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第十八話 幻

 小雨が濡らす顔が不快だった。拭っても拭っても、染みつくように雨粒が肌に消えてゆく。まるでそれは、彼の心の中を表しているようだった。

 アルマーナフは、心の奥に重く垂れ下がる不快感を忘れるように剣を握り直した。


「アルマーナフさん……!」


 サリアが彼の背中に呼びかけながら、両手を付いて立ち上がろうとする。だが彼は答えず、視線はラナだけを見ていた。


「や、やめてください!」

「もう、無理だ」


 サリアの懇願は、すでに手遅れなのだ。ラナを救う手立てはない。少なくとも、アルマーナフに出来ることは一つしかなかった。


「違います!」


 そう声を荒げたサリアは、立ち上がってもつれる足でアルマーナフに近づく。それとほぼ同時に、ラナも動いた。


「ガアアアアアアーーー!!」


 四つ足で獣のように身を躍らせ、アルマーナフに向かって飛びかかる。彼はただ静かに、手にした剣を突きだす。だが横からよろめきながらも近付いたサリアが、アルマーナフの剣を持つ手に自分の手を重ねた。


「――!」


 二人の持つ剣は、飛び掛かって来たラナの喉を貫いた。刀身を伝う赤い流れが、雨に滲みながら柄を握るサリアとアルマーナフの手を染める。


「あなたにだけ、背負わせるのは嫌なんです。これは、私がこの手を汚さなくてはいけない事なんだと思います」

「サリア……」


 サリアは手を離し、慈しむようにラナを抱きしめる。アルマーナフは慌てたように剣を引き抜いた。


「ごめんね、ラナ……」


 雨で濡れたサリアの頬に、涙がゆっくりと一筋の道を作る。滴となってこぼれ落ちる頃には、もう雨との区別はない。


「ごめんね……」


 サリアの口から漏れるのは、ただそれだけだった。他の言葉は喉を詰まり、胸の奥の感情とともに(わだかま)る。形に出来ない無数の想いは、人間の持つ限られた言語の枠を越えて、ただ静かに降る雨の音に吸い込まれてゆくばかりだ。


「が……ごぽ……」


 ラナの小さな口から、泡立つ血が溢れて顎を伝った。獣の眼差しは色を失い、小さな体は温もりを失う。それを手放さないように強く抱きながら、サリアは膝を折った。


「神様……どうか彼女が今度産まれて来るときは、幸せな人生を送れますように……神様……どうか……お願いします」


 サリアはラナの髪に顔を埋める。優しい日向の匂いが、雨の匂いに変わってゆく。もう戻る事はない時間が、刻まれた思い出の数だけ重圧となってサリアの心を押しつぶした。


「ラナ……今度はきっと、たくさんの『ぽんぽ』が見られるよ。青空の下で、吹き抜ける風を追いかけて……どこまでも、どこまでも走って行けるよ。妨げる壁なんてないんだから……自由に、自由に……生きていけるよ。だから……待ってて……」


 その言葉に、ぴくりとアルマーナフが反応する。まるで今にも消えてしまいそうなサリアの背中に不安を感じ、アルマーナフは剣を捨てた。


「サリア……」


 そして控えめに声を掛け、震える彼女の肩に手を掛ける。


「……覚悟は、していたはずなのに」


 声を詰まらせ、唇を強く引き結ぶ。力なく泣きじゃくるのを堪えているのは、幼い子らに見せていた姉としての責任感からなのかも知れない。サリアは途切れ途切れに、心の中から湧き出る気持ちの断片を言葉にして吐き出した。


「次々と倒れてゆく人々を見送り、いつか……いつか私も……そしてあの子たちも……こうなるんだって……誰かが……苦しんで、苦しんで……その手を、血で穢し……後悔にまみれて……終わってゆくんだって」

「……」

「でも! みんなと過ごす日々が……楽しかった。一時でも、暗い気持ちを忘れさせてくれる。夢みたいな時間で……全部が……大切な……」


 それ以上、サリアの言葉は続かなかった。けれどアルマーナフには、彼女の言おうとしたことがなんとなくわかる気がした。


(幻が弾けて、灰色の現実が姿を見せる。その瞬間、忘れていた痛みが蘇ってくるんだ。だからこそ、余計に辛い)


 溢れ出した涙は雨に流れ、その小さくても突き刺さるような声は濡れた空気に呑み込まれた。サリアはラナの温度が失われるまで、そうして泣き続けていた。

 やがて雨が止み、ラナを抱いたサリアとアルマーナフは、エリーナとエルリッドの二人が横たわる噴水の前まで戻って来た。互いに言葉少なく、淡々と亡くなった人たちの遺体を並べてゆく。騎士の遺体は、アルマーナフが森の中に捨てた。


「……」


 戻るとサリアが、みんなの濡れて泥が付いた顔をきれいに拭いていた。洋服の乱れも直し、出来る限りのことをしようとする思いが伝わってくる。


「すまなかった……」


 立ち尽くしたままのアルマーナフは、サリアの背中に謝罪する。


「どうして、謝るのですか?」


 静かで抑揚の少ない声が、サリアから返って来た。色艶を失った声色は、寂しさと共に責めるような響きを含んでいるように感じられる。むろんそれはアルマーナフの考えすぎなのだが、今はそれが彼の重荷を減らしてくれた。


「俺のせいなんだ。俺が殺した奴の父親が、復讐のために送り込んだ騎士なんだ。俺がいなければ、ここに来なければ、留まらなければ、みんなは死なずに済んだはずなのに」


 サリアは立ち上がると振り返り、アルマーナフを睨んだ。当然だとアルマーナフは思う。けれど彼女が怒っているのは、別の事だった。


「あなたがいなければ、誰かがコルダさんを殺さなくてはいけなかったかも知れない。あなたがいなければ、ラナはあんなに楽しそうにしなかったかも知れない。あなたがいなければ――!」


 言いかけて、サリアは言葉を呑み込んだ。これは言うべきではないと、咄嗟に思ったのだ。

 あなたがいなければ――最後の一人が孤独に死んでいかなくてはならない、と。


(どんな権利があって、彼をここに縛り付けておけると言うのでしょうか)


「サリア?」


 突然黙ったサリアに、アルマーナフが問い掛けてくる。サリアは俯き、彼の目を見ることが出来なかった。見てしまったら、不器用な優しさにすがってしまうのがわかっていたのだ。

 手に入れても、すべては消える。もう、手の中にある宝物が幻なんだと知ってしまったから……。

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