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第二話 霞

 輪郭を失った世界は色を滲ませ、朦朧(もうろう)としたアルマーナフの意識の中で揺らめいていた。張り付いたように握られた刀はそのまま、枯葉を踏んでどれほど歩いただろうか。蛍のような光が残像を引きずって視界を横切り、彼は導かれるように体を倒した。堆積した腐葉土に身を横たえ、(まぶた)が重く垂れ下がる。

 現実感が喪失する中で、アルマーナフは泣きじゃくる幼い自分の姿を見た。あんな風に感情を溢れさせたのは、いつの頃だろうか……浮かんだ疑問は、すぐに気怠さに消えた。

 しかし、彼の本能に近い部分が人の気配を察した瞬間、獲物を捕るバネ仕掛けのように、アルマーナフの体は動いた。彼に触れようとしたその人物の胸ぐらを掴み、刀を喉元に押し当てる。

 柔らかな、甘い匂いに、一瞬、彼は怯んだ。

「何も、しませんよ」

 諭すような口調の優しいその人物は、長い髪を束ねた若い女性だった。吸い込まれそうな漆黒の瞳に見つめられ、アルマーナフは魔法でも掛けられたように刀を降ろし、そのまま、意識を失った。



 肩を軽く揺すられて、サリアは目を覚ました。

「もうすぐ朝食の時間ですよ」

 目をこすりながら顔を上げたサリアを、白髪の老齢な男性が柔らかな表情で見下ろしていた。彼女ははにかみ、薄紅色に染まった顔を隠すように視線をベッドに向ける。

 部屋の半分近い面積を占めるベッドには、アルマーナフが静かな寝息を立てて横たわっていた。

「呼吸も穏やかになってきました。もう、大丈夫でしょうか?」

 男性は頷き、ベッド脇の椅子から立ち上がったサリアと入れ替わるように腰掛け、アルマーナフの額に手を当てた。

「……熱もないようですし、毒の方は問題ないでしょう。足の怪我も、数日で癒えると思いますよ。目を覚ましたら何か食べさせた方が良いでしょうね」

「わかりました、神父様」

 軽く頭を下げたサリアは部屋を出ると、洗面所に向かった。そこは床板が張られておらず地面がむき出しで、専用の井戸がある。彼女は用を足し、手押しポンプで木桶に水を貯めると顔を洗った。棚に畳んで置いてあったタオルで顔を拭き、端が欠けた鏡を見ながら長い髪を束ねつつ自分の顔を一通り確認して頷くと洗面所を後にした。

 廊下を進んで小さな礼拝堂に行き、そこにある羽衣をまとった神像の前で膝を付き祈りを捧げる。数分ほどそうしてから、サリアは外に出た。空にはいつもの灰色の雲が重くぶら下がり、さわやかな朝というわけにはいかなかった。

 彼女が出てきたのは、湖畔に建つ小さな教会だ。木々に囲まれたこの周辺に、他の建物はない。曲がりくねった小道を進むと、(ひら)けた場所に出る。元は貴族の別荘地だけあって、建ち並ぶ建物は豪華だ。

 サリアが来た道から扇状に広場があり、中央には水の出ない噴水があった。その噴水に登って遊んでいた子供たちが彼女の姿を見つけて、走り寄って来る。

「サリアお姉ちゃん!」

 両手を広げて元気に抱きついてきたのは、五歳の少女エリーナと三歳の妹ラナだ。

「おはよう、サリアお姉ちゃん!」

「はよ~」

 無邪気な笑顔でサリアを見上げて、姉妹は朝のあいさつをする。彼女は二人の頭を優しく撫でながら、

「おはよう、エリーナ、ラナ」

 そして姉妹の後ろでニッと笑っている少年に視線を向けた。

「エルリッドもおはよう」

「おはよう。夕べも教会に泊まったんだな」

 少年が言うと、少しだけ不安そうな顔でエリーナが尋ねた。

「死んじゃうの?」

「バカだな! だから神父様やお姉ちゃんが看病してるんだろ!」

 怒ったようにエルリッドが声を上げると、エリーナは頬を膨らませた。

「バカじゃないもん! 心配なだけだもん!」

 この二人の口喧嘩はいつものことで、些細なことで言い合いになるが、仲直りも早かった。サリアは慈愛の目で二人を見つめ、小さな頭に手を置いて優しく言う。

「大丈夫よ。すぐに元気になるから」

 その時、服を引っ張られ、サリアは視線をさらに落とした。ラナが彼女にスカートをぎゅっと握って小さく首を傾げている。

「ポンポも、元気?」

 舌足らずな口調でラナが言うと、サリアはしゃがみこんで愛おしくて仕方がないようにぎゅっと彼女を抱きしめた。少女の言う『ポンポ』とはタンポポのことだ。

「うん。もうお怪我も治って、小さな体を懸命に伸ばそうとしているわよ。後で、植え替えてあげましょうね」

「何の話だよ?」

 不思議そうなエルリッドに、バカ呼ばわりされた仕返しとばかりに、エリーナはクスクスと笑った。

「女のヒミツよ」

 胸を反らせるエリーナに、今度はエルリッドが頬を膨らませた。サリアは笑って、

「後でちゃんと教えてあげる」

 そう言い、手を振って自宅に戻った。

 彼女の自宅は、広場から少し入った離れた所にある。白く、大きな別荘だ。ここにサリアは、母のフィオーネと二人で住んでいた。

 サリアはキッチンに行き、野菜スープとバターを塗ったパンをトレイに乗せて、二階の母の部屋に向かう。

「お母様?」

 ドアをノックして呼びかけたが、返事はない。仕方なく、もう一度ノックしてからそっとドアを開けた。

 フィオーネは窓辺の椅子に腰掛け、まるで魂が抜けてしまったかのように外を見ていた。疲れ切り、やつれた顔をしている。元気ならば美しい女性なのだろうが、サリアとは似ていなかった。

 二人に血の繋がりはない。フィオーネは後妻なのだ。サリアの本当の母は、彼女が幼い頃に病気で亡くなっている。しかしお互いにわだかまりはなく、かつては本当の母娘のように仲が良かったのだ。

「お母様、朝食を持って来ました」

 サリアが呼びかけるが、いらえはない。最近のフィオーネは突然怒り出すか、こうして抜け殻のように外を眺めているかだった。サリアは掛ける言葉が見つからないまま、そっと部屋を出た。自分の言葉が、母を苛つかせるのはわかっていた。

 あの時、越えることの出来ない壁が二人の間に出来てしまったのである。

「お父様…どうして……」

 常に優しく、明るい笑顔を浮かべていたサリアの顔が、苦しげに歪んだ。



 子供の泣く声が聞こえた。耳障りなその声に、アルマーナフは苛立った。けれど視界は闇に閉ざされ、その声がどこから聞こえるのかもよくわからない。耳に(たか)る蚊のように、ただ、鬱陶(うっとう)しく思えた。いったい何を泣いているのか、親は何をしているのか……そう考えたとたん、アルマーナフはその子供が自分だと気付いた。親が死んだから泣いているのだ。

 ようやく歩けるようになったばかりの、幼い彼の膝丈くらいまで草が伸びた、何もない原っぱだった。鳥肌が立つほどの気温の中、アルマーナフは何も身につけていない。

 人間として大切なものを、すべて失ってしまった。震え、身を抱えてうずくまる彼を助けるものはない。

 アルマーナフは、一人で生きようと決めた。一人で生き、そして奪おう。渇く喉を潤すように、渇望する怨念を満たすべく、呪われた世界ですべてを奪おう。

 人の心を捨て、幼いアルマーナフは歩き出した。

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