3、熱を出した日は、いろいろなことを思い出します
「ふっ、く、くくく……」
「何ですか、何か言いたいことがあるなら、おっしゃったらいいじゃないですか……!」
アデラインが寝ているベッドの横に座り、セオドアは口を押さえて一応は笑いを堪えようとしていた。
「あっははは! あまりにも体力がなさすぎる!」
アデラインがセオドアの館に来てそろそろ一週間がたつが、今朝彼女は熱を出してしまったのだ。それ自体は仕方のないことであり、深刻な病というわけでもない。しかし麓の街から呼んだ医者からアデラインの病状を聞いたセオドアは、どうにも笑いを堪えることができなかった。
なにせ、医者が『この数日、どのように過ごされていましたか? 疲労が溜まっての発熱だと思うのですが……』と、怪訝そうな顔でセオドアを見たのだ。騎士であるセオドアが、体力差を考えずにアデラインを連れ回したのではないかと思ったのだろう。しかしそんなことはない。
この一週間、二人はとてものんびりと過ごしていた。あの高台に上ることもあったが、雨が降っていた日もあったからボードゲームをしたり読書をしたりすることも多かった。それで疲労が溜まったと言われてもと、セオドアは笑うしかなかった。
「笑うことじゃありません、兄様に言いつけてやりますからね!」
「言いつけたところで、奴も笑うだけだぞ……!」
セオドアは一瞬、慣れない環境で気を張っているのかもしれないとも考えたが、医者曰く『精神的なものではなく肉体的なものなので、ゆっくり休ませて差し上げてください』だそうなので、その心配は不要だった。ではもう本当に笑うしかない。セオドアは医者が帰ったあとも、アデラインのベッドの横で小さく肩を震わせて立てないでいた。
アデラインとしても、この発熱はかなり不本意だった。普通に生活しているだけで熱が出るなんて、幼児ではあるまいしと顔から火が出る程には恥ずかしかった。未婚の娘が寝ている横で爆笑しているセオドアには、いろいろと思うところはあるが、それどころではないくらいには悔しかったのだ。
「う~~!」
「唸るな、唸るな! 腹がよじれる!」
「もう笑わないでください!」
アデラインは怒りに任せて、頭まで布団を被ってしまった。そもそもいくら館の主といえど、やはり妙齢の女性が寝ている部屋に居座るのはどうかと思う。アデラインのことを妹のように思っているだろうけれど、そういう問題ではないのだ。ふんふんと怒りながら丸まるアデラインを、セオドアはやはり笑った。
「アデライン。なあ、アデライン、そう怒るな」
「無理です、怒ります」
「悪かったから、く、くく……っ」
「ねえ、まだ笑いますの?」
「いや、まあ、そうだな。ふっ、確かに笑いごとではなかったな」
「笑ってるんですよ、それ!」
アデラインはやはり怒りながら勢いよく起き上がった。「元気じゃないか」とまた笑うセオドアに枕を投げつけるが、そんな勢いのないもの簡単に受け止められてしまう。
「アデラインが学院を卒業してから二年か。随分、筋力が落ちたようだな」
「……セオドア様と会わなくなってからなら五年です。それに別にそこまで落ちてはいません」
「俺は卒業してからも何度も学院には行っていた。……知っているだろう」
「一瞬顔を合わせたくらいで人の筋肉量とか観察しないでください、さすがにぞっとしますわ」
「君なあ……。はあ、まあ、いいが」
セオドアやアデラインの兄は、卒業後も何度か学院に来ることがあった。教員に呼ばれたり部活の後輩を見に行ったり職場の話をしたりと、そういう生徒は複数いる。年に数回であるが、セオドアたちも学院を覗きに来てはその度にアデラインとも短い時間ではあったが顔を合わせてはいた。
セオドアから見たアデラインは、あの頃よりも確かに華奢になっていた。学院にいた頃のアデラインはもう少し健康的で多少の日焼けもしていたのに、ベッドに座る彼女は非常に色白で細い。それが悪いとは言わないが、けれど健康に害が出ているのならいいとも言えないだろう。
「この二年間、どうやって過ごしていた?」
「どうって、普通ですよ」
「君は夜会に一切顔を出さなかったし、かといって誰かのサロンに参加していたわけでもなさそうだった。侯爵家の娘が、だぞ。それはもう普通ではないんだ」
「……疲れているから休みたいんですけど」
「体は休めているんだからいいだろう」
