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第十話 感謝

 心配そうに覗き込むメリルの顔があった。体が重く、思うように動かない。(もや)がかった頭で、ようやく自分が拘束されていることを思い出す。意識が鮮明になったかと思えば、すぐにまた混濁した。それを夕べから、何度も繰り返していた。そういえば、あの男が忍んでやって来たはずだ。何もせず帰って行ったらしく、まだ生きている自分がとても悲しかった。

 死にたいわけではない。けれど、生き続けることに希望など見出せなかった。ならばいっそのこと、早く楽になりたい。

「どうしたの?」

 彼女が呻くと、メリルが耳を寄せた。トイレに行きたいことを告げると、少し困った顔になる。病気でもないのに下の世話を頼むのはとても惨めだと彼女が言い、メリルは仕方なく拘束を解き、まだおぼつかない足取りの彼女を支えてトイレに向かった。

 彼女は個室の中で壁にもたれ、スカートと下着を降ろすと便座に座る。ほっと息を吐き、排泄を行う。体の力を抜き、頭を抱えて目を閉じた。出て行く汚物に反し、胸の裏側で何かがへばりついているのがわかる。それはとても不快なもので、吐き気を呼び起こした。

 下半身にずんと重く何かが引っかかるような感覚があり、それがうねり暴れるようにして脳天まで昇る。内側で暴れる正体のわからぬものは、激しい痛みと苦しみを宿主に与えた。

 彼女は、座っていることすら辛い全身の苦しみに、低く呻いた。

(タスケテ……)

 言葉にならぬ声が、そう告げていた。嫌な感覚だけが、じわじわと心と体を浸食する。正常な意識を保つのが難しいほど、激しい不快感に彼女は何度も嘔吐した。しかし出るものが何もなく、ただ、こみ上げる吐き気に身を震わせて前屈みに倒れ込む。

 強く爪を立て、床の板を引っ掻いた。苦しくて、苦しくて、涙と涎が溢れても、吐き気は止まない。嘔吐反射だけが繰り返され、やがて寒気に襲われた。

 全身が震え、意識がモヤがかりハッキリとしない。自分が壊れてゆく――明確にそう感じながら、彼女は迫り来る闇に抗った。思い浮かぶ夫の顔、そして大切な一人息子のエルリッド。一瞬、暖かなものが胸に広がるが、すぐに消えてしまう。

(神様!)

 彼女は祈った。何でもよかった。救ってくれるものなら、すがれるものなら何でも良かった。自分が自分であるうちに、誰でもいい。

「殺して……ください」



 アルマーナフたちが戻ってくると、髪を振り乱したメリルが走り寄ってきた。

「コルダさんが……ああっ! 私が拘束を解いたから!」

「落ち着いて、話してください」

 オルネアが優しく声を掛けると、ようやくメリルは落ち着きを取り戻し始めた。息を整えたメリルの話によれば、トイレを出た直後にコルダが突然暴れだし、押さえ付けるメリルを突き飛ばして奇声を発しながら外へ走り出て行ったらしい。外では子供たちが遊んでおり、エルリッドが声を掛けると、まるで怯えるように両手を振り回して森の奥に向かい、それをエルリッドが追いかけたのだと言う。

「ともかく、コルダとエルリッドを探しましょう」

 メリルのことはサリアに任せ、アルマーナフとオルネアは二手に分かれて探すことにした。アルマーナフは無関係だと言って断ることも出来たが、何故かあの親子の顔が脳裏に浮かんで離れなかったのだ。

 母親を殺して欲しいと頼んだ息子、自分を殺して欲しいと願った母親。もしあの夜、自分がコルダを殺していればこんな騒ぎにはならなかっただろう。しかし、そうすることがどうしてもあの親子の幸せになるとは思えなかったのだ。

