第十五話 代償
夜が明けた。昨晩から、サリアは一睡もしていない。とうとうラナにも、発作が起きたのだ。覚悟はしていたことだが、現実に目の当たりにすると耐え難いほどの痛みが心を刺した。
なぜ自分ではないのか……メリルは自らを責めるように、かろうじて細い糸で繋がっているだけの状態だった。今は自室で休んでいる。錯乱状態だったメリルは、落ち着かせるために飲ませた薬の影響もあって虚ろであった。代わりにサリアが、ラナの様子を見守っていたのである。
まだ本格的な発作ではないのだろう。苦しげに呻いていたラナは、今は静かな寝息を立てている。しかし予兆が出た以上、油断はできなかった。
「少し休んでください。交代しましょう」
オルネアが顔を覗かせ、サリアにそう声を掛けた。
「まだ大丈夫です、神父様」
「無理はいけません。せめて何か口に入れてください。そしてできれば、メリルにも何か食べさせてあげてください」
「……はい」
やむを得ず頷いたサリアは、キッチンで食事を作るため部屋を出た。その後ろ姿を見送り、オルネアはサリアが先程まで座っていた椅子に腰を下ろす。
「報い、でしょうか……」
呪いから逃れるように生き延びた事が報いなのだとすれば、これ以上の苦痛はない。長く生きれば生きるほど、多くの死に立ち会わなければならないのだ。
「だとしても」
オルネアは神に祈りたい気持ちだった。成り行きとはいえ、神父様と呼ばれている。もしもこの声が届くのなら、この幼い子を救って欲しい。
だが、そう願ってからオルネアは気付く。
(今を生き延びて、意味があるのでしょうか。自分がそうであるように、ただ、苦い思いを積み重ねるばかりなのだとすれば、本当の救いとは何なのか)
呪われた時点で、すでに神にすら見放されているのに等しい。ならば祈ることに意味などないだろう。
(信じるものすら失ったら、我々はどうやってこの世を生きていけばよいのでしょうか)
信じる気持ちは、人の心の支えだ。肉体を支える背骨のようなものである。
(神を失い、ならば何を信じればいい? この世界に、信じるに値するものなど存在するのでしょうか?)
何のために生きるのか。子孫を残すことも出来ない生命の、存在理由が見つからない。オルネアは溜息を吐く。
「絶えるべき望みもなく、淀んでゆくような生の先には――」
言いかけて、オルネアは言葉を飲み込んだ。口にした瞬間、すべての感情が溢れ出しそうな気がしたのである。
窓の外に目を向けた。どんよりとした灰色の世界に、希望を見いだすことは出来そうになかった。
水の枯れた噴水に腰掛けて、アルマーナフはぼんやりと空を眺めていた。ラナに起こった事を聞いたが、自分に出来ることは何もない。胸の奥を締め付けるような不安感を抑えながら、アルマーナフは落ち着かない様子でうろうろ歩きながらここまで来たのだ。
エリーナとエルリッドの二人も、すぐそばにいた。いつもの明るさはなく、祈るようにうつむいている。アルマーナフは掛けるべき言葉が見つからず、ただ、その様子を見ていることしかできなかった。
他人と関わることなど、ほとんどない人生だったのだ。労りの言葉が、思い浮かぶはずもない。ましてや子供の相手など、想像すらしたことはなかった。
(思えば、殺すことの何と容易いことか。生かすことに比べれば、稚拙な遊戯のようだ)
引き金を引けばいい。あるいは、思うままに殴り、切り刻めばいいだけだ。超えるべき一線さえ過ぎれば、悩むことも考えることも必要ない。
アルマーナフは自分の手を見る。何度も見たこの手は、以前よりも荒れ、汚れて見える。けれどそれは、誇らしさでもあった。大地の恩恵を受け取るための、代償だ。
血の匂いは、薄らいだだろうか。何となしに手を鼻に近づけかけ、アルマーナフは動きを止めた。
(誰かいる……)
視界の端に、見覚えのない男の姿が映った。木陰に身を潜め、こちらの様子を伺っている。誰かが間違って紛れ込むことなどありえない場所だ。だとすれば、何らかの意思を持って来た者だろう。
(普通の格好をしているが、動きに無駄がない。訓練を積んだ者の動きだ)
甲冑こそ身につけていないが、おそらく騎士団の一員に違いない。そしてそんな人物がここに来た理由は、アルマーナフには一つだけしか思いつかなかった。
(呪いで死を待つ人々に、貴族がわざわざ騎士団を送り込むわけがない。だとすれば、狙いはやはり俺か……)
大勢の貴族を殺して来た。騎士団を差し向けるほどの恨みを買っていても、おかしくはない。たぶん、あの男は偵察だろう。
(今はここで、騒ぎを起こしたくはない)
アルマーナフは瞬時にそう判断し、立ち上がった。
「ちょっとトイレに行ってくる」
二人にそう声を掛け、アルマーナフは男が潜んでいる場所とは反対の建物に向かって歩き出す。子供たちは上の空で、気にした様子はない。
ゆっくりと歩きながら、アルマーナフは男の死角に入る。そして素早く、建物の裏に走り込んだ。他に誰か潜んでいないか確認しつつ、さきほどの男の背後に回り込む。枯れ葉を踏まないように注意しながら、男に近づいていく。まだアルマーナフには気づいていない男は、子供たちのいる方を見たまま動かない。
アルマーナフはゆっくり近づきながら、落ちていた細長い石を拾う。その石の少し尖った先を指で確認しつつ、一気に男との距離を縮めた。
「動くな」
「――!」
アルマーナフは尖った石の先を男の首筋に当て、耳元で囁く。男は身を強ばらせ、咄嗟に腰に手を伸ばした。だが掴むべきものが何もない事に気づき、ただ拳を握る。
「頷くか、首を振るかで質問に答えろ。お前は騎士団だな?」
「……」
男が小さく頷く。
「狙いは俺か?」
再び男は頷いた。予想していたことだが、アルマーナフは諦めるように息を吐く。と、男が横目で何か言いたげにアルマーナフを見てきた。
「大声を出したら殺す」
その言葉に男が頷き、アルマーナフは首筋に当てた石を少しだけ離してやる。それで男は安堵したように、肩の力を抜いた。
「俺の役目は、他の者に見つからぬよう、お前をある方のところに連れて行くことだ」
「ある方? 雇い主だな?」
「そうだ。実は壁のこちら側に来ている。この先に抜け道があるのだ」
アルマーナフは黙って頷いた。抜け道というのは、以前に行ったあの場所だろう。この壁の内側の人々にとって、生命線とも言える秘密の場所だ。とはいえ、誰にも知られずに隠し通せる場所でもない。知っている者がいたとしても不思議ではなかった。
「そこに俺を連れて行くと?」
「ああ……理由までは知らない」
「……わかった」
迷いもあったが、このまま放っておいてもよい問題ではない。アルマーナフは噴水のそばのエリーナとコルダを見て、覚悟を決めた。