5、この穏やかな暮らしには期限があると理解していたつもりでした
アデラインがセオドアに叱られた次の日の夕食後、けれど彼女はやはり書庫にいて黙々と魔法書を読んでいた。学生時代であれば難なく読めたであろう専門用語が、所々分からないのだ。分からない単語が出てくる度に、別の本でその単語を調べる必要がある。しかしそれはアデラインにとって何の苦にもならなかった。むしろ忘れていた単語を思い出す度に、学生時代を思い出して懐かしく楽しい気持ちになれた。
そうしていると、どうしても時間を忘れてしまうのだ。書庫の扉が行儀悪く大きな音を立てて開いてやっとアデラインは顔を上げたが、出入口で仁王立ちしているセオドアを見つけ意味もないのに思い切り顔を背けた。
「アデライン、書庫から出ろ」
無表情のままのセオドアが静かにそう言ったのに対し、アデラインはぎゅうと魔法書を抱えた。
「あとちょっと、あとちょっとなんです……!」
「アデライン!」
「うううー!」
「威嚇するな!」
ここで、物分かりよく「はい」とだけ答えればいいということはアデラインにも分かっている。それでも、魔法書を手放したくなかったのだ。これが甘え以外のなにものでもないことを、アデラインだって理解している。両親や兄姉にさえこんな子どもっぽい我儘を言ったことはなかったのにと、言ってしまったあとに後悔をするのが分かっていても止められなかった。
学生時代から似たような我儘を言って困らせては、けれど自身を許すセオドアだって悪いのだと責任転嫁までしてやっぱり自己嫌悪に陥るまでがセットだ。アデラインはそんな自分をもう諦めて、見放されたならその時なのだとやさぐれてもいる。
そういうアデラインの心中を知ってか知らずか、セオドアははあとわざとらしくため息を吐いた。
「わずか二日でこうなるとは……」
「だって、だって……」
「だってじゃない」
「セオドア様のお家の蔵書がすごすぎるのが悪いと思います!」
「ううん……。どう叱るべきか、いや、ギデオンに言うべきか……」
額を押さえながら頭を振るセオドアに、アデラインは苦い顔をした。ギデオンとは、アデラインの兄の名前である。とはいえ、兄を出されたところでアデラインには痛くも痒くもないのだが。
「……お兄様はわたくしの味方ですもの」
「まったくだ、あのシスコンはなんにもならない!」
「ひ、人の家の跡取りを捕まえてシスコンって……」
「自覚はあるだろう」
「ありますけど……」
そう、ギデオンはそれなりにシスコンだった。長子であり優秀な跡取り息子であるギデオンは、二人の妹をよく可愛がった。快活で豪快に笑う見たとおりにさっぱりとした性格のギデオンだが、二人の妹のことになるととたんに目が据わる。
ギデオンに家族の話を振ると、「俺の妹は可愛い」から始まり「この前、前髪を二センチ切ってその可愛い顔が見やすくなって」「上の妹は三歳の頃から裸馬に乗って」「下の妹はおしとやかでものをよく知っていて」と、自慢話が延々続く。アデラインは末っ子だが、アデラインのすぐ上の姉であるジェンナはそんな兄が少し煩わしかったらしく、留学を決めた理由の一つになってしまったくらいだ。兄妹仲はとてもいいのだが、それでも煩わしいものは煩わしいらしい。
けれど、アデラインにとってギデオンは無条件で彼女を信じ守ってくれる人だった。セオドアと意見がぶつかったとして、ギデオンは常にアデラインの味方だ。多少道理のとおらないものでも味方でいてくれるので、そういう時はさすがのアデラインも乱用はしていない。アデラインは変なところで真面目なのだ。そしてセオドアもそれを知っている。
「アデライン、君は昔から賢い人だった。だから、俺が言いたいことは分かるな?」
「も、もう少しだけ、あとちょっとでキリがいいところなので……」
「分かるな?」
にこりを笑いながら圧をかけられてアデラインはしょんぼりと肩を落とし、魔法書を机の上に置いた。
「……はい、今は夜のお散歩の時間です」
「そうだ。では、何故約束の時間に書庫にいる?」
「ぎ、ぎりぎりまで、読んでいたくて……」
「で?」
「片づけます……!」
「そうだな」
セオドアとまるで子どもと親のやり取りをしてから、アデラインは渋々席を立った。夕食後の散歩はいつも食休めをしてから行っていたので、その時間に書庫に来たのが駄目だった。読書が止まらなくなることを分かっていたのに、自制ができなかった自身が悪かったのだとアデラインは反省をした。
