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輪廻と転生の砕き方  作者: 一沢


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1話 ———孤独な脱走———

 何故だろうか。言われるままに振る舞っていただけだというのに————いつもそうだ。お前が原因なのだから、お前が責任を取るべきだ。お前の考えが足りない所為で、こんな結果を生んだのだと。操り人形の主達は、すぐに操作板を手放す。


「わかっているのか!?自分がしでかした事の重大さを!!」


 俺を操った内の一人がそう宣った。


 こんなネクタイとワイシャツしか取り柄のない中年を信じた自分が悪かったのだろうか。だとしたら、この男の口車に乗った親も、俺と同じで随分と無能で盲目だ。


「聞いてるのか!?お前の所為で、皆は———」


「お前に言われた通りにやっただけだ」


 叩かれたのは頬ではなかった。確実に潰すつもりで耳を手の平で叩かれた。送り込まれた空気が耳に激痛をもたらし、キーンという頭蓋をつんざく耳鳴りが幾つも反響する。耳を庇う余裕も与えられず再度襟を掴まれる。


「適当抜かすな!!」


 優秀なのだからと、誰もが見て見ぬふりをしていた特別教育を今現在施されていた。優秀なのだからと、多くの人々の温情で生かされていたに過ぎない教師が唾を吐き、噛みつくように牙を剥いて叫び続ける。


「こんな場所で、ふざけた事を抜かすな!!いいか?俺はな!!」


 真後ろに佇む教育委員会の使者達が、何事かとざわつき始める。降って湧いた教育熱心な優秀教師の暴行騒動に、慌てふためくだけで————やはり、何もしない。


 これも教育。これも指導。だから何も起こっていない。


 そういう考えを持ち合わせているのが顔を見ただけで予想できた。少なくとも革靴から繰り出す轟音で履き慣れていないと予見していた。見ていないから何も問題ないのだと。


「全部お前の為に言ってやってるんだッ!!わかるか!?お前の将来キャリアの為にこうして時間をくれてやってる。この意味がわからないのか!!」


 鼻で笑ってしまう。生徒の手綱を握っていると豪語していた教師が、すがりつくように俺を殴り続ける。所詮、外聞だけを気にした役作り。三流役者だ。


「そろそろ離せよ」


 年上の、それも教師に対しての溜口など生涯で初めての革命ではないか。誰もが自分には頭を垂れると信じて疑わなかった教育者が更に拳を振るう。


 もう意識が遠のいてきた。片耳を失った事へのショックではない。殴られた衝撃が原因でもない。ここまでされている自分の目の前には、派遣された教育委員会の使者、熱血教師の勇姿を捉えようと踏み込んできたメディアのカメラ、そして————そして自分の両親がいた。だけど、誰も何も言ってくれない。


「聞いてるのか!?お前の為に俺は!!」


 きっと。今もこうして俺を殴り続ける男性が善なのだろう。だから自分が悪として映っている筈だ。社会を舐めている若者を、拳を使って粛清している大人の姿は煌々と輝いているに違いない。自分は悪役。主役はあちら。主役が正義。


 どれだけの三文芝居であろうと配役によってあらゆる行為は神聖なものとなる。


「聞いて下さい!!お父さん、お母さん!!私が、必ず彼の目を覚まして見せます!!」


「はい、どうか。どうか息子の目を覚ましてやってください‥‥」


 すすり泣く母親の姿が瞼に浮かぶ。


 手慣れた様子で何処からか取り出したハンカチを目に当てる。瞬きひとつで零れる安い涙の価値は、水晶体レンズ越しではわからない。頭を持ち上げている首の力が抜けていくと、頭を支える固い手を感じる————髪を掴み上げる鋭い爪を感じる。


「先生————このバカ息子は、あなたの手でないとわからないんです」


 そう言って、幾度も、人前であっても憚らず殴り続けた拳で掴み上げられる。


「いつもそうなんです。俺は言われた通りにやっただけと、人の所為にするしか能のない馬鹿なんです」


「お父さん‥‥心中お察しします」


 自分が考えて絞り出した答えなど、子供の浅知恵、お前には無理だと、一切取り合わなかった大人達が自分の頭の上で会話を続ける。視界が白く染まっていく現実にて、一秒が数時間へと変換されていく。この数年、まともに会話などしていない筈の大人達が、自分に値札を付けていく。———殺してでもいいから、言いたい事を言うべきだったのかもしれない。そんな後悔が潰された耳の中で渦巻き始める。


