第八話 深淵
アルマーナフは眠れずに、何度目かの寝返りを打った。冴えた頭の中には、様々な想いが湧き上がってくるが、どれ一つとして確かな形を保つことは出来ない。
風もなく、いつものように穏やかな夜は、しかし、今までもこれほど静かだっただろうかと疑問を抱かせた。落ち着かない。無理矢理閉じた目を開けて、アルマーナフは灯りの消えたランプを見る。見るとはいっても、部屋の中は濃い闇で満たされており、慣れた目でもその輪郭を捉えることは難しい。
もっとも、この部屋が暗いのは夜だからというだけではない。上の方に明かり取りの小さな丸窓があるが、昼間でも暗雲に覆われたこの世界では、小さな窓はさほど役目を果たしてはいない。それでも洞窟で寝ていた彼には、十分過ぎた。
ぼんやりとしたランプを視界の中心に置き、アルマーナフは特に思考を巡らせるでもなく、家の軋む音や正体の知れぬ音を聞く。不思議なもので、火を点すと恐ろしく感じる闇も、こうして身を浸し、耳を澄ますとどこか暖かみを感じさせてくれる。それは、ずっと昔の、まだ母の胎内にいた頃の懐かしい記憶なのだろうか。
アルマーナフは心の中で首を振る。すべては人の心次第でしかない。理由はいつも後付なのだ。もし安らぎを感じるのだとしたら、それは自分の心が変化したに過ぎない。それは、良いことなのだろうか。良いことだと、信じたかった。
ウトウトとし始めた頭は、物音で覚醒した。小さな足音は、やがてアルマーナフの部屋の前で止まった。迷うようなわずかな間の後、控えめにドアが叩かれる。
「誰だ」
問いかけると、ドアが開いて小さな灯りとともに少年の顔が覗く。エルリッドだ。険しい表情に、爛々とした目でじっとアルマーナフを見ながら、そっと部屋の中に身を滑り込ませて来た。まだ六歳の子供とは思えぬ悲壮感を背負い、しかし強い意志を漲らせている。
「この前のこと……」
言い淀み、うつむく。しかしすぐに顔を上げて、アルマーナフを正面から見た。エルリッドの持つランプの、心細い灯りの中で互いの視線が絡み合った。
「殺して欲しいんだ」
「誰を?」
鼓動が早くなるのを感じながら、エルリッドは一瞬の迷いを見せる。幼い彼にも、わかっていたのだ。たとえそれがどんな理由で発したのだとしても、決して消えることはない。赤黒い染みとなって、心の中にいつまでも残り続けるのだ。それを今、自分は言おうとしている。
「……母ちゃん。母ちゃんを、殺して欲しいんだ」
震えた。心も体も、震えた。拳をきつく握る。
「居なく、なる……。母ちゃんが、居なくなる。このままじゃ、母ちゃんは母ちゃんじゃなくなるんだ。それにすごく苦しそうだ。俺、俺――」
涙が、エルリッドの瞳を濡らす。父が亡くなってから、彼が初めて見せる涙だった。あの時、途方に暮れる母を見ながら、もう絶対に泣かないと決めていた。それが、どんな言葉も掛けてあげられなかった少年の後悔であり、決意であったのだ。けれど、溢れ出る感情を抑えつけるには、エルリッドは幼すぎた。
泣きながらも逸らすことなく向けられた目に、深い、深い闇が映っている。
アルマーナフは、サリアの言葉を思い出した。心を壊す呪い……人間らしさを失い、大人ですら耐えられないほどの恐怖とおぞましさ。それを、この少年も見て来たのだろう。
――母ちゃんが居なくなる。
エルリッドの大好きな、優しい母の姿。それが壊れてゆく。少年が何よりも恐れるのは、その事なのだ。しかしと、アルマーナフは思う。
「母が壊れるのを見たくはない。だから殺してくれ。そしてお前は救われる。お前だけが、救われる」
「そんなんじゃない! そんな……俺は、母ちゃんを助けたくて」