ばつが悪そうに、アデラインはまたベッドに横たわった。元気ではあるけれど、熱でぼんやりとする頭では上手く思考がまとまらない。けれどもういいか、とアデラインは口を開いた。どうせ、セオドアは答えを聞くまで納得をしないだろうからと諦めて。
「家から出ないで、静かに暮らしていましたよ」
「外出は?」
「しません。いつ魔法を使いだすか分からない子どもがいること自体が恥だそうなので、大体ずっと部屋の中にいましたね」
貴族学院を卒業後、アデラインは本当に一歩も自宅の外へ出なかった。庭にさえ滅多に出ない徹底ぶりで、ずっと自室に引きこもっていたのだ。勿論それは両親の意向で、しかしアデラインは文句も言わずそれに従っていた。むしろ兄と姉が両親とアデラインのことで喧嘩を始めるので、それを止めに入っていたくらいだ。
「……アデライン、君はそれでいいのか?」
セオドアは、アデラインがどうやって暮らしていたのかを知っていた。アデラインの兄から彼女の置かれている状況を聞いていたからだ。しかしセオドアは目を細めながら、あえてその問いを口にした。
セオドアのその問いかけに対して、アデラインは苦笑をするだけだった。
「ふふ、よくはないですよ」
「そうか」
「はい」
そうだ、よくはなかった。アデラインは改めてそのことを自覚した。
アデラインは自室にいることが苦手というわけではなかったが、一切の外出を禁じられることは確かに苦痛であった。社交はおろか、友人たちとの交流も遮断されたことをよしとしてはいけなかった。何もできない小さな子どもではあるまいし、アデラインは両親に意見の一つくらいは言うべきだったのだ。たとえ聞いてもらえなかったとしても。
納得をしたふりをして兄や姉を止めている場合ではなく、一緒に「嫌だ」くらい言ってやればよかった。アデラインは苦笑したままで、小さく息を吐いた。
「とりあえず、体力をつけてくれ。食事は考えるとして、運動……は、様子を見ながらだな」
「んぐ、いえ、体力は頑張りますけど、そんなのは自分で――」
「俺も復帰まで一ヶ月を切った。本格的にトレーニングを始めなけばいけないし、いろいろと丁度いい」
「セオドア様と同じトレーニングは絶対にできませんからね」
「当たり前だろう。一時間……いや、十分も保たずに倒れるぞ」
「そこまでではっ、……あるかもしれないですけど」
「かもじゃない、そうなんだ」
言い返したいのを必死に我慢して、アデラインは唇を噛んだ。学生時代であれば、アデラインだってほかの学生と一緒に体を動かすくらいはしていた。馬術部や剣術部の手伝いなどでそれなりに鍛えられてもいた。けれど、確かに今ではきっともう何もできないのだろう。
「君が貧弱なままだと、可哀想で口説くに口説けないからな」
「貧弱ってなん……。……な、何て言いました?」
アデラインは、耳を疑った。絶対に聞くべきでない言葉が聞こえた気がしたが、きっと聞き間違いであると信じて。しかしセオドアはアデラインを見下ろしながら、感情を閉ざしたような表情を浮かべている。
「口説くに口説けないと言った」
「……とりあえず、出て行ってくれません?」
「断る。俺は今日、ここで読書の予定だ」
「うわあ……」
アデラインは静かに、けれどひどく慌てていた。あり得ないことなのだ。アデラインは騎士系貴族の子で、セオドアは魔法系貴族の子だ。
どんなに融和を推進されていようとも、セオドアが騎士の道を選ぼうとも、両者の子どもが結ばれることなんてあるはずがなかった。前例がない、なんて簡単な話ではない。革新派だろうが保守派だろうが、それは変わらない。両者は決して直接的に交わりはしないのだ。
だから、あの美しいだけの学生時代は成り立ったのに。
「……今までそんなこと、言わなかったじゃないですか」
「今までと今では状況が違う。俺はもう子どもじゃない。ちなみにだが、アデライン?」
「何です?」
「君が勝手にどこかへ行かないように、この館の敷地内は転移魔法ができないように結界を張らせた」
「……」
「だから心配せずに、早くよくなってくれ」
「何が、だからなんですか」
「言わせたいのか?」
セオドアがにやりと笑うので、アデラインはまた頭まで布団を被った。
「……寝ます」
「ああ、おやすみ」
「変なことしないでくださいよ」
「この国の騎士にあるまじき行為はしないさ」
「……そうですか」
アデラインはぎゅうと布団を握りしめながら、しっかりと目を閉じた。誤魔化すように学院で習った初級の防衛魔法をかけてじっとしていると、熱のせいかそのまま本当に睡魔が襲ってきて彼女は久しぶりに学生時代の夢を見た。
