一世一代のやせ我慢
繋がれた手から鼓動が伝わってしまうんじゃないかと心配になるほどに、どくどくと目まぐるしく血が巡っているのを感じる。高鳴る鼓動を抑えたくて、グッと拳を胸の前で握りしめた。
(いや、違う。私が好きなのはターニャのはずで……)
記憶の中の彼女の声を思い浮かべようとして、すでにわからないことに気づいた。あれほど好きだった笑顔も、ローレンスと似ていることしか思い出せない。
ターニャが好きだ……好きだった。もはや過去形になっていることを否が応でも思い知らされてしまい、愕然として立ち尽くす。
「……私、は。お前など……」
いっそ嫌いだと言ってしまいたかった。なのにそう口にしようとするだけで喉が引きつったように声が出なくなる。嫌いなはずがない、大切な家族で、子どものような存在で、そして今は……
「ジル?」
心配そうに顔を覗き込まれて、慌てて目を逸らした。今の表情を見られたら確実にまずい気がする。
ローレンスはジルより夜目が利くから、頬の赤みに気づかれただろうか……焦れったい気持ちで彼の発言を待つが、彼はジルの上気した頬の色を指摘しなかった。
「すみません、お疲れのところを困らせてしまったみたいで。もう宿に着きますから、すぐに寝ましょう」
「別に疲れてなどいない」
「意地を張らなくたっていいんですよ。霊力も少なくてフラフラじゃないですか、さっきだって転びそうになったし」
「わ、わざわざ口にしなくていい! まったく」
「ふふ、おんぶして差し上げましょうか」
「いらん! そんな歳ではないと言っているだろう」
「そういうんじゃなくて、ジルに堂々と触る口実がほしいだけなんです」
「ああもう、馬鹿なことを言っていないで普通に歩け」
取り乱した挙句、気を使わせてしまったようだ。師匠としての面目は丸潰れなのに、彼に気安く軽口をきかれ口説かれることを喜んでいる自分もいて、土の中に埋まりたくなった。
(ああ、くそ。気付きたくなんてなかった)
顔の火照りはなかなかおさまらず、体温が上がって温かくなった手の温度を指摘されないかヒヤヒヤした。そのくせ、強く握られたままの手を取り返したいとも思えなくて。残り少ない道のりを惜しむように、のろのろと歩いた。
部屋に戻って泥のように重たい体をベッドの上に放り出す。隣のベッドにローレンスが腰掛ける気配がした。
(今からでも部屋を分けたい……無理か)
何も感じるな、普段と同じように振るまえと自身に言い聞かせながら、テキパキと夜着に着替えてシーツの中に潜りこんだ。
目をつぶりながらローレンスの立てる衣擦れの音を聞いていた。流石にあんなことがあった後で盛るほど節操なしではないだろうと信じているが、それでも同じ部屋にローレンスがいるということを意識してしまう。
(狼狽えるな、どうせ暗がりで何も見えないんだ。ローレンスだって疲れているんだし、すぐ眠るに決まっている)
「ジル、もう寝てしまいましたか?」
声をかけられて肩が跳ねそうになった。絶対に気取られてたまるものかと寝たフリを決め込む。彼がベッドから降りてジルの方に近づいてくる気配を察して、息を潜めた。
大きな手のひらがジルの頭の上に置かれて、鼓動が早くなる。なんとか声は出さずに済んだ。
「ジルにあまねく幸福が降り注ぎますように、安らかな夢が訪れますように」
ローレンスが施す祝福によって失った霊力が補充される。まるで雲の上に浮かぶような心地がして、知らずうちに満足気なため息を吐いていた。
(どうせ霊力なんて寝れば回復するのに、律儀なやつだ)
彼の温かな心遣いを嬉しく思うのと同時に、祝福を終えて離れていく手に寂しさを感じてしまう。追いかけたい衝動を堪えて寝たフリを続けていると、不意打ちのように唇に指の感触を感じた。息を詰めていると、密やかな声が頭上から降りてくる。
「無防備な貴方に手を出したと知られたら、幻滅されるでしょうね。でも……少しだけ」
(す、少しだけ? なんだ、何をするつもりだ……っ)
「……!」
唇の端に吐息がかかるのを感じた。そっと羽のように、触れるだけのキスが落とされる。唇ギリギリの場所に落とされたキスは、そこから熱を持ちジルの全身を周り始めた。ドッドッと早鐘のように鼓動が鳴って、耳障りなほどに煩い。
狼狽えるジルに、ローレンスは更に不穏な発言を重ねた。
「このまま夜這いしてしまいたいところですが」
(なっ、やめろ!? 本気か?)
