そうなら、嬉しいことですね」
本当に嬉しそうに微笑むオルネアとサリアを見て、アルマーナフは取り残されたような気持ちに襲われた。自分の存在しない死んだ後の世界など、どうでも良かったからだ。夢も希望も、自身にとって望み叶えるものだとアルマーナフは思っている。だから人は他人を傷つけ、犠牲を積み上げて生き続けるのだ。
自分には見えない、感じることの出来ないものを知る二人が、アルマーナフは何だか遠い存在のように思えてならなかった。
「……行こう」
墓場は好きではない。人の死も、そこからもたらされる悲しみも、眩しすぎる幻想も好きではない。居心地の悪さから逃げるように、アルマーナフはオルネアとサリアを急かし、再び歩き出した。
一見してそこは、積み上げた石の壁と絡み合う蔦によって遮られ、進むことは出来ないように思えた。しかし蔦によって隠れた石の壁は、緻密に描かれた絵に過ぎないことを、近寄って見てアルマーナフは気付いた。
「父が懇意にしていた画家に頼んで、描いていただいたのです」
サリアが笑って言う。オルネアと二人で絵をずらすと、人が一人通れるほどの穴が現れた。穴の向こう側も絵で蓋がされているようで、オルネアが二回連続で蓋を叩き、それを三度繰り返すと向こう側の絵も外されて女性が顔を覗かせた。
「神父様」
女性の呼びかけに頷き、オルネアが下がるとサリアが穴に入っていく。
「リデアさん、それにトルデスさん。来てくださって、本当にありがとうございます」
穴を抜けて外に出たサリアは、荷物を運んできた夫婦に深く頭を下げた。
「どうか頭をお上げください、サリアお嬢様! 私たちは当然のことをしているだけです」
感激した様子でリデアはサリアの手を取り、塀の向こうで誰かが生きている限り、何度でも足を運ぶことを約束した。それを横で聞いていたトルデスは、わずかに眉をひそめる。余計なことを言うな、と思うが口には出せない。
「荷物を運ぼう」
代わりにそう言って、トルデスは運んできた荷物を降ろし始める。穴からオルネアとアルマーナフが姿を見せ、降ろした荷物を運んで行く。
「彼は……?」
どこかで見たようなと、トルデスが考えているとサリアが微笑んで答えた。
「お手伝いをしてくださっている方です」
トルデスもリデアも、黙って頷くだけだった。素性は解らないが、普通ではない雰囲気で何となく予想は出来たからだ。心配ではあったが、二人とも余計な詮索はしない方がいい気がしていた。
女性陣が世間話をする他は会話もなく、黙々と作業は進む。しかしそうしながらも、トルデスはアルマーナフの顔を思い出そうとしていた。どこで見たのか、それはとても重要な事のような気がした。最近見た顔を思いだし、彼は一致する一つの人相に一瞬、動きを止めた。そして何気ない仕草で、そっと確認をする。
(間違いない――!)
体が震えた。酒場で見た凶悪犯の手配書、それこそがアルマーナフの顔だったのだ。サリアはそのことを知っているのだろうか。否、知るはずはない。警邏隊に追われていることぐらいは簡単に想像出来るだろうが、どれほどの罪を犯したのかまでは塀の中では知ることなど出来ないだろう。
トルデスの脳裏に、一生遊んで暮らせるほどの賞金が浮かんだ。自分に転機が訪れたことを感じる。
毎日、朝から晩までヘトヘトに働き、楽しみと言えば酒場で飲む安い酒くらいだ。妻にもずいぶんと苦労を掛けていた。こうしてサリアの元へ訪れるのを止めれば少しは楽が出来るかもしれなかったが、どうやらリデアにその気はなさそうだった。
これまでの苦労を考えれば、それが報われても贅沢な望みではあるまい。捕らえることは無理だろうが、通報なら出来る。幸い、塀の外でこのことを知っているのは自分と妻だけなのだ。そしてきっとアルマーナフは、通報されるなど考えてもいないはずだ。トルデスは頭の中で、手順を考えてみる。
賞金全額は無理だろう。だが、半分はもらえるかも知れない。いや、半分以上を望むべきだ。こんなチャンスはきっと、もう一生ないだろう。交渉次第では上手くいく。
「ご苦労様でした」
サリアが礼を言い、塀の向こうに戻って行った。いつも通りに穴がわからないように絵を戻し、空になった馬車で帰路につく。手綱を握り、焦る気持ちを抑えるようにのんびりと馬を走らせた。揺れる馬車の上で、トルデスは笑みをこぼした。すべては簡単だ。自分のすべきことは、警邏隊に情報を渡すだけでいい。危険な事はない。妻に悟られぬよう平静を保とうとするが、自然とゆるむ顔をどうすることも出来なかった。
一方、そんな夫の様子を隣で見ていたリデアは、内心でホッと安堵していたのだ。夫がサリアの元へ行くのを反対していたのはわかっていた。自分のわがままで、夫にも迷惑を掛けている。それを自覚しているからこそ、今日の夫の反応が心配だったのだ。
しかし、どうやらすべては杞憂に終わったようだ。
(やっぱりあの人も、私と同じ気持ちなのだ。旦那様のご恩に報いることが少しでも出来れば、それが何よりも嬉しいことなんだからね)
機嫌の良いトルデスの様子に、リデアはそう信じて疑わなかった。