望みなんてない、はずなのに
だとしても、ジルはチノン村から離れる予定はない。聖都には苦い思い出がある。できれば近づきたくなかった。
あけぼの色に染まった空が、地上に光を運んでくる。朝の気配を察して小鳥達も一斉に鳴きだした。もう何も起こらないだろうと判断し、トットに問題ないから働けと告げて実家を後にする。
「朝からバタバタしてしまいましたね」
家に戻ると手際良くジルが台所で朝食を作りはじめた。テーブルに頬杖をついて、やけに上機嫌な彼の後ろ姿を眺める。
「なんだ、調子が良さそうだな」
「今日も師匠と一緒にいられて幸せですから」
思いがけない一言をくらって咄嗟に言葉が出てこないでいると、彼はキラキラ輝く瞳でジルの方を振り向いた。
「最悪の場合、告白した瞬間に村から追い出されると思っていました。少しは望みがあると信じていいですか?」
「そんなものはない」
バッサリと発言を切り捨てたと言うのに、彼は嬉しそうに微笑んだままクロワッサンと焼きたての卵、それから一口大に切られたリンゴが乗った皿を差し出してくる。
「師匠は今日も美しいですね。月の精霊も真っ青になる程の美貌を拝むことができて眼福です」
ああ、また口説かれている……たじろいでいることを気取られたくなくて、睨むように半眼で見返した。
「お前……今までもそういう風に思っていたのか?」
「ええ。晴れて一人前と認められたので、声に出して口説く権利を得られました」
「そんな権利は与えていない。目を覚ませ」
ローレンスは素知らぬフリで席につき、にっこりと唇の端を持ち上げた。
「しっかり目覚めていますよ。さあ、神に感謝を捧げて食事をいただきましょう」
本当に口の減らないヤツだと内心ぼやきながら、祈りを捧げた後に熱々でふわふわの卵を食べ始める。自分で料理したら火加減を間違えて、焦がしてしまっていただろう。口説かれるのは御免だが、今日も美味しい食事にありつけたことはありがたいと思いながら、黙々と頬張った。
教会で祈りを捧げた後、見回りに出かける。普段は三日に一度の頻度で見回っているが、今朝の悪霊事件があったから警戒を強めた方がいいと判断した。
ローレンスと連れ立って村の中心部に赴くと、井戸の近くで奥様方が声を潜めてささやきあっている場面に遭遇する。
不安げな雰囲気を感じ取り、ジルはローレンスと顔を見合わせる。頷き返したローレンスは、勝手知ったる様子で朗らかに奥様方へと声をかけた。
「こんにちは、皆さん。どうかされたのですか?」
「ああ、ローレンス。宿屋に旅の人が来てるんだけどね、どうも様子がおかしいんだよ」
「おかしいとは、どのように?」
「フラフラしていて真っ直ぐに歩けないみたいでさ。お代を置く時も金額を間違えたりして、体調でも悪いのかね。流行り病を持ち込まれないといいけど」
「なあ、その人は何か独り言を呟いていたりしなかったか」
ジルが尋ねると、奥さんは頷いた。
「どうかねえ、気味が悪かったから遠目で見ていただけだったけど、口が動いていたかもしれない」
「そうか」
ジルは弟子に目配せすると、真っ直ぐに宿屋を目指した。
「ローレンス、念の為に聖水をすぐ出せるようにしておけ」
「わかりました」
おぼつかない足取り、ぼんやりとした挙動、独り言はすべて、悪霊に取り憑かれた人に見られる症状だ。今は大人しくしているようだが、いつ暴れるかわからない。もしも悪霊に取り憑かれているのなら早急に対処しなければ。
宿の店員はジルとローレンスが緊張の面持ちで現れたのを見て、目を丸くする。
「ジル様、どうかしたんですか? 怖い顔をして」
「ここに旅人が来ているだろう、話を聞きたい」
面食らいながらも旅人の泊まっている部屋を教えてくれた。ローレンスを引き連れて廊下を進む。
