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龍の檻   作者: 居道
2/2

創世録

かおすぅ:D

0,

 乙女は導かれた先の、それぞれ離れた異なる地で四人の生存者を発見した。その内の三人は深刻な傷を負っており、生死が曖昧な状態だった。乙女は本能的に彼らの傷を癒そうとした。傷に触れるとその個所からは火花が散り、火花は傷に浸透するようにして見る見るうちに損傷を塞いでいった。しかし治療は簡単には終わらなかった。乙女にとって肉を補うことは容易かったが、次に何を与えるべきか分からなくなったのだった。乙女は迷った末に傷が少ない老人を頼った。彼の形と色とを真似て、肌や腕、骨などの三人に足りないものの全てを補った。結果として、三人の肌は継ぎ接ぎのようになってしまったが、それは時間とともに、各々の肌や身体の質に自ずと塗り替えられていった。ただし一人、白髪の青年だけは肌の一部に灰色を残すことになった。

 数日の後、生存者らは目を覚ました。これに乙女は大変に喜んだのだったが、彼らには意思が無く、欲に鈍く、すぐに衰弱の一途を辿っていった。悲しんだ乙女の上で再び稲光が走り、ある置物のもとへと導いた。乙女はまた、本能的に行動した。置物の側に突き刺さっていた大きな牙を抜き、それを使って置物から四つの欠片を削り取った。そして欠片を生存者らの元へと運び、飲ませた。すると彼らはたちまちに意志を得て働き始めた。何も知らない者たちは長い歳月をかけて田畑を作り、拠点を築き、生活を営んだ。知恵と技術が発達すると、彼らは置物を掘り出してある塔の上へと飾り、崇拝した。

 生活が安定し、生存者らに自我が定着し始めた頃、乙女は雷鳴の命に従って彼らに子を授けることにした。子とは乙女との間に生み出される分身体であって、複製に近いものだった。子は揃って小さく幼かったが、生まれて間もなくから倣って働くことができた為、旧来の拠点の管理を任された。一方で子を与えられた生存者は更なる新天地を目指して家畜を駆り、果てしない荒野に点々と緑を広げては、そこを新たな拠点とした。

 子を得て、新天地を拓く。生存者らはそれを繰り返して生きていた。しかし、そうした中でも老父コレナイは頑なに子を持たず、家畜の世話と、家畜を足とした運搬に明け暮れていた。

 


1,

 ある日の夕頃。コレナイは四足の家畜に跨り、果てしない平原を進んでいた。彼の家畜は名をシャイラと言い、その艶やかな黒の鬣としなやかな脚が特に気に入られていて、特別にかわいがられていた。後続には四頭の家畜がいた。今は運搬による長旅の帰路であって、彼らの背に荷物は無く、伸び伸びと走っていた。

 家畜らは緩やかに速度を落とし、孤独に立つ個性的な看板の前で止まった。看板には青年がよりかかっていた。彼は笑顔になって、拍手をしながら軽い足取りでコレナイに近寄った。その快活さに、コレナイの頭には思わず些細な皮肉が浮かんだのだったが、青年の手を見るとその考えは消えた。彼の爪は真っ黒に汚れて割れており、指には切り傷が目立っていた。

「やあ、コレナイ。相変わらず見物だな。立派な家畜たちだ。」

「ティバか。その手を見るに、今回の荷物はお前だろうか?」

 コレナイが笑って言うと、ティバは恥ずかしそうに両手を後ろに隠した。

「ハハッ、鋭いな。だが、実はそれだけじゃあないんだ。もう随分と前の話になるが、アラモの首飾りを預かったことがあっただろう。その修理がやっと終わったから、返しに行ってもらいたかったんだ。頼めるかな?」

 ティバは隠していた手を出した。その掌には赤い宝石の首飾りが乗せられていた。

「そういえばそんな話もあったな。しかしアラモか・・・今はどこにいるのだろうな。あいつはすぐに拠点を変えてしまうから・・・。」

「そうらしいな。まあ、ヤガシルに聞けばわかるだろう。そう言う訳だ、さあ、泉に行こうじゃないか。・・・俺はどいつに乗ればいい?」

 コレナイは三頭の家畜を平原に放ってから、ティバとともに遠くに見える森へと向かった。そこは小さな山に隙間なく木々が生る場所で、垂れた枝によって上部が円型に飾られた入り口が一つだけ設けられており、それが森の奥地へと、密かな細道を伸ばしていた。二人は家畜を降りて細道を登った。森の中では姿のない鳴き声や囀りが行きかっていて、それらはコレナイの頭に鮮やかな毛並みを想像させた。やがてせせらぎの音が聞こえ始めて、地面から突出した大きな岩の脇を抜けると、一面に透き通った浅い泉が広がった。泉の中心には草葉で覆われた小島があって、そこには赤い髪の女と螺旋状に絡み合う蔓の柱があった。

 ティバはすぐに泉に手を浸した。コレナイは足首までを沈めて小島へと進んだ。足を降ろす度に水底の苔が傷や汚れを撫で付けた。小島へと上がった時、足には傷一つ、汚れ一つ残ってはいなかった。

「コレナイ。」

 赤い髪の女、ヤガシルが呼んだ。彼女の色は肌を除いて全てが赤くあったが、声は泉に溶けてしまいそうなほどに澄み、静かに響いた。コレナイは返答の代わりに顔を伏せた。

「何か役目はありましたか?」

 ヤガシルが訊ねた。

「先程に、アラモのところへ行く都合ができました。」

「そうですか。なら、ちょうどよかった。イダがアラモの所にいます。彼をここへ連れてきて下さい。アラモは今、三つ目の拠点にいます。」

「きっとあれは嫌がります。」

「大丈夫です。そろそろですから、心配はいりません。」

「・・・わかりました。」

 コレナイは密かに溜息を吐いて、ちらと視線を上げた。ヤガシルがひかえめな笑顔で松明を二つ差し出しており、コレナイは松明を受け取ると島を後にした。ティバとともに不思議な燐光を漂わせる森を出ると、平原はすっかり暗闇を被っていた。二人は森の入り口で待っていた家畜に乗り、松明の明かりと感覚だけを頼りに看板まで戻ると別れた。


 翌朝。コレナイは家の寝床から起き上がると、速足で裏手へと回って壺から茶器に大量の茶葉を汲んだ。それから火を熾して湯を沸かし、飛び切りに苦い茶を煎れた。そして居間に干していた果実を齧ってその甘さに顔を顰めた。コレナイの食事事情は多くがそう遠くない山の麓に住むティバが育てた作物に頼っていたのだったが、ティバの趣味か、或いは地質によるものか、それらは酷く甘みが強いものばかりだった。

 食事を終えるとコレナイは外へと出て口笛を吹いた。どこからともなくシャイラが駆けてきて、コレナイの顔に首を擦り付けた。コレナイはその逞しい首を撫でて餌をやると、背に跨って軽く胴を蹴った。それは「走れ」の合図だった。

 アラモの三つ目の拠点への道程は長かった。交互に繰り返される荒野と草原を越え、休息の為にアラモの子が働く二つの拠点を経由した。道中、所々で多様な生物が見えた。それらには一つとして同じ形はなく、どれもが目新しい形をしていた。それぞれが違った物を食べ、異なる性質の住処を持つようでありながら、活動に際してはある程度の群れを形成しているらしかった。目的地に到着した時には夜更けになっていた。かれこれ三晩が過ぎていた。コレナイは目印の看板の側でシャイラから降りた。並ぶ畑の列の隙間から、ちらちらと揺れる明かりを見つけると、鼻を布で覆いながらそれに近づいた。そこにはランタンを下げて歩く青年、イダがいた。彼はコレナイに気づくと葉巻を持った手を大きく手を振った。袖が下り、灰色が残った肩口を曝した。コレナイは煙を避けて、イダに対して風上に立ってから布を下ろした。

「相変わらずのようだな。」

 コレナイが話しかけるとイダは唇から葉巻を放し、頷きながら長く煙を吐いた。

「ええ、そりゃあね。変わることなんかないですよ。ちょうど来たところですか?」

「ああ。何日だったか前の早朝に出て、ようやくだ。」

「それはそれはあ。はるばるお疲れ様です。」

 二人は自然に側の木の柵に凭れかかった。イダの背で木が軋んだ。

「さて、アラモはもう寝たのかな?」

 柵に蔦を絡めて咲く花弁を摘まみながら、コレナイが訊ねた。

「ええ。けっこー前にね。急ぎの用ですか?」 

「いいや、アラモには物を渡しに来ただけだ。それに実はお前にも用がある。」

「わかってますよ、ヤガシルでしょう?」

「なぜ分かった?」

 イダは小刻みに葉巻の首を叩いた。

「これがね、切れそうだったんで。そろそろだろうなって。」

「なんだ、そんなことか。」

 コレナイは呆れる一方で安堵の息を漏らした。

「そんなことって、僕にとって死活問題なんですよ?酷くないですか?」

 イダが煙を喉から漂わせながら、威嚇するようにコレナイに顔を近づけた。コレナイは反射的に彼の胸を押して、近寄らせまいと抗った。

「ああ、悪かったよ、悪かった。・・・ところで、アラモにはどうしたらいいだろうか。まさか起こすわけにもいかないし、どこかに良い物の置き場はないか?」

 イダは質問を受けると落ち着き、顎先で後ろの小さな倉を示した。

「物置ならそこにありますけど。」

「物置?・・・物置か。小さいようだが、中はどうなっているんだ?」

「綺麗ですよ。普段は干物を置いているんですけど、たまーに子を集めて食事をすることもあるから、定期的に掃除されてるんです。空いてる机もあります。」

 コレナイは腕を組み、時間をかけて悩んだ。

「なら、そこに置いてしまってもいいだろうか。」

「いいでしょう。ね、そうしましょう。」

 コレナイは倉庫の扉を引き開けた。中は乾燥した木と土の香りで満ちていた。右手には干物が重ねて置かれた棚があり、左手には壁に沿って置かれた机と、それを囲むようにして三つの椅子が置かれていた。コレナイは机の上に畳んだ清潔な布を置き、その上に首飾りを乗せて、扉を閉めた。そして振り向くと既にイダが家畜に跨って待っていた。

