呪われた霊との戦闘
うごめく霧から距離をとって離れると、チェスターを避難させたローレンスが前に出た。聖水の瓶を懐から取り出す。
だが彼がコルクの蓋を開ける前に、突然霊体が震え出した。敵はくぐもってはっきりしない鳴き声を発しながら、まるで網のように体を広げてローレンスを覆い尽くす。愛弟子の姿が見えなくなり、ジルは必死に叫んだ。
「ローレンス! おい、しっかりしろ! 今助ける!」
ジルは懐から聖銀のナイフを取り出し鞘を投げ捨てると、刃を呪われた霊に突きつけて大きく十字を切る。
「聖なる刃が汝を切り裂き天の導きが誘うだろう、ことごとく退散せよ!」
十字に裂いた場所から光が生まれ、霊へと襲いかかる。化け物の体に届いた瞬間ローレンスの姿を見ることができたものの、すぐにまた傷口を閉じてしまう。
「くっ、これも効果が薄いか」
次なる手を使うため懐に手を入れようとすると、内側から爆発するように次々と泡が泥ごと弾けた。中からローレンスが転がり出てきて、ジルの隣に片膝をつく。
「ローレンス!」
「師匠、奴は内側が脆いようです。外側からでは弾かれてしまいますが、内側まで穴が開いている今なら」
「ああ、畳みかけるぞ」
うっすらと人型のシルエットが見える場所に狙いを定めながら、聖水をかけた刃で十字を切り、もう一度呪文を唱える。
思い切り霊力を注ぎ込んだ光の筋は、聖水をまといながら粘液の隙間をすり抜け、霊の内側へと直撃した。低いうめき声を漏らしながら、呪われた霊は姿を薄めていく。
もがき苦しむ人型の霊が、堪らず泥の中から飛び出していった。本体が抜け出た途端に泥は空中に溶けるようにして消えていき、辺りを覆っていた黒い霧も晴れていく。
「生き霊だったのか。しかもあの姿は」
壮年の黒髪男性だ。生き霊はフラフラと空中をさまよいながら、教会の方へと姿を消した。
「追いかけるぞ」
「はい」
ローレンスと力を合わせてチェスターを運び、教会内部の人間に託した後、筆頭霊牧師の私室を目指す。霊が吸い込まれていった部屋の扉を押し開けると、立派なあつらえのベッドから転げ落ちたカペロが床にうずくまっていた。
「う……ぐぁ……っ、くる、しい」
彼は霊障に身体を蝕まれているようだ。このままでは心身に支障をきたしてしまう。ジルはカペロに手を差し出す。
「カペロ殿、御身に触れる無礼をお許しください」
少なくなった霊力をふり絞り、カペロに祝福をもたらそうとした。しかし伸ばした手をローレンスに掴まれる。気遣うように微笑まれた。
「師匠は休んでいてください、ここは僕にお任せを」
正直なところ、霊力を一気に使いすぎて頭痛がしていたので彼の申し出はありがたかった。頷いて場所を譲ると、ローレンスはカペロの頭に手を置いて祝福の呪文を唱えはじめる。
霊力が浸透するのと同時に、カペロの表情が和らいでいく。瞳に理性が宿る兆しを見つけてこのまま回復するかと思ったが、彼は呼吸を荒げたままベッドサイドのチェストへと手を伸ばした。
「こんなものでは治らぬ、アレを、アレがないと私は……っ」
カペロは銅製のキセルをチェストから取り出すと、タバコの葉を無造作に突っ込み火をつけようとした。嫌な予感がして彼の手からキセルを取り上げる。カペロは怒り狂って叫んだ。
「返せ! それは私の物だ!」
「落ち着いてください!」
ローレンスがカペロを後ろから歯がい締めにしている間に、タバコの葉を調べる。酷く蠱惑的な香りがするが、同時に毒のような刺激臭も混ざっており、人体によくない作用を及ぼしそうな代物だ。
「カペロ殿、これはなんだ?」
「異国の商人から仕入れた貴重品だ、嫌なことをすべて忘れさせてくれる……お願いだ、返してくれ。どうしてもそれが必要だ」
「残念ですが、貴方が呪われた霊の原因である生き霊だと判明しましたので、このタバコも詳しく調べる必要がありそうです」
