第十四話 少女
朝、いつも目が覚めると不思議な思いに囚われる。それは、幼い少女には表現のできない、不思議な気持ちだった。夜の寂しさとは別の、正体の知れない「怖さ」だ。ぐずるように鼻を鳴らし、もそもそと布団の中に潜り込む。そして、自分の膝を抱え込むようにして丸まった。この格好は、どこか安堵感を抱かせた。布団の柔らかな温もりが、心地よい。
少し前までは、母親と一緒に眠っていた。いつ頃、そう意識しだしたのかわからなかったが、独りで眠るのが当然のような気がして母親に告げたのだ。その時の母親の、ちょっと嬉しそうな、ちょっと寂しそうな顔を時々思い出す。
自立という言葉の意味は、まだわからない。けれど無意識的に、自分を姉や母と同列に捉えるようになっていた。心のずっと奥の方で、母性愛に似た柔らかな気持ちが育まれている。それが、彼女には何となくわかった。
小さな、その光のような気持ちは、なんだか自分の身の回りにいる人々を愛おしいと感じさせる。顔を思い浮かべれば、朝の不思議な思いはあっというまに霧散した。
少女は寝起きの猫のように身体を伸ばし、小さな欠伸を漏らす。それを合図に元気よく起き出して、朝食の準備をしているであろう母親の元へ駆けだした。染みついた生活の匂いが、どこか懐かしさを呼び起こす。混じり合う、朝食の香り。いつもと変わらない母親の背中を見つけて、少女は嬉しそうに微笑むと両手を広げて抱きついた。
「おはよ~」
「おはよう、ラナ。ちゃんと一人で起きられたのね。偉いわよ」
得意げにニンマリすると、少女はしがみついたは母の脚に顔を押しつけた。優しい匂いが、少女を嬉しくしてくれる。
「もうすぐご飯ができるから、顔を洗ってらっしゃい。一人で、できるかな?」
「うん! できるよ!」
少女は、外にある共同の井戸に向かった。井戸はいくつかあるが、ほとんどが涸れてしまったか塞がれている。現在使っているのは、少女の家から一番近い共同井戸と、教会にあるものだけだった。
井戸の前には、姉と男の子がいた。姉は、あの男の子と仲が良かった。少女も彼のことを兄のように慕ってはいたが、少しだけ遠慮もあった。甘えられるほど、男の子はオトナではない。
二人に挨拶をして、姉が水を汲んでくれた桶に手を入れる。澄んだ水は冷たく肌を刺す。ためらいながらも、少女は何度か水を掬って顔を洗った。
姉の差し出したタオルで顔を拭き、コップに汲んだ水で口をすすいでいると、大きな姉がやってくるのが見えた。
「サリアお姉ちゃん、おはよう!」
やはり気付いた姉が声を掛け、少女はニコニコしながら大きな姉に駆け寄った。大きな姉は少女に気が付くとその場で屈み、身体の真ん中で抱き留めてくれる。
「おはよう、ラナ」
「はよ~」
甘えるように、大きな姉の胸に鼻先をこすりつける。母とは違う、甘く優しい匂いがした。
大きな姉は、少女にとってもう一人の母のような存在だった。だが、母ではないことくらいわかっている。母は少女が悪いことをすると怒るが、大きな姉は悲しそうな顔をする。怒られるのは嫌だが、誰かを悲しませるのも嫌だった。特に大きな姉は、誰もいない時にとても悲しそうに見える。自分の存在に気が付くとすぐに、いつもの優しい笑みを浮かべてくれるが、何だかスッキリしない気持ちになるのだ。
笑っていて欲しかった。身近な人みんなに、笑っていて欲しかった。
大きな姉に手を握られ、再び井戸の側に戻る。大きな姉はすでに顔を洗っていたようで、井戸の前で姉と男の子を相手に話を始めた。誰かを待っているのは、すぐにわかった。それは、最近の日課になっていたからだ。少女の心が弾む。待ちきれないように、少女は広場の噴水まで走った。背後で姉たちの呼ぶ声が聞こえたが、少女の気持ちは前にしかない。水のない噴水の前で座り、その道をじっと見る。教会に続く道、そこから待ち人はやって来るのだ。