アデラインがとぼとぼと本棚まで行き魔法書を片付けようと、少し背伸びをして手を伸ばす。アデラインの身長よりも随分高い位置にある棚なので、取った時は指先でちょいちょいと引き出したのだ。台を持ってくるとか使用人に頼むとか、やりようはいくらでもあり行儀のいいことでもないが、少しくらいならいいだろうとアデラインはぐっと手を伸ばした。しかし結局その魔法書は、後ろから付いて来ていたセオドアがさっと棚に押し込んでくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「構わない」
そうだ、そういえばセオドアがいたのだから頼めばよかったのに。そうアデラインが自分自身に呆れながら視線を下げたその時、セオドアが彼女の額に口付けた。
「っ! ……な、な!?」
あまりのことに、アデラインは額を押さえて声も出さずに猫のようにその場から飛びのいた。本当に飛び上がったアデラインを見て、セオドアはおかしそうに口に手を当てながら笑っている。
「無防備だな。俺は君を口説くと言ったはずだが?」
「~~!」
「はは、痛い痛い、怒らないでくれ」
アデラインが感じたのは、拒否感ではなく怒りだった。おそらく羞恥経由のその感情のままでセオドアを叩いてみるが、彼は笑うばかりで何も堪えている様子はない。アデラインは顔を真っ赤にさせながら一生懸命に口を開いた。
「きょ、許可もなく! 人に触ってはいけません!」
「分かった、次からは許可をとる」
「許可なんて出しません!」
「そうか、ではこれは?」
まるで何事もなかったかのように、セオドアはアデラインに手を差し出した。狼狽えているのはアデラインだけで、やっぱりセオドアはいつも通りだ。からかわれたのかと、アデラインは唇を尖らせる。けれどここでその手をはねのけてしまえば、また別の方向からからかわれそうだからと言い訳をしてアデラインはセオドアの手をとった。
「……手、くらいなら、いいです」
「よかった。ありがとう、アデライン」
「お礼を言われるようなことでは……」
「行くぞー」
アデラインの言葉を遮って、セオドアは歩き出した。繋いでいる手は別にいつでも振りほどけるが、それは今ではない。アデラインは、はあと息を吐いてセオドアについて行った。
本の続きが読みたくて駄々をこねたものの、アデラインは夜の散歩を気に入っている。星空が美しいからだ。本当なら夕食前に散歩に出てもいいのだが、それでは星が見えない。星は昔から魔法とかかわりが深く、しかし唯一アデラインの両親たちが嫌がらないものだった。星は道標でもあるから、騎士にとっても重要なものだ。大昔、まだ大っぴらに対立していた頃の騎士たちと魔法使いたちも、星の美しさをたたえる祭りだけは一緒に祝ったとされている。
「よし、今日は上るぞ」
高台の階段の下で、セオドアがそう言った。光る魔道具が設置されているおかげで、夜でも真っ暗ではないから上ることはできる。しかしもう何度か上がっているとはいえ、それでもアデラインにとっては大変な階段だ。けれど言い出したセオドアは止まらないし、確かに体力はつけておいて悪いことはない。アデラインはぎゅうと眉間に皺を寄せて覚悟を決めた。
「う、はい……」
「ほら、引っ張ってやるから頑張れ」
「はい……」
もとよりそのつもりだと、アデラインはセオドアの手をしっかり握った。
そしてアデラインはぐいぐいと引っ張られ、ぜえぜえと肩で息を荒くしながらなんとか階段を上り切ることに成功した。
「はあ、はあ、よし! 上り切りました!」
「大分、俺が引っ張ったがな?」
「でも初日に比べたら元気ですもの、素晴らしい進歩ですわ!」
「はは、そうだな。前向きなのはいいことだ」
「ふふん、でしょう?」
上ってしまえば、もうこちらのものだった。何がこちらのものか、アデライン自身もよく分かっていなかったが、こちらのものなのだ。遠くに見える街灯りは綺麗で、星空にも少し近づいた気がする。さわさわと葉を揺らす風は穏やかで、アデラインはとても気分がよくなった。
「あ、あそこのお花、蕾がそろそろ開きそうですね」
「ああ、早いものは咲きだしているな」
「え、どこです?」
「こっちだ」
