世界中が敵に回ろうとも
視線を落としたまま動こうとしないローレンスの背を押して、宿の部屋に入る。夕食を受け取り持ってきてやってから声をかけた。
「ローレンス、気分はどうだ」
「師匠……」
ベッドの上に座りこんだまま、視線を遠くに飛ばしているローレンスの向かいのベッドに腰かける。夕食が乗った皿をサイドテーブルに置くと、彼は静かに話しはじめた。
「ジルはカペロ様……きっと僕の父でしょうね、彼が本当に母を殺したと思いますか?」
「どうだろうな。さっきは混乱していたようだし、発言がめちゃくちゃだった。まずは彼の気持ちを落ち着かせないことには、真実はわからないだろう」
「そう、ですね」
沈黙が部屋の中に満ちる。ジルは歯痒い思いでいっぱいだった。こんな時にどういう言葉をかけるのが正解なのかわからない。迷った挙句、彼の隣に移動して肩を抱いてやった。
「っ、師匠?」
「もしもお前が人殺しの息子だとしても、私はお前の味方だからな」
例え世界中が敵に回ろうともお前の味方をするぞという気持ちを込めながら、ぽんぽんと肩を叩いた。
「それに、お前を育てたのは私だからな。たとえ本当にカペロが人殺しだったとしても、血のつながりがあるからと気に病む必要はない」
目線より上にある瞳が、驚いたように見開かれる。ふにゃりと情けなく眉尻を下げたローレンスは、甘えるような声音を発した。
「……師匠、祝福をお願いしてもいいですか」
「ああ、いいぞ」
腕を伸ばして頭を撫でてやる。彼の心に安寧が訪れるようにと、心を込めて霊力を送り込む。
「ローレンスにあまねく幸福が降り注ぎますように、安らかな夢が訪れますように」
彼は手に頭を擦りつけるようにしながら、ほうとため息をつく。そのまま弟子の体がずり下がり、ジルの膝の上に頭が着地した。真下から伝わる体温に、子どもの頃もこうして甘えられたなと感慨深くなった。
上から見下ろすと普段の凛々しさは形をひそめ、美しさが際立っている。その容姿はどこにもあどけなさのない大人の男で、もう子どもではないと痛烈に意識した。
「おいこら、降りろ」
「お願いですジル、もう少しだけこのままで……」
目を閉じながら夢見心地の声でささやくローレンスを見て、ジルはそれ以上突っぱねることはできなかった。コシのある黒髪を何度も撫でてやる。
すると彼は幸福そうに笑った。心から安らいでいるとわかる表情を見て、ジルの心もほっこりと温まってくる。自然と口角が上がった。
「やっぱり僕は、師匠が大好きです。ジルだけが、本当の僕を……」
ささやくような吐息が規則的な呼吸にとって変わる。どうやら眠ってしまったらしい。腹の奥に沸いた逃し難い衝動は、ジルの胸を甘く締め付けた。心の赴くままローレンスの髪を撫で、額を辿って鼻筋へと移動し唇へ辿りつく。
普段は生意気なことばかり言うこの口に、最後に触れたのは彼がほんの小さな子どもだった頃だ。どこもかしこも柔らかかった体は引き締まっているが、唇の感触は柔らかいままなのだろうか。
触れてみたいという衝動を抑え難く感じて、ローレンスの様子を確かめる。規則的な呼吸を繰り返す様は、間違いなく眠っているように見えた。
「ローレンス」
小さく名前を呼ぶが反応はない。ジルは迷いに迷った後、ローレンスの唇の端にちょんと触れた。口の中に溜まった唾液をごくりと飲み下す。とても悪いことをしている気になるのは何故だろう。
彼が幼子だった頃、おしゃぶりの代わりに指をしゃぶらせることがあった。どんなに機嫌が悪くてもピタリと泣き止んだことを思い出し、出来心で唇の間に指を置いた。
もしも大人に育った彼の舌で同じことをされたら、素直に可愛いと思えるだろうか。
胸の奥からじわりと熱が回りだし、指先へと到達する。唇がひんやりと感じるほどにジルの体は熱を持っていた。ごまかすように苦笑する。
「本当に、なんで私が相手なんだろうな。お前さえ心を開けば、誰だって選び放題だろうに」
ふにふにと指先で下唇を押しても身じろぎ一つしない。山越え途中で賊を捕らえ、初めて訪れた聖都を駆け抜け、その上衝撃的な事実を知った後だ。簡単には起きないだろうと判断し、そのまま寝かせてやることにした。
力の抜けた重たい体をなんとか転がしてベッドの中心に納めると、一人で夕飯を食べ始めた。塩気が効きすぎているベーコンに眉をしかめる。
「やはりローレンスの作る食事が一番美味しいな」
ベーコンはいつだってジルの好みに合わせてカリカリに焼かれているし、卵の焼き加減はふわふわだ。
