第三話 覚醒
肌を刺す冷気で気がつかなかったが、ふと見ると、アルマーナフ少年の全身は小さな切り傷が無数にあった。特にひどいのは、膝から下の辺りである。それまでわからなかったが、傷があることを知ると、とたんに痛み出した。ひとつひとつの傷が存在を誇示するように、チクチクとアルマーナフを刺激する。
なんだかとても悲しくなって、アルマーナフは歩くのを止めた。もちろんずっと悲しかったのだが、抑えきれない感情が涙になって溢れ出す。声を殺し、うずくまって、小さな体を震わせた。
どうして世界はこれほど、絶望に満ちているのだろうか。少年の小さな胸は押し潰され、目に映るすべてが憎悪の対象だった。でも、何かが優しく彼の頭を撫でる気がした。それは母の手に似ている。
生まれる前の姿のように膝を抱え、アルマーナフは温もりに心をゆだねた。こんな想いは、とても久しぶりだった。
ゆるゆるとぬるま湯の中で身をよじるように寝返りをうつアルマーナフは、鼻から吸い込んだ冷たい空気に追い立てられるように瞼を上げる。誰も座っていない椅子が見え、天井から吊されたランプのオレンジ色の明かりで、床に出来た影が揺れていた。ぼんやりとした頭を押さえながら、アルマーナフは上半身を起こす。
部屋の中を見渡すが、見覚えはない。時々痛む頭を働かせ、彼は自分の身に起こった出来事を思い出していた。ふと向けた視線の先には、テーブルの上に乗った刃渡り三十センチもの刀があった。
鮮明に蘇る光景は、手に残る生々しい感触をも蘇らせた。人を殺すことには馴れている。何度も感じた、痺れるような感覚だ。渇く気持ちを満たすように、次から次へと屍を築いてきた。それなのに、今はとても気持ちが悪い。ひどくはなかったが、チリチリと胃液が込み上げるのがわかる。口の中が、渇いていた。
水が飲みたい。アルマーナフはベッドから降りて、まだおぼつかない足取りでドアに取り付く。人の気配はない。ここが何処なのかは、察しが付いていた。塀の外でないなら、考えられる場所は一つしかない。
体重を掛けながらドアを開け、左右へ続く廊下を覗く。裸足で、足音を立てないように壁伝いで右側に進む。すぐに土間の洗面所に出て、すがりつくように井戸へ駆け寄り、座り込んだ。釣瓶を落とし、腕の力だけで縄を引く。普通なら何でもない作業が、思うように動かない体のせいで異常に重く感じられた。
時間を掛け、ようやく水を蓄えた釣瓶を持ち上げて、アルマーナフは直接口を付けて服が濡れるのも気にせず、喉を鳴らして水を飲んだ。文字通り浴びるように水を飲み干した彼は、しばらくぐったりとしたまま動かない。
時間の感覚がすっかり麻痺しているようで、どれほどそうしていたのかもわからない。アルマーナフはゼンマイを巻き忘れたおもちゃのように、ぎこちない動作で立ち上がると壁に手をついて、来たときのように歩いてゆく。しかし部屋の前は通り過ぎて、光が差す方へ向かう。
物音が聞こえた。誰かが居るようだ。警戒しながらそっと覗くと、そこは礼拝堂のようだった。白髪の老齢な男性が神像を磨いているのが見えた。外へ出るのは、礼拝堂を抜けるしかない。脳裏に、目を覚ました部屋の刀がよぎる。助けてくれたからといって自分に敵意がないとは言い切れない。刀を取りに戻ろうか、逡巡する。
白髪の老齢な男性は、そんなアルマーナフの思いに気付いたわけでもないだろうが、礼拝堂の奥の部屋に入って行った。ガタガタと大きな物を動かすような音が聞こえる。
アルマーナフは音が聞こえる暗闇の方へ視線を向けたまま、出来るだけ素早く出口のドアまで移動すると、ドアをわずかだけ開き、隙間から外を確認して身を滑りこませた。
