表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
龍の檻   作者: 居道
1/2

星と龍

この頃ずっと「おもちゃのチャチャチャ」が脳内で流れ続けています。

0,

 あるところに、とてもとても小さな星がありました。微かな薄明りだけが頼りの、明けのない星でした。そこには小さな管理者が住んでいました。

 星には物が少なく、管理者はいつも退屈で、寝てばかりいました。ですが、いつからか夢を見ることもなくなってしまいました。夢の中でも寝ていたからです。

 ある日、来訪者がありました。

 星々を駆け巡る、叡智に強欲な爬虫類。彼は同じ、管理する者ではありましたが、管理者は彼のことが嫌いでした。羽音が五月蠅くて、爪が鋭くて、吐息が熱くて、とにかく傲慢で、自分勝手に眠りを妨げる。でも彼は物知りでした。星を訪れると、決まって管理者に色んな物語を話して聞かせました。それ以来、管理者は再び夢を見ることができるようになりました。どこまでも続く大地の上で、様々な物が生きる夢です。

 ですが、どれだけ夢が恵まれても、星が小さいことには変わりありません。次第に管理者は夢から覚めることが怖くなりました。ずっと長い時間を眠るようになりました。

 またある日。彼が羽音を騒がせてやって来て、管理者に問いかけました。

「なぜいつも眠っているんだ。」

 管理者は耳を隠しました。すると彼は管理者の背を爪で突きました。

「なぜまた眠ろうとするんだ。」

 管理者は小さな星の唯一の置物の陰に転がり込みました。すると彼は置物に熱い吐息を吐きかけました。管理者は熱さに耐えられず、ついに置物の陰から飛び出し、彼を睨みつけました。彼は愉快そうに笑いました。

「ハッハッハ、そんなに眠っていたいのか。夢を見ていたいのか。・・・ああ、分かったぞ。お前は己の夢を妬んでいるのだ。そうだろう。そうに違いない。」

 彼は今度はニヤリと口だけで笑って、管理者に口を寄せて囁きました。

「星を大きくしたいか。地上に命を望むか。」

 管理者は頷きました。すると彼は置物を指して言いました。

「それが何か分るか。」

 管理者は首を横に振りました。

「ならば教えよう。あれは命を起こす物。時に剣であり、泡であり、果実である。だが不幸な者の下では天の遥か彼方の兄弟の星であり、永遠の地平が孕んだ小さな湖であり、どこまでも深く広大な水底の火山であるものだ。お前は幸運なのだ、管理者よ。」

 彼は自らの爪を折って管理者に与え、告げました。

「欲しければ鳴らせ。鳴らしたならば隠れて待て。お前はただの一度、願いと勇気を示すだけでいい。後の事は俺に任せてしまえばいい。」

 管理者は与えられた彼の牙を強く握って、鐘を何度も打ち鳴らしました。すると鐘の破片が飛び散り、破片は多種多様な生物に変わりました。生物らは彼ほどに大きく、小さな星はあっという間に埋め尽くされてしまいました。

「さあ、鳴らせ。もっと鳴らせ。まだまだ、地上をお前の夢で満たすのだ。」

 長い間、管理者が夢中で鐘を鳴らしていると、とうとう爪が欠けてしまいました。それを彼に知らせようとして振り向いた時、そこには見違えるほどに大きくなった星と、地上でたった一人だけ生き残った彼の姿がありました。

 彼はその汚れた大きな翼で管理者の目を覆いました。

「まだ見るな。星には時間が要る。まだ、まだ、焦ることはない。」

 彼の口から温かい風を受けると、管理者は疲れていたのかすぐさま眠りにつきました。

 破片が鏤められる音と命の叫びに囲まれて、管理者は幸せな夢に落ちました。



1,

 気が付くと見知らぬ丘の上に立っていた。この見慣れぬ地にどのようにしてたどり着いたのか、過程の一切を思い出せなかった。キリのない思考を擲ち周囲を見渡すと、遠目に緑に溢れた山がぽつんと見え、麓にはこぢんまりとした町が見下ろせた。その町の最も高い位置には、まるで君臨するように建つ赤煉瓦の塔が目立った。紛れもない、誇らしき我が家であった。随分と離れた場所まで来てしまったようだった。自らの足を頼ったとはとても信じられない程の、途方もない距離があった。

 昔から酒癖が悪かった。理解はあったが若い時分に不眠症を患って以来、酒に頼り切った生活を送り続けたためにとうとう手放せなくなった。酔いが早いために酒代に悩むことはなかったが、問題を起こすのも早かった。俺はどうやら酔いがまわると放浪するのが決まりらしい。一々の記憶がないために経路や手順が判明したことはないのだが、今回のように外で朝を迎えたことが何度もある。注意を受けることもあったが、放浪の物語は酒場の仲間をよく喜ばせた。家畜小屋で藁を枕にしていたり、井戸の底で夜を明かしたり。時には行動が早いことが祟って、あの緑の山の反対側にまで迷い込んだことすらあった。だが俺も馬鹿ではない。無様な朝を迎える度に頭を使い、努力した。通い馴染んだ露店に別れを告げ、家だけで酒を嗜むようにした。それでも放浪したが、今ではアレが、見張りの目がある。

 とにかく家に帰らなければならない。見渡せる道程には辟易するが、急がなければならない。あの山の頭から日が出てしまう前に家へ着き、アレの不届きを叱らねば。


 彼は勇み立ち、歩き出そうとした。同時に頭の中では走ってみようとも考え、崩れて転び、尻もちを付いた。彼は己の不甲斐なさを笑おうとしたが、すぐに転んだ原因が、思考と行動の矛盾の所為だけではなかったことに気づいた。大地が激しく揺れていた。彼は抗い立ち上がろうとしたが、不意に目に入った景色にそれどころではなくなった。

 山頂から火が吹きだしていた。その激しい赤に、少年時に駆り出された戦争で、敵兵に首を切り落とされた上官の最期が思い浮かんだ。顔に吹きかかった粘ついた液体の生暖かさが思い起こされた。だが、それは彼にとって現実ではない筈だった。彼も分かっていた。それはあらゆる空想と仮説の産物であり、戦争など、少なくとも彼の人生には存在しない出来事だった。それでも、彼の顔に張り付いて離れない不快な温度と名も知らぬ上官の断末魔は、異常なまでに鮮明に記憶の底から蘇ったのだった。

 山の火はたちまちに麓の町を襲った。家屋や囲う木々のあちこちに燃え広がり、逃げ惑う人々の悲鳴が耳に届いた。恐怖に身動きを取れずにいると、足元で大地が二つに割れた。そして裂けた地の奥底から、巨大な影が攀じ登ってきた。影はじわじわと膨らみ、太陽を覆い隠すまでに大きくなると、その中央に顔が現れ、笑みとも取れる表情を浮かべた。影は彼を見つけると口の端を尖らせて、徐々に徐々に近づいた。

 彼はただ慄き、歪んだ顔を迎えた。顔が鼻の先まで到達した時、彼は息を止めて思いつく限りの惨劇を想像し覚悟したのだったが、実際には頭への軽い衝突があるだけだった。恐ろしい世界は見る間に遠のき、次に目に映ったものは見慣れた木の目の模様だった。


 何とも最悪な朝だった。額を濡らす汗と、年甲斐もなく目尻に溜められた涙。更には腰から背にかけて、汗を吸いじっとりとした寝具が張り付いていた。

 涙の理由を想像したくはなかった。気を奮い立て、寝具から逃れてベッドを下りると、右足が何かを踏んだ。見れば、掌ほどの木製の月飾りが落ちていた。自然に天井を見上げると、そこには同じものが六つ、柱を介して紐で吊り下げられていた。七つの月飾り、それは魔除けの品だった。決して迷信を信じる柄ではないが、若い頃は余分に迷い、曖昧な価値で謳われた物々に縋ることがあった。その為に部屋には、今では忌々しいばかりの青き日の名残が点々と飾られていた。鬱屈な思いで月を拾い上げ、痛む足腰を伸ばし、鈍重な足取りで窓へ寄った。傍の棚に月を預け、振り子のように身を撓らせて窓を押し開けた。

 暖かな陽光と新鮮な空気が抜けていき、風を受けた何かが背後で小さな音を立てた。たった一度の深呼吸で、先ほどまでとは打って変わって心持ちが明るくなった。無意識に青空を拝み、今日という日を祝福した。あの太陽もまた、この老いた身を祝福してくれているに違いない。今日はきっと、良い日になる。

 自然の恵みに満足して振り向くと、部屋が異様に散らかっていることに気づいた。風の所為だけではない。あらゆる装飾が散らかり、蝋燭が倒れていた。これに火がついていたらと考えてしまい、背筋が凍った。昨夜は酒を飲んだのだったろうか。そう言えば嫌な夢を見たような気がする。何も思い出せないことが恐ろしかった、

 部屋を簡単に整え、階下へ降りようとした時、下へと垂直に下げられた梯子が脚元から斜めに傾いていることに気づいた。それは見逃せない危険だった。何せ酩酊や微睡の間に、夜中に起きださないとも限らないのだから。力任せに梯子を直していると、ついため息が出た。視線の先では第二の梯子が過剰に頭を主張していた。

「過去に戻れたなら、俺を叱りたいものだ。いや、俺だけじゃあない。この家に関係した者はみんな揃ってまともじゃなかったんだ。ああ、恨めしい。何もかもが・・・。」

 我が家の個性でもあり、欠陥でもある塔に似た構造を、齢を重ねてからは毎日のように後悔していた。なぜこうなったのか?きっと見晴らしに優れるからに違いない。理由など、今となってはどうでもいいのだ。俺がするべき事は二十数年以上前の自身の真意を質すことではなく、うっかり梯子から落ちてしまわないよう、朝夕毎に注意することなのだから。

