4、街歩きなんて久しぶりです
セオドアが衝撃的な発言をした翌日、アデラインの熱も下がったからと彼はまた突拍子もないこと言い出した。
「今日は街に行くぞ」
「一応、わたくしが家出してきてる身だって忘れてません?」
口説くだのなんだの言っていた癖にセオドアがまったくいつもの通りだったので、アデラインはいくらか呆れた。けれど、それに救われつつアデラインもいつもの調子で返した。
アデラインは現在、実家であるノーチェ侯爵家から逃げ出しているという状況だ。生活に嫌気がさして、親との関係が悪くて、駆け落ちでなど、いいか悪いかは置いておいて、身分に関係なく人は何かしらの理由で家出をすることもあるだろう。しかしアデラインは一応、結婚が決まったばかりの貴族の娘だ。相手が御年七十四歳の悪名高いお爺様であっても、その事実は変わらない。
貴族の結婚とは契約で、契約とは信頼だ。貴族とは、信頼がなくなった時点で没落していくものである。娘を逃がしてしまうなど家の管理不足であり、糾弾され信頼を落とす行為であるのだ。アデラインの両親は今頃必死になって彼女の行方を捜していることだろう。そんな中で外出するということは、わざわざ危険を冒しにいくようなものなのだ。
「そんなわけないだろう。だが、庭で散歩なんて結局はそこまで歩けない。この庭もそこまで大きくないしな。かといって鍛練やトレーニングなんてさせた日には数分も持たないだろうから、今日はとりあえず外出だ」
「質問の答えになってないんですが」
「お前の家の人間が、このあたりに来ることはないさ」
「……まあ、否定はしませんが」
この付近は、セオドアの実家であるロイファー侯爵家の領地だ。つまり、魔法系貴族の領地である。アデラインの両親は彼らの領地に近寄りもしないし、近しい人がそこに行くことも嫌う。アデラインの兄や姉が仕事で魔法系貴族の領地に行くことが決まると、それこそ抗議文を騎士団に送るくらいで二人は迷惑がっていた。
だからこそ人を雇ったとしてこの周辺まで探しに来ることはないとアデラインも思うが、しかしそれも確実ではない。アデラインの兄と姉は、まだ遠征から帰ってきていないはずだ。彼らがいないままで、実家に連れ戻されることだけは避けたかった。
「それに来たとして渡しはしない。ここはうちの領地だからな」
「それこそ裁判が始まりますよ」
二人が同じ屋根の下で過ごしていたなどとバレてしまえば、アデラインの両親はきっと裁判を起こすだろう。アデラインの貞操は守られているとはいえ、世間はそうは思わない。押し掛けたのはアデラインだから自身が責められるのは覚悟の上だが、この状況ではセオドアも咎められる。それは絶対に避けねばいけなかった。
頭に血が上っていたとはいえ、あまりにも考えなしに出てきてしまったことをアデラインは今更ながらに後悔した。しかしセオドアはそれを一笑する。
「いいさ、いろいろと証拠はある」
「よくはありません。その証拠というのも気になりますが、何よりそこまで迷惑をかけるつもりはないんです」
「迷惑か、いきなりに館に押し掛けてきておいて今更だと思わないか?」
「あら、では、そろそろお暇をいたします。大変なご面倒をおかけしました、諸々の請求は兄にお願いします」
もうここまでくれば売り言葉に買い言葉だ。アデラインはにこりと笑って踵を返した。そうだ、押し掛けたのはアデラインで、迷惑を被っているのはセオドアだ。何も間違いではないし、今更だった。
何が『口説くに口説けない』だ。アデラインは身勝手にそう憤慨して、その身勝手さに嫌気がさした。たとえ本当に口説かれたところで、アデラインは受け入れることなどできないのに。
いろいろな感情でぐちゃぐちゃになりながらもアデラインは一歩を踏み出そうとしたが、それはいとも簡単に阻止された。背を向けたはずのセオドアが、瞬きの間にアデラインの目の前に躍り出て行く手を塞いだからだ。
「駄目だ、待て」
一瞬の出来事に、アデラインは目をぱちぱちとさせた。セオドアがこんなことをするなんて思っていなかったのだ。アデラインの知るセオドアという人はもっと格好付けで、引き留めるにしても黙って手を掴むくらいが精々の人だったから。
「言葉遊びのつもりだったんだ、気に障ったのなら謝る。迷惑だなんて思っていない、君が誰よりも先に俺を頼ってくれて嬉しかった。どこにも行かないでくれ」
「……」