セオドアが指さす方には、暗くて少し見えずらいが確かに色づいた花がぽつぽつとあった。初めの頃にセオドアが言っていた花たちは、もう少しで満開の時を迎えるのだろう。
「もう陽が落ちたから閉じているが、これはもう開花しているな」
「ふふ、小さくて可愛い。でもこれが全て咲いたら圧巻でしょうね」
「名物らしい」
「らしいって……」
「ここ何年も、この別宅には来ていなかったからな。最後に来たのは学院に入る前だから、その頃の俺は花の美しさには興味がそそられなくてね」
「そういうものですか」
「そういうものですな」
変に敬語にしたせいで、不思議な口調になったセオドアをアデラインが笑う。そしてそれを見たセオドアも笑った。
「なあ、アデライン」
「はい?」
「好きだ」
アデラインは静かに口を開き、けれど閉じた。何を言えばいいのか分からなかったからだ。確かに嬉しくて、それでも受け入れられない言葉だった。許されるなら泣いてしまいたい程度には、アデラインの心は乱れていた。
黙ったままのアデラインを責めるでもなく、セオドアはまた笑った。
「はは、口説くと言ったものの、どうすればいいのか分からなくてな。もっとこう、物語とかに出てくる騎士のように、とも思ったがどうともならん。……大体、騎士っていうのはもっと粗雑だぞ。あれはフィクションだ」
「……騎士が意外と粗雑、というのは、わたくしも知っています」
「そうだろうな、君の家にも騎士は多くいただろうから」
「ええ」
このまま、話をずらしてしまっていい。アデラインは卑怯にもそう考え、しかしゆるく頭を振ってその考えを否定した。セオドアに視線を戻さないままで、アデラインはゆっくりと息を吸った。
「何故、今なんですか?」
「君が俺の所に来てくれたから、だな」
「……来ないほうが、よかったです?」
「まさか。……療養中だからと動きが遅れたが、君が家出をしたと聞いたなら探しに行ったよ」
アデラインの口元が少し震えた。セオドアが自身を気にかけてくれていることが、嬉しかったからだ。それは偽れないアデラインの本心だった。そしてやっぱり悲しくなった。だって、二人の間には恋は生まれてはいけないのだ。実らないことが確定してしまっているのだから、その全てが無駄になる。
「無理です。無理だわ、そんなの……」
「アデライン、君も思うところがあるだろう。だから、すぐに返事をくれなくていい」
「……」
「だが俺は本気だし、君の為ならそうだな、何もかも捨てて別の国に行くのもいい。俺の腕なら冒険者としてどこででもやっていけるからな」
「そんなっ」
「はは、安心してくれ。そう思っていたのはアデラインの卒業式の日までだ」
アデラインは複雑な感情のままに黙り込む。怒りと安堵、そして寂しさ。そのどれでもありどれでもないようなもので、しかもその全てが身勝手に思えた。そんなアデラインからの視線に、セオドアも苦笑するしかない。
アデラインが卒業したその日、セオドアは彼女に会いに来ていた。そして冗談に聞こえるように軽く「生まれとしがらみの全てを捨てて、俺と一緒に来ないか?」と聞いたのだ。だからアデラインもわざと明るく笑いながら「冗談ばかり言って」と返した。そしてすぐに別れた。あれは、二人の最後の言葉遊びであり惜別だ。そう、それだけの筈だった。
「責めているわけじゃない。あの頃の俺は浅はかで、まだまだ考えが甘かったというだけだ」
「……」
「だが、あれから俺も少しは成長をした。……と、思う。いろいろな所に手を回して、いろいろな人に手を借りて、そしてチャンスも掴んだ。あの時とは違う。この国で、君のことを幸せにできる」
セオドアがあんまりにもきっぱりとそう言うので、アデラインは呆気に取られて目を見開いた。けれどすぐに視線をそらしてにこりと笑う。口の端が震えそうになったのは、自身でも気づかないふりをした。
「相当な自信でいらっしゃるけど、随分と抽象的ですね」
「まだ詳しくは言えないんだ、正式な発表があるまではな。……だが、信じてほしい。信じて、俺の手を取ってほしい。ただしその場合、確実に君は君の両親と決別をすることになるだろう。俺は、君にその決断を迫っている」
繋いだままの手に力が込められたが、アデラインは握り返さなかった。だって、アデラインはセオドアの言葉に応えるつもりがない。それは、できないことなのだ。
「すぐにとは言わない、まだ時間はあるからな。まあ、時間内に口説き落とされてほしいが、それも強要はしない。誓って卑怯な行為もしない」