「皆様、どうかご覧ください。私達の息子の成長を。教育者の方々の手によって、昔のように素直で優しい子に戻る過程を。どうか、一緒に見てやって下さい」


 父であろう人物が、カメラに向かってそう訴え始めた。


 あくまでも私達は被害者。あくまでも悪漢は息子という他人。


「こんな不良になる教育など私達は施していません。わかっていたら決して生みませんでした。しかし、この子はもう生を受けてしまったひとりの人間です」


 赤く染まり始めた事で眼球の機能を幾ばくか取り戻せた。


 軽く使者達の方向を見れば————母と同じように涙ぐみ始めている。人が殴られる光景だけで感動とは。随分と緩い涙腺をお持ちだ。公務員に必須なのだろう。


「————くず共め」


 たった一言。たったの一言だけを空気と共に吐き出した瞬間。


 自分という悪に。教育者の慈愛という名の拳が再度降ろされる。









「————治ってる」


 空調の音に耳を澄ませて、耳たぶを叩く風の音を取り戻す。完全に潰されたと諦めていたが、なかなかどうして自分は頑丈だ。いっそ破裂してしまえば良かったのに。


 改めて部屋を見渡すと、どうやら教育の途中で自分は完全に意識を失っていたようで————パイプ椅子の背もたれの裏で手首を拘束されていた。


「手錠じゃないだけ温情だけど。締め付け過ぎだろう。鬱血して腐ったらどうする気だ。‥‥これも愛の叱咤だって言われるだけか。未成年を拘束して監禁なんて」


 恐らくはプラスチック製の結束バンドという、ある種違法な拘束の代名詞で止められていた。あれはドラマやスクリーンの中だけの話だと、誰も知らないらしい。


 外し方など楽な物だ。軽く天井に上げて、力任せに両腕を左右の斜め前に振り戻す。


「よし、外れた」


 鬱血の直感は正しかったようだ。手首に新たな血管のような跡が浮き上がっている。青黒く変色した腕は気分の良い物ではない。神に捧げる為と自己を鞭打っていた狂信者達を思い出す。


「打つなら自分にしろ。なんで俺を生贄にするんだよ」


 肩を回し、首の骨の位置を元に戻す。


「手首の次は首かな。————逃げないと」


 さしもの自分も自分の命は惜しい。脱走兵は銃殺刑と決まっているのかもしれないが、押し付けられた重責に耐えきれず倒れた彼の者も、突発的に赤の他人に頼ったのだ。自分だって偶然に祈ってもおかしくない。


 自分が意識を失っている間に移動させられていなければ、ここは校舎の筈だ。


「入った事ないけど、会議室って奴か?」


 ならば三階。最も眺めがいい場所を陣取るように設置された部屋だと確信する。


 記者会見をしているのなら、別館の体育館であろう。きっと今後の教育カレンダーを金科玉条と掲げているに違いない。プライドばかり高いから、いつも機を逃すのだ。


「獲物を放置して酒盛りなんて。逃げろって言ってるようなものじゃないか」


 久方振りの笑みを取り戻し、ドアノブに手を伸ばす。当然ながら鍵は掛けられているではありませんか。もしここで鍵のひとつもしていなければ、自分はどれだけ侮られているのかと落胆していた所だ。


「鍵はしてあるけど見張りもない。だから人の所為にいつもしてるんだろうけど。手抜きも慢心も、お前らくず共が持っていいほど安いものじゃない」


 何も考えず、淡々と従ったお前が悪いのだから我慢して「ごめんなさい」と言え。そうすれば誰もが納得する。お前が一方的に殴られていれば誰もが嚥下する。


 だから—————ここで死んでくれ。


「付き合い切れない」


 見張りがいないのなら好機だ。そう確信してドアを踏みつぶす感覚で蹴り破る。勇み過ぎてたたらを踏んで、更に物音を立ててしまったが尚も誰も来ない。


 久し振りに自分を誇れる時間を、存分に堪能している頃だろうか。人に煽てられる事の無い無能な親は、無い物ねだりの権化であった。その癖プライドだけは高いので始末に悪い。