「お願いだ、アデライン」
セオドアがあんまりにもしおらしくそう言うので、アデラインはぎゅうと自身の手を握った。ここで短気を起こして出て行ったとして、困るのはセオドアではなくアデラインなのだ。それなのにどうしてセオドアが下手に出ているのか、アデラインは理解したくなかった。
セオドアは、大人になったのだ。いつまでも子どものままでいるアデラインとは違う。子どものアデラインをなだめる為に、優しくしてくれているのだ。学生時代から、何も変わっていないなんてことはなかった。その事実がどうしようもなく悲しくて、アデラインは地面を見ながら口を開いた。
「……仕方がありませんね」
「よし、じゃあ行くぞ」
「行くのはもう決定事項なんですね……」
「出不精をするな、何か買ってやるから」
「さすがにものに釣られるほど、子どもではないんですけど!」
セオドアがす、と腕を出すので、アデラインも何でもないようなふりをしてそれに掴まった。
―――
麓の街に行くには馬車を使った。転移魔法を使わなかったのは、セオドアの魔法が不安定だからだ。魔法系貴族に生まれながら、セオドアは生まれつき魔力も少なく魔法も不得手だ。しかしセオドアは、それを悲観はしていない。できないのならできないで、別の方法を常に模索してきた。つまらないからかいも屈辱も浴びてはきたが、その程度で折れてなるものかと生きてきた結果だった。
「魔道具屋さんがいっぱいですね」
「ああ、このへんの魔道具は外国の連中もわざわざここまで買い付けにくるくらいには有名だぞ」
「綺麗な煉瓦が有名なのは知っていましたが、魔道具も有名なんですね」
麓の街はとても活気があった。上から見ていた通り色とりどりで美しい街並みに、店、屋台、人、人、人。この辺りは領地の中でも中心部でないはずなのに、とても賑わっている。馬車から降りてすぐに人の波に飲み込まれそうになったアデラインは、セオドアの腕にぎゅうとしがみついて歩いていた。
「で、あの、どこに行くんです?」
「いや、ただ街を散策する程度にしようと思ってたんだが、今日はかなり人が多いからどうしようかと」
「これが通常ということではないんですか?」
「普段も人は多いが、今日は特別多いな。よし、とりあえずあそこのアイス屋に入るか」
人とすれ違いながらセオドアはすいすいと歩いていく。アデラインはどうにかそれにくっついて、人の流れから抜けることに成功した。
とりあえずで入ったアイス店は、それなりに賑わっていたが落ち着いたよい雰囲気の店だった。
「アデライン、何にする?」
「ええと、では、その蜂蜜レモンを」
「じゃあ俺はバニラで」
「畏まりました。おかけになってお待ちください」
カウンターで注文をすると席まで持ってきてくれるタイプの店だったが、少し狭い横並びの二人席しか空いていなかったので二人は仕方なくそこに座った。
「……やけに慣れていません?」
「まあ、ここに来てから暇だったからな」
「暇って、お腹に穴が開いたんですよね」
「だから、治ってからが長かったんだ。本当なら一ヶ月と少したった頃にもう復帰はできていた。それを何度も止められたんだ。で、ずっと籠っているのも性に合わないし、けど騎士団にもまだ戻れない。一人で鍛練するにも限界があるから、暇つぶしにぶらぶらとしていたというわけだ」
少し声をひそめているのは、身分を明らかにしないためだ。狭い席が幸いして自然と顔が近いので困りはしなかった。
貴族は街に出てはいけない、なんてことはないが、高位貴族の人間が出歩くのはあまり聞かない。貴族とはいい意味でも悪い意味でも、平民とは違うものだ。学生のうちに平民についていくら学んだとて、同じ立場に立ってはいけない。下位貴族であれば少し話が変わってくるのだが、あくまでも支配階級と被支配階級は一定の距離感を保つべきであるというのは共通認識だ。
「それにしても侯爵家のご子息が、街で買い食いですか」
「買い食いって、君な。外食と言え」
「高位貴族ってこういうこと怒られるんじゃないんです?」
「何か、他人事だな。まあ、子どもじゃないんだ、バレなければいい。別に犯罪を起こそうとしているわけではないし、市場調査も兼ねている。ちなみに護衛はちゃんとつけているからな」
「あの外にいる人たちですか」
「いや、中にもいる」
「……素晴らしいこと」
「お褒めに預かり光栄だ」
