不穏な気配
努めて普段通りに聞こえるよう、声を震わせないように細心の注意を払って返答した。
「あーあ、どこで育て方を間違えたんだ。もう一度ちっちゃくなってくれ」
「無理ですよ。貴方が育ててこうなったんだから、責任とってくださいね」
「いや、絶対に私のせいではない! お前が元から捻じ曲がっていただけだ!」
(ああターニャ、お前はあんなに素直だったのに、息子はどうしてこんなに捻くれているんだ)
本当に、どこで育て方を間違ったのだろうか。弟子に口説かれる師匠なんて聞いたこともない。意気消沈しながら教会の隣にある一軒家へと戻った。
ローレンスは普段通りに昼食を作り、昨日までと同じように教会の清掃に向かった。その背中を複雑な思いで見つめた後、ジルは作業場にこもって使えなくなった聖具を分解し、徹底的に穢れを落として使える状態に戻していく。
棚のケースを数えて、一ヶ月は保つ量の聖具があることを確認した。作業場からリビングに移動し、ジルの作ってくれた夕食を食べる。食器を片付けているとローレンスが近づいてきた。
「寝る前に肩でも揉みましょうか」
「いらん、人を老人扱いするなと言っただろう」
「老人扱いしている訳ではありませんよ、師匠を敬愛しているから労りたいだけなんです」
にっこりと笑うローレンスを半眼で見上げる。
「お前、嘘をついているだろう」
わざとらしいほどの笑顔を指摘すると、彼は気まずげに頬を掻いた。
「あれ、バレてしまいましたか。本当は師匠に触りたかっただけだと」
「……馬鹿なこと言っていないでお前も手伝え」
ローレンスは今までにも、ジルを気遣って肩を揉もうかと申し出ることがあった。時々お世話になっていたが、いったい何を考えながらジルの肩を触っていたのだろうか。
(私も年頃の頃はターニャとどうにかなることを夢見ていたが、ローレンスは私相手にあんなことやこんなことを考えていたというのか……?)
とても具体的に思い浮かべたくないあれやそれやの妄想が、ローレンスの顔で再生されそうになり慌てて思考を打ち消した。
「あれ師匠、袖が擦り切れていますよ」
「そろそろ替え時だな。仕立て屋に新しいものを頼んでおいてくれ」
「はい。古着は僕が処分しておきますね」
いつものやりとりをしてしまった後で、この調子では当分追い出せなさそうだとため息をつく。
無言で皿洗いをし終えた頃に、ローレンスは欠伸を噛み殺した。
「そろそろ寝ます。おやすみなさい師匠。最近夜は冷えるので、温かくして寝てくださいね」
「お前に言われるまでもなくわかっている、いいからさっさと寝ろ」
「はい、それでは祝福をお願いします」
ローレンスは身をかがめて頭をジルの前に差し出した。いつもと同じように撫でようとして、ぴたりと手が止まる。
「……待て。お前はもう一人前になったのだから、霊力を毎晩注ぐ必要はないのではないか?」
霊牧師の素質を持つ者は霊力に目覚めた十代初めの頃から、成人するまで霊力が成長し続ける。霊牧師の師匠が弟子の頭に手を置いて霊力を送ることで、より成長を促進することができる。
半年前からローレンスの霊力は成熟しはじめ、ほとんど成長しなくなっていた。成人したことだしもう必要がないなと頭に置きかけた手を下ろすと、惜しむように目線が手を追いかけてくる。
「師匠の聖なる御手から注がれる霊力は素晴らしく癒されますし、できればこれからも祝福を授けていただきたいのですが」
名残惜しいのはジルだって同じだ。けれどそろそろお互いに師匠と弟子ではなく、対等な霊牧師として距離を保つべきだろう。
(少し、いやだいぶ寂しいが……ここは心を鬼にして言い聞かせないと)
なるべく威厳がある風に見えるよう、胸を張って声を出す。