 やっとの思いで一階の廊下に足を降ろした時には、全身に不快な冷や汗をかいていた。右手の戸の先から小気味よい音が聞こえていた。音に誘われて居間に入ると酸味のある香りが鼻を刺激した。入ってすぐ左手の壁に、今朝に採ったばかりであろう赤い根菜が干されていた。香りの正体はそれだった。テーブルの向こう側の台所では、リンが朝食を作っているところだった。ご機嫌に鼻歌を奏で、リズムに合わせて体を揺らしては、華奢な背に垂れかかった艶やかな青髪を靡かせていた。

 椅子に腰かけ、早くも疲弊した上身をテーブルに投げ出すと肘の骨が鳴った。リンはその音で振り向き、微笑んだ。


「遅かったですね、コレナイさん。私は日の出とともに起きたんですよ。裏の菜園を周ってきて、特別に実りの良いものがあったので、ちょっと張り切ってしまいました。」

 リンのハキハキとした声でコレナイは現在時刻を察し、項垂れた。彼女はいつも早起きだったが、朝が得意な訳ではなく、昼頃までは決まって寝惚けたままなのだった。

 テーブルの上に次々と出来立ての料理が並べられた。バスケットに入ったパンと、山菜の和え物。加えて流行らしい赤い木の根のスープが並べられた。

「今朝は少し揺れましたね。近くを龍が飛んだみたいで、お気に入りのお皿が一つ割れてしまいました。お陰で、片付けで支度が遅れてしまって・・・でも、結局こうして一緒に暖かいご飯が食べられたから、案外、悪いことではなかったかもしれません。」

 リンは軽やかに笑い、スープを控えめに掬った。

 コレナイはパンを取ってナイフで切れ目を入れると、そこに山菜をぎっしりと詰め込み、滴るほどの大量の油を垂らした。そして一口齧り、新鮮な酸味に瞼を震わせた。和え物にはリンの好物の歯切れのよい茎菜もふんだんに使われており、食感も楽しめるものだった。

「・・・起こしてくれてもよかったじゃあないか。」

 コレナイは普段よりずっと起床が遅れたことで機嫌を損ねていた。加えて前のめりの姿勢が障って喉が力み、押し殺したような声になった。しかしリンは特に気にする様子もなく、茎菜を噛み、その小気味よい音を堪能していた。音が鳴らなくなると水で飲み込み、困ったような顔をした。

「そんなこと言って。昨晩は早くに寝ていたでしょう。コレナイさんが悪いです。揺れにも気づかなかったようですし、きっと良く眠っていたのでしょう。」

「俺は早く寝たのか?じゃあ、酒も飲まずに?」

「ええ。そうですけど、どうしたんですか?お酒なんて、絶って暫くになるのに・・・。」

 リンの眼差しに疑いが映った。コレナイはパンを落とすなどして取り乱しながらも、自分がまだ寝惚けているのだろうと判断し、冷たい水を含んだ。そうして落ち着いてみれば、歳の所為、と、最も忌避すべき答えが頭に浮かんできた。止まった思考と視線の端々で、次々と空いた食器が片付けられた。

「それに今日は私たちに大事なお客さんが来ますでしょう。約束がありながらお酒に浸るような人ではない筈です。私てっきり、その準備をしているものだと思っていましたし。」

 リンは呆れたように目を細め、批判的にコレナイの寝巻のローブを、次いで彼の顔を睨んだようだったが、その視線は柔らかく、僅かの痛みも与えはしなかった。

「客?・・・約束?」

 コレナイは記憶を漁った。それらしいことが明日にも在ったような気もすれば、今に過ぎてしまったことのようにも思えて、焦ったりもした。

「だが、客の相手はお前の仕事だろう?」

 コレナイ邸に於いて、主たるコレナイが客と相対することは稀だった。それ故に、数少ない例外から解答を導き出すことは望まずとも容易な事だった。

「まさか・・・クレマー夫妻か?」

「ええ、ええ!今日は一家揃ってランチの日です。やっぱり覚えてくれていたんですね!」

 リンは花のように笑った。反してすっかり血の気を失ったコレナイはどこまでも項垂れ、テーブルと一体になろうとした。人はどこまで平たくなれるだろうかと、或いはどれだけ平たくなれば人の目を逃れられるだろうかと、滅茶苦茶なことを空想した。そんな彼の肩を、リンがしっかりと捕まえた。

「じゃあ着替えましょうね、コレナイさん。予定通りなら一時間後には到着するでしょうから。まずは髪と髭を整えましょう。ね、旦那様?」

 旦那様、と、踊るように冗談まで言うリンの華奢な腕にコレナイは引き摺られ、廊下の向こう側の洗面所へと運ばれていった。

 


2,

 リン・クレマーはコレナイ邸の二階に住む若い家政婦である。この可憐な少女がコレナイ邸の家政婦になるまでにはやんごとなき経緯があった。

 リンの家系であるクレマー家は、コレナイが住むエレムから遠く離れたラエルという名の町で代々に鉱石や金属の採掘し、その加工から物流までをも手掛けて財を成す名家であった。クレマー家はラエル町随一の産業の要であり、卓越した技術も有していた。ラエルの工芸品と言えば、どこにでも並ぶが、どこでも手に入らない。そんな、需要の高い一品ばかりだった。

 しかし六年ほど前に一度、クレマー家は零落した。聞くに採掘が長期に渡って膠着したらしく、同時にラエルの産業は停滞し、物流も途絶え、市場に多大な影響を及ぼした。以前は我が物顔で露店に並んだクレマー印の調度品は鳴りを潜め、代わりに職人募集と書かれた張り紙があちこちに掲載された。商人らはラエルから流れた技術者を求めていた。

 そんな混乱から半年ほど経ったある雨の日だった。夜も更けた頃、クレマー一家はどこでどのように聞いたか知らないが、ある噂を頼りにしてコレナイ邸を訪ねた。


 コレナイは噂の正体を探ろうとはしなかった。そんなものは想像するに容易かった。田舎生まれの成り上がりであった彼は、それなりの嫉妬を受けることがあった。知る限りでも、色好きの冴えない富豪や、地位に足らぬ矮小者などと噂されていた。つまるところ世間におけるコレナイの人物像とは、ただ金があるだけの人の安い老父なのだった。つけこもうとする者は多くあった。覚えのない婚約や、身なりばかりが良い知れぬ名の娘との顔合わせが連日に渡って押し寄せたことがあった。探るまでもなく、それらの実態は身売り同然の政略策ばかりであった。コレナイはこの手合いに辟易し、強く軽蔑していた。

 

 クレマー夫妻は名家にもれず、衣服や装飾は見るからに高価なものであった。しかし名乗ることはなく、コレナイは彼らが真に名のある者とは気づけぬまま、来客がまたもや娘連れの貴族とだけ知って落胆した。しかし彼らの様子は妙だった。衣服の端々が汚れ、手荷物も少なく、身一つで来たも同然だった。その上、夫妻は戸が開けられるや否や、身に着けた少数の装身具の全てを娘に託し、静かに背を押すと顔を伏せた。言葉はなく、リンだけがまっすぐにコレナイを見つめていた。化粧のない、まだあどけない小さな顔には拭いきれない不幸と、不動の意志が張り付いていた。気丈な娘だと、コレナイは感心した。それでも、彼の決意は変わらなかった。欠片の侮蔑も行わず、最低限の礼を以て接し、それなりの手土産を与え、背を見送って戸を閉める。無駄や隙は破滅を生む。下手に無礼を行えば騒がれ、不用意に語らせれば何を言い出すか知れないのだ。だが、当時のコレナイは、ルーティンと化した無感情に執り行われる一連の動作に少しの同情を込めて、土産を余分に用意してやろうとした。夫妻らはそれ程の有様だった。

 コレナイは一旦、戸を閉めて居間に戻り、いつもの洒落た装飾が施された小袋よりも二回り大きい無骨な木綿の袋を手に取った。そして町長から一方的かつ際限なく贈られ、大きめのバスケットに山を作る茶葉から色の良い所をふんだんによそい入れ、袋の口を紐で縛った。不気味に膨らんだ土産袋を抱えて再び玄関を開けると、夫妻は変わらぬ様子で、リンはその大きな瞳でコレナイの顔を捉え続けた。

 コレナイは気恥ずかしさから夫人に視線を逸らした。そしてふと、夫人の雨に湿った衣服の襟に、やけにはっきりとした汚れを見つけた。興味から注目して、それが何か理解して息を飲んだ。襟の幅に収められた円には複雑な幾何学模様が刻まれ、その中心には堂々たる鐘が座っていた。コレナイはようやく誰を相手にしていたのか理解した。

 コレナイは焦った。火急に対応せねばならなかった。目の前にいるのは、今や零落したとはいえ、かつて産業を支配した市場の王なのだ。町長を呼ぼうと考えたが時間が時間だった。かと言って放ってはおけないと、家に招き入れようと夫人に手を伸ばした。いざその固く組まれた手を引こうとした時、その印象強い美しい顔が僅かに上げられ、目が合った。

 雨音を破り、獅子が吼えた。穏やかな翡翠の奥深くから、荘厳な誇りと、牢固たる覚悟が煌き、威光がコレナイの脳裏を刺した。コレナイは完全に圧倒された。一瞬にして委縮し、同時にあらゆる価値も、或いは権威にも、彼らの命を推し量ることはできないのだと悟った。自我を喪失し、只人にも足らなくなったコレナイにできることは、何も言わずリンを受け入れ、去り行く夫妻の凱旋を見届けるだけだった。

 コレナイは思った。きっと夫妻はその誇りのために人知れぬ地で命を絶つのだろうと。蹲り頭を抱えた。手に余る置き土産をどうしたものかと、底無しの不安に苛まれた。だが、チラと見た、まるで人形のようにひっそりと立ち竦む雨に濡れた少女の姿は抗い難い同情を誘った。コレナイは少女にタオルを与え、ひとまず居間に一人分の寝床を作ると、三階の自室に戻ることなく居間の壁に背を凭れた。その夜は一睡もできず、朝日を迎えた。