セオドアはアデラインが防衛魔法を使ったことに無言で若干傷つきながら、あまり面白くもない分厚い歴史書を開いた。
―――
学生時代の二人に友情以上の特別な感情はなかった、なんてことはない。そうせざるを得なかったから口に出さなかっただけで、二人の間には淡い想いが確かにあった。それは決して独りよがりではなく、二人もきちんと理解していたことだ。大人以上に分別のあった二人が、正しい距離感を保っていただけだったのだ。
『セオドア様! さすがにお祭りに来るんだったら、そうって言ってくださらないと!』
その日は、貴族学院のある街で祭りが開かれていた。それは平民が楽しむための祭り、の模倣だ。屋台などを出店をしているのは平民で、彼らは客として祭りにも参加するがこの祭りの目的は、学院の子女たちが“祭り”というものを体験することにあった。
この国の貴族は平民を学ばねばならない。貴族だけの価値観ばかりで政策を推し進めてしまわないように、学院に通う子女たちは平民の生活や行事なども学ぶ。この祭りはその一環で特別な謂れはないが学生たちの為に毎年行われているもので、二年生のアデラインにとっては二回目の祭りだった。
アデラインはその祭りにいきなり連れて来られたのだ。いつも通りに『行くぞ』と言われたから、部活か何かの手伝いが必要になったのかと思って付いてきたら祭りだった。普段は沸点の高いアデラインだが、さすがにこれには怒っていた。
『それだと面白くないだろう』
『面白い面白くないじゃないんです! もう! わたくし、お友だちと来る予定だったのに……』
セオドアに声をかけられた時、アデラインは食堂で学友たちと一緒にどうやって祭りを巡るかと話し合っていたのだ。友人の一人が『本当にセオドア様はいいの?』と聞いてきたけれど『誘われてもいないのです。いいも悪いもありませんわ』と笑って返したのに。
けれど思い返せばアデラインの友人たちはセオドアがやって来た時点でにこにこと笑っていたので、こうなることは想定済みだったのかもしれない。『私たちのことは気にしないで』と言っていた友人もいたので、きっとそうなのだろう。むしろ分かっていなかったのがおかしいのかもしれない。アデラインは少し肩を落とした。
『だからだ』
『はあ!?』
『祭りの時間くらいくれてもいいだろう。彼女らはこれからも君と一緒にいられるんだから』
『……約束は約束だったんです。それならもっと早くに誘ってくださればよかったのに』
『……すまない、君は俺と一緒に来てくれるとばかり思っていたから』
セオドアは言葉を尽くす類の人間ではなかった。貴族の子どもは多かれ少なかれこういうところがある。周りの人間が先回りをして要求を叶えるのは普通のことであるし、相手がどう考えているのかを洞察する教育も受けているからだ。
ただしその洞察はまだ未熟で、予測が外れる場合も多い。この時ばかりは言葉が必要だったのだろうと、セオドアはきまり悪そうに押し黙った。アデラインはアデラインで自身の察しの悪さを恥ずかしく思いながら、ぎゅうと自身の手を握る。この時の二人は、まだあまりにも未熟だった。
『……』
『……』
黙り込んだままの二人のすぐ隣で、きゃあと子どもの笑い声がした。驚いたアデラインがよろけたのを、セオドアが咄嗟に支える。ふと顔を上げると、周りは皆祭りを楽しんでいるのだ。
二人は顔を見合わせて、ふ、と笑い出した。
『お友だちへのお詫びのお土産を一緒に見てくださったら、許して差し上げます』
『勿論、俺が買おう』
『……分かりました、お願いします』
お詫びなのだから、アデラインは勿論自分でお土産を買うつもりだった。けれど、セオドアがこう言い出したら聞かないのはこの時から知っていたので、もう黙っていることにしたのだ。今日くらいはいいかとも思っていた。どうせ、セオドアと祭りに来られるのもこれで終わりなのだから。
二人は気を取り直して祭り見物を始めた。屋台や飾られた花、曲芸師や工芸品を見ながら歩いていると、歩幅があんまりにも違い過ぎたので途中で手を繋いだ。これは、いわば迷子防止なのだから、問題ない。アデラインは自身にそう言い聞かせながら、耳が熱くなるのを無視して黙々と歩いた。
『あ、アイス屋さん……』
アデラインの目に入ったのは、学院にもアイスを卸している店の屋台だった。別にアイスが食べたかったわけではないが、カラフルな屋台がふと目に入ったのだ。