「もし悪霊が扉から逃げ出そうとしたら、聖水で足止めを頼む」
「はい」
中の様子を伺うため、木製の扉に耳を押しつける。ぶつぶつと独り言を漏らす生気のない声を聞いて、やはり悪霊に取り憑かれていると確信した。
鍵がかかっているのを確認し、ローレンスに目配せする。彼が扉に体当たりをした次の瞬間、ジルは開いた扉の隙間から部屋の中に飛び込む。ベッドの上でうずくまる旅装束の男に向かって十字架を突き出した。
「神の力が汝を追う、引け! 悪しき意思よ!」
ジルの手のひらから霊力が放出され、十字架を通して増幅され悪霊へと降り注ぐ。聖なる力に晒された悪霊は悲鳴を上げて旅人の体から飛び出した。
女の霊は凄まじい金切り声をあげて、黒い尾のような体を振り回す。逃がすものかと更に霊力を送り込んだ。
十字架から漏れ出た光線が流れ星のように悪霊の体を追尾する。光に射抜かれた悪霊は、ぽっかりと空いた口から怨嗟の声を轟かせ消滅した。
ふう、と肩の力を抜き十字架を下ろす。ローレンスが拍手を送った。
「見事です、師匠」
「ふん、このくらい造作も無い」
中級程度の悪霊など、ジルにかかれば朝飯前だと胸を張る。悪霊から解放された若者は呆然としたようにジルとローレンスを見比べ、瞬きをした。
「今すんげえ光が見えたような……」
「おい、大丈夫か。体調はどうだ?」
「ん……? おおっ、体が軽い、頭も痛くないぞ!」
旅人は先ほどまでの生気のなさを感じさせないくらいに元気に立ち上がるが、ふらりと体が傾く。ローレンスが支えて再び座り直した。
「お前は悪霊に憑かれていたんだ。もうしばらく休んでおけ」
「ええっ、オラが悪霊に!? なんつうことだ、恐ろしや……」
「悪いが、話だけ聞かせてほしい。どこで取り憑かれたかわかるか? 体調を崩した場所は?」
彼は青い顔をしながらも教えてくれた。
「ここ最近は体が重くて頭もろくに働かなかったが……体調が悪くなったのは聖都にいた時かなあ」
やはり聖都に何かあるのかと気を引き締める。ローレンスは旅人をベッドに寝かせて、シーツをかけてやりながら尋ねた。
「具体的に、聖都のどのあたりにいた時に体調が悪くなりましたか」
「確か、あの日は墓参りに行ったんだっけなあ」
「墓か……」
墓は霊牧師が一番警戒している場所であり、一番悪霊に取り憑かれやすい場所だ。しかし聖都勤務の優秀な霊牧師達が、墓参りの帰りに悪霊に憑かれた人間を取り逃がすとも思えない。
やはり聖都の霊牧師達に何かあった線が濃厚になってきた。
(だとすれば応援が必要だろうか……嫌だなあ、聖都にはアイツがいるだろうし。しかし村にこもって何もしないというのも、後々面倒なことになりそうだ)
腕を組んで考え事をしている間に、ローレンスが木製の扉の様子を確かめにいく。
「よかった、鍵は壊れていないようですね」
幸運にも扉は破損しなかったようだ。いつまでもここにいる訳にはいかないと、旅人に別れを告げる。祓ってもらえてありがたいと、少なくない額の謝礼をいただいてから宿を出た。
ローレンスはジルの隣を歩きながら、旅人がいる部屋の窓を見ている。
「悪霊がすでに人間に取り憑いていた場合、結界を通すことがあると聞きましたが本当なんですね」
「ああ、深くまで潜り込まれている場合、弾き出すことができないんだ」
「厄介ですよね。完全に同化すると暴れだして周囲に被害が及んでしまうし、そうなる前に祓えて安心しました」
だが、これで終わりではないかもしれないとジルは危機感を強めた。悪霊が流れやすい地形というものがあるらしく、チノン村には山を一つ挟んだ聖都から数多の霊が流れ込んできやすい。