「じゃ、行きましょうよ。自慢のライシャちゃんはどこですか?」

 そう言ってイダは何度か口笛を吹いたが、応えるものはなかった。

「ライシャじゃない、シャイラだ。夜闇で畑の区別がつかないから離れで降りて来た。ひとまず、そこまでは歩いていこう。」

「別に、そんなこと気にしなくてもいいのに。」

「お前が言うな、ここはアラモの拠点だろう。」

「いいんですよ。僕も手伝ってますから。」

「さあ、どうだか。」

「お?」

 コレナイはイダを無視して早足でアラモの拠点を離れた。看板と並ぶと口笛を吹き、ゆっくりと歩いてきたシャイラに乗った。

「わーお、可愛らしい。やっぱ小柄ですねえ、シャイラちゃんは。」

 イダは自身の家畜をシャイラに並べた。大きさには二回りほどの差があるようだった。

「大事なのは大きさじゃない、身体の質だ。教えただろう。」

「そんなの忘れましたよ。覚えてたって信じやしません。」

「ほお?」

 コレナイは表情に少しの驚きを表して、シャイラの首筋に触れた。掌に呼吸と脈動と、頑強な気力を感じ取るとニヤリと笑い、鋭くイダを見上げた。

「お前、会わない内に吠えるようになったな。そんなに自信があるというなら久々に競おうじゃないか。アラモの二つ目の拠点までだ。競争には良い距離だろう。」

 イダもまたニヤリと笑い、彼の家畜が大きく嘶いた。

「いいですよ、やりましょう。じゃあ、いつもの通り、負けた方は勝った方の言うことを一つ聞くってことで。・・・それでいいですよね?」

「ああ・・・いいだろう。」

 特別な合図もなく、イダは咥えていた葉巻を捨て、コレナイは即座にシャイラに跨り深く溜め込んだ息を吐き出した。そして二頭は同時に駆け出し、二人が威勢よく叫んだ。


 平原の看板へと着いた時、コレナイとイダはこの上なく疲れ切っていた。二人は肩を組んで協力して細道を登り、漸く泉に至るや全身を沈めて体力の回復を試みたが、泉の苔は疲れまでは癒してくれなかった。コレナイは自力で泉から起き上がったが、イダは葉巻の禁断症状と疲労から溺れかけていた。そんな彼をコレナイが力を振り絞って何とか助け起こし、それから暫く息を整える時間が必要になった。こんな始末になったのには、情けない訳があった。

 競争はコレナイの圧勝であったが、イダが負けじと二度も無茶苦茶な巻き返しを図ったばかりに、二人は碌に休めていなかったのだった。対して家畜らは衰えを知らず、容赦のない加速で疲弊した二人を振り回した。だが如何に辛くとも、二人は家畜の足を緩めようとはしなかった。それが彼らの勝負であり、性であった。

 立ちあがれるようになると、二人は再び支え合って小島へと歩き、倒れ込んだ。コレナイは次には座り込んだが、イダは執念を見せた。覚束ない足取りで、よろよろとヤガシルへと歩いて行った。

「ハッパ・・・ハッパぁ。」

 そんな乾いた囁きがイダの喉からは発せられていた。

「久しく会いましたね、イダ。」

「くれるんですよねぇ?」

「ええ、そうですよ。さあ、こちらへ。」

 手招きするヤガシルのもう一方の手には折り畳まれた黒褐色の葉が乗せられていた。それはイダが吸う葉巻の原料であった。イダは葉に飛びついて奪い取ると、それを広げて顔を覆った。彼の肩が激しく上下し、葉の裏から激しい呼吸音が漏れた。その様子に、ヤガシルは喜んだ。ヤガシルはその表情のまま、立ち上がれずにいるコレナイを見下ろした。

「では、コレナイ。」

「はい。」

「イダとともに、すぐに旅の支度をしなさい。」

「・・・はい。」

 コレナイは落胆から頭を垂れた。横目でイダの発狂寸前な様子を垣間見て、更に一層に深く項垂れた。コレナイの白髪頭にヤガシルの掌が降りた。

「そう気を落とさないで・・・。家畜を上手く扱えるのはあなただけなのですから。コレナイによく協力してあげてくださいね、イダ。」

「ええ、ええ!・・・え、なんて?」

 イダは張りのある声で答えながら顔から葉を降ろした。目が充血し、涎が滝のように止めどなく垂れ流されていた。



2,

 もう随分も前の事、イダが行方不明になったことがあった。その際、イダと最後に過ごしていたのは当時のイダの監視役にあったコレナイで、自ずと彼はイダの捜索を任されることになった。突然の事ではあったが、手掛かりはあった。イダが吸う葉巻は棄て柄であっても数日の間、追跡に十分な匂いを残した。追跡の末にコレナイが導かれたのは、ある変哲のない林の奥地だった。そこは周辺を緑に囲まれていながら部分的に不毛な地であった。イダはその中央で身体の至るところに紫の黴を生やして蹲っており、土に埋めこまれた楕円の岩に尖った石を叩きつけて難解な文字を彫り込んでいた。

イダは朦朧としていてコレナイの声に一切の反応を示さなかったが、大変に衰弱しており、難なく連れ帰ることができた。後に黴はヤガシルによって取り除かれ、イダはそう経たずして復帰した。しかしイダは事の顛末を説明できず、記憶も定かではなかった。その為に以来、謎の黴の調査が必要とされ、定期的にイダとコレナイによる探索が決行されるようになったのだった。ただし定期的とは言っても、コレナイらにとって日時の感覚は曖昧で、それ故に彼らはいつも事前になって事の決行日を知るのだった。


 コレナイとイダは家畜の上で、たった数日分の食料と水を詰めた背負い袋に押しつぶされていた。二人の顔は萎びていて、瞳は今にも生気を失おうとしていた。

「忘れていたよ。」

 コレナイが力なく呟いた。

「ええ、全く。僕も忘れていました。」

 そう返すイダは家畜の上で器用に仰向けになっていた。家畜の首に頭を乗せ、葉巻を吸っては、雨雲のような煙を吐きだした。コレナイは水を飲もうとして袋を降ろそうとしたが気力が持たず、だらしなく腕を垂らした。そして恨めしそうに、吸えもしないイダの葉巻を眺めた。

「過去の自分が憎いよ。どうして私は競争なんかしてしまったのか。」

「やってしまったことは仕方ないですよ。さっさと終わらせて帰りましょう。」

「さっさと終わるようなことなら、こんな気持ちにはならないさ。」

 コレナイはシャイラの首に抱き着き、頬を寄せた。

 探索の目的はイダが発見された林の近辺を探索し、黴に関する新たな痕跡を見つけてくることだった。始めは簡単だった。しかし時が経つにつれて痕跡の多くは自然によって浄化されてしまい、片や増えることは稀だった。それでもヤガシルが頑なに新たな発見を伴う調査を望んだため、持ち合わせの食料か水分が底を尽いてしまわない限りは探索を終えることができなかった。

 コレナイとイダはこれまでの数々の探索によって拓かれた小道に従って進んでいた。ふと、イダが家畜を止めた。感傷に浸っていたコレナイはそれに遅れて気付いた。家畜四頭分の距離が空いたところでやっとシャイラを止めた。振り返ると、イダは気抜けした顔で辺りを見回していた。

「どうした?」

「いやね、嫌な予感がするっていうか。なーんか臭う気がして。」

「変わらない森の香りしかないように思うが。」

「そうですかね・・・うーん、なんだろうなあ?」

 イダは考えるフリをしながら、放心したように葉巻から漂う煙を見送った。煙はささやかな風に煽られて後方へと流れていた。イダは風の来し方と行く先を何度も何度も交互に確認して、閃いた。