「なん、だと……?」
カペロには生き霊になっていた自覚がなかったらしい。呆然とジルを見下ろした。
「私が生き霊に? そんな馬鹿な」
「事実です。先ほど私とローレンスで呪われた霊を祓った際に、中から貴方の霊体が現れましたから」
「そんなはずは……あり得ない、私は筆頭霊牧師なのだぞ? 自ら生き霊に堕ちるなど……どうか嘘だと言ってくれ、ああ、許してくれ、ターニャ……」
ターニャの名前を聞いて、ローレンスの腕から力が抜ける。カペロは床の上にへたりこんだ。ローレンスはためらいながらもしゃがみ込み、カペロに話しかける。
「ターニャは僕の母の名前です。つまり僕は、どうやら貴方の息子のようですね」
「なっ……」
顔を上げたカペロとローレンスの瞳が交錯した。カペロと同じ金の瞳に、ターニャと瓜二つの顔を持つローレンスを見て、彼は夢から覚めたようにハッと息を呑んだ。
「君、君は……ローレンスと言ったか」
「はい」
「私の、息子……息子は、生きていたのか」
カペロは信じられないと言いたげに、本当に実在するのか確かめるようにゆっくりとローレンスに手を伸ばす。ローレンスは戸惑いを顔に浮かべたまま抱擁を受けた。ジルはその様子を、煮え切らない表情で見つめていた。
**5**
カペロの部屋からすべてのタバコとキセルを没収し、明日出直すことを宣言してから教会を後にした。深夜の冷えた空気の中、ジルとローレンスは宿に向かって歩いていく。
星が明るい夜だった。新鮮な空気を思いきり肺に吸い込んで深呼吸をする。それにしても疲れたと肩を回す。体は重いしジルはジルで思うところはあるが、まずは隣を歩く愛弟子を元気づけてやろうと、わざと明るい声を出した。
「これで一件落着じゃないか? 苦労して出向いてきただけのことはあった。ローレンスの活躍も見事だったぞ、さすが一人前の霊牧師と認めただけのことはある」
町の住人を起こさないように小声で褒めると、淡々とした低い声が返ってきた。
「師匠、無理に明るく振る舞わなくてもいいです」
「うぐ……っ、だったら、その辛気臭い顔をやめろ」
ローレンスの顔はほとんど見えないが、きっと今も戸惑ったような悲しげな表情を浮かべていることだろう。彼はぺたりと自身の頬に両手を当てた。
「ああ、すみません。取り繕うのを忘れていました」
「だからといって無理に笑うなよ」
「……ふ、だとしたらどうしろって言うんですか」
微かに笑ったのを察して、ジルは満足げに頷く。
「そう、その調子だ。あまり深刻になる必要はない。悩みがあるなら相談に乗るぞ?」
「……師匠には敵いませんね」
「そうだろう。なんせ優秀なお前の師匠なんだからな、とびきり優秀に違いないだろう?」
「ええ、そうですね」
声に笑いを含ませながら、ローレンスは空を見上げた。ジルも同じように星空に視線を移す。
(初めてローレンスを腕の中に抱いた日も、今日のように星が明るい夜だったな)
腕にかかる重力が命そのものの重みに感じて、ずいぶんと緊張したことを覚えている。そういえば初めて会った時からジルに懐いてくれていたなと思い出していると、彼は静かに語りはじめた。
「……正直、彼に父親だと名乗られてもまったく実感が沸かないんです」
「それはそうだろうな。お前とカペロ殿は今日初めて会ったのだから、血の繋がりがあるだけの他人同士だろう」
「けれど、彼は僕に家族として接したいようでした……僕の家族はジルなのに」
拗ねたような言い分を聞いて、ジルの口角がむずむずと持ち上がる。
(なんだそれは、かわいいやつめ)
「っわ、師匠?」
高いところにある頭に手を伸ばして、髪を無遠慮にかき混ぜた。星明かりの中でも髪が何本か寝癖のように立ち上がったのがわかって、思わず吹き出す。