眠る場所を無くして彷徨う無害な霊なら問題はないが、悪霊や生き霊などの害意ある霊が大量に流れ込んできた場合、村を守りきれない恐れがある。原因を探り元を断つために、聖都の霊牧師に加勢する必要があるかもしれない。
(行きたくはないが、聖都に行かざるおえないかもしれないな……ちょうど今なら弟子が独り立ちしたことだし、村を離れられる)
思い悩むジルに気づいたローレンスは、顔をのぞきこんでくる。
「どうかしましたか」
「いや、なんでもない」
「本当ですか? 何か悩んでいますよね」
金色の瞳が至近距離で瞬いて、琥珀を思わせる温かな色合いをまじまじと見つめてしまう。
(やはり、私よりお前の方がよほど綺麗だ)
長く見つめあっていることに一拍遅れて気づき、彼の肩を押して離れる。
「おい、顔が近いぞ」
「ああ、すみません。つい引き寄せられてしまいました」
キラキラと瞳を輝かせるローレンスと距離をとりつつ、ため息を吐く。こんな調子で毎日口説かれては堪らない。かなり年下の弟子のことを、恋愛対象として意識してしまいかねないと身震いした。
「牧場に行くぞ。理由はそこで話す」
ローレンスと二人で実家に向かうとちょうど昼時だったらしく、フランとトットはジル達を家に招き入れて昼食をご馳走してくれた。ローレンスの作る飯の方が美味いなと失礼なことを考えながら、母親の手料理をいただく。
ジルやトットが昔描いた絵や粘土で作った謎の作品をいまだに飾ってある、雑多な印象のリビング。そんな中でローレンスの上品さは妙に浮いているなと視線を向けた。
彼は一口大に切り分けたラム肉を品よく口に入れながら、なんですか? と目だけでジルに尋ねてくる。なんでもないと首を横に振った。食事を終えたタイミングで話を切り出す。
「実は少しの間、村をあけるつもりだ。こいつのことをよろしく頼む」
親指でローレンスを指し示すと、彼は目を見開いてジルを凝視する。トットは驚いて立ち上がった。
「兄貴、どこに行くんだよ!」
「聖都だ。心配するな、用事を済ませたらまた帰ってくる」
「待ってください師匠、僕も行きます」
「却下だ。お前はここに残れ」
「そんな……」
二人きりで話をしたら口の立つローレンスに丸めこまれてしまうかもしれない。トットは怖がりだからローレンスを引き止めてくれるだろうと視線を向けると、彼は案の定弟子に情けない声をかけた。
「ローレンス、お前まで行くとか言うなよー! 村に残ってくれよ、な?」
「トット兄さん……」
幼い頃から世話になっているトットに縋られて、嫌とは言えないだろう。この調子で丸め込んでしまおうと口を開いたところで、フランが口を挟んだ。
「よしなトット、みっともないねえ。ジルのことだから、普段から不測の事態に備えて色々準備してくれているだろう。ちょっとの間、霊牧師が村にいなくたって大丈夫さ」
「でもさ母さん、悪霊が村に入ってきたらどうするんだよ? ターニャや前の霊牧師様みたいに、悪霊に殺されちまうかもしれないんだぞ?」
「この子が嫌々聖都に行くって言ってるんだ、どうしても行かなきゃならない用事があるんだろう。ねえ、ジル?」
チラリと視線を送られて、重々しく頷いた。
「ああ。このまま放っておくと村に危害が及びかねないからな。根本を断つ必要があるんだ」
「やっぱり、何か危険なことがあるんだね。だったらローレンスも連れておいきよ」
「ど、どうしてそうなる」
まさか母にローレンスを連れて行くように勧められるとは思わなかった。もっと説得を頑張ってくれとトットに視線を送るが、彼はオロオロとフランとジルを見比べるばかりで口を開こうとはしない。
頼りにならない奴めと心の中で悪態をつき、腕を組んで母と相対した。
「危険だからこそ、ローレンスを村の守りとして残していくんだ」
