あれが過ぎると申します 皈
往キハヨイヨイ
皈リハ怖イ
怖イナガラモ通リヤンセ
通リヤンセ
遊びながらいつも不思議に思っていたのです。
一体何が怖いのだろう?――と。
まあ、それでも昼間の明るい頃合ならば、まだよいのです。
夜中にふと目が覚めることがございます。
自分の他には誰もいない寝間で、布団の中でひとりぽっちに目が覚めるのです。
瞼を開くとそのまま天井を見上げる恰好で、そこには有明行灯の蓋の上にある、穴の形に光の丸があります。その丸をしばらく見詰めてから、今度は脇やら足許やらに目を移しますと、襖や障子の紙にも、行灯の蓋の窓の形に丸や三日月の、薄ぼんやりと朱い光が映っております。そうして、その光が届かぬところ、ことに、天井の竿縁や障子の桟などの翳には一層黒々と闇が蟠っているようです。
そんなときに、はっと思うのです。
ああ、あの歌―― あれは、一体何が怖いのだろう?
そうなるともういけません。そのことが気になって気になって、目が冴え冴えとなって、もう眠られないのです。
何の物音もしない夜中、耳の奧ばかりがしいんと鳴って、もはやとても眠られないのです。
頭の中では、歌が堂々巡りをします。
通リヤンセ通リヤンセ
コヽハドコノ細逕ヂヤ
天神樣ノ細逕ヂヤ――
学校に上りまして―― あれはもう尋常科を終えて女学校に通っておりました時分でしょうか。些少なりとも知識の類を身につけてまいりますうちに、いつのまにやらに理解をいたしておりました。
歌に出てくる「天神樣」とは「菅公」をお祀りしてあるのだと――
ええ、いつだかは存じませんが、いつのまにやらにそう理解をしたわけでございましょうね。
天神様と申せばどなたも学問の神様と仰せでしょうけれども、中古の頃の事情などを少しひもときますと、菅公には別のお顔がおありですね。
学問の神様という、尊くも穏やかな容子でいらっしゃるときのお顔とは、まったく異なる別のお顔が……
申し上げるのも憚られるようではございますが、そうでございますね、怖ろしげな……、あの……、ご存じでございましょう……
あるとき、そのことにはたと思いが至りましたの。
そういうふうに思い至りましてから、ああ、歌の中に「怖イ」とあるのは、このことに関わりがあるのではと――
学校に上りましてからは、さすがにもうそんな遊びはいたしませんでしたけれども、もっとずっと小さな子供の頃にさかのぼって思い出しますと、お友達や姉たちとうちそろって、仲よく遊んでおりましたのは、それこそ、天神様の祠の近くでございました。
祠は幅の狭い石段を長々と上って行った先にあるのです。そのお宮がございますところは、背の高い木がたくさん茂っておりまして、昼間でも鬱蒼と昏うございました。ですから、子供たちが遊んでおりましたのは、もっぱら石段の下。
そこがちょっとした広場のようになっておりまして、子供たちの遊び場でございました。
御用ノ無イ者通シヤセヌ
コノ子ノ七ツノ御祝ニ
御札ヲ納メニ參リマス
二人が向かい合わせになって、頭よりも高く両手をさしかけて繋いで、それを華表に見立てて、ほかの者はその下を、腰をかがめながらくぐって行くのでございますね。並んで輪を作って、こう、ぐるぐると――
ええ、歌を歌いながら。
そうして、おしまいになって「通リヤンセ、通リヤンセ」で歌が終りますと、華表の役の二人が、両手を下にさっとおろして、その腕の中に捕まった子供が負けになるという――
ええ、ええ、そんな遊びでございました。
あれは、旧のお正月が過ぎて何日かしてからのことだったように存じます。
その年は雪もほとんど降らない珍しいお正月で、ことに風も吹かない小春日のずいぶん暖かで穏かな日だったものですから、子供たちはそろって外に出て例の広場で遊んでおりました。
そのとき、華表の役は、私の一番上の姉と、たしか、イト子姉さまとおっしゃる方がなさっておいででした。
いいえ、そのお方はよそのおうちのお姉さまでした。
そのおうちがどこだったのか――でございますか? さあ、そうでございますわね。ちょっと忘れてしまったようで、思い当たりませんの。
何でもその日はおかしなことに、何度遊んでも私がきっと負けて捕まってしまいます。
そのたびに姉たちなどは喜んで大笑いをしていたのですが、私はもう、悔しくって悔しくって……
まだ小さくて学校にも上がっておりませんでしたので、おみそということにしていただいて、どんなに負けたところで、華表の役からは免れておりましたが……
それでもあまりにも負け続けるものですから――
そのうちにイト子姉さまがはっと何かに合点が行ったようなお顔をなさいまして、
「そういえば、あなたはこのお正月に、七つにおなりですね? 違いますか?」とお訊ねになりました。
たしかにその年は、とって七つのお正月を過ごしたのでした。
お姉さまは、急に真面目なお顔で、
「きっと呼ばれておいでなのですよ、あなたは―― 行かなくてはなりません。さあ、あそこを上ってお詣りをしていらっしゃい」と石段を指さしておっしゃいます。
すると、さっきまではあんなに笑っていた一番上の姉が、さっと青くこわばったような面立になりまして、イト子姉さまをきっとにらんで何やら反駁をいたしました。
姉もイト子姉さまも目をきろきろさせながら、しばらく言合いをなさっていましたが――
いずれにいたしましても、とうとう姉は言負かされてしまったようでした。
はい? ああ、そのときの問答の中身でございますか?