建物の中よりも数度低い空気に、アルマーナフは体を震わせる。それまで気にしていなかったが、着替えさせられた寝間着は生地が薄い上に、さきほど濡らしてしまったのだ。一瞬迷った彼は、道なりに歩き出す。おぼつかなかった足取りも、徐々にしっかりと大地を踏みしめるようになった。
やがて、木々の間から豪華な建物の姿が見え始め、葉の擦れる音に混じって子供の声が聞こえてきた。塀の内側に閉じこめられた呪われし人々。彼らの存在は知っているが、どれほどの人数が残っているのかは知らない。ただ、志願者の家族や恋人ということで、女子供がほとんどだと聞いている。大人の男がいても、さきほどのような老人くらいだろうとアルマーナフは思った。
幹に身を隠し、様子を伺う。拓けた場所は広場になっているらしく、中央に噴水が見えた。噴水はずいぶん長いこと水を吹き出していないのが、遠目で見てもすぐにわかった。その噴水の周りで、子供が遊んでいる。数は三人。大人の姿は少し離れた所に二人見えた。籠を持って立ち話をする女性たちだ。
二人の女性は、時々、子供の方へ視線を送っている。アルマーナフはあの二人が、噴水の所で遊んでいる子供たちの母親だと直感した。一人はほっそりとした、まだかなり若い感じの女性だ。もう一人は浅黒く小太りでがっしりとした、母親然とした女性である。
他に人の姿はない。アルマーナフは、ぼんやりとその光景を眺めた。どうしてか、胸が痛かった。吐き気とは違う、別の気持ち悪さがある。込み上げる衝動が、拳を震わせた。
破壊、殺戮……彼が貴族に対して感じている憎悪の矛先が、目前の親子に向けられていた。自分の意志とは関係なく呪われ、隔離された哀れな人々を、アルマーナフは消し去りたいと願ってしまった。そんな自分の想いに、本人が一番戸惑っていた。
(それは違う)
彼は、何でも自分の思い通りになると信じている、傲慢な貴族が憎かった。父や母を、暇つぶしに殺し、彼から人間としてのすべてを奪った貴族こそが、憎むべき世界の象徴だったはずだ。貧しい人々は愚かであったが、だからこそ彼にとっては殺す価値など無い存在だった。
頭が痛かった。腕が、足が痛かった。立っているのが辛い。軽いめまいによろめいたアルマーナフは、なんとか体を幹で支えた。落とした視線が、その姿を捉える。
幼い、女の子だった。彼は知らなかったが、その子はラナだった。ラナは無垢な瞳で彼を見上げ、少しだけ首を傾いだ。見れば、他の二人の子供と母親らしい女性たちも、彼の存在に気付いていた。
内心で舌打ちをしたアルマーナフは、溢れる衝動にすべてを委ねてしまおうかと考えた。手を伸ばせば、ラナを抱き上げることが出来る。素手でも命を奪うのは容易い。
母親たちの目に映る恐怖が、いつもなら心地好いはずだった。命を奪うのが楽しいのだ。しかし、ラナの澄んだ瞳に映る自分の姿は、どうしてそんなに悲しそうなのか。
不意に、ラナが彼の寝間着のズボンを掴んだ。
「だいじょうぶ?」
どうして、この少女は逃げないのだろうか。だいじょうぶ? どうしてそんなことを聞くのか。アルマーナフは手を伸ばす。空気が張りつめるのがわかった。そっとラナの頭に手を乗せ、彼は笑おうとした。でも、笑えなかった。
悲しかった。膝が折れ、アルマーナフはその場に倒れた。
無様な姿を見せるのは嫌だった。けれど、涙を見せるよりはマシかも知れない。そう思い直して、アルマーナフは濁流のような意識に身を任せた。
とても、お腹が空いていた。