本当に慣れているんだなと、アデラインは呆れた目でセオドアを見るが彼は飄々とした顔で笑っている。そうこうしていると、注文したアイスがやってきた。
「お待たせいたしました。ごゆっくりお楽しみください」
「ああ、どうも」
言いながら、セオドアは店員の胸ポケットに紙幣を忍ばせた。店員はにこりと笑うと一礼をして静かに下がっていく。
「……今のはチップというやつですか?」
「チップというやつだな」
「こういう所でもチップって必要なんですか?」
チップという制度は習ったが、アデラインは自身でチップを支払ったことがないのでセオドアの行為自体が珍しかったのだ。
この国の貴族は基本的に後払いか先払いで、財布なんてあまり持ち歩かない。学生の頃は平民文化を学ぶ為に財布を持つが、卒業をすれば一切使わなくなるのが普通だ。そもそも街を気軽に出歩きもしない。特によくできた使用人に対して賃金を上乗せしたり、素晴らしい商品を持ってきた商人に色を付けることはあっても、金銭の授受はあとで使用人が行うことで直接渡すことなんてほとんどしなかった。
それなのにセオドアは、やっぱり手慣れている様子だ。
「必要か不必要かでいうと、不必要だな。ただし、いくらか渡しておけば暫く座っていても睨まれないし、護衛連中も見逃してもらえる。あまりないことだが、自警団とかを呼ばれたら面倒だからな」
「護衛がバレてるんですか」
「分かる店員にはな。ただ彼らは俺たちが貴族なのか裕福な商人なのかは見分けないし、どうでもいいことだ。金払いさえよければいい」
「……そういうのって、どこで覚えるんです?」
「先輩騎士たちだ。今は王都の騎士団にいるが、騎士見習いの内はいろんな所を巡ってしごかれた。騎士団によっては貴族も平民も関係なく編成されてるところもあるからか、悪いことは大体その時に教わったな」
「ふうん……」
そう楽しそうに話すセオドアは、よく知っている人なのにまったく知らない人のようでもあった。しかしそれも当たり前なのだ。アデラインは学院から卒業してからずっと家に閉じこもっていたけれど、セオドアもほかの友人たちもその年月できっと多くの経験を積んだのだろう。経験は人を成長させる。それを寂しく思うのは、道理の通らないことだった。
アデラインは綺麗に盛り付けられたアイスを一口食べながら、ぼんやりと外を眺めた。
「アデライン」
「はい?」
「一口くれ」
「……え?」
「そこまで引くなよ。昔は一つのアイスを分け合ったこともあっただろうが」
「いや、あれは、学生だったからで……えっと、本気なんです?」
「俺のもやるから、バニラ好きだろ」
アデラインはひどく困惑した。行儀作法からして、自身の食べさしをあげたり他人のものを欲しがったりするのは貴族としてはあり得ない。確かに学生時代は友人と食べ物を分け合ったりもしたが、あれは学生だったからだ。成人をしたいい年の貴族が、しかも外でそんなことをするなんて。
「アデライン、深く考えるな。ほら、ほかの客もしてるだろう?」
促されるままにアデラインが周りを見ると、確かにそういう客は多かった。親子、友人、そしておそらく恋人たち。皆が楽しそうにアイスを分け合って食べていた。
「でも、いいんでしょうか」
「君がいいなら」
「……じゃあ、いいですよ、差し上げます」
アデラインがアイスの器をセオドアの方に押そうとすると、彼は「あ」と口を開けた。アデラインはぴしりと固まったが、ここでまた過剰に反応すると思うつぼなような気がする。無言のまま、さも何も気にしていませんという風体で、アデラインはセオドアの口にアイスを差し込んだ。
「ん、ありがとう。やっぱりレモンも美味いな」
「……よかったですね」
「俺のもやるよ」
「結構です。あ、ちょっ、いいですったら!」
「ほら、騒ぐな。ほかの客に迷惑だろう?」
「~~っ」
結局、アデラインはその押しに負けてセオドアのアイスを一口貰った。心臓が煩くて痛い。顔が赤くなっているのはもう隠せはしないのだろうと、アデラインは自覚した。
「うーん、しかし今日はもう帰るしかなさそうだな。人の波が引かない。多分、魔道具の買い付けツアーが多く来る日だったんだろう」
「買い付けツアー?」
「外国からも買い付けに来ると言っただろう? 国内外からここの魔道具を買うために団体旅行が組まれたりするんだ。まれにそういう団体がいくつかかち合うことがあって、今日はそれなんだろう」