「助けたくて殺す。だが、本当に母親は救われるのか? それに殺すのは俺だ。大勢殺しているんだから、もう一人くらい平気で殺せるだろうと、そう思ったのか?」
「違う、違う! 俺、そんなんじゃ……俺……」
そう、違う。自分は、平気で人を殺せる男だったはずだ。アルマーナフは、自分がなぜそんなことを言ったのかわからなかった。彼は、怒っていたのだ。しかし怒っていることも、なぜ怒っているのかも気付いていない。
「ごめんなさい……俺、そんなつもりじゃ」
少年の持つ灯りが揺れていた。アルマーナフは唇を噛む。
「帰れ」
「ごめんなさい」
何度も頭を下げながらエルリッドは部屋を出て、そのまま駆けだした。遠ざかる足音を聞きながら、アルマーナフは拳を握り、壁を殴りつける。
「クソッ!」
胸が痛んだ。命乞いをする子供を殺す時も、泣きじゃくる子供を殺す時も感じなかった感情が、アルマーナフの胸に湧き上がった。それが彼を不愉快にさせる。
苛つく思いを抱き、アルマーナフは部屋を飛び出した。
窓からそっと、忍び込んだ。ベッドの上で、コルダは静かに眠っている。
人を殺すのは容易い。眠っているなら、なおさらだった。胸にナイフを突き立てれば、それで済む。寝ているうちに殺されるのは、まだ幸せな方だろう。殺されたことも気付かず、眠り続けることが出来る。
幼い息子が殺してくれと頼んだことを知ったなら、母親はどうするだろうか。
アルマーナフは、コルダを見下ろした。暴れないように、手足が拘束されていた。今なら、絞殺も可能だった。手を伸ばせば、すぐに実行出来る。
エルリッドとコルダの親子は、本当に救われるのか。それで良かったと思えるのか。
アルマーナフは、自分の手を見た。うっすらと汗をかいている。緊張している自分が、あまりにも滑稽だった。
「んっ……」
その時、コルダが目を覚ました。暗闇で何も見えなかったが、そばに立つ気配は感じられたようだ。
「誰だい? 居るんだろう」
呼びかけるが、彼女にはそれが誰なのか何となくわかっていた。彼女のよく知る人物たちとは違う、鋭い刃物のような気配。
「あたしを殺しに来たんだろう?」
「……なぜ、そう思う」
「自分の身に何が起きたのかくらい、わかっているよ。さんざん、見てきたんだ。記憶がないのが、救いだろうね。覚えてでもいたら、今以上にたまらない気持ちになる。醜く、無様だ」
「……」
「メリルじゃない。サリアちゃんか、神父様か――。いずれにしても、迷惑をたくさん掛けただろうね」
「もし、誰かが俺にお前を殺して欲しいと頼んだのだとしたら、そいつを恨むのか?」
「まさか! それが一番だと思うなら、きっとそうするべきなんだ。あたしでも、そうしたかも知れない。せめて人間らしく死なせてやりたいじゃないか。こんな所に閉じこめられて、いつ死ぬのかと怯える毎日で、それだけが救いなんだよ」
「……俺に殺されて、それで救われるのか? 本当に?」
「いつも思うんだよ。あたしが正気を失って、誰かを殺すんじゃないかってね。それが誰であっても許されはしないだろうけどさ、もし、あの子を――エルリッドをこの手に掛けてしまったら、あたしは母親として一番の罪と絶望を抱いたまま死ななきゃならない。それが、何よりも怖い。そのくせ、自殺する勇気もないんだから、本当に駄目だねえ」
自嘲する声を背に受け、アルマーナフは窓を開けた。
「殺さないのかい? ねえ、お願いだよ。もしあたしがエルリッドを殺しそうになったら、その時は――」
アルマーナフは耳を塞ぐように外に出て、窓を閉ざす。最後の言葉は途切れ、聞こえなかった。