 と、無駄な思考に脳を分け与えながら、歩き慣れた校舎を疾走する。身を守る為に廊下を走る事となるなんて、数か月前では予想だにしていなかった。


「とりあえず校舎から逃げないと」


 口元の血を袖で拭って、歯の数を舌で調べる。


「全部あるけど、寿命は短そうだ」


 歯茎を抉るように四方八方から殴られた所為だ。顎が変形してしまっている。噛み合わせが悪くて頭痛にも近い感覚を覚える。だけど、歩みを止める暇もない。


 階段に到着した時、手すりに隠れながら真下の階層を眺める。外部から訪れた大人達がタバコを吹かしていた。警報装置があるという当然の常識は持ち合わせていないらしい。


「別のルートを探さないと」


 口の中だけで呟いた言葉を咀嚼しながら階段から離れる。が、校門から出られる訳がないと改めてかぶりを振った。


「いつも警備員がいただろう。無理に決まってるじゃんか」


 愛想のない警備員達であったが、常に見張りをしている勤労者であった。自分というよく知られた顔を見つければ、肩と肋骨を折るつもりで取り押さえる現実は想像に難くない。


「なら壁から————」


 想像していなかった自分が悪い。ただ淡々と信じて、疑わなかったお前が悪い。


 だって、お前さえ我慢すれば誰もが快楽の絶頂シャセイを得られるのだから。


 窓の外を眺めて痛感した。もはや自分には味方はいないのだと。校舎中を埋め尽くす取材陣は勿論、教育評論家と鼻を持ち上げている芸能人。大切な友人を失った被害者の仮面を被る同級生達と、その父母の方々。更には大量の先生達。全て自分の最後を眺めに来ていた。


「———このままだと殺される。公開処刑の算段でも立ててたのかよ」


 現代において私刑などあり得ない。そんな常識を吐けるほど、彼らは正気には見えなかった。血走った目を持ち合わせ、生贄の肉と血を啜る時間は今か今かと待ち望んでいるのがわかる。熱狂した彼らの輪の中に入れば、自分は粉々になるまで圧迫される。


「どうしてだろうな。なんで俺が————」


 一体自分は何をしたのだったか。言われた通りに梯子、椅子、机といった資材を運んでいただけだというのに。運び込んだ教室で授業が執り行われる。それの手伝いを終えて、自分の教室に戻った後————何故か。そこは血の海と成っていた。


「あんな物の犯人なんて。俺には無理だ。どうみても他殺だったのに———」


 それぞれがそれぞれの腹を刺し貫いていた。授業で使うペンやカッター、ハサミであったり。記憶の中の類似品を探せば吸血鬼に打つ杭であったりで腹を捌いていた彼らには顔が無かった。恐ろしくなった自分は、自分が用意した教室に戻った。同じ光景が広がっていた。


「顔の皮一枚も残ってないなんて。おかしいだろう、どうして俺の所為に出来る‥‥」


 完全に脳裏に焼き付いてしまった。髪型や体型で、アレは同級生であったのだと判断を下せた。どうやったら自分の身も顧みず他人の腹を刺せる。どうすれば腹に刺さった杭を引き抜いて刺し返せる。どうやれば、あんなにも食い千切ったように。


「‥‥生き残ったから悪いのかよ。見たから口封じをしたいのかよ」


 この国にも公僕がいるのだから、第一発見者たる俺は保護されるべきだ。


 だというのに学校側は俺という存在は明かさなかった。心身共に衰弱していたとは言え、俺を隠した学校と親への不信感は真っ先に持ち得た。そして幾つもの緘口令を敷いた後、最後の処理を始めた。


「あくまでも学校は被害者。俺が犯人に仕立てるつもりか。無理に決まってる‥‥」


 そうだ。順当に現実的に考えれば到底不可能な濡れ衣だ。たった1人で何十人もの生徒を錯乱させて殺し合いを始めさせるなんて。だけど、こんな真っ当な推理すら今のアイツらには不可能なのだ。到底正気とは思えない。人の皮を被った化け物共が血を求めている。