飛び起きそうになったが、腕を思いきり掴んで寝たふりを続ける。起きていたと思われる方が大変なことが起きる気がすると、本能が警告を鳴らしていた。
「きっと疲れているでしょうし、起こしたら悪いですよね……おやすみなさい、ジル」
ぎしりとベッドから立ち退く気配がして、ジルはやっと詰めていた息を吐いた。寝返りを打つ演技をしながら、口元を片手で押さえる。
キスなんて子どもの頃にせがまれて、何度も頬にしてやった。丸みを帯びた柔らかな頬にキスをしたって、かわいいやつだとしか思わなかったのに、大人になった彼にされる口づけは明らかに衝撃が違う。
(ああもう、おさまれ、心臓)
拳を胸に押しつけて、体を丸めて叫び出したい衝動を堪える。体は泥のように疲れているというのに、いつまでも眠気が訪れることはなかった。
**6**
ジルとローレンスが筆頭霊牧師の執務室に向かうと、すでにカペロは腰掛けていた。部屋の窓際に位置するテーブルに促され、ソファーに腰掛ける。
彼の側近であるひょろりとした青年がお茶を淹れてくれたので、礼を言って受け取った。向かい側に座ったカペロは燦々と差し込む午後の光を浴びていて、昨日より顔色がよさそうだ。
彼は打って変わって理知的な様子で、ジルとローレンスに話しかけた。
「チノン村の霊牧師ジル、そしてローレンスよ。昨日は取り乱してすまなかった。特にジル殿には目の下に隈をこさえるまで尽力させたこと、誠に申し訳なく思う」
「ああ、これは……お気になさらず」
朝方まで眠れなかったジルは、目の下に大きな隈ができていた。ローレンスは祝福が足りなかったのかと気にしていたが、原因は祝福ではなくてその後の行動だ。
あの時起きていたと伝える気はまったくなかったので、よっぽど疲れていたということにして強引に話を流した。
しかしローレンスは今もなおジルの顔色を気にしているようで、心配そうな視線が横顔に突き刺さる。ジルは気まずさを誤魔化すために咳払いしてから、話の続きを促した。
「それで、タバコの件について詳しく聞かせてもらえますか」
「ああ、そうだったな。タバコは異国の商人から仕入れた物だ。あの後執務室にあるタバコもすべて手元から排し、朝一番に鑑識師に成分調査の依頼をさせた」
執務室にもタバコがあったのかと背筋が冷えたが、カペロはすでに正気を取り戻し理性的な行動をとってくれたようだった。ホッと胸を撫で下ろす。
「結果はどうでしたか」
ジルが尋ねると、彼は苦悩するように眉を歪めて絞り出すように声を出す。
「精神の撹乱作用を引き起こす毒が含まれていたようだ。私が呪われた生き霊となり夜な夜な聖都の墓場を彷徨っていたのは、この毒の作用によるものであろう」
カペロの結果を聞いて、側近は取り乱す。床に膝をついてカペロに謝罪した。
「申し訳ありませんカペロ様……! カペロ様の苦悩を取り除こうと力添えをしたつもりが、まさかあんな恐ろしい薬を貴方様に飲ませてしまうことになるとは、後悔しても仕切れません!」
頭を下げて声を震わせる側近に、カペロは穏やかな声で諭す。
「よい、ザカリ。どのような薬でもいい、とにかくターニャのことを忘れさせてくれと頼んだのは私だからな。私の弱さが招いたことで、お前に責任は問えぬよ」
「カペロ様……っ」
「責任をとって引退を考えた方が良いやもしれぬな」
「そんな! カペロ様がいなければ教会が立ちゆかなくなります!」
「ふむ……その話は負傷した霊牧師達が復帰した後の議題としよう」
カペロは側近から視線を離し、ローレンスに顔を向けた。