「もしかして・・・いや、もしかして。原因はコレナイさんなんじゃあないですか?」

 イダは鼻を摘まみながらコレナイの側まで家畜を進め、意を決して彼の首筋に鼻を寄せた。イダの表情は険しかったが、大して反応は無かった。

「違うなあ。これは雑巾だ。雑巾の臭いだって分かる。なんなんだろうなあ?」

「・・・馬鹿者が。」

 コレナイは苛立ち、舌打ちを残してシャイラを全速力で走らせた。イダは焦り、咥えようとしていた葉巻を落としながらも構わず家畜を急がせてコレナイに追いつこうとした。しかし距離は離されていくばかりだった。優れない視界の中で遂にコレナイの背を見失ってしまいそうになった時、突然シャイラが止まり、戻って来た。イダはそれを不思議に思ったが、すぐにその原因を目にした。それは地面にこびり付く小さな紫の鉱石片だった。鉱石片は小道を逸れて林の陰へと続いていた。鉱石の周りでは草木が枯れており、道が生まれていた。

「おっと。よかったですねぇ、今回は早くて。」

 イダは調子よく言いながらコレナイの顔を覗き込んだ。コレナイは険しい表情をしていたが、その矛先はどうやらイダではなさそうだった。

「よかったか・・・どうだろうな。こんなにハッキリとした痕跡は初めてじゃないか?」

 コレナイはシャイラの上からできる限りに鉱石片へと顔を近づけて観察を試みた。鉱石片は半透明なようで見通しきれぬ、妙な毒々しい色気をしていた。

「変わった色だ。触れていいものかも分からない。・・・見ていたら、なんだか私も嫌な予感がしてきてしまった。どうだ、これは見なかったことにしないか?」

「僕はもう何も感じませんけどね。」

「ほお?」

 コレナイは勢いよく背を伸ばしてイダを睨みつけた。それにイダも応えた。二人の視線が重なると、イダの鼻が僅かに上を向いた。

「別にいいんですよ、怖いなら無視しても。まあ、僕は大丈夫でしたけど。」

「誰が怖いなどと言った。私は嫌な予感がすると言っただけだ、面倒な奴め。」

 鉱石が作る道が狭かったため、二人は家畜を置いて競うようにして鉱石を辿った。道沿いの木や枝葉には紫色の黴が付着しており、不快ではないものの特徴的な匂いを発していた。道の先には部分的に不毛の土地があった。じめじめとした空気を含み、円形に自然の干渉を拒むその地の中心には二つの石碑が並んでおり、石碑の頭には狭く斜陽が差していた。そして石碑の一つには、黴に塗れたローブを着た何者かが寄りかかっていた。

「誰かいるな。ここはもしや、昔にお前が迷い込んでいた場所か?」

「んー、どうなんでしょうね。結局、あれからなーんにも思い出せてないんですよね。雰囲気的には違うような気がしますけど。コレナイさんの記憶ではどうなんですか?」

 イダは悠然と葉巻を燻らせながら言った。一方でコレナイは警戒から身を屈め、腰元の短剣に手を忍ばせていた。

「正直、昔のことはよく覚えていない。」

「あちゃー、駄目だこりゃ。」

「黙れ。そもそもお前が覚えていれば、こんな面倒とは無縁だったんだ。」

 コレナイは石碑に寄りかかる人物に恐る恐る忍び寄り、黴に触れないよう細心の注意を払って、気を奮ってフードを捲った。白い肌の額が現れ、フードに引っかかっていた青の長髪が下りた。コレナイが何度か身体を揺すると人物は目覚めた。彼女は鈍い手付きで自ら髪をかき分け、紫紺と翡翠が入り混じった瞳を揺らしてコレナイを見上げた。その額と頬には紫の黴が付着していた。

「△〇・・・?」

 女は掠れた声で音を呟いた。そして間もなくふらふらと頭を揺らし始め、そのまま意識を失ってしまった。コレナイは彼女を支えて呼びかけたが、浅い呼吸が繰り返されるだけで返答は無かった。

「あちゃー。今回も死にましたか?」

「いや、まだ死んではいないようではあるが・・・。」

 コレナイは女のローブを捲った。下から薄手の衣服が現れて、それも捲って女の腹周りと足を確かめた。所々に黴が見えたが、目立つ傷はどこにもなかった。

「見たところ面倒な傷は無いようだから、とりあえず持って帰ることはできそうだ。黴があるし、これならヤガシルの期待に応えられるだろう。」

「生存者第一号ですね。」

「素性は知れないが、一応はそうなるな。」

 コレナイは一度、女のローブを脱がして裏返した。裏側には黴が少なかったので、そのまま女に着せ直して、粗雑に肩に担ぎ上げて運んだ。鉱石を頼って戻り、家畜と合流すると、迷いなく女をイダの家畜の腰に乗せた。そして背負っていた袋から紐を手繰り、女の胴を家畜に縛り付けようとした。咄嗟にイダがその間に割って入った。

「ちょちょ、ちょっと待ってくださいよ。なんで僕の方に?」

 イダの胴体に遮られても尚、コレナイの手は器用に紐を扱い続けた。

「別にお前を選んだわけじゃない。シャイラは繊細だ。決して私以外の生物を乗せてはくれないし、強制すれば暴れて逃げてしまう。それも忘れたのか?」

「それはぁ・・・流石にそれは覚えちゃあいますけど。そんなこと言わず、ね。まずは試してみましょうよ。今は成長して暴れなくなっているかも知れない。」

「駄目だ。これは貴重な痕跡だぞ。壊すわけにはいかないし、シャイラが逃げてしまえば帰る手段がなくなるだろう。」

「そんなあ、でも・・・。」

「それに試したとして、仮に壊れた後はどうするんだ。こいつの頭が割れようと、腹が裂けようと、バラバラになろうと、大事な痕跡であることには変わりない。お前はちゃんと責任を持って運んでくれるのか?」

「それは・・・嫌だなあ。」

「なら言うことを聞け、我慢しろ。勝者の特権だ。」

「う!・・・うううぅぅ。」

 イダは屈辱に唸りながらも、仕方なしに退いた。それからずっとコレナイを睨みつけて唸り続けていたが、直接的な反抗には及ばなかった。作業を終えたコレナイがポンと女の背中を打った。砂埃が舞って彼の鼻を刺激し、くしゃみをしながらシャイラに跨った。

 女はしっかりと固定されたが、イダが座る位置を保持した為に僅かに丈が足りず、爪先が地面に触れてしまっていた。それでも調整はされずに、足に厚い袋を被せ、それを足首で固定するに留められていた。イダが目敏くそれに気づき、女の足を包む袋を摘まんだ。

「これ壊れたりしないですよね?」

「ティバの手製だ。安心していい。」

「・・・・・。」

「何してる?さっさと帰ろう。各々の荷物から解放されるために。」

「ううう・・・。」

 帰路の間、イダは荷物を預けられたことでしつこく不貞腐れ、葉巻の消費が激しくなった。胸を埋めるように肺一杯に煙を吸って、感情のままに勢いよく吐き出す。そんな無理のある呼吸を、思う間もない程に休みなく繰り返した。そして時に指に熱を感じるや、その原因を葉巻の寿命と断定して迷いなく捨てた。

 何本目になるか知れない新たな葉巻を取ろうとした時、イダを違和感が襲った。厚い風が音を遮り、重い空気が肩に圧し掛かった。更には視界の端々が薄紫色に染まり始めた。不審を掃おうと瞬きをすると色は段々と濃くなっていき、最後には一面の紫の霧となって視界を覆ってしまった。それでもイダは冷静で、視覚以外の感覚を頼えおうとした。そこで初めて、家畜の揺れに合わせて腰にコツコツと当たり続けていた女の頭に気づいた。意識してみれば腰には痛みさえ覚えていて、イダはそれを酷く不快に思った。ひとまずは女をどうにかしようとして、背後を振り向いた。するとちょうど目の高さで、大きな黄色の瞳を持った鱗の生物の頭が待っていた。

「んー・・・あ?」

 イダと生物は暫く見つめ合っていたが、イダが初めに目を浮かせて、腰巻に吊るした袋から新しい葉巻を取って火を点け、浅く噛んだ。それから生物の足を探した。しかし生物の首より先の身体は霧に隠れきっていた。生物の舌がゆらゆらとしてイダへと伸び、注意を誘った。舌の先端は二つに別れ、それぞれから紫色の泡立つ唾液が滴っていた。

「何だよ、あんた。何で付いてくるんだ?」

 イダは自然と生物に話しかけていた。それを疑問にも思わなかった。どうしてか、生物とは言葉が通じ、話すことができると感じていたのだった。生物の細長い口が開いた。

「俺を覚えていないのか?」

 生物の声は重く骨に響くようで、それがイダに妙な心地よさを与えた。

「お前なんか知らないね。それより邪魔だからさ、消えてくれよ。」

 イダは生物に葉巻を押し付けようとした。しかし生物の身体は煙のように揺らいで葉巻を躱した。指を伸ばしても感じるのは葉巻の熱だけで、実態すら無いようだった。

「俺に消えろと言ったのか?お前が、この俺に?」

「言ったさ。だってお前は俺の幻覚だろ。きっと急に葉巻を吸いすぎたんだ。今まで真面目に吸っていたから、副作用のことをすっかり忘れてたよ。」

 イダは葉巻で不機嫌を紛らわそうとしたが、前言の為に躊躇った。そこで彼は葛藤と苛立ちと、洗いきれない激情をまとめて口に溜め込み、生物に向けて吐き出した。放たれた痰と唾液はやはり生物の身体を通り抜けていった。