「ダメだ。動かないと」


 いつの間にか膝を突いていた足で立ち上がり、廊下を走る。


 正門も通れない。裏門も無理な筈だ。裏門には教職員の駐車場が用意されている。撮影陣のマイクロバスも、恐らくあの場に停まっている。下手に顔を見せれば手柄と贄欲しさに捕まってしまう。


「校舎から外には出れない。だけど、それは今この時だけだ」


 俺が脱走した事実は、時が経てば気付かれる。そうすれば学校中の人間挙げての捜索が始まる。その光景は人狩り以外の何者でもない。刃片手に皮を求める鬼の行進は、怒りと血の酩酊によって扇動される。ならば、そう長い時間まで続かない。


「時間をやれば正気に、少なくとも数人が成る筈だ。そいつらが通報でもしてくれれば」


 望みは薄い。自分は今、吊り橋などとは比べ物にならない薄氷の上をたたらを踏んで進んでいる。他人に頼った所為で、こんな事態が巻き起こっているのに。


「無理矢理外に逃げるよりも可能性はある筈だ。少なくともこの状態になっても周りの家が通報しないなんてあり得ない」


 自分に出来るのは、慰めの言葉を自分に言い聞かせる事だけだった。泣きそうになる目元を振って校内で最も隠れるのに打って付けの場所を思い出していた。それは誰もが忌み嫌う場所。


「‥‥俺の教室に逃げよう。まだ掃除は全部済んでない」


 辺り一面を血で覆い尽くした凄惨なる現場。息を吸えば鮮血の香りがする殺人現場。


 幾らアイツらがまともな人間から離れてしまっていても、実際に死体が積み重なっていた場所は心理的に避ける。しかも、常に警察のkeep outのテープが貼られていたのだから。


 家のように感じられる校舎を抜け、別館たる現在から渡り廊下へと進んだ時だった。


「人の声‥‥」


 人を恐れる野生生物の気持ちとはこうなのだろうと漠然と悟った。


 人の息遣い一つで身が縮み上がり、肩と奥歯が震える。すぐさま腰を下ろして誰の物ともわからない視線から逃れる。しかし響くのは人の笑い声だけだった。


「なんなんだ‥‥どうして笑っていられるんだよ」


 視界が揺れ動くほどの絶叫だった。酒による酩酊ではない、何かに酔った人々の狂った笑い声に頭が締め付けられる。子供の甲高い声ではない、大人の喉による内臓に響く低い声の悦び。腹に抱えているものがなんたるか、想像が付かないとしてもわかる事がある。


 牙を覗かせる破顔が脳内にチラつく。始まる宴、血祭りに心を躍らせている。


「だからダメだろう。動かないといけないんだろうが‥‥」


 渡り廊下を這いずるように進み、校舎の外にいる視界から逃れる。声が遠くなった事で動くようになった足を使って本校舎2階にある自分の廊下へと進む。道中、やはり人々の嬌声にも似た怒号と笑い声に身を竦ませながらも、ようやく視界にテープが飛び込む。


「やった‥‥まだ解かれてない」


 滑り込みながら封鎖されている廊下に侵入し、扉へと手をかける。


「えっ」


 自分で自分の行為の愚かさを嘆こうとした時だった。鍵なんて閉めているに決まっている。触れた瞬間に思い浮かんだ可能性であったというのに、鍵は閉められていない。


 扉は床を滑りながら開かれ、今も天井まで飛び散った————死体袋の残っている内部を晒した。ぶり返す吐き気に口を抑える。臓物を内側から突き上げる感覚に取り憑かれ、血の固まったゴム床へと倒れてしまう。だけど、眼球だけは意に反して動いた。


「‥‥誰だ」


 未だに回収されていない死体袋が蠢いていた。擦れて鳴る音に意識が吸い込まれる。


「誰なんだ。何してるんだ」


 蠢いている理由は明白だった。死体が勝手に動く筈がない。動かす手がいた。


 それは紺色の服を着て、形をつけた硬い帽子を被っていた。一般人ではないと瞬時に理解出来た。だってそいつは腰のベルト以外にも別のベルトを腰に回している。声に気付いたそいつがゆっくりと振り返り、腰に下げた拳銃と警棒と金具で高い音を響かせる。