「そんなに有名なんですね……」
「まあな。贅沢を言えば、煉瓦も買っていってほしいんだが」
「ふふ、旅行で買い付けるにはちょっと重たそうですね」
さっきまでの雰囲気がやっと流れてくれたことに、アデラインはそっと安堵のため息を漏らした。おそらくそれもセオドアの慈悲だとは分かっていたが、しかしあの会話を冷静に続けることは難しかっただろう。アデラインは素直に自身の話術の拙さを認めた。
結局その日はアイスを食べただけで館に戻った。僅かな時間だけではあったけれど、アデラインは久しぶりの街歩きを十分に楽しんだ。その証拠に彼女はその夜、あの色とりどりの街をセオドアと歩く夢まで見たのだから。
麓の街に行った次の日もその次の日も、まだまだ混雑は続いているようだった。隣国が長期休暇のシーズンに入っているらしく、旅行客が減らないのだ。あんなに人が多いのでは散策どころではないので、アデラインたちは今日も館で過ごしている。
「アデライン、別に見ていなくてもいいんだぞ」
「……やることがなくて」
セオドアはここ数日で復帰に向けて本格的に鍛練を開始した。走り込みや筋トレ、剣術、馬術。一日中そうしているわけではないが、アデラインはそんなセオドアを見学していた。
本日は庭で魔道具を使っての対人演習だった。魔道具が投影した黒い人影との試合のようなそれは、むしろ見応えがある。アデラインはそれを少し離れた所に置いてあったベンチに腰掛けて眺めていたのだ。理由は言った通りで、特に理由はない。与えられた部屋でじっとしているのも、一人で散歩をするのも限度があっただけだ。
アデラインは実家では自室にずっと籠っていることができたが、それは暇つぶしが多くあったからだ。刺繍、楽器、本。それらを揃えてくれたのは兄と姉だが、両親もさすがにそれをアデラインから取り上げたりはしなかった。セオドアも娯楽品を買ってくれようとはしたが、さすがにそれはと頑なに断った結果、アデラインの時間を潰す術がないのだ。
「そう言ってもな、街はまだ賑わっているようだから連れて行けないから……」
「それはお気になさらず、何かしてほしいわけではありません」
「だが、ただ見ているのは暇じゃないか」
「いいえ? 鍛練している人を見るのは楽しいです。ですが、セオドア様が気になるというのであれば遠慮いたしますわ」
初めは学生の時のように飲み物やタオルを用意しようかと思っていたアデラインだったが、ここには使用人がいるのだ。そんなことをアデラインがする必要はなく、それどころか逆に邪魔なことだった。けれど、セオドアの気を散らしたいわけではない。アデラインはそう言って腰を浮かしかけたが、それをセオドアが「まあ、待て」と止めた。根本的な解決にならないからだ。
「君がいいならいいが、しかしな。ここ数日ずっとそうだろう」
「セオドア様だって別にずっと鍛練しているわけではないじゃないですか。お邪魔でしたら部屋に下がります」
「だから、邪魔ではない。学生の時だって、君が剣術部の手伝いに来てた時は男どものやる気が違っただろう? そういうことだ」
「えっと、わたくしはわたくしが手伝いに行っていない時のことは知らないんですけど」
「ああ、そうか」
話がそれたが、とセオドアは学生時代を思い出していた。剣術部も馬術部も何にせよ男くさい部活だったのだ。女子部員もいるにはいたが、少ない上にそういう男どもと平然とやり合える程度の強さを持っていた。彼女たちには彼女たちの魅力があったが、どちらかというと苦楽を共にする仲間であって、お互いに恋愛感情のようなものを向ける存在ではなかった。つまり、潤いに欠けていたのだ。
そして貴族学院の大多数の女生徒たちは、そもそも剣術部や馬術部にあまり興味を示さなかった。大会になるときゃあきゃあと黄色い声援を送っていたが、練習になるとやはりどうにも汗臭さが気になるらしい。アデラインはそんな中でやってきてくれた女神のような存在だった。
始まりはアデラインが部活中の兄に忘れ物を届けたことだった。そこで奴には可愛い妹がいるのだと有名になり、頼むからマネージャー業をお願いしてくれと大多数の部員たちが泣きながら頭を下げたことにより、アデラインは所属はしなかったものの剣術部と馬術部によく顔を出すようになった。
「まあ、アデラインが来ると分かった日は明らかに張り切っていたぞ。女子部員には呆れられていた」