「ああ、そうか。本当に俺を忘れてしまったのか・・・悲しいことだ」

 生物は呟いて、イダの顔に紫色の吐息を吐きかけた。吐息は肌に沁み込んでたちまちに黴の層を生んだが、次には肌の内側から発せられた熱のない火によって燃やされ、イダ自身も気付かぬうちに消えてしまった。

「・・・忌々しい火め。」

 生物は寂しげに囁くと舌の先からゆっくりと薄れていき、イダの視界を満たしていた霧とともに跡形もなく消えた。世界が色を取り戻すと、騒がしい音たちが帰って来た。小気味よい足音と、木々のざわめき。耳に叩きつけられるような家畜の鳴き声と、パチパチと鳴る妙な音。それに、コレナイの焦燥と悲鳴を帯びた叫び声。雑多な音らは繊細に絡み合ってイダの脳内で反響し、彼の心を悦ばせた。だが、音の一つは段々とその波長を狂わせていき、耳障りな程にイダの意識に呼びかけた。

「おい。おい、イダ。聞こえているのか?イダ!」

「・・・。」

「お前、自分が何をしているのか分かっているのか。イダ、止まれ、イダ!」

「は?」

 偶然の狂騒曲に酔い、恍惚の面持ちで葉巻を浅く吸って呆けていたイダだったが、コレナイのあまりに必死な呼びかけと、手元に感じた異常な熱によって我に返った。見れば、いつのまにか女の背に火が点いていた。

「あれ、なんで?なんで燃えて・・・。」

「何を言っているんだ、お前が葉巻を押し付けたんだろう。早く止まれ。止まって早く火を消せ!早くしなければ取り返しがつかなくなる!」

 イダは突然の事に混乱し、火の気に過剰に反応した。吸い始めたばかりの新しい葉巻の先端を咥えて舐め回し、その火が消えたことを確認すると明後日の方へと放り捨てた。そして家畜を急停止させた。コレナイも側でシャイラを止め、直ちに二人がかりの鎮火が始まった。二人は幸運にも有り余っていた飲み水を駆使して速やかに鎮火を遂げ、被害は女の背中に軽い火傷が残るに留まった。しかしコレナイは大変に機嫌を損ねた上にイダの八つ当たりを疑い、イダから葉巻と火の気のある物の全てを没収した。帰路の間、それらが返されることはなかった。

 森の入口でイダはしぶしぶと、しかし率先して女を降ろし、辺りの垂れた枝のように曲がった背に抱えた。するとそれを見ていたコレナイの手からイダの口元へと葉巻が差し出された。イダがそれを咥えると短剣が先端を掠め、火が点けられた。細道を越え、泉を渡った小島の手前。そこで女は仰向けに寝かされ、蟀谷までを泉に沈められた。ヤガシルが駆け寄って屈み、処置を始めた。翳された掌から女へと、雨のような火花が降り落ちて黴を焼いた。時折に零れ落ちた火花が水面で何度か跳ね、最後には輝きを溶かしながら水底へと沈んでいった。

「これはどのように?」

 処置を続けながら、ヤガシルが訊ねた。

「いつもの小道を逸れて、少し入った所に。イダと同じような状況で、周辺には紫の鉱石片が散らばっていました。」

「その鉱石には触れましたか?」

「いえ。言いつけの通り、黴の他には触れていません。」

「よい選択です。」

 ヤガシルは女の露出した部位の処置を終えると、爪で女の衣服を縦一線に裂いて取り払った。そして肩と腹と腰と、それぞれの部位を一々に泉から浮かせ、丁寧に処置した。

 不意に、イダが興奮まじりにコレナイの肩を突いた。

「コレナイさん。あれ、女だったみたいですね。ほら、胸が膨らんでる。」

 コレナイはイダの指の動きに促され、水面から突き出した二つの突起を見つけた。だがすぐに、コレナイの関心は女の右腕に誘われた。そこでは手首から肘にかけて独特な赤色の印が輝いていた。

「たしか、女には私やティバには無い独自の特徴があるとか言っていたな。乳房はそうとして、あの右腕の光る印もそうなのか?」

 コレナイに訊ねられ、イダも同様に女の右腕を注視した。

「ええ、勿論そうで・・・いや、どうだったかな。今まで読んできた本には印なんて特徴は書いて無かったかも。少なくともアラモには無かったし、なんだろう・・・?」

 イダは黙りこんで記憶を探ったが、答えは出てこなかった。

「因みにお前は何という種類なのだったか?」

「僕はオカマですよ、オカマ。男でも女でもない中間種。」

「お前にあの様な印はあるか?」

「ありませんよ。知っての通り、所々の肌が灰色なだけです。」

「そうか。」

 二人が何気ない会話をしている内にヤガシルは女の処置を終え、辺りの葉を操って揺り篭を生み、それで女を掬い上げた。揺り篭は螺旋の蔦に沿って上へ上へと運ばれた。

「では、イダ。それにコレナイ。」

 ヤガシルの凛とした声に名を呼ばれ、二人は会話を止めて身を律した。しかし緊張は束の間ことだった。声音とは反対に、ヤガシルは穏やかに微笑んでいた。

「二人とも、お疲れさまでした。今日の発見は大きな成果でした。今回を最後に、痕跡を探す必要は無くなるかも知れません。ただし彼女について、近々に新たな役目を与えることになるでしょう。ですから、それまでは二人とも遠くへ行ってしまわないように。」

 ヤガシルの言葉に、コレナイは期待で目を輝かせた。彼にとって探索という面倒ごとからの解放は願ってもないことだった。一方、イダは納得がいかない様子だった。

「・・・え、僕も離れちゃいけないんですか。」

「ええ。勿論ですよ、イダ。」

「ははあ・・・。」

 イダは了承とも単なる音とも取れる、気抜けした声を吐いた。



3,

 嵐の夜、噴き上げる炎、割れる大地、這い寄る影、不敵な嘲笑。藻掻き、叫び、転がり跳ねて、調度品を騒がせながら必死に床を蹴り、日の下へと飛び込んだ。砂を飲み、激しく咳込み、吐き出した。慌てて立ちあがったが、迎えたのは静かな風と柔らかな草と、高い日照り。いやに騒ぐ動悸とは裏腹に、脅威は現実には存在しないようだった。

 家の裏手から何事かと、イダが覗いた。

「何してるんですか、コレナイさん。元気いいですね。」

「・・・ああ、全くだ。」

 コレナイは準備運動を真似て体を繕い、身体に付いた砂埃を密かにはたき落した。

「それより準備はできてますか?距離が近いとは言え、もうすぐ約束の時間ですよ。」

「なに、問題ない。」

 コレナイは井戸に水を求めた。その覚束ない足取りを、イダが訝し気に見届けた。

「本当に大丈夫ですか?今からでもティバさんの所へ行って、薬草を貰っておいた方がいいんじゃないですか。シャイラの足なら間に合うでしょう。」

 コレナイは幅のある桶に水を汲み、それを口に運んで大胆に中身を空にした。水の殆どは口の端から零れていったが、からからに乾いていた喉は十分に潤った。

「その必要は無い。ちょっと水が足りていなかっただけだ。それに、それこそシャイラがいるのだから、心配なんか無粋なだけだ。あいつは私をどこへだって運んでくれる。どの拠点であろうと、地の果てだろうと、私の意志を汲んで連れて行ってくれる。」

「まーた始まった。本当に気に入ってますねえ、シャイラちゃん。」

「そりゃあ、相棒だからな。当然だ。」

 コレナイはいつになく高らかに口笛を吹いた。音は平原によく響き渡った。そして普段とは異なった音であっても、シャイラは颯爽とコレナイのもとへと駆け付けた。

「さあ、行くぞ。ヤガシルを待たせるわけにはいかない。」

 その声は終わりを待たずに遠のいていった。イダが家の裏手へと家畜を呼びに行っているのにも構わず、コレナイはシャイラに加速を促し、風のように駆けて行った。

「・・・遅れて起きてきたのはあんたでしょうに。」

 イダはわざとらしくゆっくりと、丁寧に家畜に跨って、コレナイの背を追いかけた。

 それから些細な諍いに興じた二人だったが、泉へと到着するや揃って目を丸くした。イダの口から無意識に漏れたのは「生きる花」と言う意味合いのヘンテコな言葉だった。

 小島ではヤガシルともう一人、見るからに美しい女が待っていた。女は素材の知れぬ、繊細で華やかな、花弁を重ねたような衣装をまとっていて、更には髪や、肌や、瞳の色までもが煌びやかに輝いて映った。女に表情は無かったが、それがかえって神秘的であって妙な気持ちを誘ったもので、コレナイは女と言う種族を大変に恐ろしく思った。