さて―― どうもあまり憶えてはおりません。
まだ小さかったものですから、大きな人たちのお話は難しかったのかも分かりませんね……
ただ、私も石段の上にお詣りに行くのは厭でした。
ええ、すっきり明るく霽れた昼間でも、黒々とした杜の中にあるお宮ですから――
どうしてもどうしても厭でなりません。イト子姉さまが、さあ、さあと催促なさるのを見上げてしきりに頭を振っていたのでございますが、
「分りました。それでは一緒にまいりましょう」とやさしく手を引いて下さいました。一番上の姉はそれでも頬をこわばらせておりましたが、私の方は、この綺麗なイト子姉さま――、ええ、それはそれはほんとうにお綺麗な方で、常々うっとりと憧れておりましたが、そのお姉さまもご一緒下さると思うと、胸がほっとするような――、むしろ嬉しいような気がしてまいりまして、そうして、とうとう二人でお詣りを済ませてきたのです……
お詣りの容子ですか? そのときの?
ごく普通に、とくに変わったこともなくお詣りしたように思いますけれども――
イト子姉さまのご容子ですか? お隣で一緒に手を合せておいでだったと存じます。
いいえ、何も唱えたりはなすっていなかったように存じますが…… 黙って手を合せておいでだったのではないでしょうか――
ええ、そうですね、しばらくのあいだ――
いいえ、よく思い出されません。なにしろ、ずいぶん小さい頃で、ほんとうに大昔でございますから……
もともと、あのお宮にはあまりお詣りに行ったことはございませんの。
石段の下の広場ではよく遊んでおりましたけれども、それも学校に上るか上がらぬかの頃まででございましたから。
一つはっきりと憶えておりますのは、お詣りを済ませて石段を下りてまいりましたところ、皆の容子が、これまでとはぜんぜん違って見えたことでございます。
何と申しましょうか、お互いの間にはっきりとした隔てが出来てしまったような……
あのときの、皆が遠巻きにこちらを見ていた、その目を私はけっして忘れるものではございません。
ええ、私の姉たちも同様の目付きでこちらを見ておりました。
なかなかに口で表すことは難しいように思われますけれども…… ほんとうに、何とも申しようもない目で、こちらをじっと…… 大きな姉さま方も、皆が黙ってしずかに私のことを、何と申しますか、こう、じっとご覧になっておいででございました。
口に出してこそ申しませんでしたが、どんなに心細く、悲しく、情なかったことか……
さあ、それはなぜだか存じませんし、あまり考えないようにしておりました。考えてはならないゆゆしいことだと…… それに切なくなりますものね……
ええ、そのとき以来、皆の遊びに加わることも何やら憚られるような心持と申しましょうか気配と申しましょうか…… ええ、むしろ私の方から遠慮を申し上げていたのではございませんかしら。
もう何十年も経った今から振返ってみますと、きっと、あのとき皆はお詣りをして戻ってきた私のことが無性に怖かったのではなかろうかと――
そんなふうに思われますの。
歌の中に「往キハヨイヨイ 皈リハ怖イ」とありますのは、てっきり往って皈る当人が感ずる心持のことを申しているのだと存じておりました。また、実際に私が往って皈ってみたところからも、そのように感じておりましたが、よくよく思案をしてみますと、案外そうではないのかも知れませんわね――
ええ、そうではなくって、往って皈る者に対して、傍から見ている人たちがお懐きになる感じと申しましょうか、印象と申しましょうか―― そういうものなのではございませんでしょうか。
あのときのお友達も、私の姉たちも、よその姉さま方も、きっと皈ってきた私のことがさぞかし怖かったのだろうと―― そんなふうに考えてもみるのです。
ええ、でもしかたございませんでしょう?
そうして、傍で見ていたお友達やら姉などのことを思いますとね、却ってこちらが気の毒になって、我が身が何とも浅ましく汚らわしいようでございますの。
まあ、今はこんなお婆さんになってしまいましたので、そんなに切なく思い出すこともございませんが、六人の姉妹のうち、私だけが座敷でひとり寝かされるようになりましたのも、その日の出来事がきっかけのようでございましたし、学校を出てから姉や妹らがつぎつぎに片付いてまいりますのに、私だけには何のお話だにいただけずに、取り残されてしまいましたのも――
ええ、それはもう、誰も口にはいたしませんし、詮索など出来るものではございませんが、ごくごく当たり前のように、そういうものだと存じておりました。
今ではもうこの世に残っているのもひとり――
ええ、ええ、姉妹は皆向こうの世界に。ええ、妹らも――
そうそう、一つ不思議に思うことがございまして――
あれは一番上の姉の一周忌のことでございました。久しぶりに懐かしい方々とご一緒にお斎をいただいているときに、私、ふとイト子姉さまのことをしみじみと思い出しまして、そこでのお話に上らせたのでございますが、不思議なことに皆がきょとんとした顔をしておりました。
誰もが、そんな人は知らないと申すのです。
そんなことはある筈も無いように存じましたが、どの姉に訊いても、また妹に訊いても、皆一様に何だか妙な顔を作って、知らないと申しておりました――
そのお斎のことを思い返しますと、今でも何だか妙な心持がいたしますの。
<了>