 しかし不安とは裏腹に、迎える日常は穏やかなものだった。

リンはよく働いた。若いだけに覚えが早く、物静かで煩わしいこともなく、料理は可もなく不可もないが、バランスの取れた品々を決まって日に二回、朝と夕の決まった時間に用意した。当時は度々に酒の働きで他人を苦しめることがあったコレナイだったが、存外にも快適な生活に酒を飲むことも減り、落ち着いた夜が続いた。

 コレナイは数年に渡り、一切に健全で健康的な生活を送ったことで、リンを神からの贈り物だと思うようになっていた。畏れはやがて敬愛に変わり、夫妻の事も思い出さなくなると親愛を知った。リンの誕生日を祝い、祭日には露店で物珍しい料理を食べた。リンは基本的に物欲に乏しかったが、一度だけハンカチを欲しがった。買い与えると大層に喜び、コレナイはその様子に胸のつかえが取れたような、とにかく満たされた気持ちになっていた。

幸福な時間を過ごしていた。

 しかしクレマー家には秘密があった。あの雨の夜に垣間見えた獅子の闘志の本質を、コレナイは最後まで見抜けなかった。

 コレナイとリンが同棲して五年が経ったある日、クレマー家は旗を掲げ、ラエルの町は再興した。そしてクレマー夫妻が再びコレナイの家を訪れた時、彼の平穏は砕かれた。



「ラミオ!どうしてあなたの耳は細長いの?」

「ジャリオット‼」

「ラミオ!どうしてあなたは寸胴なの?」

「・・・ジャリオット‼」

「・・・ラミオ!どうしてあなたは―。」

「・・・・・・ジャリオォォォォォォット‼」


 ヤシの木が乱立した小島を模った舞台に立つラミオなる屈強な男と、舞台から一段を下った狭いステージの上で膝を付くジャリオットなる美女が謎の掛け合いをしていた。ジャリオットは並んで揺れる青衣装らが演じる荒波の狭間で小舟に乗っているようだった。しかし舟を漕ぐ手に力強く握られていたのはオールではなく、輝く鉄色の殺意であった。

 コレナイは芸術が得意ではなかった。何を以て芸術とするのか、その核心がイマイチ掴めず、有耶無耶なままに時が過ぎてしまうことが嫌だった。若い頃には一部の芸術を、富裕層らの自尊心を満たすための都合のいい金の捌け口と貶していたこともあった。しかし優れた歌や音楽だけは別だった。聞き入るうちに胸が色で満ち、澄んだ気持ちがして、挙句には身体が静寂に溶けて消えゆく最後の一音を追いかけてしまうこともあった。

 舞台に上がったジャリオットの喉が張った。直後に彼女の口から透き通った静かな歌声が発せられ、コレナイの周りでひかえめに拍手が起こった。しかしコレナイの心は動かなかった。コレナイは手招きで給仕を呼び、舞台のパンフレットを貰って目を通した。舞台進行の最終項目には大きく特徴的な書体で「ラミオ、散弾銃にて死す。」と書いてあった。コレナイは深く納得し、遅れて一人、大きな拍手を響かせた。すると舞台の上からジャリオットが彼に長いウィンクを送り、歌声はより響き、彼女が振り回す大太刀は暴れに暴れた。

 コレナイは頭の横で指を組んだ。間もなく青色の飲み物と氷が注がれたグラスと、その領収紙が運ばれてきた。一口を含み、紙を針に通そうとしたところ、紙が手から滑り抜けてしまった。ひらひらと、膝の下で舞う紙に向かって腰を倒すとともに、反射的に目を瞑った。しかしすぐに、その必要は無かったと思い出した。ふとした時に彼の目を刺す悪戯な前髪は、ここに来る前にリンによって短く整えられていた。

 コレナイが目を開けると、床に落ちていた紙は純白の細長い指に拾われていた。

「どうしたんですか?せっかくの舞台なのに。」

 リンが領収紙を拾い上げ、言った。コレナイは彼女から紙を受け取ると、テーブルからハンカチを取り、彼女の口の端についたソースを拭き取った。

「お前は舞台に集中しすぎだ。」

「そんなことないですよ?」

 頬を膨らませるリンであったが、直後に野菜へと突き出された彼女のフォークには、いつかに忘れられた肉詰めが隙間なく刺さったままだった。


 舞台ではジャリオットの歌が終わり、再びラミオとジャリオットの掛け合いが繰り広げられた。大太刀を振り回すジャリオットに対抗し、ラミオは巨大な鎚を持ち上げていた。掛け合いは長く、終わる気配も見えず、ついにジャリオットの問答はラミオの隠されたプライベートにまで到達した。ジャリオットの心無い指摘の嵐によってラミオはメンタルを抉られたらしく、健気に鎚を抱え続けながらも片膝をついていた。ラミオはもう、散弾銃が及ばずとも、心身のダメージで今にも死にそうだった。可哀そうだった。

 一体、誰がこんな物語を考え出し、舞台にまでしてしまったのか。芸術は理解しなくてもいい。コレナイは強く、そう思った。

 舞台はとうとうクライマックスになった。立つ力も失うまでに衰弱し、鎚の下敷きになりながら藻掻くラミオの頭にジャリオットの散弾銃が突きつけられた。銃声とともに舞台はほどなく暗転し、どこからか弦楽器が奏でられると幕が下りた。会場中に喝采が溢れた。コレナイの隣でリンが立ちあがり、歓声を上げた。

「口は鎚よりも強し!ですよね、コレナイさん!」

「いや、あれは・・・。」

 最強の座は散弾銃のものであったと、そんな自信の伴わない適切な指摘を、コレナイは青色の飲み物とともに腹の底へと押し込んだ。悶々としている内にカーテンコールが終わり、アンコールに数発の散弾銃と大砲が応えた。完全に閉幕となるや、六つの目が示し合わせたようにコレナイを囲んだ。コレナイはラミオとジャリオットを恋しく思った。もう一度、この恐ろしい視線たちを連れて行ってはくれないかと、小さく願った。

「舞台はいかがでしたか、先生。」

 硬直するコレナイに、正面に座るクレマー夫人が話しかけた。夫人はご機嫌な様子で、吟味するかのように、獲物の腰元から頭の天辺までをなぞった。その鋭い眼光にコレナイの全身に鳥肌が立った。

「・・・やはり私は芸術が得意ではないようです。銃も好みではないですし。強いて言えば、あの大太刀で決着がついたなら、いくらか納得できたような気がしますが・・・。」

「あら・・・。」

 コレナイの答えに、夫人は何度か瞬きをした。それから小さな紙に何やら書き込むと、側を通りかかった給仕の盆に押し付けた。給仕の短い困惑の間に、コレナイの目は紙に書かれた文字を拾ってしまった。「散弾銃は無し」。脚本家の正体を知り、コレナイは戦慄した。

「やっぱり先生は頼りになりますわね・・・本当に。」

 夫人はそう呟いて、恥じらいが漏れる頬を薄赤色のグラスで隠した。

「先生と呼ぶのは、いい加減にやめていただけませんか。みなさんが知っての通り私の本文は歴史学ですから、博士と呼んでいただけませんか?」

 先生という呼称は、世間がコレナイに持つ一般的な認識の形だった。彼は若い時に遺跡から読み取った歴史を本にして発表したのだったが、当時は歴史書の例が少なく、彼の本は文学として扱われてしまった。しかし以外にもじわじわと評判を呼び、結果として彼は有名人となったのだが、学者としてではなく詩人として知られてしまうこととなり、それが彼にとっては遺憾なのだった。

「そうは言っても、先生の著書は刊行から数十年たった今でも人気作ですもの。私たちのお皿のように、どこにでも有って、どこであっても手に入らない。・・・先生と呼ばなくては、恥をかくのは私ですわ。それにラエルにも詩で有名な大先生様が一人いますけれど、彼も先生のことを尊敬していますのよ。」

 夫人は「紹介しましょうか?」と囁いて書状を認めるフリをした。その隣、コレナイから見て左手に座る夫君がにこやかに相槌を打っていた。「うん。」「そうだ。」「それがいい!」。才覚を匂わせる容姿でありながら、彼の口から発せられる言葉はと言えば、大体がそんな単純な返事であった。

「いや、結構ですよ。」

 コレナイは弱弱しく答えながら想像した。例えば、夫人ともあろう人が大先生と称えるような人に会ってしまえばどうなるのか。足らぬ才能を非難されるか、或いは強引に称えられて、新しい心外な称号を与えられるのか。どちらにしても生きにくい印象だけがあって、利点は一つとして思い浮かばなかった。

「会おうにも、ここからラエルは遠いですし。」

「こちらで特注の足を用意しますわ。」

「リンを一人には・・・。」

「リンも連れてきて、私たちのところに泊まってしまえばいいでしょう?部屋はいくらでも空いていますし、執事も十分に雇ってあります。」

 夫人は自信に満ちた眼差しをコレナイに向けた。コレナイは咄嗟に顔を背け、視線を右へ、外側へと投げた。夫人は妖艶だった。彼女の歳は初老のコレナイよりも五つほど上のはずだったが、容姿に限っては二回りも若かった。加えて、この日の夫人は人目のある場にも関わらず、年甲斐なくも、よく似合う麗しい純白のドレスで飾られていた。しかしその美しさは色に反して悪魔らしかった。

 コレナイは返答に苦しみ、悩んだ。須らく、悪魔は饒舌に語って惑わすのだ。クレマー夫人という悪魔も例に漏れず、彼女の言葉は人間的に意地悪く、人間を知るが故に巧妙だった。コレナイは夫人の口を恐れて慎重になった。だが、時間をかけ過ぎた。コレナイがどうあれ、夫人は恐れを抱くことも、待つこともなかった。