「おはよう。コレナイ、イダ。早かったですね。」

 ヤガシルは挨拶を告げながら、女に素朴なローブを着せた。そこでやっとコレナイとイダは落ち着きを取り戻し、肩を並べて小島へと渡った。

「・・・これは一体?」

 コレナイが訊ねた。内心では奇妙な衣装についての疑問が大きかったのだったが、それが上手く言葉にできず、曖昧な問いになった。

「彼女は先日にあなた方が助け出して来た者です。名はウィルインと言います。さあ、ウィルイン。ここでは、おはよう、と。・・・さあ。」

「お・・・は・・・よう。」

 それは不器用な発音であったが、ヤガシルは嬉々として指先を躍らせた。

「ええ、そうです。よくできましたね。」

 ウィルインが着るローブの内側から細い蔓が伸び、蔦は彼女の腕から指へと伝って爪の先に美しい花を咲かせた。その花をじっと見つめ、時に触れようとしたウィルインを、イダとコレナイが唾を飲んで観察していた。ふと、唐突に小さな破裂音が鳴った。二人は音の方へ、ヤガシルの指先で鳴る火花へと振り向いた。

「さて。では新しい役目を与えましょう。ウィルインは未だ黴の後遺症を残しています。言葉が上手く話せず、自我も曖昧です。ですから、今日から二人には彼女が安定するまでの間、彼女の世話をしてもらいます。」

「役目、世話・・・世話?」

 コレナイは時間をかけて、「探索」という言葉が染みわたっていた脳内に新たな役目の意味を馴染ませた。やがて完全に理解すると、自然と満面の笑みになった。

「世話って何するんですか?」

 イダが訊ねた。

「主に監視と管理を期待していますが、ここでの生活の在り方を教えてあげてもよいでしょう。寝食をともにするだけでなく、例えばアラモやティバ、それと彼らの子の紹介や、拠点の案内など。できることは多くあります。」

「けっこー自由ですね。」

「ええ。ですが決して簡単ではありません。如何なる時も、ウィルインから目を離さないように注意してください。家畜に乗るならば必ずどちらかが付き添い、夜は施錠を十分にするように。」

「へい。」

「それと、管理の為にもう一つ、黴を焼く術を与えておきましょう。」

 ヤガシルは側に転がっていた鉄色の石を拾って掌に乗せた。そこにもう一方の手を重ねて蓋とし、辺りから内に空気を含めて押し潰した。刹那の発光とともに火花が鳴り、次に開けられた手の中には銀色の指輪が乗せられていた。ヤガシルが爪で引っ掻くと、指輪は炎を纏いながら細長い刃物へと変じた。もう一度、今度は刃先が引っ掻かれると、刃物は炎を飲み込みながら形を指輪へと戻した。

「このように爪で扱うことができ、コレナイが持つ短剣よりも強い力を与えてあります。では、これはイダに与えるとしましょうか?」

 イダにヤガシルの指先が向いた。イダは喜んで指輪を受け取ろうとしたが、寸前に表情を一変させて流れるようにコレナイを見た。

「あの・・・僕、正直。長物より短剣の方が欲しいです。」

「あ?」

 コレナイの口から感情のない音が漏れた。イダが今にも飛び掛からんという威圧感を伴なって、両手を構えてじりじりとコレナイに近寄った。

「実はね、ずっと羨ましいなあって思ってたんですよ。だってそれ、葉巻に火を点けやすいんですもの。ねえ、下さいよ。きっと僕の方が活かせます。アラモの手伝いにも使えるし、子への見世物にもなる。長物はコレナイさんが持てばいいじゃないですか。」

「いや。そもそもこれは私が道を拓き維持するために与えられたもので。」

「今やどこも見渡せるほどに整えられていますよ。それなら、もう必要ないんじゃあ?」

 ついにイダの手がその射程圏内へと迫り、コレナイは短剣に手を添えて守ろうとした。

「待て・・・聞け!イダ!」

「コレナイ。」

「いっ・・・。」

 大声でイダを制しようとしたコレナイだったが、不意にヤガシルに名を呼ばれて驚き、悲鳴まじりの声を上げた。

「もういいでしょう。短剣はイダに差し上げてください。」

「・・・・・はい。」

 一悶着を経て、短剣はイダの腰へ、指輪はコレナイの手へと預けられた。

「それでは、ウィルインを頼みますね。」

 ヤガシルはそう言ってコレナイの方へと、そっとウィルインの背を押した。ウィルインは懸命に千鳥足で歩き出したが、ふと足元の葉に躓いてしまい、コレナイの隣にいたイダの肩へと倒れ込んだ。イダはウィルインを受け止めたものの全身を震わせて直立し、固く歯を食い縛った。見開かれた彼の眼がコレナイに助けを求めていた。

 

 結局、コレナイはイダを助けなかった。寧ろ関わるまいと距離を置き、ウィルインに手を焼くイダの様子をちらちらと眺めては愉快に思った。当のイダは仕方なくウィルインの手を引き、易しくはない森の細道を先導していた。

「見てばかりいないで預かって下さいよ。コレナイさんの役目でしょう?」

 イダは不満を吐いて、ウィルインの歩みが遅いのをいいことに悠々と先を行くコレナイの背に石ころを投げつけた。石はコレナイには当たらず、側の雑木に飲まれた。

「私だけじゃなく、お前の役目でもある。それにウィルインは自らお前のところに飛び込んだんだ。お前をご指名なのだから、お前が世話をすればいい。」

「あれは偶々ですよ。偶然に転倒した先に僕がいただけです。」

「だとしても、私が預からなければならない理由も無いだろう。私は今まで散々にお前の都合に付き合わされてきたんだ。だから今度はお前の番だ。」

「ちぇー。」

 イダは舌打ちして唾を吐いた。その唾が不運にもウィルインの踏み出した足の親指にかかってしまったのだったが、彼女が反応を示さないので、イダは見て見ぬふりをした。

「代わりに今後の計画は私が考えるよ。・・・さて、まずはアラモの拠点を訪ねるとするか。三人で生活するともなれば、相応の備えが必要になる。」

 コレナイは森を出るといつものようにシャイラを呼び、跨った。そして平原を一望し、自由の感慨にふけろうとしたのだったが、間もなく背中に妙な感触があり、胴体に何者かの腕が巻き付いた。コレナイは目視するまでもなくその正体を察して、家畜の息遣いを頼りに木陰に隠れようとしていたイダを見つけ、睨みつけた。

「おい、待て。なぜウィルインが私の後ろに乗っている?」

 イダは隠れることを諦め、へらへらとしてコレナイに向かった。

「一応、言っておきますけど、押し付けたわけじゃないですよ。ちょっと目を離した隙に自分からコレナイさんの後ろにくっついたんです。どうやらご指名みたいですよ。」

 イダが挑発的に意地悪く笑った。コレナイはそれを無視してシャイラの首を撫で、様子を確かめた。シャイラが妙に落ち着いていたので、首を傾げた。

「私以外のものを乗せたのになんともないのか。」

「いいじゃないですか。きっとシャイラもそいつを気に入ったんですよ。そう言うことです。・・・ほら、早く行きましょうよ。じゃないと日が暮れてしまう。そいつを連れて暗い夜道を移動するなんて、考えたくもない。」

 イダはそう言い残して家畜を走らせた。判然とせず悩むコレナイだったが、イダが言う通り、ウィルインがいる以上は急ぐ必要があった。深い呼吸とともに悩みを振り切り、遠く離れたイダの背を追いかけた。

 アラモは計四つの拠点を築いており、その内の三つはアラモの子によって管理されていた。三人が向かったのはアラモの二つ目の拠点だった。それはある丘一面を満たした広大な畑であって、今は三人の子が滞在していた。

 黒髪の活発な子と、大人しい長髪の子が三人を迎えた。畑の外れにはもう一人、帽子を被った子が倉と畑とを忙しなく出入りしているのが見えた。イダが家畜から降りるや、彼の胸に活発な黒髪が飛び込んだ。

「よー、イダ兄。元気だったかよ。」

 イダは子を受け止め、抱え上げようとした。しかし力が足りず、できなかった。

「大きくなったなあ、お前。おまえ・・・なんて言ったっけ?」

「酷いね、イダ兄。アルマだよ。私の事は覚えてる?」

 指で大きな花を弄る髪の長い子が答えた。

「あー・・・えっと、覚えてるぜ。たしかミリアだ。そうだろ?」

「うん、そう。よかった、覚えてて。」

 ミリアは静かに笑って花弁を一枚、摘まみ取った。

「ところで、お前らサボりか?アーシルだよな、倉にいるの。」

 イダが倉を指さして訊ねた。アルマとミリアの視線がそちらへと流れたが、アルマの顔はすぐにイダの方へと帰って来た。

「違うよ。あそこにいるのはトゥーミオ。アーシルは一つ目の拠点に行ってる。それにトゥーミオは働いてるんじゃねーよ。片付けついでに秘密基地を作ってるんだ。あの倉を好きなもので一杯に飾るんだってさ。」