「ローレンスよ」
「はい」
緊張の面持ちで弟子が返事をする。
「今まですまなかった。お前に父親らしいことを一つもしてやれなかったな」
「いえ……」
ローレンスが答えあぐねていると、カペロは掠れた声で続けた。
「言い訳のようになってしまうが、私はお前のことを昨日まで知らなかった。ターニャが子どもを産んでいだことすらな」
「どういうことですか」
カペロは昔を懐かしむように、窓の外に視線を飛ばした。
「私が筆頭霊牧師になる前のことだ。新たな霊牧師として聖都の教会に就任したターニャと私は恋に落ちた。彼女と過ごした日々は素晴らしく満ち足りていた……」
ジルは若かりし頃のターニャの顔を思い浮かべてみる。かつては美男であっただろうカペロとお似合いだと感じた。ちっとも胸が痛まないのを自覚してしまい、罰が悪くなって隣に座るローレンスをチラリと見上げる。
彼は真剣な眼差しでカペロの話に聞き入っていた。いつ見ても綺麗な顔をしていると感心してしまう。あの唇が頬に……と考えそうになり、急いで正面に視線を戻した。
「しかしターニャはある日突然、私の前から姿を消したのだ」
「なぜですか」
「わからない。ただ、置き手紙には別れてください、どうか探さないで。もう会いませんと書かれていた」
カペロは手のひらで顔を覆う。
「信じられなかった。会って訳を問い詰めたかった。しかし当時、筆頭霊牧師候補として目されていた忙しい身では追いかけられず、足取りを辿ることすらできなかった。彼女の故郷すら知らないことに絶望した……そのうちに、彼女は私を捨てたと理解し、探すこともしなくなった」
カペロと別れた後、ターニャは一人チノン村に帰りローレンスを出産したのだろう。
その頃聖都の神学校に通っていたジルも、ターニャは聖都の教会に勤め続けているものとばかり思っていた。神学校を卒業して里帰りをするまで、彼女が村に戻っていたことも子どもを産んでいたことすら知らなかった。
(なぜターニャは突然カペロと別れて村に戻ったんだ?)
違和感を覚えたが、カペロの話はまだ続いている。頭を切り替えて続きを聞いた。
「きっと彼女は私の知らないところで幸せに暮らしているのだろうと、信じることにした……だが、実は別れて程なくしてから亡くなっていたと、つい先日聞き……」
カペロは白髪混じりの黒髪に手を差し込み、苦悩に満ちた声を震わせる。
「どうしてあの時、地位を捨ててでも探してやれなかったのかと……! ああターニャ、どうか薄情な私を許しておくれ。お前が何を思って死んでいったのかと思うと、夜も眠れないほど思い悩み……結果があの様だ。本当に、申し訳ない」
「カペロ様……」
側近は口惜しそうに小声で内心を漏らした。
「あの女が今もカペロ様を苦しめているのかと思うと、はらわたが煮えくりかえる重いです……」
「よせザカリ、ターニャは何も悪くない」
「カペロ様は優しすぎます。自分を捨てた女にこんなにも心煩わされて。もう忘れてもいい頃ですよ」
側近の物言いは過激だったが、カペロを心から気遣っているように見えた。非合法らしき薬を他国から仕入れていたようだが、この様子だとカペロを害するつもりがなかったのは本当のことのように思える。
「一つ、尋ねてもいいですか」
ローレンスが硬い表情のまま口を開くと、カペロは勢いよく肯定する。
「ああ、なんでも聞くといい」
「カペロ様が母を殺した訳ではないのですね? 錯乱している時、彼女を殺したなどと口走っていましたが」