「・・・先生。娘は私に似て美しいでしょう?私に似て白が映えるわ。先生は贅沢よ。これだけの機会を得られる殿方は、そうはいませんもの、ねえ?」

 夫人は皴一つない目元を細め、ニヤリと笑った。「そうだねえ。」と夫君が続いた。

 コレナイはハッとして苦悩から覚めた。憂鬱で満たされていた視界が晴れると、目の前でリンが気恥ずかしそうに俯き、腿の上でスカートを握りしめていた。コレナイは自分が今までずっと、図らずもリンを見続けていたのだと知って赤面した。

「もう、リンも先生のことを見てあげたらいいのに。・・・ねえ?」

「そうだねえ。」

「待ってください。こ、これは・・・違うんです。」

 コレナイは弁明しようとして、今度は視線を円形のテーブルに預けた上で言葉を考え始めた。思考を阻む脳天の熱を冷ますべく、青色の水を頬に溜め込んだ。十分な冷却には時間を要しそうだったが、夫人の口は止まらなかった。

「ところで先生は家庭を持とうとは考えないのですか?いいお歳ですのに、一度も噂を聞かないわ?実は先生にその気があるようでしたら、いい人を紹介させていただきたいと思っていましたの。私たちったら、いつも見せ付けてばかりだから申し訳がなくて。」

「そうだねえ。」

「例えばさっきの大先生の教え子に先生を厚く慕っている子がいますわ。ルモル、と言うのですけれど、せっかく器量に恵まれているのに、若い男には見向きもしないで、口を開けば先生の著書の事ばかり。他にも同じような子を四人ほど知っています。歳や身分を問わなければもっとたくさん。先生、本当はモテるのではなくて?住まいのエレムにだって、先生を慕う女性がいるはずですもの。」

「うん、全くだ!」

「それともリンがいるからかしら。」

 コレナイは意表を突かれて噎せ返り、飲みかけていた水を吐き出してしまった。リンが背中を摩り、布巾と新しい水を持った給仕がすかさず駆け付けた。

「あらあら、図星だったのかしら。言ってくだされば部屋を貸すなり、数日でしたらリンを預かるなり協力しましたのに。娘の恩人ですもの、いくらだって支援しますのよ?」

 摩るリンの手が止まり、力なくコレナイの腰元にまで下った。

「誤解ですよ。私は歳を重ね過ぎてしまいました。今更、多くを望められる身分ではありません。それに今の生活に満足しています。リンの働きのお陰で毎日が充実しているんです。・・・いや、みなさんに博士と呼んでいただけたなら、本当に文句はないんですがね。」

 夫人は退屈そうな顔で、そうかしら、と呟き、表情を歪ませた。

「ふふっ、そうね、そうでしょうね。でも先生が満足していらしたって、リンはどうかしら。リンはまだ若いわ。家事を覚えた上に、男を夢中にさせる美貌だって持っている。いつまでも一緒にはいられるとは限らないのではなくて?」

 コレナイは咄嗟に否定しようとして、できなかった。夫人の言葉は確かな事実だった。

コレナイには死に際していくつかの保証があった。例えば今日にリンがいなくなり、彼が明日に死んだとして、葬儀は町が執り行ってくれる。葬儀の規模は不明であるが、心から悲しんでくれるであろう人物が何人かいた。しかし、明日に死ねる保証はない。コレナイは酷く不安になった。いつ来るとも知れないその日までの人生を、独りでまともに生きていけるのか分からなかった。唯一、明らかだったのは、再び酒に浸るであろうことだった。

 コレナイの胸を燻った感情が曇らせた。その正体には気づけぬまま、ただ一心に、リンを手放したくないと思っていた。しかし彼は即座にエゴを拒絶した。

「私はリンを尊重しています。リンの人生は私のような老いぼれに左右されるべきではありません。いつかは別れ、リンはリンの道を、私は学者としての道を生きるだけです。恵まれたことに騒がしいくらいの余生になりそうですから、きっと寂しさとは無縁でしょう。」

 それはコレナイの、大人であり続けるという決意の告白であり、同時にリンの自由な将来への約束でもあった。コレナイはこの告白によってリンが喜ぶものと思っていた。しかしリンは悲しげで、その冷たい内情をより密かなものにしようとしていた。リンの萎れた花のような姿は、コレナイの心に途方もない切なさを植え付けた。

「・・・先生ったら、私よりいくつか若かったと思いましたけれど、言葉の割には全く英気を感じられませんわね。ちゃんと学者様への道を進んで行けるのかしら。心配だわ?」

 夫人の嘲笑を帯びた声が骨の髄にまで響き、コレナイは身震いして首を垂れた。

「・・・。」

「ごめんなさいね。別にいじめたかったわけじゃないの。でも、先生だって分かってますでしょう。人を語るのは行いですわ。進もうとする者は前を見る。もう下ばかり見てしまうなんて。先生は一体、何のために、何に対して訴えかけていたのでしょうね?」

 夫人の説教臭い言い回しにコレナイは少しムキになり、勢いよく頭を上げた。

「さあ、それはどうでしょう?誰もが新しい技術に酔い、未来に迎合していた中で、私はたった一人で遺跡を研究していました。名もない学者の一人だった。しかし推測を書いた歴史書が売れてみれば、たちまち詩人様です。私の本は物語調ではありましたが、そもそもは遺跡を俯瞰するための資料として作ったものでした。ですが読者はあれを逸話や神話として受け取ったのです。人を語るのは結局のところ同じ人ではないですか?」

「ええ、確かに最後に判断するのは人に違いないわ。でも、物語の執筆は学者様のお仕事かしら?それに学術のためだけの歴史書なんて、この世界の誰が読むというの?ねえ、先生。わざわざ自分を苦しめるのはよしましょうよ。あなたはなるべくして先生になったの。学者様なんか存在しないわ。だって世の知識は全て、龍が与えてくれるんですから。」

「そんな・・・・・。」

「・・・そんな?」

 夫人は胸の前で指を絡め、その上に顎を乗せた。翡翠の瞳がコレナイの息を乱した。

「まあ、くだらない言い合いはこの辺で止めておきましょう。せっかくの良い日ですし、それに今日は先生に、私たちから日頃の感謝を込めて贈り物がありますの。学者としてのお仕事ですわ。一つだけ条件があるのですけれど、きっと喜ぶわ。」

 夫人が左手をひらひらと振ると、どこからともなく二人の給仕が参じた。彼らは他の数いる給仕らとは装いが異なり、その大人しくも威厳と自信に溢れる表情はさながら執事らしく、左胸にはクレマー印の金版を飾っていた。一人が進み出て、コレナイの前に数枚の資料を、裏面を表にして置き、その上に重りの木版を重ねた。資料に記された字は裏側にも薄く透けており、コレナイは日付だけを確認することができた。ごく最近の日付だった。

「見たいでしょう?」

「これが本当に、学者としての仕事であるなら。」

「勿論よ。贈り物ですもの、嘘なんて無粋だわ。」

 夫人の手ぶりとともに執事が木版を取り払った。コレナイは夫人を警戒せず、手汗だけは拭って資料を手に取った。それはつい先日にラエルで発掘されたらしい、ある遺跡に関する資料だった。その遺跡はあまりに異質な存在で、価値はハッキリとしないが、文面から多くの人の興味を惹いているらしいことが伝わった。資料の全てが事実ならば、学者としての名声を得るには十分に足る仕事のように思えた。だが、増すのは期待ではなく不信感ばかりだった。コレナイは早くも鬱屈になった。夫人の取引に、ただ美味しいだけの話があった試しがなかった。彼は今までに何度も夫人の言う特別な機会や珍しい話というものに釣られては苦しめられたのだった。

「それで、その、この仕事を受けるための条件というのは・・・?」

「あらまあ!良かったあ、気に入ってもらえたのね!」

 夫人は喜び、音を鳴らして両の掌を合わせた。夫君が「良かったね。」と言って夫人の肩に手を乗せたが、それに構わず夫人は勢いよく立ちあがった。

「条件は簡単なことよ。あのね、先生にはリンと結婚していただきたいの!」

「はあ、結婚。・・・結婚?」

 コレナイは驚きを通り越し、すぐには夫人の言葉を理解できなかった。

「ええ、そう、結婚。いい話でしょう!急な話だから婚約でも許そうかと話していたのですけど、その様子だと問題はなさそうね。式場と費用はこちらで手をかけますから。ね、きっといい返事をしてくださいね、博士?」



3,

 クレマー一家との会食から四日が経過していたが、コレナイは来る日も来る日も無気力なままだった。と言うのも、彼はリンについて迷い、それに気力の大半を奪われていた。夫人が持ち出した条件が要因ではあったが、考えるほどに、事の軸はリンにあった。

 フォークに根菜を突き刺して口に運ぶ。歯を通し、飲み込む。そんな日常の動作ですら覚束なかった。噛み切るより早くフォークを下ろしては根菜を落とし、それを誤魔化そうとしては唇を油で汚した。布巾を持ったリンの手が伸びて、その両方を片付けた。

 驟雨が訪れていた。雨音は静寂を慰めるように、複雑な思いを逐一に洗い流すように。

「・・・リン。」

「なんですか、コレナイさん。」

「お前は、将来をどうしようと思ってるんだ。」

 コレナイは本心では、「自分を大切にしないのか?」と尋ねるつもりだった。

「・・・私は。」

 リンの唇が水滴を浮かべた。口を離れたグラスがテーブルに下り、軽く鳴った。

「私には大した理想はないんです。ただ穏やかに生きていたくて、それだけです。」

「結婚がどういうことかは分かっているのか?」

「分かっています。分かってはいますが、どうしても現実的に思えないんです。でも、もしいつの日か誰かに託さなければならないなら、それは知らない誰かではなくて、コレナイさんだったらと、そう考えていました。」