『何味がいいんだ?』
『何でもう食べることになってるんです?』
『祭りでアイス屋があったら食べるだろう』
『ええぇ……?』
もうすっかり食べる気でいるセオドアに、アデラインは戸惑った。そういうものなのだろうかと、困惑しながら看板を眺めていると屋台の中から声をかけられた。
『あら、可愛らしいお二人さん。いらっしゃい』
屋台の女店主は気さくにそう声をかけてきた。彼女は平民で二人が貴族であることを分かっているが、あえて敬語は使わない。これは平民の文化を学ぶ一環であるので、それが推奨されているのだ。
『最近は大きなカップを一つ買って、二人で分けて食べるのが流行りなのよ。フレーバーは三つ選ぶの』
『では、それで。味はバニラとモカとピスタチオで』
『!?』
『はいはい、ちょっと待っててくださいねー』
アデラインが注文内容に驚いている間に、店主はもうアイスを盛りつけてしまった。両手で持ってもあまる程の大きなカップに、やはり大きくて丸いアイスが三つも入っている。アイス用のスプーンが二つ付いているので、これで食べるということらしかった。
『お、大きい……』
『祭りのアイスは大体全部こんなものだぞ』
会計は、アデラインが大きなアイスに夢中になっているすきに、セオドアが終わらせてしまっていた。思うところはあったが、しかしもう想定の範囲内である。きっとセオドアはこの祭りの最中にアデラインに財布を出させてはくれないのだろう。セオドアはいつも後輩だから友人の妹だからと何かと理由を付けては、大抵のものを奢ってくれるのだ。もう諦めてしまったアデラインは、素直にお礼を言った。
『そんなに頻繁にお祭りに参加するんですか、侯爵令息が?』
『する。祭りは幸福度のバロメーターだ、というのが俺の父の信条でね。うちの領地では祭りの日には貴賤関係なく楽しむのが普通だ』
屋台の隣に置いていあったベンチに腰掛けて二人でアイスを食べたが、大きすぎるせいか一向になくならない。美味しいが少しずつ溶けていくアイスに、アデラインはどうしたらいいのかと困った。
『でも、やっぱり大きすぎません?』
『アデラインは背も口も小さければ、腹の容量も狭いからな……』
『憐れまないでくださいませんか。わたくしだってもう少し大きくなります。……大体、フレーバーだって勝手に決めてしまうし』
『好きだろう、バニラとモカとピスタチオ』
『セオドア様はレモンとかお好きじゃないですか』
『別にバニラとかも好きだが?』
じゃれるようにむむと睨み合ったあと、何を思ったかセオドアはまだ三分の二は残っていたバニラの玉をぱくりと口に放り込んでしまった。
『え、一口? すごいすごい! もう一回してください!』
『待て、さすがにアイスの一気食いは頭が痛い……!』
『あれを一口で食べられるなら、確かにあの大きさで正解なんですね』
『違うと思うが、まあ、そういうことだ』
行儀作法など無視した行いだったが、何故だかとても愉快だった。きっと祭り独特の非日常感がそうさせたのだ。二人はくすくすと笑いながら、残りのアイスを食べきりまた祭り見物に戻った。
歩いていれば見知っている顔にもすれ違うが、お互いがお互いに話しかけはしない。そういう不文律があるのだ。学生時代のみの関係というのは、友情にせよ何にせよ昔からあった。それくらいには、この国の貴族派閥問題は根深い。だからこそ二人以外にも似たような関係の人はいたし、それを見咎める者もいなかった。
『え、あれ何ですか?』
暫く歩いていると、いつもは噴水のほかに何もない広場にアデラインが見たことのない大きな建物のようなものが出現していた。
『ああ、去年はなかったな、移動遊園地だ。遊具の下で魔法使いが操作しているだろう』
『す、すごくぐるんぐるん回されてるんですけど』
移動遊園地とは、大きな魔道遊具をその時々で組み立てて客を楽しませるものだ。魔法使いが魔法で操作するので、保守派の騎士系貴族の領地ではほとんど見ない。コーヒーカップやメリーゴーランド、ジェットコースターなど、子ども向けの遊具から大人も楽しめるものまでさまざまで、広場では子どもや学生たちが回転遊具に乗って楽しそうな悲鳴を上げている。
『行くか?』
『いえ、さすがにあれはちょっと』
『行くぞ』
『嘘でしょう!?』