(……ああ、そうか)
美味しいのは当たり前だ、ローレンスがジルの好みを完璧に把握して合わせてくれているのだと、この時初めて気づいた。
愛されているという実感が体の隅々まで浸透していく。ローレンスの愛情を心地よいと感じていることを自覚して、片腕を指の跡がつくほど強く握りこんだ。
(だめだ、私には人を愛する資格なんてないのだから……なあ、ターニャ)
記憶の中の彼女はジルを責めたりしない。ターニャは人を恨むような性質ではないとわかっている。
それでも、ジルは自分自身を許すことはできなさそうだった。彼女の危機に気づかず、のうのうと暮らしていた過去の自分を殴りたいとさえ思う。
(カペロ殿も同じように後悔しているのだろうか)
カトラリーを机の上に置くと、寝室の窓を開いて教会の方向をのぞき見る。教会も墓場もひっそりと静まりかえっており、松明の灯りすらほとんど見えない。嵐の前の静けさという言葉が脳裏をよぎる。
(今夜、何か起こるかもしれないな。チェスターが墓場を警戒していたことと、シスターの言っていた呪われた霊の話を統合すると、墓場に呪われた霊が出るのかもしれない)
どのような対策をしておくべきか……ジルは黙考したのち、丁寧に聖銀のナイフを研ぎはじめた。
**4**
いつ霊が出るかわからないから体力温存のために仮眠をしておこうと、ベッドを壁にひっつけて壁にもたれかかりながら就寝した。
しかし慣れない山道を歩いた体は、ローレンスと同様に疲れきっていたらしい。気づいた時にはベッドの上に丸まっていたが、眠たすぎて体を起こせない。
半分夢を見ながら上半身を壁にもたれさせようと足掻いていると、突如恐ろしいほどの寒気が背筋を走り抜けた。
「っ!? 師匠っ? 今のは」
ローレンスは弾かれたようにベッドから飛び起きる。一拍遅れてジルも身を起こした。これは間違いなく悪霊の気配だろう。
「ああ……どうやら例の、呪われた霊が現れたようだな」
「不気味な気配がする……すぐに向かいましょう」
気配がする方角からして、やはり墓場に霊が現れたのだろう。こんなに離れた場所まで気配が伝わってくるとは、どれほど凶悪な悪霊なのかと気を引き締めた。
霊牧師として必要な装備を一式携え、ローレンスと共に夜の町を駆け抜ける。墓場に近づくにつれて禍々しい気配が大きくなってきた。濃密な空気に息がつまりそうだ。ローレンスは不快そうに眉を歪めた。
「う……気分が悪くなります。ここまで濃い霊障が迫ってきているということは」
「ああ、墓場の結界が破られているのだろうな。急がなければ」
路地をつっきり墓場の入り口から階段を駆け上る。上りきった先には墓石がいくつも並んでおり、その中には倒れ伏したチェスターの姿もあった。
「チェスター! おい、生きてるか?」
額から血を流した彼を抱き起すと、彼は緑の瞳を苦しそうに眇めた。
「うぐっ……ジル、来るなと言ったのに! 去れっ、呪われた、霊が……!」
真正面からおぞましい気配を感じてハッと顔を上げる。黒い霧のような悪意があたりに具現化し、周囲の木々を覆い尽くす勢いで広がっている。その中で一際濃い霧が墓石の一つに集まっていた。
警戒しながら近づくと、霊牧師の名前が彫られた墓石から悪意が滲みだし、ゴプリと泡のように吹き出した。
(……なんだ、これは)
悪霊らしき気配は粘着質な物体が泡をまとったような姿をしていて、色もごちゃごちゃとしている。まるで子どもが泥の中に絵の具をぶちまけぐちゃぐちゃに混ぜたような有様だ。
本来の悪霊は顔から髪を垂らして一つにまとめたような、黒っぽい顔と尾だけの姿をしているのが常だ。色がついているのは生き霊であることが多い。しかしこの不気味な霊は、透き通っているものの本人そのままの姿である生き霊とも、似ても似つかない姿だ。
黒霧をまとった粘性生物が時折穢れた泡を弾けさせる様は、なるほど呪われているかのように凄まじく醜悪な姿に見えた。
「師匠、チェスターをこちらへ!」
ローレンスの一言で正気にかえり、腕の中の怪我人を弟子に引き渡す。ジルは異形生物の前に立つと十字架を突き出し、呪文を唱えた。
「神の力が汝を追う、引け! 悪しき意思よ!」
流れ星のように収束した光線が謎の霊体を貫く。パチンパチンと大きな音を立てて弾けた体は、すぐにねっとりとした粘液に覆われて元の形に戻ってしまった。
「な、効かないだと!?」
動転するジルに向かって、粘性生物のような霊がじわりとジルの方に滲むようにして近づいてくる。