「女子部員の方々はわたくしに優しかったですけど」
「それはそうだろう、君が来ればいつもより皆いい子で真面目になるからな。助かっていたんだと思う」
いくら貴族子弟とはいえど十三から十八歳の子どもで、しかも基本は男所帯だ。どうしてもやんちゃに、そして粗暴にもなる。さらに家とは違い、専属の使用人はいない。学院にも使用人は大勢いたが、彼らは部活までは管理しないので部室などは自分たちで片付けねばならなかった。清掃は入るが一週間に一度だったので、一日目に汚してしまうと一週間汚いままだ。
主に女子部員や一部の綺麗好きな男子部員たちはその汚い部室が気に入らず、片付けや清掃をしようとしていたが、気にせずまた汚す輩がいるので怒り狂っていた。それがアデラインが見学に来ると聞いた瞬間に改善されるのだから、女子部員たちも次はいつ来るのかと彼女の兄にかけあっていたくらいだ。特に入学当初のアデラインはまだ小さく愛らしかったので庇護欲を刺激されたのか、皆に猫可愛がりされていた。
とにかくアデラインが見学をしていたり飲み物などの用意をしてくれたりしていると、部員たちのやる気は段違いだったのだ。部長や顧問も大会前には必ず呼んでほしいとアデラインの兄に頼んでいた。それに関してアデラインの兄が一度激怒して、部員の三分の一程をぶちのめした事件もあったが、それは今話すことではないだろう。
重要なのは、セオドアもアデラインが応援をしてくれていればやる気がでるということだ。初めはただ見ていられるだけでも緊張感があり、けれどいいところを見せたいとはりきっていたし、『頑張ってください』と言われた時の高揚感はすさまじいものがあった。
うんうんと一人で納得しているセオドアにアデラインは困惑していたが、彼は構わず話を続けた。
「俺もアデラインに見てもらえるのは嬉しい、やる気が出るしな。ただ、つまらない思いはさせたくない。君は何かやりたいことはないのか?」
「やりたいことですか……」
そう言われたところで、アデラインはすぐには思い浮かばなかった。学院を卒業してからこちら、時間がただ過ぎて行くのを待っていただけの生活をおくっていたからかもしれない。読書も散歩も飽きてしまって、だからセオドアのことを眺めていたのだ。
考え込むアデラインに、セオドアが笑いかけた。
「ここには、魔法を嫌っている人間はいない」
「……」
「そして、魔法書はある。……君、古典魔法好きだっただろう。書庫にたくさんあるぞ?」
アデラインの心臓が、いやに大きな音を立てた。確かに、古典魔法の授業は好きだった。そしてそれは、いけないことだった。現在の貴族学院では、騎士系魔法系文官系に関わらず複数の分野の学問を履修しなければならない。騎士にならずとも剣技を魔力を持たずとも魔法学を文官や領主にならずとも文化や芸術そして政治を、その全ての基礎を学ぶのが学院なのだ。
基礎だけ学べば、その後は専門性を自身で選ぶことができる。その子どもの適性に応じて、教師が履修する学問を勧める場合もある。学院の制度としては、セオドアのように適性があれば魔法使い系貴族の子どもでも騎士を目指すことができるようにはなっており、国は現在それを推している。
けれど、それは当たり前のように実現が難しい。アデラインは両親を気にして、結局基礎以外の魔法学は選択しなかった。しなかったが、人に隠れて図書館でこっそりと古典魔法の本を読んでいた。
古典魔法は現代魔法の基礎だが、今ではもう廃れていて文学のような扱いを受けている。詠唱呪文は複雑だが歌や詩のような美しさがあり、そして消費魔力が少ないという利点がある。アデラインにとって古典魔法学は文学や美術品を愛でるような感覚の学問だ。しかしそれは両親には決してバレてはいけないことだった。そのことを思い出してしまい、アデラインは視線を下げる。
「……ですが」
「反抗期なんだろう? 案内しよう、魔法書のある場所は少し分かりづらいから」
「あっ……」
セオドアはアデラインの返事を待たないで歩き出してしまった。アデラインは反射的にその背中を追う。追ってから、本当にいいのだろうかとアデラインの胸を焦燥が襲ったが、セオドアは止まらなかった。
既に何度かアデラインも使っていた書庫には、奥にもう一つの小部屋があった。魔法書の類は全てそこで管理しているらしい。警備用と紙の劣化を防ぐ魔道具がいくつもおかれており、いかにも重要な書物を保管しているような雰囲気のそこは、二人が卒業をした学院の図書館とよく似ていた。
