第一話 獣
大地を覆うように点在する橙色の光は、人々の営みを示す街の明かりだった。人々は息をひそめ、小さな炎の明かりだけが救いのように、ゆらめきを凝視し、手をかざして暖を取りながら長い夜を過ごす。
カーテンの隙間から覗くそれの姿は、見る者に畏怖嫌厭の情をいだかせる。ゆえに彼らは、表に出ることを好まなかった。
闇の中で行く手を遮るようにそびえるエルハー山の頂、それ自体が発光しているかのように真っ赤な幹を不気味に浮き上がらせた呪木は、支配者のように暗雲の冠をいただく。弾幕のように厚い雲は昼夜を問わず空を隠し、昼間でも嵐の前のような薄暗さだった。その巨大な木がいつからあるのか知るものはないが、空の暗雲が晴れないのは呪木のせいだと信じられている。
「アルマーナフ」
名前を呼ばれて、黒髪の精悍な男は窓から室内に視線を移動させた。そこには、目を覆いたくなるような凄惨な光景が広がっている。癇癪を起こした子供が、人形を滅茶苦茶に壊してしまったかのような、野のケモノですらもう少し上品だろうと思えるほど、無残に刻まれた人体の部位が散らばっていた。それはどこか、滑稽にすら思える光景だった。
そんな中で、金髪を無造作に伸ばした男が、壮齢の男の、頭髪の薄い頭に銃口を押しつけていた。窓際で外を眺めていた彼――アルマーナフを呼んだのは、その金髪の男のようだ。
「こいつ、どうするよ?」
金髪の男が尋ねると、アルマーナフは刃渡り三十センチほどの刀をプラプラさせながら、楽しそうに笑った。
彼は殺戮が好きだった。金を奪うのは二の次で、欲しいのは貴族たちが見せる醜い生の執着心だ。いつもは貧乏人を蔑むような目で見る連中が、泣きながら命乞いをし、命令せずとも彼の足にしがみついて靴にキスをする。媚びる眼差しでアルマーナフを見上げ、自分の妻や娘を躊躇なく差し出す者までいた。
アルマーナフはそんな貴族の惨めな姿を見るのが、楽しくて仕方がなかったのだ。取り繕った幸福をはぎ取り、醜い真実をさらけ出す。それこそが、彼の喜びだった。
「俺は金目のものを探してくるぜ」
金髪の男が肩をすくめて部屋を出てゆくと同時に、眉をひそめたくなるような断末魔の叫びが響いた。
貴族たちの屋敷が並ぶ中心部を抜けて、小さな民家が軒を並べる区画の先には、エルハー山へと続く広大な森林が広がっていた。そこはかつて、まだ世界に青空があった頃に狩猟場として多くの人々が出入りする所で、貴族の別荘も湖の周辺に建ち並んでいた。
現在そこは収容所のような高い塀に囲まれて、近付くものはない。この塀が造られたのは、もう百年近く前、最初の部隊が呪木の伐採に失敗してから一年ほど後のことだ。
青空を奪った憎き呪木を切り倒そうと、意気揚々、若き兵士たちがエルハー山の頂に向かったが、部隊はほぼ全滅で、生き残って街に戻った者もまもなく息を引き取った。そればかりでなく、部隊に参加した兵士の家族や恋人まで後を追うように、命を失ったのである。
彼らのその、あまりに不可解で恐ろしい最後に、人々は呪木の呪いだと噂した。呪木という呼び名は、その頃に付けられたものである。
以後、数度に及ぶ部隊の投入で、いくつかのことが判明した。まず、呪木を切ると、自身の体に切られる痛みが伴うということ。そして、呪いは木を傷つけた者と、その人物が心から大切に思う者に及び、命を奪うということだった。
それらが判明してからは、呪木を切ろうと考えるものはなく、長い時間だけが陰鬱と過ぎていったのである。
ところが一年前、ある貴族が志願者を募って部隊を編成、呪木の伐採に向かったのだ。結果は今までと同じ、部隊は全滅し、残された家族たちが呪いに侵された。しかし今までと異なったのは、「呪いが伝染する」という風評が流れたことだった。最初は嫌がらせに始まり、やがて暴動にまで発展しかけた騒動を収める方法はただ一つしかない。
この時点でまだ生きていた家族たちは、本来立ち入りを禁じるために造られた塀の向こうに、隔離された。
アルマーナフは、高い塀を見上げていた。この塀は、夢と現実を隔てるものだ……彼はそう思う。善を成そうとした者が、悪を成さない者に追われたのだ。その言葉以上に、両者の違いは大きい。
「遅いぞ、ロアード」
近付く足音に、振り向きもせずアルマーナフは言った。金髪の男は苦笑する。
「悪い。警邏隊の様子を探ってたんだ」
「ここには来ないさ」
二人は塀に付けられた、高さ一メートルにも満たない鉄の扉を開けて中に入る。この扉は非常口として造られたものだが、呪われた家族を隔離した時に開けられないよう厳重に施錠された。それを解錠し、自分たちだけが使えるように鍵を付け替えたのがアルマーナフだった。
この塀の中までは、警邏隊も追っては来られない。呪いを恐れて近付く者もないため、彼らが隠れるにはうってつけの場所なのだ。
エルハー山の麓に近い湖周辺は、別荘を利用して隔離された人々が生活している。二人はそことは反対の、森の奥にある洞窟で暮らしていた。
アルマーナフは川で汲んできた水で返り血を洗い流し、ロアードは盗んできた金貨を数える。ほとんど会話もなく、それぞれ思い思いに過ごし、やがて明け方近くに眠る。お互い、名前以外のことは知らないし、知ろうとも思わなかった。
静かな寝息だけが聞こえる中、ロアードがむくりと起き出した。小さくなった焚き火の炎を挟んで眠る、アルマーナフを見る。背中を向けている彼に、ロアードは足を忍ばせて近寄った。途中、壁に掛けてあった銃を取る。
銃口は心臓を狙い、ロアードは引き金を引いた。瞬間、眠っていたはずのアルマーナフは地面を転がり、側に置いていた刀を手にする。二発目の銃弾は肩をかすめ、足払いでよろめいたロアードが放った三発目は、飛びかかろうとしたアルマーナフの右太ももを貫く。
倒れたロアードに馬乗りになったアルマーナフは、彼の銃を持つ右手を切断し、そのまま刀を喉元に添えた。
「何が目的だ?」
アルマーナフが尋ねると、痛みに顔を歪めながらロアードは答えた。
「取引をした。警邏隊は、お前の首がどうしても欲しいらしい……」
「そうか。だが、残念だ」
彼が刀を持つ手に力を込めようとした瞬間、ロアードは左手に仕込んだナイフをアルマーナフの右腕に突き立てた。
「お前も終わりだ」
一瞬身を引いたアルマーナフは、その言葉が終わると同時に彼の喉を切り裂いた。吹き出す血を顔に浴びながら、ゆっくりと立ち上がるアルマーナフは、しかし急に足下をふらつかせて、壁に手を付いて体を支えた。
「くそっ、毒か――」
よろめきながら洞窟を出たアルマーナフは、霞む視界の中を進んで行く。夜が明けたとはいえ、森の中ということもあり夜のように暗い。意識も朦朧とし始め、勝手に動く足に、自分が何処へ進んでいるのかもわからなかった。