第五話 孤独
胸の奥で、何かがザワザワと騒いでいた。半分の不安と、半分の恐怖。こんな気持ちになったのは、あの時以来だろうか。アルマーナフは口の中に広がる野菜の甘みを不思議に思いながら、考えていた。
両親を失って何の支えもなかった自分が、あのどうしようもないざわめきに打ち勝つには、怒りの炎を灯すしかなかった。より強く鮮明な感情が、ぼやけたとらえどころのない感情を紛らわせる。それはただ、意識しないでいられただけにすぎない。今感じているざわめきは、あれからずっと続いていた感情なのではないか。まるで取り憑かれたかのようにまとわりつかせていた怒りは、アルマーナフの中から消えたように静かだった。強い光が消えて、ようやく見えるようになった弱い光。それが自分の中にあるものの正体なのかも知れない……アルマーナフはそう思った。
けれど別の自分が、それを否定する。何も知らぬ子供ではない。生きるための術を身につけ、常に自分こそが恐怖の対象だったはずだ。邪魔なものは力ずくで排除して来たし、死ぬことも恐ろしいとは思わなかった。少なくとも、彼が殺してきた貴族たちのような醜態を晒す気はなかった。
不安も恐怖も、生まれるはずのない感情だ。ならば、このざわめきは何だろうか。
「……あの」
不意のサリアの声が、アルマーナフの意識を呼び戻す。彼は黙ったまま、顔を彼女に向けた。彼女は少し眉をひそめ、わずかに顔を傾いでから言った。
「あんまり、お口には合いませんか?」
「……いや、大丈夫だ」
面倒そうに答えた彼に、彼女は嬉しそうに笑った。
「よかった。何だか、難しい顔をしていたから」
突然だった。サリアのその顔を見た瞬間、アルマーナフは自分の中にあるものの正体を知った。このざわめきは、かつての残滓ではない。
暖かなベッドの上で、まだ湯気の昇るスープを口に運ぶ。これほどのんびりと食事をすることは、今までで初めてだった。空腹を満たすだけの食事ではない。味わうことが、許される。仄かな明かりに照らされたサリアの顔は、柔らかく笑みを湛えていた。
これは、このざわめきは、居心地の悪さから来る孤独感だ。アルマーナフは思い知った。自分とはあまりにも違う世界で生きる人々、その中では、自分は孤独なのだ。まるで仲間はずれにされたような、嫌な気持ち。見放されたような、不安。入り交じった様々な想いが、彼の心を騒がせていた。
食事を止めたアルマーナフの手を、サリアが握った。驚いた彼がサリアを見ると、彼女は何だか悲しそうな顔をしていた。
「どうして、そんな顔をしている?」
「あなたがとても、悲しそうだったから――」
アルマーナフは内心の動揺を隠すように、乱暴に手を振り払うと、再び食事を始めた。スープの甘みが、まるで心まで甘くしてしまったような気がした。
こそこそと話す声が、廊下から聞こえた。
「やっぱり、邪魔なんじゃないかな」
「最初に来ようって言ったのは、お前だろう」
「だって、心配だったんだもん……あ、ラナ!」
ドアがゆっくりと開いて、幼いラナの顔がひょこっと現れた。
「ふふふ……いらっしゃい、ラナ」
ラナはサリアの顔を見ると、ニパッと満面の笑顔を浮かべて走り寄り、彼女の足にぎゅっと抱きついた。サリアは目を細めて幼子の小さな頭を優しく撫でながら、ドアの外でまだ躊躇している二人にも声を掛けた。
「エリーナとエルリッドも、入ってらっしゃい」
気まずそうに笑いながら入ってきた二人は、正面のアルマーナフに視線を向ける。だがすぐに、エルリッドは少し不機嫌そうに、エリーナは恥ずかしそうに目をそらす。
「わざわざお見舞いに来てくれたのね」
サリアがそう言いながら、アルマーナフを見て笑った。彼は関心がなさそうに顔を背け、呟くように言う。
「俺みたいな奴と二人きりだから、様子を見に来ただけだろう」
その言葉に他意はなかった。自分が他人にどう見られているのかは理解している。危害を加えられるのではないかと、疑われた経験は数え切れない。相手のそうした反応にはもう慣れていたし、そのことで悲観することもなかった。だから、大きな声を上げたエリーナの反応に、アルマーナフは驚いた。
「違うの! あの――」
思わず出た声に、エリーナ自身が驚いて口をつぐむ。そして顔を真っ赤にしてうつむくと、もじもじとした。何かを言いたそうだったが、心にためらいがある。それを察したのか、不機嫌そうな顔でエルリッドが口を開いた。
「母ちゃんが言ってた。外の人間がわざわざ塀の中に来るのは、外には居られない悪さをしたからだって。俺たちだって、それくらいのことはわかるんだ」
「エルリッド!」
エリーナが慌てて少年の腕を引っ張るが、エルリッドは構わずに続けた。
「でも、本当にエリーナやラナはお姉ちゃんが心配で来たわけじゃない。二人が心配だったのは、お前だ。二人は……」
「サリアお姉ちゃん! そういえばタンポポはどうしたの?」
かなり強引に話題を変えようとサリアに話を振るエリーナだったが、振られたサリアは驚いて咄嗟に言葉が出ない。すると沈黙を恐れるように、少女はサリアの手を取ると部屋の外へ引っ張った。
「ね、ね、タンポポの様子を見に行きましょ。ラナもおいで」
「あの、エリーナ。どうしたの?」
困惑気味の声とラナの笑う声が、部屋から遠ざかってゆく。後にはエルリッドと動けないアルマーナフだけが残された。相変わらず不機嫌そうな顔のエルリッドは、チラッと視線を廊下に向けたが、すぐにアルマーナフを正面から見据える。
「お前、人を殺したことがあるのか?」
好奇心で尋ねているわけではなさそうだった。眼差しは、真剣である。
「大勢……数え切れないほど殺した。それだけの人生だった」
「それはさ、頼まれたりしてなのか?」
「人に頼まれて殺しはしない」
「そうか……」
考え込むように、エルリッドは視線を落とした。
「殺して欲しい奴がいるのか?」
エルリッドは顔を上げ、黙ったままアルマーナフを見つめた。その目が、肯定している。しかし瞳で輝く光の中に、殺意は感じられなかった。憎悪ではない別の感情が、まだ六歳の少年の心にどんな変化をもたらしたのか。そしてその変化が、いかにして殺人の依頼という大事を決意させたのか。
深い闇の底を何度も覗いたアルマーナフも、少年の心に潜む闇の正体はわからなかった。
「誰を、殺せばいい?」
「……それは」
ためらいながらエルリッドが口を開いたとき、廊下から女性達の声が聞こえて来た。
「――他にもあるか、探してみましょう」
「今度は私たちも一緒に行くからね」
「ええ」
笑いながら入ってきた三人に、エルリッドは何事もなかったように話しかけた。
「何の話だよ。どこか行くのか?」
「サリアお姉ちゃんと一緒にね、タンポポを探しに行くのよ」
「いくの~」
ラナも嬉しそうにそう言って笑った。何気ない風景。だが、アルマーナフが逸らした視線の先には、いびつな影が不気味に揺れていた。