「古典魔法の魔法書はこのあたりだな。……俺も読まないし、家族も古典魔法にはあまり興味がないから多少埃をかぶっているかもしれないが、曾祖父あたりが集めたらしくてそれなりに揃ってはいるはずだ」
「……」
「アデライン?」
「これ、この本! 学院で古典魔法学の先生が一度でいいから読んでみたいって言ってた本です! 本自体に魔法がかかっていて、まず魔法の暗号を解いてからじゃないと読めなくて、シリーズのもののはずだけれど学院には一巻と三巻しかなくて、でもこれは二巻……!」
「……楽しめそうか?」
「はい!」
「なら、よかった」
アデラインの中の不安や焦燥は、初めて見る魔法書を前に吹き飛んでしまった。学院で保存していたものよりも随分状態のよさそうな本は、本当に輝いているように見える。
アデラインがそのまま魔法書を開くのを確認して、セオドアはそっと書庫から出て行った。
―――
そして、数時間後。
「楽しめているようでよかったが! 昼食は食べに来い!」
「きゃあっ!?」
「きゃあ、じゃない!」
セオドアがそう怒鳴るのも無理はなかった。もう昼食の時間になって暫くが過ぎている。アデラインは既に何度か使用人たちに呼ばれていたのだがうわの空で聞いていなかったらしい。それを聞いたセオドアは、呆れ半分で書庫の扉を開けたのだ。
「まったく君は。いや、魔法使い連中は皆そうやって熱中するとほかが分からなくなるんだから……」
「す、すみません……」
その性質には、アデラインも自覚があったのでただただ謝ることしかできない。使用人たちにも申し訳ないが、館の主人をこんなことで動かしてしまった罪悪感もあった。
しかしアデラインがちらりと視線を上げると、セオドアは彼女を見て穏やかに笑っている。いろんな意味で驚いて、アデラインはさっと視線をそむけた。
「……あの、セオドア様。またあの本を読んでもいいですか?」
「あの書庫の本なら好きなだけ読むといい。ただし、朝晩の散歩は今まで通りするからな。せっかく体力が戻ってきているのに、また不健康になられたら困る」
「ふふ、はい、ありがとうございます」
「あ、あと、部屋にあの本を持っていくのは駄目だ。絶対に夜更かしする未来しか見えない」
「……く、否定できません」
「だろう?」
言いながら、二人はくすくすと笑い合った。二人とも本を読んでいて夜更かしだなんて、学生時代に嫌という程やったのだ。セオドアは騎士についての本を、アデラインは魔法についての本を部屋に持ち込んでは、よくクマを作っていた。
セオドアの実家は彼が騎士になることを反対はしなかったが、だからといって、では騎士とはどうしたらなれるのか、どのような勉強が必要なのかを知らなかった。騎士とはただ体を鍛えていればいいというわけではない。騎士には騎士の学問があり、また、歴史もある。騎士を目指す子どもたちにとっての常識を知らないままだと、時々に話が分からなくなるのだ。騎士たちにとってのいわゆる内輪ノリのようなものが分からなくて、セオドアは学院に入って初めのうち、結構な苦労をした。
そんなセオドアにとって、歴代の活躍した騎士たちの伝記は特に参考になった。どのように考えどのように行動し、そしてどのような言葉を残したのか。騎士を目指す子どもは大抵お気に入りの偉大な騎士や言葉があったから、知るのと知らないのでは話す内容が全く違うこともあった。それが中々に面白く、セオドアはよく伝記を読みふけったものだ。アデラインは言わずもがなで、魔法書を読み漁っていた。彼女の実家には魔法に関するものなど一つもないから当然ではある。あの頃は二人とも、初めて触れる学問や文化に夢中になっていた。
「アデライン」
「はい?」
「その、なんだ。今は楽しくすごせているか?」
「ええ、おかげさまでとっても。初日に暇つぶしに付き合わないとうんたらかんたら言われた時は、どうしようと思いましたが……」
「そんなこと言ってないだろう」
「言いました!」
「言っ……て、ない、よな?」
「そこの主張は曲げないでくださいよ」
「やっぱり言ってないんじゃないか!」
「えー、何のことです?」
「君な……」
「ふふふっ」
呆れたように笑うセオドアに、満面の笑みで返すアデライン。はたから見る分には非常に微笑ましい光景だった。