 リンの指が固く結ばれた。コレナイはリンの指の一本一本に視線を乗せた後、黙ったまま外を眺めた。無意識に、窓を打って下る水滴を追いかけた。

「・・・私では、いけませんか?」

「いや。」

 コレナイはフォークを置き、手を組んだ。

「俺がお前の母親の条件を受け入れたとして、後に続くのはこれまでと変わらない日常だろう。だから簡単な話ではあるが、どうしても気持ちの整理が難しい。色々なことが頭を過ってしまう。もしかしたら俺は、お前について残りの生涯を悩み通すことになるかもしれない。後悔し続けることになるかもしれない。」

「そんな、私のことなんて。」

「もっと自分を大切にするべきだ。」

「決して自分を蔑ろにはしていないですよ。」

「なら一度、知っておいた方がいい。お前がどんな家の生まれで、どれだけの可能性を秘めているのかを。お前は大事な時期を俺の所で過ごしていたから、気づいていないんだ。自分が何者なのか知っておいて損ではないと・・・俺は思うよ。」

「・・・。」

「聞いてほしい。」

 コレナイは頑なに合わせようとしなかった目を、リンに向けた。

「俺はろくでなしだ。お調子者で、簡単に酒におぼれる。歳の割に幼稚であるし、身分に相応しい才能もない。それなのに、昔のたった一度の予期せぬ成功から今日まで具合よく生きて来てしまった。それは昨今の潤った時勢が味方した所為でもあるのだろうが、何よりもきっとお前と、お前の母親の力もあると思う。俺はそれを分かっている。なあ、リン。お前はあの雨の日を覚えているか?」

「はい、忘れる訳がありません。」

 落ち着いた声だったが、リンの確かな意思がコレナイの目を通して訴えかけた。その気丈さと向き合うことに耐えられず、コレナイは一瞬ばかり顔を伏せた。

「あの日、俺は、本当は逃げ出したかった。できることならさっさと扉を閉めて、お前たちを拒絶してしまいたかった。だが、できなかった。俺はクレマーの名に、お前の母親に気圧され、逃げるどころか引き込まれてしまった。そして全ていいように仕組まれた。」

「・・・。」

「俺だけじゃない。リン、お前もだ。いくらかの偶然もあるのだろうが、お前も母親の意図に操られているに違いない。目的は知れないが、今回の話は到底おかしなことだ。母親と話すべきだと思う。一つでも知れば考えが変わる。お前は若い。世界を見るべきだ。もっとたくさんの人と会って、語り合うべきだ。そうじゃないか?」

「・・・コレナイさん。」

 リンの視線が左へ、窓の外へと流れた。雨は止み、雲間から光が差していた。

「大丈夫ですよ。本当は私もけっこう、いろんなことを知っているんです。コレナイさんのことは勿論、両親のことも、家系のことも、他にもたくさん・・・。だから心配なんかしなくていいんですよ。私はちゃんと自分で考えて生きてきました。ここでコレナイさんと過ごしたことも、自分で選んだことなんです。」

 日差しが居間にも届き、リンの目尻を濡らす雫に光を乗せた。

「ここへ来たのは偶然です。噂はいくつかあって、だから、いつでも逃げることはできました。そうしなかったのは、私がここにいると決めたからです。ずっとコレナイさんを見てきました。それで、いえ。まだ予想に過ぎないですけど、私、思ったんです。コレナイさんと私って、すごく似ているって。手の中に落ちて来た物に振り回されて、それが嫌でも、他に何も持っていないから必死にしがみ付くしかなくて、きっといつの日か我慢が理想に繋がることを祈りながら、その日その日をなんとか生きている。そうじゃないですか?コレナイさんも、そうじゃありませんか?」

 リンの瞳がコレナイを映した。光に溶けるように、瞳の中のコレナイは薄れ、リンの姿が揺れ、ぼやけていった。

「ねえ、コレナイさん。実は私、食べ物の味を感じられないんです。ずっと、ずっと昔から、幼少のころに精神を病んでしまって以来の事です。昔の私は、全てのことを空しく感じてしまって、生きる意味も分からなくなってしまっていました。でも、ここでコレナイさんと過ごすうちに良くなったんです。食事が楽しくなって、朝が嬉しくなりました。やっぱり味は感じられないですけど、でも、なんとなく伝わるんです。食べることがいいことで、幸せなことなんだって、知ることができたんです。それは、コレナイさん。あなたのお陰なんですよ。あなたがくれたことです。きっとあなたのことだから、私にも理解できたことなんです。」

「・・・。」

「私は、コレナイさんとの生活が幸せです。私たちには、人並みのことなんか必要ないとは思いませんか?生きていくことに喜べたなら、それだけで私たちは満たされるでしょう?委ねるだけです。当たり前の日常に、側に愛しい人がいてくれる夜に。繰り返しの朝に飽きてしまう日も来るかもしれません。でも、私たちが生活を投げ捨ててしまうことはないと思います。たまにどこかへ出かけて、露店を廻って、そうやって特別を積み重ねたら、母の事なんか、不安なんか忘れてしまえると思います。そうじゃありませんか?」

「・・・・・。」

「・・・ねえ、そうでしょう?コレナイさん。」

 リンの指がコレナイの頬に添えられ、零れ落ちた涙を掬った。

「・・・ああ。」

 明けたところで、その底は知れなかった。堰を切って零れた涙は多くはなかった。それでもそのたったの数滴が、口の代わりに淀んでいた感情を排出し、コレナイをあらゆる苦悩から解放したことは事実だった。

「・・・そうかもしれない。きっと、そうに違いないな。」

 コレナイはリンを抱きしめた。彼の肩の上で嗚咽が漏れた。

「手紙を送ろう。」


 手紙の本文はコレナイによって書かれ、終わりにはリンとコレナイ、二人のサインが記された。驚くことに、夫人からの返信はその日のうちに届いた。翌日、長旅に相応しい晴れ渡った日に、ラエルからエレムへと夫人自らが迎えに来ることになった。


「目立つので、町の外にいるように。但し、あなたたちは目立つように。」

 それが夫人からの手紙のあらましだった。

 特徴的な家を住まいとしながら、ひっそりとした生活を重んじていたコレナイは目立つ方法に戸惑った。家中を探しても適した物が見つからず、まだ露店も開かぬ時間にあって、とうとう猶予がなくなるとリンがどこからか華やかな赤のドレスを引っ張って来た。ドレスは光を浴びると刺繍された幾何学模様が走り、間違いなく人目を惹く代物ではあったが、露出が非常に多かった。谷間が主張し、背中が腰元まで広く晒され、スカートは丈が長いが側面が割れ、太腿を大胆に晒していた。

「ちょうど去年に母から贈られてきたんです。いっそ忘れてしまおうと思って、棚の奥に隠していたのですけど・・・あの、あまり見ないでくださいね?」

「あ。ああ・・・悪かった。」

 リンは大きめのブランケットを首に巻いたが、太腿までは覆えなかった。早い時間が幸いして通行人とは出会わなかったが、リンはずっとコレナイにしがみ付き、時々に存在しない視線に怯え、過敏に反応を示した。

 コレナイとリンはエレムの町を離れると商人の通り道を外れ、人足の少ない草の浅い地で夫人を待つことにした。自ずとリンはコレナイから離れてブランケットを外さざるを得なくなったが、微かな風でスカートの端が浮くたびに何度もコレナイに飛びつき、辺りを見回して人目を探していた。薄着越しに色々と押し当てられては平静を崩しかけていたコレナイは、リンを落ち着かせるべく何気ない会話を試みた。

「なあ、リン。そろそろ夫人が到着するころだと思うが、一体どんな手段で来るのだろうな?いつもの夫妻用の馬車では三人も乗れないだろう。半年前に隣町のエヴィン博士が車の軽量化に成功したらしいが、やはりそれを引かせるのだろうか?」

「・・・たぶん、馬車ではないと思います。」

 気恥ずかしさからか、リンは消え入りそうな声で答えた。

「馬車ではない?じゃあ、何に乗ってくるというんだ。まさか、クレマー家の技術にかかれば車が自分で走って来るとでも?」

「ええ、きっと・・・。ほら、あそこ、あれですよ。ちょうど来たみたいです。」

 リンが指さした先、開けた地平の端から黒い塊が砂埃を蹴散らし、とてつもない速度で迫って来ていた。遠目には平らな生物のようであったが、近づくほどに、その何かを構成する金属の優れた質感がはっきりとし、コレナイは現実味を失っていった。

「あれは一体・・・何だ。まさか本当に鉄の塊なのか?」

「木炭車と言うらしいです。龍の知識を頼ったもので、まだ開発途中らしいですが。」

あっけにとられるうちに木炭車は少しずつ速度を緩めながらコレナイの前で停車した。頭らしい部位が右を向き、左右に二つずつある扉のうちの右前方が開いて、夫人が顔を覗かせた。夫人は足を地に下ろそうとしたが、草の朝露の為に躊躇った。

「よい朝ですね、コレナイ博士。」

 博士、と呼ばれた喜びに、コレナイは打ち震えた。その拍子に揺れた指先がリンの空いた背を撫でてしまい、リンもまた震えた。

「よく私たちを見つけられましたね。大した目印を持っていたわけでもないのに。」

「あら、博士ったら。式も済んでいないのに、もうそんな扱いをしてしまうの?せっかくリンが着飾っているのに。もっと見てあげてくださらない?」

「いや、それは・・・その。」

 コレナイが赤面して硬直すると、夫人は微笑んだ。

「フフッ、可愛らしいこと。」

 車の左前方の扉から夫君が降りてきた。夫君は後ろの戸を開け、初めにリンを、次にコレナイを車内へと導いた。夫君が運転席に戻るや車は音もなく発進した。車内は広かったが、コレナイは窮屈に感じていた。できる限りリンから距離を置いて扉に張り付いたが、リンはじりじりとコレナイににじり寄り、太腿を太腿に、胸元を肩に押し当て、ブランケットを背に垂らした。コレナイはリンの感触よりも、助手席に座る夫人に注意を向けていた。今は振り向かないでくれと、一心に願った。

