第十一話 幸福
肌寒さに、目が覚めた。ベッドからずり落ちた布団は、かろうじて肩に引っかかっているだけだった。アルマーナフは重い頭を振って、丸窓から差す淡い光を見た。もう、朝なのだろうか。緩慢な動きで部屋から出ると、トイレを済ませてから顔を洗うための水を木桶に溜めた。
澄んだ、冷たい水。両手をその中に入れて、すくった水で顔を洗った。二、三度ほど繰り返し、アルマーナフは自分の両手を見つめる。畑仕事を手伝うようになり、以前にくらべてゴツゴツした手になった。男らしい手だと思う。どこかに、誇らしさもあったのかも知れない。素朴だが、懸命に生きている証のように思えたからだ。
そっと両手を顔に近付け、彼は匂いをかいだ。最近ようやく染みついてきたはずの土の匂いはせず、生臭い、かつての彼から発せられた錆び付いた血の匂いだけがする。
両手を木桶に入れて、すり合わせるようにして洗った。指先から付け根まで、丹念に洗った。けれど、洗えば洗うほど、心が焦った。石鹸は貴重だったが、たまらず持ち出して泡立てた。それでも心配になり、そばにあった軽石で強く擦る。
水の冷たさと、あまりに擦るため両手は赤くなってしまい、それが余計にアルマーナフの気持ちを激しく動かした。だが、軽石で擦るうちに今度は本当に皮膚が裂けて血が滲んだ。すると、もっと気持ちが焦ってしまい、アルマーナフは大声で叫ぶと、土間のむき出した地面を殴りつけた。一度では足らず、もう一度殴る。すると、さらに心が渇望するのだ。
意味のない言葉を叫びながら、アルマーナフは何度も地面を殴った。手は擦り傷と裂けた皮膚から、血で染まっていた。何度、そんなことを繰り返しただろうか。突然、サリアが飛び込んで来た。
「アルマーナフさん!」
必死の形相で彼の腕にすがりついたサリアは、強い力でその動きを停止させた。ノロノロと顔を動かして彼女の泣きそうな顔を見た時、アルマーナフの中で我慢していたものが溢れ出した。ポロポロと涙が溢れ、食いしばった口からは嗚咽が漏れる。
もう、たくさん泣いたはずなのに、それでもアルマーナフは泣くことを止められなかった。サリアは優しく彼の頭を胸に抱いて、何も言わずに背中を軽く、何度も叩いた。
「ごめんなさい……」
サリアが、静かな声で謝った。顔を上げたアルマーナフは、問いかけるように彼女を見る。
「辛いことを、させてしまいました。仕方がなかったとはいえ、あなたにコルダさんを殺させてしまった」
泣きながら、アルマーナフは首を振った。
「そうじゃない……そうじゃないんだ」
鼻をすすり、涙を拭ったアルマーナフは、視線を逸らしてゆっくりと話し始めた。
「俺は、人殺しだ。一人や二人どころじゃない。みんなが考えてるよりもずっと残酷で、非道な事を幾度となく繰り返して来た。年齢も性別も関係ない、ただ、そこにある邪魔な置物を衝動的に壊すように、多くの貴族たちを殺して来た。俺は、平気で、笑いながら命を奪って来たんだ。人間らしさなんて、とっくに失って、今の自分は空虚な肉の器でしかない。だから、コルダを殺したのだって、本当は平気なんだ……」
ずっと、わからなかった。なぜこれほど心が騒ぐのか。あの夜、エルリッドが母を殺して欲しいと訪れた時からずっと、上手く言い表せない気持ちがしこりのように残っていた。その理由が突然、コルダの命を奪った瞬間、溢れる涙とともに形を持ったのだ。
「ずっと幼い頃、たぶん、ラナと同じくらいの頃だった。暇をつぶすためだけに、両親が貴族たちに殺された。裸で寒い中を一人歩きながら、俺は復讐を誓ったんだ。生きるために他人を傷付け、怒りを抑えるために貴族を殺した。俺の人生は、そんな事を繰り返すだけの暗いものだ。排泄物と動物が死んで腐った臭いがする路地裏で、膝を抱えながら盗んだパンをかじり、両親のことを思い出す。記憶にはほとんどなかったが、思い出はいつも優しくて、暖かくて、もし二人とも生きていたなら、どれほど幸せだったのだろうかと考えた。けれどいくら考えたところで、全部妄想でしかない。両親は死んで、どこにもいない」
思い出したようにアルマーナフは、サリアから少し体を離した。
「俺は、甘えていたんだと思う。これは復讐なんだ、俺は両親を殺されて沢山の苦労をして、あたりまえの幸せすら感じることもなかった。だから、貴族に復讐するのは当たり前で、全部、仕方がないんだ……そう心に言い聞かせて、殺戮を正当化したいと思っていたんだ。本当に悪人になりたい奴なんていない。みんなどこかで、理由を探してはそこから抜け出すことも出来ずにいたんだ」
だから、嫌だった――アルマーナフはサリアを見た。透き通る瞳に映る自分が、別人のように思えた。
「片親でもちゃんと生きてそばにいるのに、幸せじゃないなんて嫌だった。幸せであって欲しかった。そうじゃないと、無軌道に生きてきた自分がとても惨めに思える。夢見ていた幸せが、壊れてしまう気がして怖かった。親のいる子供が不幸になったら、親のいない子供は何を夢見て、何にすがって生きればいい?」
再び、涙が溢れた。サリアの目を見つめたまま、アルマーナフは泣いた。
「願った。だから、願った。いずれ死ぬとしても、幸せであって欲しいと。せっかく生きてそばにいる母親を殺すとか、自分から死にたいとか、そんなこと言って欲しくなかったんだ」
うつむく彼を、サリアは抱きしめた。驚いて身を離そうとするアルマーナフを、彼女は強く抱いて耳元に口を寄せた。
「とても……穏やかな顔をしていましたよ。コルダさんは、幸せな夢を見て眠っているみたいに、とても穏やかで、優しい顔でした。エルリッドも泣いてはいましたが、どこか、安心したようにも見えました。二人が幸せだったのか、それは私にもわかりません。きっとそういうものは、他人が知ったり理解したりすることなど出来ないのかも知れませんが、それでも私は二人が幸せだったと思います。コルダさんは自分を取り戻して最後を迎えられたんです。それに、そのことで心を痛め、泣いてくださる方がいるんですから」
サリアは、彼の名を呼んだ。
「今度は、私が願います。どうか、あなたの心に安らぎが訪れることを」
胸に響く鼓動は、誰のものだろうか。これは何かの、芝居なのかも知れない。伝わるぬくもりと、仄かな甘く切ない香りに、アルマーナフはどうしたらいいのかわからなくなっていた。硬直して動かない体は、破裂しそうなほど激しい血流によって熱を帯びた。
母親の遠い記憶ではない。ジンと広がる温かさに、彼は戸惑っていた。あれほど悲しかったはずなのに、別の感情が心を乱した。彼をその闖入者を追い払い、コルダを思う。
――ありがとう。
それはたぶん彼が記憶する限り、生まれて初めて言われた言葉だった。お礼なんて、言われることがあるなどと思わなかった。とても恥ずかしく、けれど甘くくすぐったい気持ちの言葉。
今の自分は、きっといつもの自分じゃない。ならば、初めての言葉を二日続けても構わないのではないか。アルマーナフはかすれて声の出ない口を、そっと動かす。
ありがとう……。
今はまだ伝えられないその言葉を、いつかサリアに伝えたいとアルマーナフは思った。