「何を言っている、もう子どもじゃないんだ。今度からはローレンス、お前が霊牧師として人々に霊力を注ぐ立場になるんだぞ」
片腕を腰に当てて注意すると、彼は目を見張る。
「ということは、僕が師匠に祝福をしてもいいんですか?」
「駄目ということはないが……」
霊牧師が霊障に侵されることだってあるから、ローレンスがジルを癒すことだってあってもおかしくはない。けれど差し当たって必要な訳でもないと断ろうとするが、その前に手のひらが頭の上に置かれた。
「ジルにあまねく幸福が降り注ぎますように、安らかな夢が訪れますように」
温かな声音で紡がれる祝福は愛に満ちていて、ジルは目を見張った。じんわりと指先から伝わる体温と、温かな霊力が肌に心地よい。確かにこれは癖になると、子どもの頃以来の按手にぼんやり感じ入る。
ローレンスは慣れないことをして気恥ずかしいのか、はにかむように笑ってから銀の髪を一筋撫でて手を離した。
「それでは師匠、また明日」
「あ、ああ……」
自室へと戻っていく弟子の背中を見つめながら、触れられた前髪を指先でなぞる。今日だけで何度あの大きな手に触れられたことだろう。よく育ったなと感慨深く思うのと同時に、どこか落ち着かないような気分にさせられる。
(あいつのせいだ、ローレンスが変なことを言うから)
結婚したいだなんて。愛する人の危機に気づけず守れなかったジルには、もう人を愛する資格なんてない。だからどれほどの熱量を持ってローレンスに口説かれようとも、ジルは決して応えるつもりはなかった。
ローレンスは魅力的な男性だと思う。艶めく黒髪に稀有な金の瞳、微かに笑った顔は上品で、けれど穏やかなだけではなく力強さも秘めている。彼相手に本気で恋に落ちる人間は多いだろう。
だからこそ、彼はジルではなく別の相手と幸せになるべきだ。弟子だとか、同性だとか歳の差があるのだってもちろん問題だが、それ以前にジルは誰であっても恋愛する気はないのだから。
ローレンスのことを愛してくれる他の誰かが現れればいい。
村の女性達への対応やジルに向ける世迷いごとの数々を思い浮かべると、そうなる未来はまだまだ先だろうなとため息を吐いた。一枚布のローブのような寝衣に着替えて寝床に入る。
……聖都とは逆側の森から聞こえる虫の鳴き声が、今日はやたらと耳につく。何度寝返りを打っても一向に眠気が訪れない。目を閉じると浮かんでくるのは、今朝から態度が豹変した愛弟子のことばかり。
昨日までは好きだの愛してるだの言われなかったし、そんな素振りすら見せなかった。頻繁に触ってもこなかったし、極めて普通の師弟関係だったはずだ。
けれど冗談にしては度がいき過ぎているし、そもそも人を弄ぶような嘘をつく性格ではないとわかっている。本気だと認めたくなくて頭を抱えた。
(これから毎日、あの調子で口説いてくるつもりだろうか)
口の上手い弟子にうっかり交際を肯定する返事を引き出されるのではないかと考えて、ブルリと背筋が震える。
教会で迫られた時に同居の拒絶ができなかったことが、大いなる失敗を犯したように感じて今更ながら心配になってきた。
(そうだ、あいつからしたら想いを寄せる人と二人きりで一つ屋根の下にいる訳だ。今日からは成人だと遠慮なく迫ってこられたら、避けられないのではないか)
背も体格もジルよりよほど立派に育ち、霊力だってすでにジルを越えている。退霊技術では負ける気がしないが、力づくで襲われたら勝てないかもしれない。
そうだ、あいつは剣を習って身体も鍛えている。もしも血迷ったあげくに夜這いでもかけられたら、手込めにされてしまうかもしれない。
(いやまさか、ローレンスがそんな卑劣な真似をするはずがない……と思いたいが、昨日から様子がおかしいしな。無いとも限らないのかっ!?)