「へー、そうか。相変わらず変なもの集めてるのか?」

「今は石だなー。集めるだけじゃなく自分で削って、おかしな物を作ってる。」

「へえ・・・変わってんねえ。」

「なー。」

 会話するイダとアルマに、ウィルインを引き連れたコレナイが近づいた。ミリアがコレナイに話しかけたそうに唇を薄く開閉していたが、ウィルインを一瞥すると逃げるようにアルマの後ろへと回り込んだ。

「あれ、誰だそれ?」

 アルマが訊ねた。コレナイはウィルインのフードを捲り、彼女を半歩前へと押した。

「私の新しいお役目だよ。名はウィルインと言う。詳細は不明だが、ヤガシルの言い回しから考えるに、どうやら私たちの仲間に加わるようだ。訳あって今は話すことができないから、顔と名前だけでも覚えてやってくれ。」

 コレナイが紹介するとアルマとミリアはいくらか興味を抱いたようで、目を大きく開いて熱心にウィルインを観察した。しかしウィルインが固く俯いていたため、交流はそれより発展しなかった。

 コレナイは手を打って、場を仕切り直した。

「さて、だ。話したい気持ちは山々だが、残念なことにあまり時間がない。今日は食料を貰いに来たんだ。どうだろう、余っているものはあるだろうか?」

「いつも通りだよ。なんでも余ってる。」

 アルマは答えて、トゥーミオがいる方とは別の、比較てき近い位置にある倉へと走り、中から異様に膨らんだ大きな麻袋を二つ担ぎ出して戻って来た。

「なんだ?手際がいいな。」

「本当にもう、どうしようもないくらいに余っててさー。でも勿体ないし、そのうち誰かが貰いに来てくれるだろうと思って、ミリアと準備してたんだ。棄てるのも大変だし、俺たちじゃ食べきれなかったから、駄目になる前に貰ってくれて助かった。」

「そうか。アラモは忙しいのか?」

「最近は会ってないからわからない。そろそろ新しい仲間がほしいんだけど、会えないから頼めもしない。なー、コレナイも子を作ればいいじゃん。俺たちのところにくれよ。」

「私はだな・・・。」

 コレナイは否定しようとしたが、アルマと、そしてミリアから向けられた期待の眼差しにたじろぎ、言いきれなかった。逃げ道を考えていると、イダが肩を突いた。

「ねえ、コレナイさん。流石にもう行かないとヤバいですよ。」

「・・・あ、ああ。そうだな。代わりに何か言っておいてくれ。」

「へいへい。」

 コレナイはアルマとミリアの収拾をイダに任せて袋を持ち、その場を離れた。そして袋をしっかりと紐で束ねて背負い、シャイラの背に攀じ登った。その後になってウィルインの存在を思い出したのだったが、考えるより先に胴に腕が回った。違和感が過ったが、深くは追及しなかった。後方からイダが近づいてきて、隣で止まった。

「コレナイさん。流石に今日のところは僕が荷物を預かりますよ。」

「どうした。珍しく気が利くな。」

「いやあ、だって。さすがに見てられないんで。」

「・・・何のことだ?」

 コレナイが身体を捻ろうとした時、背後で呻き声が聞こえ、間髪入れずにイダの手が両肩に乗り、指が杭のように食い込んで動きを妨げた。コレナイは予期せぬ痛みに叫びながらもイダに食って掛かろうとしたが、彼のあまりに必死な形相に押し黙った。

「コレナイさん・・・絶対に動かないで。あんたが下手に動いたら、ウィルインの首が折れてしまうかもしれない。」

 イダの言葉で、コレナイは先程の背後の呻き声の正体を理解した。

「そうか、そうだろうな。悪かったよ。おかしい気はしていたんだ。」

 事後にイダによれば、ウィルインの顔は荷物にめり込み、首は今にも圧に引き裂かれる寸前であったとのことだった。以来、コレナイとイダはウィルインについて過剰なまでに神経質になり、これまでにないほど協力的になった。それから何度かの事件を経て、彼らの緊張は昼夜、或いは家の内外に関わらず張り詰めて、その疲労はいつかの探索の比にならない程になったのだった。

 そしてある早朝、再び事件が起こった。

 数度の口笛と、甲高い家畜の嘶きが二人を浅い眠りから引き上げた。目を開けて始めに見た物は錠が壊され開け放たれた家の扉だった。二人はほぼ同時に外へ飛び出した。外ではウィルインが大柄な家畜に跨っており、家畜は絶えず嘶いて前足を高く上げていた。

「あああああああああああああ!」

 一音で呆れ、一音に怒り、一音が嘆き・・・それぞれが異なる音程で感情を表した繊細かつ大胆な音が繰り返しイダの喉から放たれた。

「まさか、あれはお前のか?」

「おおおおおおおおおおおおお!」

 イダは混乱の最中で頷き、なんとかコレナイに意思を示した。コレナイは即座に家畜を宥めようとして近づいたが、家畜が暴れ出したために叶わなかった。ウィルインが振り回され、時に宙を泳いだ。彼女は必死に家畜の首にしがみ付いてはいたが、その細い腕が長く耐えられるとは思えなかった。コレナイは大きく手を振った。

「ウィルイン、いいか。今すぐに首を放して、なるべく遠くへ飛べ。大なり小なり怪我はするだろうが、何かの間違いで叩きつけられたり、蹴り飛ばされるよりはマシだ。骨折くらいなら泉で簡単に治せる。聞こえるか、ウィルイン!」

 コレナイの必死の訴えにウィルインの眼差しが一瞬ばかり反応したようだったが、首を放す様子は一向に見られなかった。そうこうしているうちに家畜がとうとう走り出してしまった。暴れなくなったことでウィルインは家畜の背で落ち着いたが、家畜は彼女を乗せたまま一直線に迷いなく、全速力で走り去って行った。

 コレナイは即刻シャイラを呼んだ。いざ追いかけようとした時、イダが袖を掴んだ。

「僕は?!」

「お前も来い!」

 コレナイが再び口笛を吹くと、異なる一頭の家畜がイダのところへと駆け付けた。二人は全神経を注ぎ、目を皿にして遥か先のウィルインの後ろ姿を捉え続けた。平原を抜け、荒野を駆け、林に入って縫うような小道を進み、そうした長い道程を経て、二人は漸くウィルインに追いついた。ウィルインは既に家畜から降りており、家畜は大人しくなっていた。ウィルインの足元には紫の鉱石が散らばっていて、彼女は二人に向くと一方向を指さした。その先には点々と鉱石が続いていて、狭い道ができていた。

「なんだ・・・何だって言うんだ。連れていきたい場所があっただけか?」

 コレナイはあてもなく、呆れた思いを吐き出した。彼の胸に怒りはなく、一杯の安堵で満ちていた。ウィルインが頷くと、コレナイはこれまでにない大きなため息を吐いた。息を荒らすイダがコレナイの隣に並び立った。

「どうします・・・いっそ無理にでも連れ帰って拘束しますか?」

「いや、無駄だろう。あいつは何らかの方法で、自力で錠を壊した上に、お前の家畜を巧みに扱った。器用な奴なんだ。野放しにはしておけないが、勝手を繰り返させてもいけない。ひとまず今回の問題はここで片付けておくべきだろう。」

「あー。」

 イダが葉巻を咥えながら鳴いた。それはまさに鳴き声のようであった。

「そうですね。また脱走されたら堪ったもんじゃない。ついて行きますか。」

「ああ。」

 意を決した二人がウィルインに近づくと、彼女は率先して鉱石を辿り、先導した。鉱石が拓いた道は深く、進むほどに色の暗い霧を濃く漂わせた。霧の中でコレナイは息苦しさを感じ咳込んだ。咳は霧の濃さに比例して段々と激しくなって、その苦しさに出直しを申し出ようとした時、イダの手元で火が灯り、狭く霧を退けた。

「もしかして、と思ったら、やっぱり効果ありましたね。」

 イダは握っていた短剣を振り回した。すると火花が方々に散って霧を焼き払い、コレナイの咳も止んだ。

「やるじゃないか。どうして分かったんだ?」

 コレナイは問いかけながら、指輪を引っ掻いて刃物に変えた。

「どうしても何も、霧が黴と同じ紫色じゃないですか。ヤガシルが黴を焼けるって言っていたから、そうなんじゃないかなって。」

「よく霧の色がわかったな。私には暗い印象しかないよ。」

「僕も最初は分からなかったですよ。もしかしたら葉巻の火のお陰ですかね。」

 葉巻を咥えるイダの唇の端に隙間が生まれ、煙が吐き出された。コレナイはその先端に目を凝らした。イダが言う通り、葉巻の火の気の付近では霧に色があるようだった。

「成程。」

 イダは得意げに笑って、普段よりも勢いよく厚い煙を吐き出した。煙がコレナイの鼻へと達し、それが再びコレナイの呼吸を乱してしまった。

 イダがちょうど葉巻を吸い終えた頃、三人は開けた紫の空間に行き着いた。周囲を緑に囲まれながらも部分的に不毛な地。その中央にはたくさんの大小様々な平らな岩が縦横無尽に埋められており、特別に大きな二つの間には汚れた布を被った何かが蹲っていた。ウィルインは何かに近寄って屈み、その天辺の膨らみを撫でた。何かは頻りに震えて咽た。ウィルインにが布を取り払うと、その下から見るに堪えない化け物が現れた。火傷の為か肌が爛れ、節々を紫の鉱石と群れた黴が蝕み、至る所から体液を溢し、更には部位ごとに肌の色や大きさが異なっているように見えた。愕然とする二人の目の前で、ウィルインは脱いだローブを化け物に被せると支えて立ちあがらせ、二人の方へと進んだ。ローブには早くも血液と膿と紫色の液体が滲み、異臭をも染み付かせていた。