セオドアに連れて行かれ、アデラインは人生で初めてコーヒーカップに乗った。遊具を操作している魔法使いが悪戯だったのか、はたまたそういう趣向だったのか、二人の乗ったコーヒーカップは思い切りに回された。アデラインは悲鳴を上げながらセオドアに抱きついてしまったが、そんなことを気にしてはいられなかった。
やっと遊具が止まりさあ降りようという時、アデラインは腰が抜けて立てなかったので、セオドアに抱えられて降りたくらいだ。
『あ、あわ……。目が、目が回って……』
『はは、楽しかっただろう?』
『うぅ……。楽しくはありましたけど、眩暈が……!』
『ほかも乗るか?』
『ご遠慮します!』
アデラインは必死にそう叫んだのに、セオドアはとても楽しそうに笑っていた。しかしあんまりにもアデラインがぷりぷりと怒るので、セオドアは笑いながらではあったけれど飲み物を買ってきてくれたりと甲斐甲斐しく世話を焼いたのだ。
そうこうしているうちに、祭りは終盤に差し掛かってそろそろ最後の花火が上がる時間になっていた。花火が終われば祭りも終わりだ。屋台が閉まる前に急いでアデラインの友人たちへのお土産を買ったあと、セオドアは彼女を祭り会場から少し離れた街の郊外に連れて行った。そこはもう街灯もあまりなく、人もいないし祭りの音もあまり聞こえない。けれどベンチがぽつぽつとあったので、来る途中に買っておいた屋台の食べ物を二人で広げた。
『ソーセージにポテトに……これは何です?』
『ナッツを砂糖でまぶしたやつだな、甘いぞ』
『まあ、そうなんでしょうけど、ほかに言いようはないんですか?』
『食べれば分かる』
ほら、と差し出されたナッツをアデラインは指でつまんで食べてみた。砂糖やハチミツでコーティングされたナッツは香ばしく、甘い。こういった屋台のチープな食べ物も、学生時代だけの楽しみだ。
『あ、カリカリして美味しいですね』
『だろう?』
『だろうじゃなくて。セオドア様は甘いしか情報をくれませんでしたからね?』
『細かいことを言うな』
『絶対に細かくないんですけど』
お互いに減らず口を叩きながら、笑い合う。セオドアはこの年に卒業してしまうから、こうやって二人が会話をするのもあと少しの時間だ。セオドアは騎士になることが決まっているが、それでも魔法系貴族の出身だった。魔法嫌いのアデラインの両親が卒業後も交流を認めるはずはない。セオドアとアデラインの兄は友人だが、それに関しても何かにつけてぐちぐちと言っているのだから、異性であるアデラインなんてもっと駄目だろう。
けれど、ああ、なんて楽しいのだろうとアデラインは笑った。
『ふふ、楽しい。初めはどうなることかと思いましたが』
『一言余計だな』
『ふふふ、ごめんなさい。誘ってくださってありがとうございます』
本当に今夜、セオドアと祭りに来れてよかった。アデラインは心の底からそう思った。きっとこの思い出があれば、これから先の嫌なことも怖いことも乗り越えられる気がした。この気持ちを、恋だと認めることはできない。できないけれど、彼女が憧れたことのある感情であったことは確かだった。
アデラインがもう一つナッツを齧ったのと、頭上で大きな音が鳴り響いたのはほとんど同時だった。
『わ、花火……!』
慌てて顔を上げると、空には大きな花火が上がっていた。花火には魔法が施されており、火花が散る時にキラキラと光が地上に降り注いだ。これも騎士系貴族の領地ではあまり見ないことで、アデラインは一年生の時に初めて魔法のかかった花火を見てとても感動をしたのだ。
『ここからだとよく見えるだろう?』
『穴場っていう所なんですね』
周りには人がいなくて、ゆっくりとベンチに座って花火を見るのはとても不思議で特別な感じがした。中心地だけでしか見れない小さな花火は見れないだろうが、夜空に広がる大きな花火を二人だけで独占しているような気分だった。
純粋に喜ぶアデラインの横顔を眺めながら、セオドアは彼女に話しかけた。
『……アデライン』
『はい』
『この場所はきっとこれからも生徒の誰かが見つけて、こうやって使われるだろう』
『? はい』
『だが来年、俺以外の奴とこの場所には来ないでほしいんだ』
『……はい、秘密ですね。この場所も、二人で来たことも、わたくしが知っていることも』
『……ああ』
分別のあった幼い二人の、有限の時間だった。儚く美しい思い出だ。少なくともアデラインにとっては、夢のような時間だった。決して結ばれることのない人に、学生だという免罪符で、けれどすぐに消えてなくなってしまうような夢を見たのだ。
そのはずだったのだ。