 警官だ。そう気付いたというのに自分の心拍は正常には戻らなかった。それどころか真っ先に頭に浮かんだ言葉は————殺される。頭を埋め尽くす危険信号に腰は応えてくれた。


「喰ってる‥‥」


 顔を埋めていた死体袋から、真っ先に見せつけられたのは赤く染め上げた唇だった。捕食を行う肉食獣のように全身で肉を貪った証に、口の端から溢れている血管と神経を啜る。手に持っているのは肉のこびり付いた骨。黒く変色した血は、滴り落ちながら床を屠殺場へと作り上げていく。或いは食事の場へと。


「‥‥まともじゃない」


 尻餅をついた格好から足をカエルのように縮こませて教室から逃げ去る。明るい廊下へと飛び出た途端に足の震えが弱まり、身体が自動的に元来た方向へと行方を変えた時だった。


 軽い短い音がこめかみから聞こえた。


 頑丈なコンクリートを貫通出来なかった弾頭が弾き返され、俺の腿へとめり込んでいる。


 痛みをも感じられない間隙の最中、頭を振ることのみを許された空間で自分は腿ではなく撃ち損なった警官へと視界を向けた。警官は腿など狙っていないのだと勘付いた。


 確実に頭を狙って撃たれた。


「こ、ころされる‥‥」


 廊下からの灯りで、ゆっくりと近付いてくる警官の持つ骨が肋骨であるとわかる。


 身体の前面を抑える頑丈で鋭い骨を、警官は警棒で叩き割ったのだと血に染まったそれで物語っている。そして無理矢理引き剥がしたのだと。人間業じゃない。人間の腕力では不可能な人体の解体を行っている。


「————に、人間じゃない」


 口は震えて動かないのに、意識だけは明確に持ち合わせていた。


 近付く警官の揺れ動く無線機が緩慢に見えてくる。今度こそはと、ハンマーを上げる親指の動きが止まって見える。心臓の鼓動さえ止まった世界だというのに、口に運ぶ骨の素早さには目を奪われた。先程まで食い千切っていたのは女生徒の屍肉だと自動的に想像する。


 腕一本を運ぶのは手間だと。先んじて解体していた胸と腹から取り出した骨だと。


 脳内で再生される無意味な映像を振り切る事など出来ない。銃口を突き付けて詰め寄る姿の中で、走馬灯を止める事など誰にも出来やしない。それが自分という知的生命の終わりであるのなら。


「嫌だ」


 呟きなど誰も聞いていないとわかる。人を喰っていた警官が聞き入れる筈もないと分かりきっている。物言わぬ生物など存在しない。鳴き声や視線で意思の疎通を行うのだから。


「嫌だ」


 腕で顔を守った所で意味はない。仮に足が動いた所で逃げられる筈もない。


 止まる世界の中で、唯一許された行為は想像だけ。誰かに許しを乞う必要も、対価を払う価値もない無意味で無価値な思考。自分という生命の時間の中で最初にして最後の自由そのもの。親と教師の目の前で言葉だけを形作り、薄っぺらな自尊心を立ててやっていた自分から解脱する。


「死にたくないッ!!」


 叫びに応えるように警官が引き金に指を掛ける。たったそれだけで自分の目の前は真っ暗に染められる。直後に幕を下ろすように赤一色の何かが視界を覆い尽くす。


 頭蓋骨に花が開いた。風穴を開けられた頭から伝わる不気味な耳鳴り。ハンマーで殴られた直後のようなじわりじわりと内出血を起こす感覚を覚える。


 いつ間にか自分は倒れていた。頬を冷たい床が受け止め、生暖かい血が髪を撫でている。


「やはりラベルだけではダメだ。取り込まなければナラナイ」


 人の声とは似ても似つかない作り出された声が耳に障る。不快な声の持ち主が不規則な足音で迫るのがわかる。まるで他人の身体を操作しているようだ、だというのに確実に死に体の自分へと歩み寄ってくる。