「それをどうするんだ?」

 コレナイは言葉とは裏腹に、既に答えを知っていた。イダは目をカッと開いて、驚きの間に火が消えてしまっていたまだ新しい葉巻を吸おうとした。ウィルインが脇を通り過ぎていったところで、コレナイの肘がイダを小突いた。

「おい、イダ。大丈夫か。火が消えているぞ。」

「ええ、ええ、大丈夫です。ちゃんと聞こえてますよ。」

「どうやら私たちはあの何かを連れて行かなければならないらしい。だが、私にはできない。あれだけは絶対にシャイラには乗せられない。」

「僕だって嫌ですよ。僕も家畜には愛があります。僕の家畜は、僕の大いなる博愛的な一心の愛を受けて誰よりも大きく育ったんです。」

「だが今のままなら、ウィルインは間違いなくお前の家畜に乗ろうとするぞ。そして間違いなく、家畜が再び暴れる。あんな化け物を乗せようとしたなら、尚更だ。」

「ん・・・でも待ってくださいよ。それってつまり、何もせずに放っておけば化け物を殺してくれるんじゃないですか?粉々に潰してくれるんじゃないですか?」

「馬鹿め、それでもしウィルインまで死んでしまったらどうするんだ。」

「もういいじゃないですか。あんなやつ見捨てましょうよ!」

「駄目だ!ヤガシルからの役目なんだぞ。必要とする理由があるんだ。それに、聞いてくれ。私に策がある。これから私が急いで最も近いアラモの拠点へ行って、橇か、無ければ使えそうな木の板か藁を借りてくる。それであの化け物を乗せて行こう。」

「えっ、あっ、おお!・・・おお!それは両案だ!」

 イダは合点して手を打ったところで漸く葉巻に火がないことに気づき、短剣を握った。

「あれ。でも、それって・・・僕はどうするんですか?」

「できる限り時間を稼げ。幸い、シャイラの足ならそう長くはかからない。」

「・・・・・。」

「時間は無い。やるぞ。」

「・・・へい。」

 二人は疾走し、のろのろと進むウィルインを追い抜いた。コレナイが颯爽とシャイラとともに駆けて行き、イダが小道の出口でおろおろとウィルインを待ち構えた。ウィルインは柳のように歩いて、木に引っかかったり、根に躓いて倒れそうになったりした。イダはその様子に変に影響を受け、極度に緊張し、思考がままならず、最後まで足止めの策を考案できなかった。とりあえず短剣を振って辺りの鉱石を焼いた。所々に火の気が残ってしまったが、それどころではなかった。結局、錯乱の果てに彼が思いついたのは、ウィルインが足を運ぶ先に自身の爪先を忍ばせることだった。

 ウィルインは化け物とともに盛大に転んだ。地面に叩きつけられた化け物からは腐敗した液体が飛び散って、それはイダの足元にも及んだ。しかし彼には、それを気にする余裕がなかった。なんとウィルインがすぐに立ちあがったのだ。イダは素早くウィルインの爪先に自身の爪先を添えた。内心では再び転ぶはずがないと核心すらしていたが、それでも爪先を下げようとはせず、寧ろ一層に足に力を込めた。しかしウィルインは化け物を助け起こそうとはせず、ただ立ち竦み、涙を流していた。涙は微かに紫色を帯びていて、まるで彼女の翡翠と紫紺が入り混じった瞳から色が溶け出したようであった。

 やがてコレナイが藁を平らに編んだ橇を持って戻って来た。彼は唖然として硬直するイダと、涙を流すウィルインには目もくれず、真っ先に地面で震える怪物に橇を並べ、その上に器用に怪物を転がした。そして橇と化け物を紐で括ってイダの家畜へと繋いだ。すると何事もなかったかのようにウィルインがイダの家畜に跨り、走り去って行った。

「よくわからないが、上手くやったようだな。」

 コレナイの息は荒らしたまま、イダの肩に手を置いた。

「・・・ええ。僕もよくわかりませんけど、はい。」

 その後、ウィルインは森の細道の途中で立ち往生してしまい、それを止む無くイダとコレナイが手伝うこととなった。泉へ着くや、ウィルインは化け物を泉へと突き飛ばした。それは予想外の行動だったが、二人の疲弊しきった心に動く余地は無かった。泉の水は激しく蒸気を放ちながら時間をかけて化け物を浄化した。蒸気が晴れた後にあったのは化け物ではなく、灰色の肌の巨漢の姿だった。

「あの傷を治せるのか・・・。」

「えっ、僕の踝と同じ色・・・?」

 二人はそれぞれに驚愕した。

 螺旋の蔓の奥からヤガシルが覗き込み、巨漢に気づくと表情を険しくして小島の縁に立った。コレナイが一人で巨漢の身体を引き摺り、小島へと運んだ。ヤガシルが屈み、巨漢の額の側面を確かめるように撫でた。

「ウィルインが?」

「・・・はい。アラモの一つ目の拠点と、二つ目の拠点。それとここの、ちょうど中間あたりの位置だったと思います。入り組んだ場所にあったので定かではないですが。」

「分かりました。」

 ヤガシルは巨漢の処置を始めた。ウィルインの時とは比にならない、山を作る大きな鉱石や黴を焼き切るには大変な時間を要しそうだった。

「では、私たちは戻ります。」

「ええ、どうぞ。くれぐれも気を付けて。」

「はい。」

 コレナイはイダとウィルインに声をかけ、彼らを率いて帰路についた。

 夕日が差し出した頃に家へと着いた。二人はウィルインを家に入れてから丹念に家畜らの様態を確かめ、異常がないと平原に放ち、家へと入って食事の支度をした。それを終えるとコレナイはイダに一言告げて、側の棚から果実を取って齧りながら外へ出た。

「・・・良い錠が貰えるといいが。」

 急ぎシャイラに向かわせた先は、ティバが住む山の麓だった。



4,

 深緑を沈めた影の中でいくつもの光が泳いでいた。彼らは木々を縫って漂う祈りの声に呼応して輝いた。声は深い森の奥地に隠された泉の中央、そこにある小島の上で膝を折るヤガシルの口から零れていた。

 螺旋の蔦に祈りを捧げるヤガシルと、その背後には泉に浸された巨漢がいた。巨漢の身体にはまだ多くの鉱石と黴が残っていた。その一つ一つの浸食が深刻なために処置が難航していたのだった。鉱石を燃やし、後に残った傷口を泉によって治す。それを少しずつ、巨漢が死んでしまわないよう着実に繰り返された。

 小島に数滴の雫が降った。雨であろうかと、ヤガシルは祈りを止めて顔を上げようとした。その時、彼女の腹部を何かが貫いた。ヤガシルは動じず、壁のように並ぶ木々を操って別け、小島に夕日を呼んだ。そして照らされた、腹部から突き出た鋭利な紫色の鉱石を見下ろした。大きく開いた傷口からは体液の代わりに火花が迸っていた。火花が鉱石の表面で跳ね回っていたが、鉱石が燃えることは無かった。

「あ・・・。」

 言葉に表せなかった。敵意を向けられることも、傷を負うことも初めてだった。傷を中心にして瞬く間に黴が広がり、頬へと至り、侵食された瞳が映したのは、舌なめずりをする黄色い瞳を持った鱗の生物だった。生物は口を裂き、満足そうに笑って、呪われた言葉を吐いた。その言葉は無垢な心を毒し、滾らせ、黒い衝動と悍ましい誘惑の荒波に引き込んだ。ヤガシルは悲鳴を上げた。それも、初めての事だった。


 炎が木々を呑んだ。毒された生命の火は形ある万物を糧として、火の中に歪な影たちを躍らせた。乾いた熱風に撫でられた泉が黒く淀み、一息の間に全てが蒸発した。泉の水を孕んだ風はより多くのものを糧として、害あるものたちを生み出した。彼らは飢え、あらゆるものを貪った。そのうちに肉を欲して森の外へと競い這い進んだ。歪んだ生命たちが波を成し、恵まれた平原へと溢れ出した。


 扉がない三つの倉と、それに挟まれた二つの屋根。屋根の下にはそれぞれ多種多様な工具が転がっており、片隅にはまだ新しい木くずが積まれていた。それらを横目にして少し先の等間隔に並ぶ木立の向こう側。そこにティバの家はあった。薄い木の板を当てられた引き戸の窓が半分ほど空いており、ランタンの光が漏れていた。