 だが、それはとても奇妙な感情だったのかも知れない。多くの命を簡単に踏みにじって来た自分が、何を今更、他人の幸せを心配しているのか。アルマーナフは、胸の奥で見え隠れしている気持ちに、心を乱した。これは、何なのか。

 そんなに死にたいのなら、殺してやれば良かったのに……舌打ちをしたアルマーナフは、薄暗い木陰で蠢くものを見つけた。目を凝らすと、それはエルリッドに馬乗りになり首を絞めているコルダだった。

 アルマーナフの中で、何かが震えた。瞬間、溢れ出る感情に押されるように走り出す。そして、そのままコルダに体当たりをした。もつれて腐葉土の上を転がったコルダは、アルマーナフを突き飛ばして後ろに飛び退く。

「母ちゃん!」

 対峙するように、エルリッドが立ち塞がる。その手には、刃渡り三十センチもの刀が握られていた。あれは、アルマーナフが持っていたものだ。適当に放りだしておいたが、それを持ってきたようだった。

「お、俺が、楽にしてやるから――」

 震える、今にも泣きそうな声でエルリッドが言うが、コルダはもう自分の息子を認識することすら出来ないらしく、歯を剥いて低いうなり声をあげるだけだ。

「おい」

 アルマーナフが声を掛けると、エルリッドは一瞥し、小さく応えた。

「ごめんなさい。俺、逃げてた。怖くて、逃げていたんだ。一番重要なことを他人に任せて、それで安心しようなんて……俺、バカだ。だから、自分の手でやる。自分の手を汚してでも、母ちゃんを助ける」

「母親を殺して、何を助けるって言うんだ」

「だって、わかるだろ? もう、どうしようもないんだ。もう、俺のこともわからなくなったんだもの」

 血が滲むほど、アルマーナフは唇を噛んだ。

「何だって言うんだ」

 吐き捨てるように呟くと、アルマーナフはエルリッドの手から刀を奪い取った。

「あっ!」

 代わりに、アルマーナフが刀を構えて対峙する。

「下がってろ」

 何故、自分がこんなことをしているのかわからなかった。上手く表現することの出来ない激しい感情が、彼の中で暴れ回っていた。

「俺はな!」

 久しぶりに出す大声。奥底から込み上げる想いを、アルマーナフは叫んだ。

「神様じゃないんだ!」

 コルダが走った。同時に、アルマーナフも地面を蹴る。突進するコルダを、彼は全身で受け止めた。激しく頭突きを交わし、唸る喉元に刀を押しつける。

 コルダは刀を持つアルマーナフの腕を掴み、反対の腕はアルマーナフが掴んだ。そのまま力が拮抗し、わずかに震えるばかりでどちらも動かない。

「くっ……」

 アルマーナフは大きく首を反らせ、力いっぱい頭突きをする。何度も、何度も繰り返し、自身の意識も一瞬、遠のきかけた。それでも止めず、やがてコルダが体を仰け反らせ、そのまま腕を掴み合ったまま倒れ込んだ。コルダの上に、アルマーナフが馬乗りになる。刀でこすれ、コルダの首筋に血が滲んでいた。

 力を込め、刀を横に引けば命を奪える。それは今までのアルマーナフには簡単なことだった。しかし、心に引っかかる何かがそれを躊躇(ためら)わせた。すると、その迷いがまるで伝わったかのように、コルダの体から力が抜けた気がした。驚いて顔を見ると、さきほどまでの獣のような表情ではない。優しく、暖かな母親の眼差しで、じっと彼を見つめていた。

 ありがとう……。

 乾いた唇が、そう動いた気がした。瞬間、アルマーナフは刀を横一線に引いた。溢れ出る鮮血で染まる視界は涙で滲み、走り寄るエルリッドの姿が(かす)んだ。

「そんなのは……ずるい」

 よろよろと立ち上がりながら、アルマーナフは刀を落とした。そして、まるで初めて人間を殺した時のように、声を上げて泣いた。

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