「ふっ、拗ねなくてもいい。私ほどお前を大切に思っている人は、この世にいないぞ」
「え……」
ローレンスが面食らっているのを察して、ジルは首を傾げた。少しの間なぜなのか考えて、勢いよく否定する。
「あ、違うからな? だからと言って恋人になったり、結婚するなどという意味ではない」
「そこまで大切に思ってくれているなら、本当に家族になってくれてもいいと思いませんか?」
「すでに家族だろう? たとえ血の繋がりがなくても、私はローレンスを自分の子どものように大切に思っている」
姿形は育ったが、彼がおしめをしていた頃からの付き合いだ。変な感情を抱くはずがないと、半ば自分に言い聞かせるように断言する。
「子ども、ですか……」
歯に詰まったような物言いを聞いて、片眉を釣り上げた。
「不満か?」
「ええ、不満です。僕はもう大人ですから」
「そう思うなら独り立ちすればいいのに」
「……」
ローレンスはそれきり返事をしなくなってしまった。迫られるのは困るが、出ていかれるのはそれはそれで寂しそうだと、自分の発言を少しばかり後悔する。
(だが、それが普通の師弟関係というものだろう。私はお前の気持ちに応える気はないんだから……)
微妙な空気から目を逸らそうとひたすら星空を眺めていると、石畳の段差につまづきそうになった。咄嗟にジルに手を引かれて事なきを得る。
「っ!」
「師匠、大丈夫ですか」
「なんともない、助かった」
ジルの体重をものともせずに受け止めたローレンスは、そのままジルの手を繋いで歩きはじめた。頼り甲斐のある大きな体や、いつもよりも強引な仕草にドキリと心臓が跳ねる。振り払うこともできたがどうにも手を離すのが惜しくて、そのままにさせた。
(本当の親がいたってわかったんだし、ローレンスはもしかしたらこのまま聖都に留まるかもな)
そう思うと、彼の手の感触を覚えていたいような気にさせられる。柔らかさよりも骨っぽさが目立つ大人の手だなと感じた。
本当はわかっている。彼がすでに大人であることも、本気でジルを好いてくれていることも。
けれどそれでは困るのだ。万が一にでも惹かれてしまったら手放すのが辛くなる。ローレンスには愛する人すら満足に守れないジルではなくて、彼に相応しい人と恋をしてほしいと思う。
それがジルにとって、痛みを伴うことだとしても。そう思っているのに、ローレンスは何度だってジルを揺さぶる。彼と手を繋いでいるだけで動揺している自分に気づいて、舌打ちしたくなった。
「僕はジルともっと、濃い家族関係になりたいんですよ。それこそ一生を共にするような」
強い意思が込められた硬い声が聞こえて顔を上げた。星あかりの中で、彼の金の瞳も星のように光って見える。次に何を言うのかわかって、ジルは嫌々と首を横に振った。
(もういい、聞きたくない)
知りたくないんだ、これ以上は。彼によって変えられようとしている自分を認めたくはなかった。
子どもだったローレンスの姿を、おねしょをして涙ぐんでいた姿を、師匠と無邪気に慕ってくれた姿を思い出し、自制しようとすればするほど、目の前の青年が現実を見ろと迫ってくる。
きっとほんの少しのきっかけで、坂を転がり落ちてしまう。もうすぐそこまで恋が迫ってきている予感がして、ジルは素早く首を横に振った。
「……やめろ、ローレンス」
「いいえ、やめません。ジルのことを愛しているんです」
「やめろ!」
握られた手を払おうとするが、彼は食い下がる。強く抱え込まれた手を取り返せずに、ジルは喘ぐように口元を歪めながら、もう片方の手で赤くなった頬を覆った。
(やめてくれ、私の心をこれ以上揺さぶるんじゃない)
勝手に頬が色づくのを止められない。何度も何度も愛していると吹き込まれて、すっかり弟子を恋愛対象として意識してしまうようになったと情けなく思う。