按手霊式、そして
純白のローブを身につけたジルは光の差し込む教会の壇上にて、目の前で跪く愛弟子ローレンスの頭に手を伸ばした。手触りのいい黒髪が指先に触れる。
(ついに、この日が来たんだな)
ローレンスにとって、そして彼の師匠であるジルにとっても特別な、二人きりの按手霊式だった。
こじんまりとした教会に、整然と並んだ会衆席の端には、村の娘が贈ってくれた白い野花が飾られている。
空気中を舞う埃の粒までもが煌めいて、瞬くように明滅する様は音のない拍手のようにも感じられた。まるで空間全体がローレンスの門出を祝っているかのようだ。
「御霊を安寧に、汚れなき聖服を不可侵に保ち、人々に慈悲を示せ」
ジルは厳かな声音を装いながらも、心の中では感涙に打ち震えていた。霊牧師の正装である白のローブを着ている彼を感慨深く見下ろす。
(ローレンスは本当に立派になった。あの小さかった赤ん坊が、私より大きく育って成人を迎えるなんて)
彼の秀麗な面立ちを見つめて、あどけなさの欠片もない涼しげな目元やキリリとした頬の輪郭に、一抹の寂しさを覚えた。二人で過ごした日々が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
子育てなんて初めてで勝手がわからなかった幼少期は、対応を間違えて泣かせてしまったローレンスをあやすために、腕が筋肉痛になるまで抱えて村中を散歩した。
師匠が大好きだと無邪気に懐いてくれた少年期には、霊牧師の教えを説くと素直に実践してくれた。めきめきと除霊の腕を上達させていく彼の才能に舌を巻いたものだ。
そして、急に大人っぽく生意気になった思春期。彼は敬語で会話をするようになり顔色を取り繕うことを覚えていく。ジルを言葉巧みにからかうようになり、少年の頃の素直さはどこにいったのかと嘆いた。
さらに忘れもしない成人前、ついに背が抜かされてしまった時のことだ。師匠って小さかったんですねと何気なく告げられた時には、本気の喧嘩をしてしまった。
なかなか怒りが収まらないジルに対し、最終的にローレンスが折れて謝ってくれて、大人の面目が丸潰れになり恥ずかしい思いをした。
どの思い出も今となっては儚くも懐かしい、かけがえのない宝物だ。
思い出しているうちにそれなりの時間が経っていたようだ。いけない、口が止まっていたなと我に返る。
問いかけるように金色の瞳を上げたローレンスに、なんでもないと目で返し首を左右に振ると、後ろで一つに括った銀の髪が背中で跳ねた。澄ました顔で儀式を続ける。
「本日を持って、汝を正式に霊牧師として任命する」
手筈通り立ち上がった彼は、ジルの目線が顎に来るほど背が高い。立派に育ったなあと感慨深く見上げながら、彼の両腕に激励するように手を置きニヤリと笑いかけた。
「喜べ、弟子よ。お前は今日から一人前だ」
「ありがとうございます、師匠」
ローレンスは頬を紅潮させながら笑った。いつもは胡散臭い笑みを貼りつけがちな彼だが、今日ばかりは取り繕う余裕がないほどに感動が優ったのか。
本当によかったなあと、じんわり胸の底から嬉しさが滲み出してくる。
「お前の努力の賜物だ」
腕を何度か叩いて激励し、手を降ろそうとすると感極まったように右手を両手で握られた。
「師匠、僕を正式に一人前だと認めてくれるのですね」
「ああ。間違いなく」
どうも普段の調子が狂うぐらいに感動しているようだ。一生に一度のことだし心が揺れ動くのも無理はない。安心させるように力強く肯定する。
しかし次に彼の形のいい唇から飛び出した言葉は、信じられないものだった。
「でしたら、結婚してください」
……今何か、空耳が聞こえた気がするなとジルは現実逃避をした。空気中に舞う埃の粒が、壇上から退散するように教会入り口の扉へと流れていくのを目で追う。
昨日掃除したんだが足りなかっただろうかと考えていると、ローレンスが重ねて問いかけてきた。
「師匠、聞こえていましたか? 結婚しましょう」
「……ちょっと待て」
ジルは頭を抱えた。銀色の前髪がさらりと揺れて、額に触れた指にかかる。色素の薄い灰色の瞳は往生際が悪く埃の粒を追いかけていた。
