お腹が空いた2
知らない相手が自分のパーソナルスペースに突然入り込んで来た時、人はどうするか。答えは、「その場から一刻も早く離れようとする」だ。なお、逃げる時の速度は相手の図体のデカさと相手との距離の近さに比例する。
結果、僕は超高速で玄関の方まですっ飛んでいくことになった。「一旦この場を離れなければ。部屋から出なければ」という思考に突き動かされて。
だが、なんという無常。いくら鍵をひねっても、ドアノブをうるさいほどガチャガチャとやっても、扉は全く開くそぶりを見せない。
仕方なく玄関付近で息を潜めて相手をやり過ごそうとしたが、もう皆さんお察しの通り、相手は正真正銘の悪魔である。漫画で表現したらまず間違いなく「フォンッ」という効果音が伴うような、そんな瞬間移動で奴は僕の目の前に再び現れた。
「…困るなあ。何逃げようとしてるんだよ。お前が呼び出したんだろ。別にお前を取って食ったりはしない。今のところ呪い殺す予定もない。私は悪魔だ。」
困ると言われても困るのだが、果たしてどうするのが正解なのか。試しに目の前の男の脇を通り抜けて部屋に戻ろうとしてみたが、進みたい方向とは逆向きの重力がかかっているような感じで身体が押し戻されてしまった。
「…いやあ、最近仕事が無くてな。今までは物好きがヤギと魔法陣をご丁寧に用意していたところにスター気取りで登場してたが、今の時代、そもそもヤギにお目にかかることすら少ない現代の人間が、召喚の儀式なぞ出来るわけがない。あまりに現世に降り立つ機会が無いものだから、趣向を変えて、あらかじめ召喚に必要な供物を一通り揃えたインスタントカップを魔界からそっちへ届けてみた。お湯を入れるだけで召喚できるお手軽インスタント悪魔だ。仕事は貰う時代から取ってくる時代に転換させねばならん、ということだな。しかし、うん、もしかすると駄目かもとも思ったが、いやあ、なかなかに上手くいった。」
ほとんど機械音声のような無機質な長台詞だった。
「・・・悪魔?」
予期せぬ事態に対処する能力が欠如している僕の脳は緩慢に作動して、時間差でこんな疑問を口にした。
「…ああ、無理もないな。私は生まれてこの方悪魔だから悪魔の存在に疑問を抱いたことなんてないが、もし、俺とお前が逆の立場だったら、まあ、きっと放心していたに違いないだろうし。…うん、面倒だ。お前にちょっとした魔法のようなものをかけようと思うが、いいか?なに、記憶に天界の知識を軽く埋め込むだけだ、痛みもない、天界にちょこっと関わることになる以外、おそらくお前にデメリットもない。悪魔とはいえ嘘は付いていないぞ。さあ、許可を。」
信じられないかもしれないが僕の口は、この時勝手に「はい。」と呟いていた。これはもしかすると悪魔にそう仕向けられていたのかもしれないが、今悪魔に尋ねても「知らない」の一点張りで真実は分かりそうにない。
悪魔は俺の口元をじっと見て、自分が求める語が漏れたのをしっかりと確認してから、あくまで面倒そうに右手にグッと力を入れた。すると悪魔の右人差し指の爪がギュンと伸びた。
悪魔は、僕がトンボだとすると、その目を回らせるのと同じように人差し指を突き出した。
と、次の瞬間、悪魔の爪は僕の額を貫いた。長さから推測するに、第三者から見たら後頭部から爪の先が10cmばかり飛び出しているのが分かるだろう。
痛みは…無かった。
2秒かけてじんわり脳が暖かくなっていくのを感じ、その温度が収まり気付いたときには、悪魔の爪は消失していた。消える瞬間は見逃した。
「…おっと、いつの間にかもう6分か。では私は去る。近いうちにお前はまた私を呼ぶだろう。」
目の前の悪魔の姿がぼやける。僕は蜃気楼を人生で一度も見たことがないが、たぶんそれと同じように、悪魔は消え去った。
僕はそれを、頭の片隅で少し不思議に感じたが、しかし、それが当たり前の出来事であるかのように感じてもいた、そんな気がする。