危機感を感じながら何度も何度も寝返りを打つ。ああ眠れない、全然眠れそうにない。
扉の方に全神経を集中させて、物音がしないか神経を張り巡らせる。自室に鍵を取りつけなかったのは失敗だったと悔やみながら、ジルは長い夜を過ごした。
*****
「……う、師匠、起きてください、ジル!」
「夜這いか!?」
「はい?」
戸惑ったような声が上から降ってくる。ジルは急いで身を起こした。まだ日も昇りきっていない時間帯のようで、暗闇にうっすらとローレンスのシルエットが浮かんで見える。
「何を寝ぼけているんですか師匠、起きたのなら身支度をしてください。トット兄さんが呼んでいます」
「トットが?」
「ええ、なんでも結界の方から大きな音が聞こえたとか。僕も着替えてきますから、師匠も準備が終わったら声をかけてください」
結界と聞いて一気に目が覚めた。昨日見回りをした時に万全に守りを固めておいたはずなのに、まさか悪霊に破られたのだろうか。ベッドから抜け出てクローゼットの前にすっ飛んでいく。
夜着の裾をたくし上げようとしたところで、何か言いたげな顔で扉の前に佇むローレンスと目があった。その頬が僅かに赤くて、居心地悪く服から手を離す。
「何見てるんだ、お前も準備するんだろう?」
「……夜這い、してほしかったんですか?」
一瞬言われた言葉の意味がわからなくて大きく目を見開き、次の瞬間目の前にあったローブを掴んで彼に向かって投げた。
「そんな事あるはずがない! 戯言を言っていないで早く行け!」
「っふ、わかりました」
隠しきれていない笑い声を聞いて、頭に血が昇る。八つ当たりするように音を立てて扉を閉めると、猛然と着替えはじめた。
十字架を首から下げて、聖水を懐に忍ばせる。聖銀でできたナイフを携えて、念の為に聖具を作業所から持ちだす。着替え終えたローレンスと合流した。
紫紺から徐々に明るく色を変えつつある空を見上げて、霊の侵入がないか確認する。
「村には入り込んでいないようだな。音が聞こえたのはどこだ?」
「牧場の山側だそうです」
夜目の利くローレンスを先頭に据えて、朝の冷えた空気を切り裂きながら走って現場に駆けつける。怯えた顔のトットが道端で待っていた。
「兄貴! あっちの方から笛みたいな音が聞こえたんだ。様子を見てもらっていいか?」
「ああ。お前は家に戻ってろ」
「はー怖い怖い、どうか何事もありませんように」
トットは大袈裟に怖がりながら家にすっ飛んでいく。警笛が聞こえたという牧場の端まで行ってみると、聖銀に穢れが憑いていた。どす黒く色を変えている。
「悪霊だ」
ジルの固い声を聞いて、ローレンスも表情を引き締める。
「今はどこへ?」
「気配が消えている……結界に弾かれて消滅したようだな」
聖銀に霊力を注ぐが、一朝一夕では穢れを消すことができなさそうだ。解体して時間をかけて整備するしかないと、持ち帰ることにした。新しい聖具を地面に埋め直す。
「どこから来たのでしょうね。聖都でしょうか」
ローレンスは闇と同化していてほとんど見えない小山の方角を、目を眇めて見つめた。山の向こうには聖都がある。
「どうだろうな……このところ、本当に多い」
「例年より明らかに活発化していますよね。警笛が鳴るほどの大物が出るなんて、何年ぶりでしょうか」
嫌な感じがするなと、ジルは眉間に皺を寄せ腕を組む。ただの季節性による霊の活発化ではなく、他の原因による可能性がある。
山で旅人が亡くなったなど一時的な原因であればまだいいが、聖都から悪霊が来ているとなると、すぐには解決できない厄介事が起こっているのかもしれない。
悪霊が村に入り込めば一大事だ。小さな悪霊なら結界に弾かれるし、もし誰かに取り憑いたとしても体調不良になる程度で済むが、力のある悪霊が出た場合は最悪死人が出ることもある。
人の足では大変な山道も、霊体であればやすやすと乗り越えられてしまうから困ると歯噛みした。
(本当に聖都から悪霊が流れてきているとしたら、聖都の霊牧師達は何をしているんだ? 奴らでも対応できない事態に陥っているのだろうか)