「それにしても、博士が快諾するなんて予想外でしたわ。我が子のように思ってしまって、抵抗があるものと思っていましたのに。」

「そうだね。」

 夫君が応えたが、その声音はいつになく沈んでいた。

「ええ、抵抗がなかったといえば嘘になります。ですが、すっかりリンに説得されてしまったもので。別に私たちとしては今まで通りの日常が続くだけですから、受け入れてみれば何も難しいことはなかったように感じられます。」

「・・・そう。ええ、そうね。」

 夫人の声は悲哀を漏らしていた。悪戯を覚悟していたコレナイは拍子抜けし、どうしていいか分からなくなった。夫妻は他には語らず、リンも過ぎる景色を警戒して黙ったままで、これといった会話が無いまま木炭車はラエルに到着した。木炭車は式場へは向かわず、ある採掘場近くの書庫の前で止まると、夫人がコレナイに降りるように頼んだ。いざ降りようとした時、リンがコレナイを掴んだまま放そうとしなかったが、夫人の一瞥によって離れていった。運転席の扉が開いて、夫君が顔を出した。

「娘には準備がありますから、ここで少し待っていてください。受付に頼めば大抵の物は出てきます。本がたくさんありますから、退屈はしないでしょう。では、またあとで。」

 コレナイは妙な気分であった。平然と話す夫君を見たせいもあるのだろうが、どこか途方もなく釈然としない気持ちがあった。木炭車を見送ってから書庫へと入った。受付の女に要求されるままに名簿に署名すると、女は血相を変えて必死にサインをせがみ始めた。コレナイはやむなく応じると、逃げるように書庫内を徘徊した。内装は簡素な作りであったが広く、本の種類に恵まれていた。コレナイは奥へと進み、露出した岩壁に空洞を見つけてしまい、血が騒いだ。衝動は止められなかった。コレナイはこっそりと壁から蝋燭を拝借し、空洞の内部へと踏み込んでいった。


 木炭車はラエルの外へと出て長い距離を進み、ある人気のない鬱蒼とした山の中で止まった。そこで夫人は車を降り、後ろの扉を開けた。

「・・・出して、リン。」

 車外へと小さな木箱を握ったリンの右手が伸びた。夫人は木箱を受け取って開け、中から一本の牙を取り出した。夫人は右の袖を捲った。露出した右腕には手首から肘にかけて毒々しい赤色の印が刻まれていた。夫人は右手で牙を握りしめると、牙をリンの右腕に浅く突き刺した。すると夫人の腕の印が蠢き、まるで意志を持ったように指先へと這い進み、牙を伝ってリンの腕にも同様の印をあらわした。事を終えると牙は抜かれ、夫人の腕の印は元の形に戻っていた。

「あなたは私たちとは違う、龍の眷属とは異なった、正しい使命を持たない何かになる。それでも龍の血はあなたを呪うわ。いつか自分が何者かも忘れて、血の呼びかけに突き動かされて、それだけの為に生きていくことになる。でも大丈夫よ。あなたは逃げられる。いつか必ず自由になれる。そうしたら、コレナイさんを探しなさい。いつになるかは分からないけれど、生きていれば、きっと思い出せる日が来るわ。」

 牙が突き立てられたあとに傷はなく、代わりに赤色の小さな円が残されていた。夫人はハンカチでリンの頬を拭った。

「さあ、コレナイさんのもとへ戻りましょう。許す限りの時間を一杯に使って、できるだけ思い出を作りなさい。でも、コレナイさんに未来を教えては駄目よ。私たちの事も教えては駄目。わかった?」

「・・・うん。」

 夫人は硬直するリンの腕を車内へと押し込み、扉を閉めた。山に夫人を残して、木炭車は来た道を、森の中を戻って行った。



1’

 鬱蒼と茂る、道なき森の中を行く人の列があった。その数は百人ほどで、背丈や年齢は様々なようであったが、皆が一様に灰色の肌と白い髪をしていた。列の先頭には背の高い者らが集まっていたが、一人だけ小さな者がいた。彼は名をウィクルと言い、一行の書記を任されていた。故郷である地底より旅立ってから五日が経過した今、彼の背には紐で縛られた薄布が厚く重ねられていた。布は一枚一枚の裏表に隙間なく文字が刻まれており、その全てがウィクルによる地上の記録だった。記録の多くは植物に関するもので、次に行動記録が多く、生物の記録が最も少なかった。

 皆が足並みを揃える中、ウィクルは一人立ち止まった。移動中に列を乱す行為は規律によって禁止されていたが、書記である彼には例外だった。彼の瞳は一面の青を映していたが、突然、何者かによって顔を覆われた。相手が誰であるか、ウィクルには大方の見当がついていた。

「何するんだよ、イダ。」

 ウィクルの顔から大きな手と、濃い土の匂いが遠のいた。

「お前こそ、どうして立ち止まっているんだ。木とかいうヘンテコな苔頭の岩がどこまでもびっしりと並んでるんだぞ。迷子になりたいのか?」

 イダと言う青年はウィクルの背後に立っていた。彼もまた規律に許された者だったが、ただでさえ気ままな人物だった。数々の奇行の結果として側を通り過ぎる子どもらから不審と好機の眼差しを向けられても、微塵にも気にかけようとしなかった。

「空を観察していたんだよ。あれが中々、上手くまとめられなくて。」

「空ねえ・・・。」

 イダは呟き、拾った小石を上へと放り投げた。小石は高く高く昇っていった。

「・・・やめとけよ。どうせあの上にも地上があって、そのまた上にも空があるんだ。遠くない内に俺たちの旅は上にも及ぶ。何なら上のもっと上にまで行くかもしれん。調べるだけ馬鹿らしいぜ。おら、上ばっかり見ていたら、また排水を浴びるぞ。歩け歩け。」

 イダ曰く、「上の人」らは常に「下の人」を観察しており、石を投じたならば気紛れに拾われることがある、とのことだった。しかし、さっきに投じられた小石は風にすら拾われず、ウィクルの背を押すイダの額に直撃した。

「あたっ。」

 気の抜けた声がイダの喉から漏れた。ウィクルは笑った。

「馬鹿じゃないの。・・・ねえ、イダ。教えてあげるよ。上から落ちてくる水は誰かの排水じゃない。雨って言うんだ。地上のどこかに大きな水たまりがあって、その水たまりから空へと登った水が雨になるんだよ。自然現象の一つさ。」

「へーん・・・そうかあ。だがな、ウィクぅ。それで賢いつもりかあ。つまりは水たまりも空から来てるって事だろ?やっぱり雨は排水なんじゃあないのか。出所が空か、どこぞの水たまりかなんて関係ない。そうだろ?なあ、考えてみろよ。」

「うーん?えっと、それは・・・。」

 考えるウィクルの傍らで、イダは真ん中で分けていた長髪を片側に流し、薄く腫れあがった額を隠した。それによって片目も隠れてしまったが、どうでも良さそうだった。ウィクルの口から言葉が出なくなると、イダは宥めるようにウィクルの肩を撫でた。

「ほらな排水だ。地底の恵みの水とは違って汚いのさ。岩から生じる水だけが清い。わかったか?だから俺たちは雨にはちゃあんと気を付けなきゃあならないんだぜ。」

 そう言い残し、イダは先頭の方へと走って行った。

「・・・そうなのかなあ?」

 ウィクルはしばし立ち尽くしていた。頭の中は青色に憑りつかれて碌に働こうとしなかったが、側を通り過ぎる大きな足音と次々と薙ぎ倒される木の騒音がウィクルの意識を呼び覚ました。

「・・・いけない。ぼーっとしていたら本当に迷子になっちゃう。」

 ウィクルは自らの頬を叩いて鼓舞し、列の最後尾を行く巨人と、巨人に付き従う二人の背を追いかけた。追い付くと、付き人の一人に呼びかけた。

「ねえ、ボンヌ。空の上にも地上はあると思う?その上にも、そのもっと上にも、地上と空が繰り返されると思う?」

 ボンヌと呼ばれた老人は振り向き、ウィクルの頭を撫でた。

「さあねえ、わからない。だけれど、あったとしても不思議ではないな。なんたって今いる地上がおかしいくらいに色に溢れているから。今更、足場が青一色に変わったって、簡単に受け入れるだろう。足りないとすら感じるかもしれない。その先の空が何色でも、変には思わないだろうよ。」

 ボンヌはしわがれながらも親しみのある声で答えた。一方で両手を休みなく働かせ、自身とウィクルに降りかかろうとする倒木の破片を掃っていた。

「ボンヌは大人だね。誰かとは違って、尊敬できる立派な長老衆だ。」

 含みのあるウィクルの言葉に、ボンヌはゲラゲラと笑った。

「そんなことを言うもんじゃない。もうすぐお前も長老衆の一人になるのだから。きっとイダの事も理解するようになる。あれはあれで、よくやってくれているんだ。」

「・・・そうかな?」

「そうさ。さあ、そろそろ前に戻りなさい。お前と話すのは楽しいが、並んで歩く内は余計に働かなければならない。老人の腕を労わっておくれ。」

「そうだね、ごめんよ。」

 ウィクルはボンヌの脇の下を潜り抜け、巨人に向けて手を振った。

「じゃあね、マルダル。たまにはボンヌを休ませてあげてね。」

 全身を泥まみれの布で包んだ巨人、マルダルは反応を示さなかった。丸く、樽のようであるからマルダルと、それが巨人の名前の由来だった。代わりにもう一人の付き人がウィクルに手を振った。