(本気だろうか、いや、冗談で愛だの恋だのと口にするヤツではない……)
あまりにも女に興味がなさそうだから、恋愛のれの字もわからない朴念仁なのかと心配していたが、まさか。ヒヤリと額に汗が伝う。
「その、なんだ。お前は私に惚れているのか?」
「はい」
「酒場のお色気給仕でもなく、村一番の美人娘でもなく、この私に?」
ローレンスはきりりと眉を上げて、真面目な顔で言い募る。
「何をおっしゃいますやら、村で一番美しいのは貴方でしょうに。いえ、村どころか、王国一の美貌と誇っても遜色ないかもしれません」
からかっている訳ではなく、本気で言っているようだと理解してしばし固まった。ローレンスは今まで口説くのを我慢していた反動なのか、怒涛の勢いでジルを褒めちぎる。
「絹糸のような銀の髪はまるで聖銀のように穢れなき美麗さで、神秘的な薄灰色の瞳は心の奥まで見通す心眼のように冴えている。聖言を唱える姿は精霊のように麗しい。貴方ほどに美しい人を、私は見たことがありません」
酷い言われように耳を塞ぎたくなった。確かに見た目はいい方だろうと自覚しているが、国一番とは言い過ぎだ。遠い目をしながら訂正する。
「私は霊牧師だ、精霊ではない」
人々を悪霊から守り、善良な魂が悪の道に堕ちないように導くことが霊牧師の仕事だ。そんな吹けば飛びそうな存在に例えられては困る。
「知っていますよ、嫌というほどに」
強調するように顔を近づけて笑いかけられ、言葉に詰まる。今まで一度として口に出したことはないが、艶のある黒髪、蠱惑的な印象を放つ金の瞳に負けないほどの凛々しい美貌を持つローレンスの方が、ジルにとっては美しいように思えた。
村の女性から熱っぽい視線を向けられる光景を目撃する度に、うちの弟子は顔がいいなと常々思っている。
「お前、いつから私が好きだったんだ」
子どもの頃に大好きだと言われたことはあれど、あんなのは物の数に入らないだろう。恋愛的な意味で好かれているなんて寝耳に水すぎる。手を振り払い一歩下がると、彼も話しながら一歩距離を詰めてきた。
「十五年前からです」
思わず足が止まった。至近距離にある顔を目を見開きながら見つめる。
「三歳から私のことが好きだったのか!?」
「はい」
「お前それは、刷り込みか何かだろう。庇護をもらって懐いただけだ」
まつ毛が長いなあと思って、唇が今にも触れあいそうなほどに近いことを自覚した。慌てて離れると腕を掴まれる。
「いいえ、そんなはずはありません。貴方が好きだと思うこの心は本物です。愛しています、ジル。結婚してください」
必死に紡がれる言葉は真に迫っていて、ジルはたじろいだ。
ジルと呼ばれたのは彼が思春期の頃以来だ。呼ばれる度に生意気だと怒って師匠と呼べと怒鳴り返していたら、いつの間にか呼ばれなくなっていたんだっけ。
実際に呼ばれなくなって少々寂しい思いをしていたが、だからといって愛の告白と共に呼ばれたい訳じゃなかったのに。
いや、過去の思い出に浸っている場合じゃないと、眉を釣り上げてローレンスを見返した。
「却下だ。私は誰とも恋愛する気はない。ましてや弟子など論外だ。さあ、わかったら出ていけ、お前は晴れて自由の身となったんだ」
腕を振って今度こそ彼の手を引き剥がし、壇上から降りる。ローレンスはしつこく食い下がってきた。
「貴方と共に村を守る霊牧師になります」
「いらん、チノン村には私がいる。こんな小さな村に霊牧師は一人いれば十分だ。旅に出て修行でもしてこい」
「いいえ、どこにも行きません。だって師匠、僕がいないとまともにご飯を食べられないでしょう。今年の春だって山菜狩りに僕を置いて勝手に行った挙句、毒きのこに当たって苦しんでいましたよね」
ギクリと肩を跳ねさせて、足を止めて振り返った。
「あれはたまたま見分けがつかなかっただけで、普段は大丈夫なんだって」
「それだけじゃありません。僕が風邪を引いて三日ほど家事ができなかった時は、家をゴミ屋敷に変えようとしていましたよね」
「……そんなことは」