「此れでニゲラレル————」


 頭の中身が零れる。瞼を血の光が貫通する。溢れる血の熱に眼球が融解する。


 歩み寄る音さえ届かない。横たわっている筈の身体さえ軽くなっていく。


「—————タベル」


 明滅する視界は既に使い物にはならない。耳には血が詰まり、水底を漂っている。


 だけど、確かにそこにいるのは人間の姿を模った何かなのだと断じれる。靴は弾け飛び、内側から巨大な爪が姿を見せている。床に埋没する足音が人間の物ではない。


「これでサンニンメ。お前さえタベレバ」


 掴み上げられる襟元と離れる足元。血が全身に滴り、肌が燃え尽きてしまう。自分はここで死んでしまう————たったそれだけの事だ。多くの人々に圧殺され喰い殺されるか、何者ともわからない獣人に喰い殺されるかの違いでしかない。


 諦めたくはない。抵抗を続けるべきだ。だけど、出来る事は呪いを残す程度。


「————————――」


 息さえ忘れた。肺すら尽きた。頭の上から被さる巨大な口の吐息に吐き気を催す。


 きっと自分は救われた。自分という肉体を他人に投げ打って慰撫して、彼らの食欲を満たす為に心さえ献上していた。それもここで終わり。これが最後の献身。


「いや、結局最後まで—————」


 突然、口が開いた。縫い付けられたように動かなかったというのに。


「え、」


 自分はその場に立っていた。撃ち抜かれた筈の額すら無視して。


 何が起こっていた。アレは夢だったのだろうか。それとも魂と呼ばれる存在に至り、自分を見降ろしているのか。だけど、確かに痺れを足の骨をから感じる。この痺れには覚えがあった。長く起立していた時に使う、大腿骨と脛と膝だけの直立による対価だ。


「なんだったんだ」


 赤黒く濁っていた視界に日が差し込む。辛うじて回復しつつあった眼球を閉じ、大きく深呼吸をする。数舜だけの癒しの時間の中で、あらゆる事が白昼夢であったのだと————そう祈ってしまう。だけど、口の中から溢れる鉄と唾液の味は変わらない。


「————さっきの」


 深呼吸の最後に開いた目は、足元に転がっている帽子を捉えた。それだけではない。自分は血の池に飛び込んだように、夥しくも鮮やかな血の中心点に佇んでいた。


 正気に戻った。すぐさま腰が引け、血に腰を打ち付けてしまう。


 指の腹を余裕で沈められる濃厚な血の底から、嗚咽を漏らしながら逃げ去る。


「なんなんだ————誰が死んだ」


 何故だ。何故、アレが人の血だとわかる。この学校で家畜の屠殺や解体など行う筈もない。自分一人を沈められる、あれだけの血の量など見た試しもない。なのに、最も現実味のない人の血だと、直感で気付いてしまう。


「に、逃げないと‥‥」


 鼻で笑う声が聞こえた。


 心臓を鷲掴みされる恐怖に、空転させていた足さえ硬直する。


 誰だ————問い質す声にすら体力を割り裂けられない。数分前の出来事すら処理出来ていない脳が熱を帯びているというのに、誰の物ともわからない声の持ち主に気など回せない。


「とにかく逃げないと」


 とにかくこの場から離れたい。これ以上、誰の元ともわからない血に触れていたくない。足音など無視して転がりながら走り続ける。自分という生の中で、最も無様な走り方だった筈だ。あの食人共が指を差し嘲笑うであろう、全力の命乞いにも似た疾走だった。


「————食人?」


 自分の中の思考が異常を示す。


「人を喰ってたのは、なんで」


 振り返るな。足を止めるな。そのまま走っていればいい。


 お前にはそれが相応しい。お前にはそれだけが許されている。自分が自分に言い聞かせている、それとも別の存在から思考を定められている。狂人の考えなど分かる筈もない。なのに、初めて自分が自分をコントロール出来ている気がした。


「戻ろう‥‥」


 振り返り、再度血に溢れた廊下へと踵を返す。靴底を血で浸し、死体袋が放置されている教室へと再度侵入する。あの警官の姿こそ見つからないが、警官が食い破って骨と血を引きずった跡は克明に残されている。


「‥‥逃げられる」


 打ち捨てられる筈の記憶の領域、死を目前にした脳が見せた幻影。だとしても、この耳に残る言葉には意味が残っている筈だ。黒い死体袋の中の一つ、開かれた袋へと近づけば、黒い空洞が手招きをして待っている。