「ウィクル!イダを見張っておいておくれよ。」

「うん、任せてよ!」

 先頭の方へと戻ったウィクルはイダの姿を探した。イダは背が高く、比較的、目立つ外見のはずだったが、どこにも見つからなかった。

「あれ、どこに行っちゃったんだろう。」

ウィクルがそう呟いた直後だった。背後から威勢のいい声が近づき、声は彼の身体を高く持ち上げた。辺りで笑い声が起こり、ウィクルは羞恥に苛まれた。

「何するんだ。下ろせよ、この、馬鹿イダ!」

 ウィクルは藻掻きながらイダを見つけようとしたが、確認できたのは真下で入れ替わって現れる爪先だけだった。イダはウィクルを下ろそうとはせず、寧ろ器用に爪先で歩き出して、一層に高く掲げようとした。

「見えるかあ?ウィク。どうだ?地上人はいるか?」

「何言ってるんだ。早く下ろしてよ。」

「いいから見てくれよ。俺の背じゃあ、ギリギリ見えないんだ。」

「意味わかんないって、一体なんの・・・。」

 苛立ちの余りイダの頭を蹴り飛ばしてしまおうかと考えついたウィクルだったが、その考えも言葉も瞬間的に吹き飛んだ。盛り上がった岩壁の上、木々の合間から地上の町が覗いていた。それはまだ遠く、小さい有り様ではあったが、密集した見慣れない家屋はウィクルの怒りを冷まし、夢中にさせた。

「見えるよ、イダ。あれがラエルの町だね。あそこに地上人がいるんだね!」

 ウィクルは遥か先の町に向かって手を伸ばし、引き寄せるような動作をした。

「おい、待て、落ち着けよ。その先は崖だ、危ないって。」

 イダはウィクルを下ろしたが、その肉の無い肩に手を添えて離さなかった。

「あそこまでどれくらい?」

「まずはこの山を下りきって、その後の長い丘陵ってやつを越えてようやく着くらしい。二、三日はかかるんじゃないかって話だ。」

「そうなんだ、もうすぐ着くんだね。」

「・・・二、三日って、もうすぐか?」

「もうすぐだよ!」

 それからの時間はウィクルにとってあっという間だった。一行が休むことはなく、寝る必要もなく、昼夜を通して歩き続けた。しかし、彼らにも気力の底という限界はあった。ウィクルは日を追うごとに活気に溢れたが、イダは目に見えて窶れていった。

 三日の後、日の出とともに一行が辿り着いたラエルの町。その象徴は悠然と構える圧倒的に巨大な樹木だった。その高さは見上げても頂が知れず、まるで山のように太く、枝は葉に恵まれないものの逞しく雲を裂き分けていた。

 まず地上の言葉に堪能な者らが代表者として町に入って行き、イダらがその護衛として選ばれた。彼らは行き会った商人を通して町の長と話し、今後の行動の見通しを立てようとしていた。その間に一行の大半は野原で待つこととなった。草に座り、賭け台を挟んで娯楽に興じる者ら。ひたすらに辺りの植物を食べて廻る者。地上ならではの鉱石を探して歩く者。小さな生物、ムシを集める者・・・。一方でウィクルは熱心に町の生活の様子を眺めていた。野原の端々で木柵に囲われる四足の動物や、家屋から目を擦りながら出てくる地上人らの特徴の一つ一つに目を凝らした。野原と町の間にはこれといった境がなく、度々に町人の好機の視線が一行へと返された。だが、そのどれもがウィクルではなく、野原に座り込む巨人へと向けられた。日が高く昇った頃にようやく代表者が戻り、一行は巨人を除いて町に入ることを許された。一部の者には職務が与えられた。ウィクルは書記として地理や地質の詳細な調査を託され、イダの案内で町の中心地へと向かった。イダの案内は適切だったが、移動は難航した。ウィクルが頻繁に足を止めては、布に文字を綴り始めたからだ。

「地上人はみんな肌の色が同じだけれど、頭髪の色は様々。道に沿って台や棚が並び、その上には凝った食べ物や工夫のある工芸品が並べられていて、金属製の四角い小さな板と取引されている。数は多くないけれど、町の中には外よりも多くの種類の動物がいる。地上人との関係は友好な模様。・・・あれ、よく見たらみんな似たような服を着てるかも?衣に余裕のある服。金属板を胸元に飾ったり、削った鉱石を耳や首に吊り下げたり。」

「おーい、ウィク。日が暮れちまうぞ。」

「大丈夫だよ。出発は明日でしょ?時間はまだまだあるよ。」

「俺たちにはそうでも、地上人には違う。地上人は夜には必ず寝るんだ。急がなきゃあ、職務放棄で罰を与えられるぞ。」

「分かったよ、分かった。でも、もう少しで纏まるんだ。ちょっと待ってよ。」

 ウィクルは側の屋台の壁に布を当てて手を急がせた。しかし彼の手が休まる様子は無かった。イダは呆れたが、弟分であるウィクルを放っておくわけにはいかなかった。

「あー、もう。仕方ねえな。」

 イダはウィクルを背負い、ウィクルはイダの背を支えとして布を文字で埋め続けた。

「頼むから職務だけはしっかりやってくれよ。」

 段々と家屋と人波が減り始め、金属が打たれる音が聞こえるようになった。イダは最初に見つけた洞窟の中へと入って行こうとしたが、数歩入ったところで全身に砂を被った屈強な男と鉢合わせると、道を誤ったのだと直感して戻った。外へ出て右手に蔵を発見し、そこに入ると中には膨大な量の棚と書物が並んでいた。

「たぶん、ここだよな?」

 イダは警戒する受付の女に封筒を渡した。女は何か言ったが、イダには理解できなかった。女は封筒を開き、中の書状に目を通すや表情を柔らかくし、イダに名札を渡した。

「ここでいいらしいぞ、ウィク。さあ、仕事の時間だ。下ろすぞ?」

 ウィクルはイダの背から下ろされると、さっきまで手にしていた布を強く振って文字を成す染料を乾かし、背負っていた布の束にまとめた。

「ありがとう、イダ。助かったよ。」

「へいへい。んじゃな、後で迎えに来る。」

 イダは颯爽と去って行った。それを見送りはせず、ウィクルは最も近い本棚へと走り寄ると、そこから最も分厚い本を取って読み始めた。


 受付に立つ女は暇を持て余していた。託児所兼学び舎として採掘所の側に建てられた書庫であったが、この日はまだ来館者が皆無だったのだ。彼女はいつものように趣味に耽ろうと思ったし、寝てしまおうとも考えていたのだが、一通の書状と風変わりな来館者によってそれは叶わなくなった。女はウィクルを監視した。徹底した監視と調査。それが町長からの書状に暗に記された命であった。しかし女は子どもが好きだった。そしてウィクルという少年は異質な外見でありながらも酷く愛らしく、彼女の胸に抗い得ぬ愛着を沸かせた。

 ウィクルが手にしていたのはラエル繁栄の立役者であるクレマー家の功績の数々を書き連ねた本だった。それは分厚い上に古い文献も含まれ、読むには大人でも難しいものだったが、美しい挿絵が多く含まれ、見る分には易しく面白かった。女はその本が好きだった。つい、ウィクルがどこを読んでいるのかと気になり、床に座り込む彼の背後に忍び寄った。彼の指は早くも本の中ほどまで及んでいた。その小さな肩の上から一ページを埋める龍のイラストが確認できると、女は喜んだ。

「ねえ、ぼく。よかったらお姉さんが教えてあげようか?」

 話しかけてから、女は後悔した。考えてみれば言葉が通じるか定かではなかった。少なくとも先程の青年は理解できていなかったようだし、お菓子か飲み物でも持ってくればよかったと反省した。

「・・・ボク?」

 ウィクルは声の方を振り向いた。顔が完全に女に向くと、女は表情を溶かしながらウィクルをひかえめに指さした。

「そう、ぼくよ。」

「ボク・・・ぼく。ワカッタ!」

 ウィクルはそれだけ言って、本に目を戻してしまった。しかしその片言な言葉遣いが女に更なる愛着を沸かせた。女は衝動のままにウィクルの肩を抱こうとしたのだったが、それより早く彼が振り向いた。

「僕はウィクル。名前がウィクル。地底から来た、地底人。あー・・・地理や地質に関する書物を探しているんだけど、お姉さん知らない?」

 途端に流暢に話し始めたウィクルに女は大変に驚き言葉を失ったが、彼女の指は慣れた手付きで無駄なく正確に本の在処を指さした。

「向こうだね!ありがとう、お姉さん!」

「え・・・ええ。」

 女は動転していたが、後方で来客のベルが鳴ると即座に切り替えて対応に走った。


「お前ってほんっとーにスゲーな。」

 ウィクルの作業を暇つぶしに手伝うラエルの少年、ログは先程からずっと同じ言葉ばかり発していた。ウィクルは始め、同じ音の繰り返しでもわずかな音程の違いからそれぞれが異なる意味を持つのではないかと推測したのだったが、本を読んで地上の言葉を学ぶうちに、全ては同じ意味なのだろうと理解した。右に読み終えた本を重ね、左から新たな本を取ると、ログによって右から本が取り除かれ、左に新しい本が積まれた。