「……それは、知っています」
「助かった、そこに疑念を持たれたらどうしようもないからな」
ふ、と屈託なく笑うセオドアに、アデラインの胸が高鳴る。アデラインは昔から、セオドアのこういう笑顔が好きだった。
「まあ、何だ、アデライン。俺なら君を閉じ込めたりしないし、贅の限りを尽くしたいというのならその分稼いでくる。君の為なら何だってできるさ。惚れた弱みというやつだな。だからつまり君は、君の為に俺を利用したっていいんだ」
「嫌な言い方をなさいますね」
「そうか? ……そうかもしれないな、けれど重要なことだ。その、俺は君にアピールできることが少ないから」
そんなことはない、と言いかけて、やはりアデラインは口を閉ざした。そして別の言葉を伝える為に、セオドアに向き直る。
「セオドア様は、ご立派な方ですよ」
「……古傷が抉られるからやめてくれ」
「古傷って何です?」
「こちらの話だ。さあ、戻ろう。そろそろ風が冷えてきたから」
「……はい」
繋がれたままの手は、アデラインがそのまま何も考えずに縋ってしまいたいと思う程度には温かくて大きかった。しかしそれはできない。どうしても、してはいけないことなのだ。
アデラインはぎゅうと唇を噛みしめた。
―――
告白の翌日、セオドアはいつも通りに朝食の場に現れ、普段と変わらずにすごしていた。だから、アデラインもそれに倣い何事もなかったように朝食を共にした。セオドアの優しさにつけ込んでいる自覚はあったが、そうする以外にアデラインにも道はないのだ。
それならばいっそのこと、とアデラインは開き直ることにした。開き直って朝食の散歩のあとはいつも通りに書庫に籠った。元々アデラインはそこまで繊細な精神の持ち主でないことを自覚している。そんな人であればおそらくあの家では生きていけなかっただろうし、泣き暮らして心の病にでもなっていた。
この屋敷に押しかけたその時はここまで大事になるとは思ってもいなかったが、それでも起こしてしまったことへの責任は負わねばならない。ことが終われば、どんなに時間がかかってでも償っていこう。だから、今は。子どものように頭の中で言い訳を繰り返しながら、アデラインは古典魔法に関する分厚い本を開いた。
魔法はいい。空想の中の出来事が、魔力一つで形になるのだ。その中でも古典魔法は例えるなら物語のようで、美しくて恐ろしい。学生時代、アデラインは図書館の奥で夢中になって魔法の本を読み漁っていた。時間が過ぎるのはいつもあっという間で、よく図書司書に肩を叩かれては『もう閉館時間ですよ』と呆れたように笑われたものだ。そう、こんなふうに、とんとんと……。
「アーデーラーイーンー?」
「きゃあ!?」
驚いて椅子から飛び上がったアデラインの後ろにいたのは図書司書ではなく、セオドアだった。
「な、何なんですか、まだ昼食まで時間はあるはず……」
「お時間はとうに過ぎてございます」
「イ、イライザ? え、今って」
セオドアのさらに後ろには、メイド長であるイライザが眉間に皺を寄せて控えている。アデラインはゆっくりと視線を時計に移した。既に針は昼食の時間を示しており、何なら多少過ぎている。
「ああ……」
「ああじゃない、昨日の今日でどうしてこうなる。イライザも何度も声をかけたと言っているぞ」
「ご、ごめんなさい」
「駄目だ、許さない。君にはペナルティが必要だ」
「ペナルティ、ですか?」
「昼食後、また街に降りる。付いて来るように」
「でも、街はまだ人が多いのでは?」
「散策はまだ難しそうだが、空いている場所もあるそうだ。……最新式の魔道具を見たくないか?」
「見たいです!」
「よし、まずは昼食だ」
「はい!」
わざと少しはしゃぎながら、アデラインは心底安心をした。まだ、大丈夫だ。まだこの夢のような時間を楽しめている。遠慮をするだけ損なのだ。だって、アデラインはまたあの家に帰るのだから。ちゃんと償うから、だから、今だけ。アデラインは、正しさを訴える理性から目を逸らした。
―――
連れてこられた工房の中は、酷く雑多な雰囲気だった。しかし不思議なことにテーブルや台の上には様々な部品、細々としたネジや歯車、工具に至るまでが乱雑に置かれているのに床には何も落ちていないのだ。しかも何か物を取りにきた職人たちは、探すでもなく必要なものをすぐに見つけ素早く作業に戻っていく。アデラインはその独特の空気感に何故か高揚を覚えた。