 コレナイは倉の傍らにシャイラを残し、木立に挟まれた乱雑に砂利が敷かれた道を進んだ。道半ばでついに夕日が頭を沈め、夜が訪れた。コレナイはその静寂を嫌い、風を恋しく思った。微かにでも揺れる枝葉は無いかと辺りを見回し、耳を澄ました。数歩後ろから砂利が弾かれ転がる音が聞こえた。コレナイは振り向いて、一瞬、木立の隙間に揺れる翡翠の宝石を見た。しかしそれは夢のように朧となって記憶から逃れてしまい、コレナイの視線は尾を振って主の帰りを待つシャイラの方へと流れていった。彼は暫しそのまま呆けていたが、ふと我に返って前に向き直り、ティバの家へと急ごうとした。

 しかしその時、再び背後で砂利が鳴った。始め関心を持たなかったコレナイだったが、転がる石ころに追い抜かれると足を止めた。首に温い空気の流れを感じていた。ヤガシルの祈りに似た、得体の知れない力強い意志を抱いた声が耳を埋めた。

 コレナイは足の向きをそのままにして腰を捻り、尻目で背後を確かめようとした。しかし視線は背後へと至る前に、斜め後ろの位置で輝く翡翠の双眸に導かれた。

「・・・コレナイ。」

 彼女は祈りを止めて囁くようにコレナイの名を呼び、右の指先を彼の額に押し付けた。その腕の上で赤の印が脈動し、心地よくも異様な熱がコレナイの額へと流れ込んだ。


 その目覚めが無意識からのものなのか、或いは眠りからのものなのか、まるで判別がつかなかった。気づけば風を感じていて、荘厳な鐘を目の前にしていた。段々と感覚を取り戻す中で、手首と背中に温もりを覚えた。何者かが真後ろに立ち、コレナイの右手首を握って拘束していた。コレナイはそれがウィルインなのだと直感した。

「あれを見て?」

 耳を掠める声のままにコレナイは左方を鳥瞰した。激しく煙を昇らせる森と、平原を荒らす蠢く黒い波が見えた。その上空では厚い雷雲が生じ、雷雨を落としていた。コレナイはその景色の理由が何一つとして解らず、自分が質の悪い夢にあるのだと信じ込もうとした。同時に恐怖に呻き、絶望に嘆き、一心に夢の終わりを願った。

 ウィルインの左手がコレナイの左胸に登り、浅く爪を立てた。

「あれは間違った生命たち。憎悪もなく、妬みもなく、己を害とも知らず、ただ飢えに従う異形たち。哀れよね。でも、間違いは間違い。正さないと。ねえ、そうでしょう?」

 爪に力が籠り、コレナイの肌に血を浮かべた。彼の頬に一粒の涙が伝った。それは痛みによるものではなく、失意と悔恨が生じさせたものだった。

「・・・ああ、まさか。これは夢じゃないのか。みんなは無事なのか?ティバは、イダはアラモは・・・あの子らはどこにいる?シャイラは近くにいないのか?夢なら早く覚めてくれ。夢じゃないなら、どうか行かせてくれ。私を放してくれ・・・。」

「救いたいかしら?」

 ウィルインの冷たい問いに、コレナイはただ震えた。ウィルインは同じような問いを、等しい間を空けて何度か繰り返した。コレナイの身体から震えが去り、指に力が籠った。そこで彼は、自身の右手が何かを握っていたことに気づいた。

「あなたは願いの形を知っている。願う術も持っている。だからただ、従えばいい。」

 コレナイの右手首が異様な熱を帯びるとともに背中から温もりが離れていった。解放された彼の右手は独りでに高く掲げられ、握った何かを振りかぶった。

「願いを。」

 意識が霞み、鋭い耳鳴りと、他のあらゆる全ての静寂が訪れた。唯一、変わらず明瞭なままのウィルインの声がコレナイの神経に木霊し、四肢を支配した。

 牙が鐘へと届いた。鐘の音が静寂を破り、飛散した七つの欠片が七つの穴を空けた。


 空に三つの穴が空いた。それらからは神殿を孕んだ獅子、多脚多爪の怪異、魔儡の牡鹿の三つが降りた。前世のために死を切望していた獅子と牡鹿はヤガシルの火を見つけるや突進した。そして獅子と牡鹿を追いかけ、飢えた怪異が地を割った。

 地にも三つの穴が空き、春の冠りの乙女、寂蒔の王、九つの腕の怪人を呼び起こした。彼らは銘々に願望を抱いており、守るべき存在と、導き得る存在を知っていた。彼らは願望が生きる場所を保つべく、歪んだ生命たちに持てる力を振るった。

 最後に一つ、宙の小さな穴から漆黒の指と爪とが湧いて穴を押し開き、内から影の鳥を吐き出した。鳥は雷雨を裂いて飛翔し、やがて湾曲した嘴を大地に向けて降下した。


 ウィルインがコレナイの手からそっと牙を奪い取り、残響する鐘に二度、それを打ち付けた。再び欠片が散り、塔の下に二種類の人類を生み出した。一方は人類を模した生命たち。そしてもう一方は、鐘の欠片を受けた戦士たち。戦士たちは決して戦う術に恵まれてはいなかったが、その丈夫さと無垢さだけを頼りに、命を賭して歪な波に立ち向かった。

 ウィルインは呆然と佇むコレナイの手に牙を握らせて塔を下り、生命らを束ねて喧騒とは反対の方へと去っていた。直後、降下していた影の鳥がついに大地と衝突し、その衝撃でコレナイは塔から投げ出された。そこに間一髪でティバが駆け付け、捕まえた。

「大丈夫か、コレナイ。何があった。」

「・・・分からないよ。私には、何も。」

 豪雨が頭上にも及び、豪雨が二人から世界を隠した。



 ある少年が崩壊した倉の下敷きになっていた。彼は掌が深く切り裂けるのも厭わず、尖った破片をあらん限りの力で握りしめていた。彼の呼吸が止まり、破片の先端が細い喉に押し当てられようとした時、柱のような雷が落ち、彼の空を明かした。

「哀れな者よ。生まれて間もないのに、自ら命を絶ってしまうのか。」

 少年は不思議に思い、破片を持つ手を下ろして頭上に広がる雷雲を見上げた。空から語り掛けてきたその声は雷鳴を躱して、鮮明に少年の耳へと響いていた。

「・・・誰?」

「私は空の父。雲と雨と雷と、高く有る全てを統べる者。」

「父って、何?」

「永久の観測者であり、絶対の守護者である者だ。」

「あなたが空を守っているの?」

「如何にも。だが空だけではない。今や雷雨が降り届く先、時には風さえもがそうだ。」

「・・・僕たちのことは守ってくれないの?」

「難しいのだ。権威にあっても、自然とは常に気紛れであるから。」

「じゃあ、どうして僕の邪魔をしたの?」

「哀れに思ったからだ。お前だけは助けてやろうと、私がそう決めたからだ。」

「それなら僕じゃなくて・・・母さんか、他の子を助けてよ!」

 少年は叫び、今度こそは一切に躊躇いなく破片で喉を裂こうとした。しかし突如として叱責にも似た一際に大きな雷鳴が轟き、驚きが少年の手を阻んだ。

「・・・強い子よ。お前はあくまでも私の助けを受け入れないのだな。」

 冷たい雨が空を暗く染め、少年の掌にこびり付いた血を流した。

「だが、確かに聞いた。お前はさっき、私に他の者を助けろと願っただろう。答えろ。本当に願うのか。願いを叶えられるならば、お前は全てを捧げられるか?」

 少年は雷雨を仰いだ。大粒の雨の雫にも怯まず、じっとその先を見つめた。

「うん。本当にそれで誰かを助けられるなら。」

「よかろう。」

 雨を別つ風が吹き、少年の手の中から破片を浚った。代わりに少年の掌には、稲妻を映す小さな菱形が置かれていた。


 森に幾つもの雷の柱が降り注いだ。ヤガシルは焼き殺した三つの屍を糧として肉の盾を生み、雷から身を護った。しかし天から小さな戦士が降って肉の盾の上へと立ち、盾を粉々に切り刻んだ。雷がヤガシルを直撃した。彼女は身体の大半を欠損したが、周辺の肉によってそれを補い、少年に激しい炎をあびせた。

 雷と炎の応酬は歪な波が滅ぼされた後にも長く続いた。生き残った者たちはその戦いを避けるようにして、それぞれの命を繋いでいった。しかしある日、雷と炎は凄惨な戦闘の痕だけを残して忽然と姿を消したのだった。


なんかいろんなのが登場しましたが、既にエンディングまで構想ができているので、必ず収拾はつきます。ただしその前に気力が尽きるかもしれません。


半年以上前、初めての頃はどいつもこいつも不幸にしてやろうって気持ちでいたのですが、時を経て思考がマイルドになりました。

面倒な生ゴミがプラゴミぐらいには昇華されたって感じですね。些細ですが設定もいくつか変わりました。

ありがとうございました。


気に入ってくれた方がいたら、よかったら影の世と春の国も読んでみてください。

でも影の世はもしかしたら技術的に未熟で読み辛いかも。ごめんね。

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