やがて、小さな話し声と共に二人の男性が歩いてきた。少女はその一人に向かって、全力で駆け出す。
まだ少し戸惑いの残る、けれど優しい腕でしっかりと抱き留めてくれた。最近出来た、少女のお父さんだった。
大切な人たちに順列はつけられないが、『お父さん』はやっぱり少女にとって特別な気がした。その腕に抱かれていると、あらゆる不安が消えてしまうのだ。胸の奥が、日差しの良い日のようにポカポカしてくる。
自分の身体をしっかりと抱く腕の力を感じながら、少女は柔らかく微笑んで目を細めた。そして手を取り、賑やかな朝食の場所へと歩き出した。
夕方の空気は、どこか寂しい。走り回って疲れた身体をお父さんに預け、少女はいつの間にか眠ってしまった。夢の中でも、元気に走り回る自分がいる。辺り一面に、黄色い『ポンポ』が咲いていた。まだ見たことはなかったが、黄色い花はやがて白くなるという。そして風にのって、新たな命を生み出すのだそうだ。
いつか、それを見たいと少女は思った。もうすぐ、見ることができるかも知れない。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。少女は、感じるままに走り出す。夢の中で笑いながら、どこまでも遠くへ行ける気がした。けれど、突然痛みが走った。
暗闇が、泉のように地面から湧き出す。直感的に、『嫌なもの』と感じた。触れてはいけないものだ。
「お父さん!」
少女は叫んだ。大きな背中が優しい、大好きなお父さんを捜した。
「お母さん! お姉ちゃん!」
みんなを呼んだ。でも、誰も応えてくれない。そうしているうちにも、溢れる闇は『ポンポ』を呑み込んでいく。
痛みと不安が、少女を包んだ。胸の奥から、呻くような声が聞こえる。それは自分であり、自分ではないものだ。何かがゆっくりと生まれようとして、自分の身体を引き裂いていく気がした。
「怖いよ! 誰か、助けて!」
すがるものはない。小さく膝を抱え、少女は丸くなった。獣の声が聞こえる。
自分じゃないものが、自分を乗っ取ろうとしているのだ。少女は抗った。
見たことのない青空が、視界を埋める。透明な青の中に、小さな白い点があった。純白の、穢れを知らない白い蕾。少女は、掴むように手を伸ばす。けれど、まぶしい光の中に消え見ることができなくなった。
暗闇がすべてを覆い、やがて少女は夢の中で眠りにつく。眠ればきっと、朝が来る。朝になれば、またみんなと会えるのだ。少女は頑なにそう信じ、不安を耐えるように無理矢理微笑んで、意識を閉じた。
後片付けを終えたメリルは、娘達の様子を見に向かった。姉のエリーナはまだ起きていて、サリアに教わっている文字の勉強をしていた。手紙を書きたいのだと、以前に話していたのをメリルがサリアに伝えたのだ。正直、メリルは読み書きが得意ではない。
誰に書く手紙なのか気に掛かったが、恥ずかしそうに頬を染める仕草とエルリッドに対する態度を見ていれば、何となく想像はつく。微笑ましく思いながら、メリルは次に妹のラナの部屋に向かった。
お父さんが出来てからのラナはとにかく元気で、今日も遊び疲れてしまったようだ。部屋を覗こうとして、メリルは思わず手を止めた。ラナの部屋から、低い呻き声が聞こえたのだ。嫌な気持ちに駆られながら、そっとドアを開けてみる。
「ラナ!」
ベッドの上で、苦しそうに喉を押さえながらラナが身をねじらせていた。
発作が起きたのだと、すぐにわかった。