「貴様、なんということを! いくらカペロ様と血が繋がった息子だとしても、人殺し扱いするなど無礼であるぞ!」
側近ザカリが声を荒げるが、カペロは彼を手で制した。
「お前の疑問はもっともだ。まず初めに言っておくと、私は彼女を殺した訳ではない。ただ、私がもっと彼女のことを真剣に探していれば、彼女が死ぬような事態に陥らなかったのではと自分を責めていた。私の落ち度でターニャが死んだのではないかと悔いている」
「そうですか……」
ローレンスは難しい顔で考え込んでいる。カペロはそんな彼に遠慮がちに声をかけた。
「我が息子、ローレンスよ。今まで何もできなかった分、お前になんでもしてやりたいと思っている。霊牧師としての霊力も素質も高いと、一目見てわかった。どうだ、このまま聖都の霊牧師になって、ゆくゆくは私の跡を継いでみないか」
「カペロ様!?」
「僕がですか」
驚く側近には構わず、ローレンスは真剣な表情でカペロを見つめる。お互いの金の瞳はじっと相手を注視していた。
ローレンスは予想外のことを言われたためか、言葉に詰まっているようだ。ここは師匠である自分が助け舟を出さねばなるまいと、ローレンスの肩を叩く。
「いいじゃないか、聖都に留まれば。親子の絆を深めるいい機会だと思うぞ。霊牧師としての経験を詰むにも、聖都は最適だ」
「ですが、師匠……」
ローレンスはジルの側にいたいのだろう、わかっている。ジルの方だってターニャに気持ちがないことも、彼に惹かれ始めていることも自覚してしまった。
だからこそ、ローレンスと離れるべきだ。可能性に満ちた彼の将来を、地元の村で終えさせてはならないという使命感があった。
(そうだ、ローレンスを私の元に縛りつけちゃいけない。こいつの霊力ならきっと筆頭霊牧師にだってなれる。輝かしい未来を私のせいで潰したくない)
鋭い針で突かれたように心臓が傷んだ。こんなことなら自分の気持ちなんて知らないままの方がよかった。唇を噛んで衝動を堪える。行かないでほしいなんて間違っても口に出さないように、殊更明るい調子で本音を押し殺した。
「私は自分でできる限り霊牧師としての心得や技術をお前に教えてやったつもりだが、集団で過ごすことでしか学べないこともある。ここで学んでこいよ。カペロ殿がお前の身元を引き受けてくれるのなら安心だ」
「任されたジル殿。貴殿の育てた弟子を息子として預かり、大切に面倒を見ると誓おう」
(あーあ、ローレンスが取られてしまった。いや、元々カペロ殿が親なんだ、私が彼を預かっていただけで)
途方もない心細さと、彼を手元におきたいという浅ましい欲が胸の奥から湧いて出てきたが、根性で顔には出さずに平静を装う。
「ええ、任せました。彼の荷物は後ほど届けます」
「ジル!」
立ち上がるジルをローレンスは引き止めたが、ジルは無言で踵を返した。部屋から退出して足早に廊下を進むが弟子はすぐに追いついてきて、手首を強く握られる。
「待ってください! ジル。どうしてですか」
容赦無く指先が食い込んできて、彼の必死さを身を持って感じた。
「こら、やめろ。痛いぞ」
「あ……すみません」
ローレンスは呆然としながらもジルの腕から手を離した。ジルは弟子を安心させるように向き合って笑いかける。
「どうしても何も、さっき言った通りだ。お前は聖都で経験を積んだ方がいい。それに、せっかく本当の親父さんが見つかったんだ。仲を深めてこいよ」
「なぜ嘘をつくんですか」
簡単に虚勢を見破られてしまい言葉に詰まった。ローレンスは眉根を寄せて、ジルを壁際に追い詰める。