あったかもしれないと目を逸らす。決してゴミ屋敷に変えようと思った訳ではないのだが、結果的にそうなってしまったなと思い出し遠い目をしていると、ローレンスも壇上から降りてジルを追いかけてくる。
「師匠のすごいところも駄目なところも、僕には全部お見通しなんですから。意地を張らなくたっていいんですよ」
白いローブを纏った神秘的な姿をジト目で見上げると、優しい苦笑が返ってきた。
「頼ってください。貴方のことが心配だし、愛しているから側にいたいんです」
「……っ、弟子に心配される謂れはない」
「もう弟子ではないですよね、貴方が一人前の霊牧師として認めてくれましたから」
胡散臭いほどに満面の笑みを向けられて、ジルは衝動的に言い返した。
「ああクソっ、口が減らないな……っ! もういい、勝手にしろ!」
「はい、勝手にします」
声を弾ませるローレンスを前に、ジルは大きなため息を零した。
**2**
チノン村の朝は早い。皆、日の出前から起き出して家畜の面倒を見たり、畑仕事に精を出す。ジルとローレンスが外出した午前の遅い時間は、ちょうど彼らの休憩時間と重なったらしい。
秋の涼しい風が吹き抜ける小道を歩いていると、村人の一人がこちらに気づいて手を降ってくる。
灰色の見習い服ではなく白いローブ姿のローレンスを見るなり村人達が寄ってきて、口々に祝いの言葉を送った。
「ジル様、おはようございます。おおローレンス、お前さんついに一人前になったか!」
「よかったな、めでてえなあ」
「ありがとうございます」
弟子は笑顔で村人にお礼を返す。宿屋や小売店がある村の中心部に差しかかると、噂話に花を咲かせていた村の乙女達がローレンスを目掛けて突撃してきた。
「ローレンス様、霊牧師となられたのですね、おめでとうございます!」
「ええ、ありがとうございます」
「絶対ローレンス様ならすぐに一人前になるよねって、みんなで噂してたんです」
「今度私にも祝福を送ってくださーい!」
きゃあきゃあと黄色い声で騒がれて、相変わらずだなとジルは肩を竦めた。年齢の割に落ち着きがあり、霊牧師という尊敬を集める職についたローレンスのことを、村の乙女達は結婚相手として狙っているのだ。
「はい、安息日に教会にお越しいただければ、対応致します。迷える子羊を救うのは、霊牧師の使命ですからね」
熱っぽい視線を向ける村一番の美人に、ローレンスは微笑を浮かべながら事務的な対応をする。
「やだー、個人的に頭撫でて祝福してもらいたいのに」
「私はジル様にお願いしようかな」
「ちょっと二人とも、そんな目的で祝福を受けちゃ駄目でしょ? 祝福は悪霊が寄ってこないようにするものだからね」
「ええ、あなた方の無事を願って祝福させていただきます」
ローレンスは卒のない笑顔で女性達と受け答えをしている。ジルはその様子を一歩離れたところから半眼で眺めていた。話を切り上げて人々の視線が逸れたタイミングで、ローレンスの脇腹を肘で小突く。
「お前な、こんな日くらいちゃんと笑えよ」
「笑ってますよ」
「馬鹿言え、そんな貼り付けたみたいな笑顔をしておいてよく言う」
ジルはローレンスが滅多に本心から笑うことがないと知っていた。ジルの前でなら時々笑い転げることがあるものの、村人に対してはいつだって愛想笑いをしている。
ローレンスは困ったように眉根を下げた。
「そんなことを言われましても、嬉しくもないのに本気で笑うのって難しくないですか?」
「だからなんでお前はそんな冷血漢なんだ、人の心はないのか」
「ありますよ。僕の愛はすべて師匠に捧げているんです」
「……」
「感動しました?」
「呆れているんだ、馬鹿者」
しつこいくらいに口説いてくるが、本気だろうか。昨日までは普通に弟子として暮らしていたのに、どういう風の吹き回しだろう。
今だって教会で見せた心からの笑顔ではなく、真意の見えない笑みでジルを見つめている。からかわれているのではないかという疑念が、腹の中でトグロを巻いた。
「さっさと行くぞ」
つきあいきれないと足を早めるが、ローレンスは遅れずに悠々と長い足を動かして追従してくる。己の足の短さが憎いと心の中で悪態をつきながら、ムキになって早足で歩いた。