この工房では最新式の魔道具が開発されているという。突然の訪問だったにもかかわらず、アデラインたちの工房見学には職人が一人付いてくれた。
「すごい、歯車同士がかみ合ってないのに動いている……!」
試運転されている魔道具は、何に使われるのか一切分からない形状をしていてとても大きかった。魔道具の開発は初めに大きなものを試作して魔力回路を明確にしてから徐々に小型化するという。学校でそのさわりを少し学んだアデラインにとって、工房見学は未知との遭遇に近かった。
見慣れているセオドアと違っていちいち感動して目を輝かせるアデラインに、職人も饒舌になる。
「最近はこれが主流ですね。この魔道具には歯車が必要なのですが、歯車と歯車の間に魔力をねじ込ませることでかみ合わせなくてもお互いが回るようにしてあるんです。昔の魔道具は歯車を全てかみ合わせないといけませんでした。しかしそうすると歯車は勿論のこと、内部全体が緩やかに摩耗していくのです。魔道具内の部品は特殊な素材が必要なことが多く素材集めが大変でしたが、この手法のおかげで摩耗が抑えられ経費削減とある程度の量産が可能になりました。その分、多くの魔力を必要とするので良し悪しではあるのですが、それを持ってあまりある効果を――」
アデラインはとうとうと話す職人の説明を聞き逃すまいと一生懸命になった。そんなふうに熱心に聞き入る彼女の様子に気をよくしたのか、職人の口は止まらない。気付けば立ったままで一時間が過ぎていた。区切りのいいところでセオドアが切り上げなければ、きっと今でも話は続いていただろう。
しかし一時間も立ちっぱなしである。セオドアはともかく、アデラインの足には堪えた。何も言わずそれを察したセオドアは工房近くにある街の端にある公園で休憩をすることを提案し、二人は木でできた小さなベンチに腰掛けた。途中の屋台で買った簡易なカップに入った甘いミルクティが、アデラインの疲れ切った体に染みていく。
「……職人さんってすごいんですね」
ぼんやりと夢見心地のような顔をして、アデラインはぽつりとそう呟いた。それだけ職人の話は興味深く、あれだけ聞いたのにもっと知りたいと思ったほどだ。それだけの情熱を彼らは持っていた。
そんなアデラインをセオドアは笑った。
「はは、魔道具の職人は皆あんな感じだ。驚いたか?」
「少し……。でも本当にすごかったですし、楽しかったです。卒業してから初めて最新魔道具を見ました。あんな風になっていたんですね」
「日進月歩だそうだからな。俺は魔法も魔道具作りも才能がなくて興味も持てなかったから、実は彼らの言っていることもあまり理解はできていない。だが、彼らが情熱と心血を注いでいることは知っている。彼らの作っている魔道具は、この領地だけでなくいずれは国の為にもなるものだ。俺はそれを確信しているし、彼らを誇りに思っている」
「ええ、本当にその通りだと思いますわ」
さわりと心地のよい風が吹いて、どこからきたのか花びらが舞う。その一枚がセオドアの鼻について、その様子をアデラインは笑った。日常や平和というものを絵に描いたような光景だ。終わりがくるにしても、少しでも長くこんな時間が続けばいい。アデラインはそう心から願った。
けれど、その罰なのだろうか。そろそろ館に戻ろうと二人が立ち上がったその時、彼らを咎めるような声がその場に響き渡った。
「アデライン様!」
「っ」
「……」
アデラインが振り返ると、そこには初老の男が立っていた。見知った顔だ。彼は、ノーチェ家に仕える私設騎士の一人だった。騎士服を着ていないせいで一般人のようにも見えるが、その実若い頃には国に仕えそれなりの地位にいた男でもあった。
咄嗟のことにアデラインはかちりと固まったしまったが、そんな彼女を隠すようにセオドアが一歩前に踏み出す。私設騎士はぐ、と顔をしかめた。
「やはりこちらにおられましたか。……セオドア・ロイファー殿、これは一体どういうことか」
「おや、貴殿は西部騎士団に所属していた……。ああ申し訳ない。貴殿が過去に西部騎士団に所属されていたことは覚えているのだが、名前を存じ上げなくてな」
「……私の名などどうでもいい。だが私は現在、ノーチェ侯爵家の私設騎士団に所属している。そちらにいらっしゃるアデライン様をお迎えに上がったのだ」