「‥‥女子の制服」


 首元のリボンで、かろうじて女性であると判断できた。そしてブレザーとYシャツを力任せに引き千切り、胸から腹までを刃で引き裂いた杜撰な食事現場だった。


「————顔は残ってない」


 頭蓋骨だ。細い顎と小さな歯の持ち主は顔の皮を切り落とされていた。


 不思議と剥離した白と赤の姿を、自分は自然と見つめられていた。それ見た事か、お前には何もわからない。諦めて、また親と教師に身を任せればいい。そうすれば、お前は誰も彼をも救える。


「うるさい」


 今更誰を救えと。誰かを救った所で、この仕打ちではないか。


「———何を見たかったんだ。こんな事、やってる暇はないのに」


 今も横たわっている死体達に背を向ける。当初の目的は、この場なら誰も近づかないだろうという予想でしかなかった。あの警官の姿を見ればわかる、今は誰もが狂っている。俺という新鮮な肉を貪れないとわかった途端に、都合のいい屍肉を求める。


 呼吸を整え、せめて部屋の隅で数秒でも落ち着こうと決めた矢先、


「食べないの?」


 死体袋から声が鳴った。息が詰まる。視界を走らせ、声の持ち主を探す。


「さっきは食べたくせにねぇ」


 声は死体から聞こえたのではなかった。教室の扉から声が響いていた。


 人間の悪性という物を煮詰め、浮き上がる余分な物全てを掬い上げた顔。笑みによって引き裂かれた顔には善という精神など、一切感じ取れない。口の奥から覗かせる深紅の舌先は、息を呑むほど淫靡で、整い過ぎた顔付きには似つかわしくなかった。


「だ、誰だ」


「どうでもいいよね。だって、私は知ってる訳だからさ」


 自分よりも背が低く、声は高く幼さを残している。年下とも映る少女は、外の血を踏み潰しながら死体が残る教室へと何も怖れる事なく侵入した。自分の日常だと告げるように。


「でさ、やっぱり食べないの?」


 パーソナルスペースを一息で侵す少女からは、やはり悼む心など感じられない。


 眼前に突き付けられた鼻先と真円に開かれた瞳からは、ひとつの感情しか感じられない。人を人とも見ていない。気まぐれに虫や小動物、果ては人さえ享楽の為に殺す子供の悪性。


 真正の人間そのものだった。


「食べる訳‥‥ないだろう」


「屍肉は食べないって訳?意外と贅沢だね。わざわざ用意してやったのに———あなたみたいな獣の為に」


 用意した?少女の紡いだ言葉の意味がわからない。


「何驚いているの?あ、でもその呆けた顔、嫌いじゃないかもね。オリジナルのババァの真似なんてするもんかって思ったけど。やっぱし私も特別な唯一性を有してる連続的災害の化身な訳だしね。その顔を見せてくれたから良しとしてあげようかな」


 頭が言葉を拾い集められない。


 彼女の使っている言葉の端々には、決して無視できない物がつぶさに見受けられるのに。頭がこの状況と、先ほどの追憶を拒否している。


「あれ?もしかして、本当に忘れたつもりだった感じ?うわ。薄情者めぇー」


 心臓を指で押してくる少女の、比べられる物など存在しない美し過ぎる悪性の笑みに身体が痺れている。悪意に満ち満ちた咽せ返りそうな少女の微笑みと、歳不相応に膨れ上がった胸と、血の気が引く程に白く透き通りそうな腿の色に当てられてしまう。


「心を消して、救いばかり求める純粋で白痴な人々に奉仕した君は、意外と厳しいって事か。知らなかったかな~。でもでも期待外れとかじゃないからね」


 腕に絡み付き、蛇のように舌を覗かせる少女しか、今の自分は考えられない。


「————誰なんだよ、君は」


「あ、やっと答えてくれたね。私ばかり喋って、痛い奴みたいだったじゃん」


 わざとらしくダンスでもするように腕から離れた少女は、静かに口を開く。


「私の正体を知りたい?なら、私の言う事には全て従って」


 鋭い目付きから、顔を取り替えたような真円の目へと刹那的に変わる少女に自分は見惚れてしまっている。それを知ってか知らずか、やはり少女は鈴を鳴らすように微笑み続けた。

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