「だったらなおさらアンタ一人で行くより、ローレンスがいた方が安全じゃないか。アンタになんかあったら、それこそ村のみんなが悲しむよ。あたしだってそうさ」
「そうですよ師匠、もっと自分の身の安全についても考えてください」
「だが、村に何かあったら、私は」
後悔してもしきれないと額に手を置き目を伏せた。十七年前の惨劇……当時の霊牧師とターニャを亡くしたような事件を再び起こしてはならないと肩を震わせていると、隣に座っているローレンスが支えるように手を置いた。
「何事も起こらないように、しっかりと守りを固めてから向かいましょう。僕と師匠の霊力を注いだ聖具で、二重三重に堅牢な結界を作っておけば、きっと大丈夫です」
「……師匠の言うことは黙って聞いておくべきだと思わないのか?」
確かに、普段から不測の事態が起こっても問題ないように準備はしてある。だがしかしこのまま説き伏せられるのは納得がいかないと、恨みがましく睨めつけた。
「思いませんね。黙っていたら師匠の身が危うくなるとすれば、なおさらです」
「私は弱くないぞ」
「霊相手ならね。でも、山で盗賊が出たらどうします?」
返す言葉がなかった。ジルは自身の才能を霊牧師としての方向に全振りしているので、剣の腕はからきしだ。盗賊に勝てる自信なんてこれっぽっちもない。机に突っ伏しそうになりながらも、なんとか反論する。
「それでも、お前は聖都に行くべきじゃない……」
聖都にはターニャが死ぬ原因となった犯人がいるかもしれない。村の人間は皆ターニャは不幸にも悪霊に取り憑かれて死んだと思っているが、ジルは知っている。
霊牧師だった彼女を殺せる霊はそういない。誰か悪意をもった人間が、わざとターニャに霊を取り憑かせたのではないかと疑っていた。
ターニャは死ぬ間際、赤ん坊のローレンスと一緒に手に収まらない大きさの空の木箱を持ち歩いていた。
持ち運びにくい箱を赤ん坊と一緒に抱えていたのが不自然だったため、犯人への手がかりになるのではと踏んでいる。
しかしローレンスが生きていると気づけば、ターニャの息子である彼の身にも被害が及ぶかもしれない。だからこそジルは決して村から出ず、ローレンスを聖都の神学校にも行かせずに、手元で守りながら育ててきた。
「師匠、僕を心配してくれているんですね」
彼には事情を話していないが、薄々何かあると勘づいているらしい。優しげな金の瞳に見つめられて、気恥ずかしくてふいと視線を逸らした。
「心配いりません、もう僕も一人前の霊牧師となりましたから。貴方の隣に立って共に戦い、大切な人を守りたいんです」
その大切な人はジルを指しているのだろうと気づき、言葉に詰まる。本当に立派になったという感動と共に、冷え固まった心が温められるのを感じた。
いつまでも煮え切らない態度のジルを、フランは呆れたように叱りつける。
「ローレンスがこれだけ言ってるんだ。連れていってやりな」
「……」
「ほんっとうにアンタは意気地なしだねえ。危険だなんだって言ってるが、アンタが聖都に行きたくないのはそれが理由ってわけじゃないね。どうせ振った相手と会うのが気まずいんだろう」
「え?」
ローレンスが顔をのぞきこもうとしてくる。反対側に顔を背けた。
「おや、ローレンスは初耳だったかい? 聖都でいい人に出会わなかったかって聞いた時に、告白されたとかなんとか言ってたよ」
「ああ、兄貴は黙っていれば綺麗で清楚な感じだもんな。男に告られたって聞いて納得しちゃったよ」
肩に添えられたローレンスの手に力が入る。思わず弟子の顔を見返すと、彼は迫力のある笑顔をジルに向けた。
「ジル。絶対に行きます。何があっても貴方について行きますから」
もう万に一つも説得の可能性が残されていないことを悟って、ジルは今度こそ机に突っ伏した。