アデラインが自身の両手をぎゅうと握ったのと、セオドアが笑いながら口を開いたのは同時だった。
「アデライン様、というと、アデライン・ノーチェ嬢のことか?」
「そうだと言っている!」
「ならば諦めることだ。ここに彼女はいない」
「……は?」
「そして、貴殿もここには来ていない」
「貴様、何を言っている?」
私設騎士は怒りとも困惑ともつかない表情でセオドアを睨みつけた。しかしセオドアは余裕を崩さない。この程度でたじろぐような生き方を、セオドアはしてこなかった。
名門貴族の長子として生まれ、魔法の才がないからと剣をとり誰に何を言われようと文字通り自分で道を切り開いたセオドアが、初老の騎士崩れに睨まれたくらいで動揺などする筈もないのだ。
「ここは、古くから魔法使いとしてこの国に仕える我がロイファー侯爵家所有の領地だ。そんなところに保守派騎士系貴族の筆頭たるノーチェ侯爵家のご令嬢がいらっしゃるはずもなければ、そんな家の私設騎士が訪れるはずもない。そうだろう?」
「何を訳の分からないことを! では貴様の後ろにいる女性は誰だと言うのだ!?」
「俺が一生をかけて守ると決めた方だ」
私設騎士は弾かれたようにアデラインを見て、そして何かを飲み込むように一瞬俯きまたセオドアに向き直った。
「……魔法使いの家の生まれの者が、騎士の真似事だと? 笑わせるな!」
「少なくとも、年若く何の瑕疵もないご令嬢を何年も閉じ込めてそれをよしとするような愚か者どもより、俺の方が騎士としても人間としても優れている。火を見るよりも明らかだろう」
「――っ」
「ああ、しかもそんなご令嬢を今度は御年七十四歳のご老体に売ったのだったか? ……私設騎士、な。笑わせてくれるなと言いたいのはこちらだが?」
「貴様に何が分かる!? 外野からであればどうとでも言えるだろう!」
「内にいて異常性を認識しながら何もしなかったという告白か、無様だな。女神の加護を受けた剣が哀れだ」
今度こそ、私設騎士は何も言い返せなかった。さすがに帯刀はしていなかったが、彼も騎士の誇りといえる剣を持っていたから。
「俺は、侯爵家の人間として貴殿がこの領地に“入ること”を禁じている。この意味は分かるか」
「……どうあってもその方はノーチェ侯爵家のご令嬢だ。お前のような小僧に何ができる」
「貴様のように年だけ食って、騎士の矜持もなくした馬鹿どもができなかったことをやる。俺にはそれができる。……目障りだ。こちらは、俺の許可なくこの領地に“入ったこと”を処罰してもいいんだが?」
それは、ある意味で内戦の始まりを示唆した言葉だった。
魔法系貴族が騎士系貴族の私設騎士を不当に拘束し私刑にかけようとするのならば、今までの積もり積もったものが弾ける者もいるだろう。いくらセオドア個人が騎士だろうと、彼が魔法使いの名家出身であることは事実だ。何故そんなことになったのかを調べられれば、まず糾弾されるのはセオドアの方だろう。そして、ノーチェ家の問題も明るみになる。その上、一度内戦が起こってしまえば甚大な被害は避けられない。
私設騎士は、ぐうと唇を噛んでゆっくりと踵を返し引き下がっていく。アデラインは青い顔で、その後ろ姿をじっと見つめることしかできなかった。
「……セオドア様」
「よし帰るぞ、アデライン」
「っ、待って下さい!」
「駄目だ」
その返事は、セオドアにしてはひどく珍しく頑なだった。しかし、それはある意味で当然のことかもしれない。セオドアにはアデラインの言いたいことが、もう分かっているのだ。だからこそ、セオドアは何も聞かずにアデラインの手を掴んだ。
「駄目だ。帰ろう、アデライン。俺と一緒に来てくれ」
「でも、あっ!」
「馬車を早く」
「……セオドア様」
「君が俺のことが嫌いで、金輪際会いたくないと本心からそう言えるのなら諦める。だがそうでないなら、俺はもう二度と諦めない」
強引にアデラインの手を引いたセオドアがそう命じると、離れていた護衛たちがそっと近づいてきて馬車が寄せられる場所まで二人を誘導した。混乱したままのアデラインは、体を固くしたままでセオドアに引きずられるように歩く。先程までののどかさは、もうどこにもなかった。
馬車に乗ったあとも、セオドアはアデラインの手を離さなかった。いつもなら気恥ずかしくも嬉しく、心強くもあるセオドアの手が、今だけは何故かひどく居心地の悪いものに感じられてアデラインは悲しかった。