「勉強、好きなんだな。」

 ウィクルは顔を上げ、長机の反対側から突き出されたログの顔をまじまじと見つめた。彼は白に淡い赤を帯びた色の肌をしており、茶色の髪と澄んだ青の瞳を持っていた。

「好きというか、役目だからね。嫌いなわけでもないけど。」

「え。役目って、お前。大人じゃないのに働いてるのか?」

「働いて・・・るのかな?見た物を記録に残すだけだから、どうなんだろう。大人がしているようなことは何一つしてないよ。」

「そっか。じゃあ、ちょっと・・・分からないな。でも、スゲーよ。」

ログは長机に沿ってウィクルの方へと回ってきて、隣の椅子に座った。

「なあ、でかい木は見てきたか?もう龍とは会ったのか。何か知りたいことはあるか?」

 尋ねられたウィクルは膝に抱いていた最初の本を開き、挿絵を指さした。そこには大きな頭と裂けた顎、鉤爪の四足と、矢鱈と鋭利な鱗と翼を持った生物が描かれていた。

「龍って、これのこと?」

「ああ、そうだよ。この絵と瓜二つ。もっともっと大きいけど。」

「龍のこと、教えて欲しいな。」

「いいぜ!」

 ログは気前よく答えると、近くの棚から小さな薄い本を取り、広げた。

「俺が生まれる前の話なんだけど、昔にこの辺で大きな戦争があったらしいんだ。闘いはすごく激しくて、たくさんの命が亡くなったんだって。でも、ある日。どこからともなく龍が飛んできて、その戦争を終わらせたんだ。そして生き残った人間に知識を与えて、文明を導いたらしい。スゲーよな。」

 ログは本を読み上げ終えると、それをこっそりと棚に戻した。

「龍は地上のどこかにいるの?」

「いるらしい。噂じゃ、ここからそう遠くないところの、でっかい山に囲まれた荒地に住んでるんだって。けっこー近くを飛んでるのを見るからさ。いるんだろうけど、山はどこにでもあるから、本当の場所はわからないんだよなー。」

「会えるかな?」

「んー、どーだろ。難しいんじゃないか?俺も会ってみたいんだけど、親とか、大人が許してくれないんだ。大人って、みんな同じだろ?お前のとこの大人もおんなじことを言うだろうし、期待はしない方がいいと思うぜ。」

「・・・そうかな。」

 ウィクルは隣のログに届くか分からないほどの小さな声で呟いて、思いつく限りの大人を思い浮かべた。確かにそれぞれに近しいところはあった。それでも、イダという異端が常識を覆した。共感を諦めて作業に戻ろうとした時、後ろの棚から物音が鳴った。ウィクルは既に作業に集中しようとしていたため気づかなかったが、ログがウィクルを呼んだ。呼ばれて見た先には棚に半身を隠す眼鏡の少女がいた。少女は二人の視線を受けてまごついていたが、ついに思い切ると棚の陰から飛び出し、掌で机をポンと叩いた。

「龍って・・・人の言葉が解るらしいわよ。」

「手伝いもせずどこ行ってたんだよ。」

 ログは少女に対して不機嫌になった。元気よく開けられていた目が針のように鋭く細められ、腕が硬く組まれた。少女は隠れていた棚の方を指さした。

「向こうに新しい穴があったのよ。探検に行ってたの。結構深かったけど行き止まりだったわ。さて・・・よろしくねウィクル君。私、ムアリアっていうの。ムアって呼んで?」

 ムアはウィクルに手を差しだしたが、それにウィクルは困惑した。

「なに?ちゃんと手も顔も洗ってきたわよ。」

「あ、いや。ごめんね。そうじゃなくて・・・これって、なに?」

 ウィクルはムアの手を指さして言った。

「握手っていうのよ。まだ知らなかった?挨拶の一つで、手を握ってするの。教えてあげるから早く手を出して?初めてがログじゃなくて良かったわね。」

 ムアリアは半ば強引にウィクルの手を握った。彼女の手から伝わる独特な温もりと柔らかさはウィクルを緊張させた。握り合った手を上下に揺らし、ムアリアは手を離した。

「そういえば、どうして僕の名前を知っているの?」

「簡単なことよ、受付の名簿に書いてあったの。ここに来る子はみんな知ってるから、推理にもならなかったわ。」

 ムアリアは得意げに言って、机の上に腰を下ろした。

「・・・ところであなたたち。龍に会いたいなんて馬鹿ね。龍って口から火を吐くのよ。龍の火は相手が燃え尽きてしまうまでは消えないの。つまりあなたは死ぬのよ。」

 ムアリアは密かにログを睨んだ。

「なんで死ぬって決めつけるんだよ。火なんか避ければいい。大したことないね。」

「あなたって本当の馬鹿ね。龍は大きいのよ!踏みつぶされてしまうわ!」

 ログが食って掛かるとムアリアは声を大きくした。ログは負けじと背伸びした。

「足だって避ければ無敵だし。俺は殴るし、俺が勝つね!」

「はあ?何言って・・・って言うか、どうして龍と闘う気でいるの?龍は私たちの暮らしを豊かにしてくれているのよ?」

「関係ないね。男なら誰もが一度は最強を夢見るんだ!」

「馬鹿じゃないの!」

 ムアリアは力強く言い放つと、机から降りてウィクルの首に後ろから腕を回し、首を傾けてウィクルの横顔を覗いた。

「ねーえ、ウィクル君。ウィクル君は違うわよね。ログの頭が悪いだけよね?」

 対抗するように、すかさずログがウィクルの両手を取った。

「ウィクル。俺たち男だろ。同じ志を持った戦友だよな!」

「え、ええと・・・。」

 ウィクルは交互に二人の顔を見た。場を落ち着かせたい思いではあったが、そのための言葉はまだ学習できていなかった。

 

 作業は淡々と進んだ。ウィクルを挟んで手伝いに励むログとムアリアが互いに言葉を交わすことは無かったが、時々に隙を計ってウィクルとは短い交流が行われた。ログは雑談が主であったが、ムアリアは積み上げた本にお勧めの童話を紛れ込ませたり、ウィクルの髪や肌に興味を示した。途中で受付の女が二度、三人にお茶と菓子を乗せた盆を運んできたが、休憩に際してもログとムアリアは気を許さなかった。女が密かに「いつものことよ」とウィクルに伝えたが、ウィクルはどうしても落ち着かなかった。

 それから時が経ち、外からの光が赤を帯び始めた頃に二人には迎えが来た。

「ウィクル君。明日も来る?」

 去り際にムアリアが話しかけた。衣服の裾を握りしめ、少しばかり寂しげに。

「わからない。けど、いつかは戻って来たいな。まだ読めてない本がたくさん残っているし、ログとムアのことも、もっとよく知りたいし。」

 笑顔になるムアリアの隣をログが駆け抜け、ウィクルに小指を伸ばした。

「じゃあ約束しようぜ。俺たちさ、親がそこの採掘場で働いてるから、いつもここにいるんだ。毎日ではないんだけど、大抵いる。今日は俺とムアしかいなけど、他にもたくさん来るんだ。ムアみたいに変わったやつもいるけど、きっと気に入るよ。だからさ、絶対に来てくれよ。待ってるからな。」

 ウィクルは直感的にログの小指の意味を理解し、同様に小指を立てると、小指同士を絡めた。短い約束を終えると、今度はムアリアがウィクルの前に来た。ムアリアとも約束を交わして、そこで三人は別れた。

 一人になったウィクルは作業の後始末を淡々と済ませ、使った椅子や書物の位置を丁寧に整えた。受付の女が棚の掃除を始めると、それも手伝った。そうしているとウィクルにも迎えが来た。しかし、迎えはイダではなく、大柄な長老衆、ヤコダであった。

 ヤコダはイダとは正反対の存在で、屈強で、聡明で、それでいて温厚だった。一行のリーダー的存在であり、他の長老衆からも一目を置かれている。ヤコダは完璧だった。ヤコダはウィクルに向かうとまず礼をした。

「ウィクル様、待たせてしまい申し訳ありません。我ら戦士は外へ狩りに出ていましたので、遅くなってしまいました。」

「〇△◆・・・□〇=・〇■◆〇〇。」

 ウィクルが自然と発したのは地上の言葉だった。

「ん・・・それはもしや、地上の言葉ですか?」

「あ、ごめんなさい。つい、口に馴染んでしまって。」

ウィクルが照れると、ヤコダは微笑んだ。

「いえ、いいのですよ。寧ろ関心致しました。・・・さて、ここを発つ前に記録を確認してもよろしいですか?疑う訳ではありませんが、念の為に。」

「ええ、勿論。」

 ウィクルはヤコダに十数枚の布の束を渡した。ヤコダは短い時間で数枚に目を通すと、布を束ねて懐にしまい、彼の親指と変わらぬ大きさの瓶を取り出した。

「確かなようで、感謝します。では、この岩瓶をお持ちください。明日にて我々の旅は終わります。旅の終わりとともに祝宴が開かれ、その合図を以てウィクル様は長老衆の一員となります。今晩はこの岩酒を飲んでからお休みください。」

「うん、わかった。」

 ウィクルはヤコダから瓶を受け取り、その口に空いた穴に紐を通して首に下げた。そして踵を返そうとしたヤコダの袖を掴み、引き留めた。

「ねえ、ヤコダ。握手って、もう知ってるかな?」

「アクシュ?」

「うん。手を握り合うだけでできる地上の挨拶なんだ。どう、やってみない?」

「ふふっ、ええ。私で良ければ喜んで。」

 ウィクルが手を差しだすと、ヤコダも不器用ながらもそれに倣って手を出した。その時、ヤコダの薄い袖がずれ、手首にこびり付く毒々しい色気の鉱石が覗いた。それは鉱石に富んだ地底にあっても見たことのない異質なものであった。

「ヤコダ。それ、どうしたの。」

 ウィクルは恐る恐る尋ねた。するとヤコダは焦ったように袖口を抑えた。

「いえ、大したことはありません、狩りの最中にどこからか連れてしまったのでしょう。害はありません。さあ、もうすぐイダが帰ってくるころです。私たちで迎えましょう。」

 ヤコダは鉱石を帯びた方の腕を巨躯の裏に隠し、鈍重な足取りで出口へと進んだ。

「でも、そんな鉱石・・・見たことないよ。」

 ウィクルは走ってヤコダの前に回り込むと、彼の腕を確かめようとした。直後、小さな身体は激しく打たれて突き飛ばされた。そして書棚との衝突より先に腕を掴まれて引き寄せられた。音は立たず、掃除に勤しむ受付の女が気づくことはなかった。

 ヤコダは至って静かに佇んでいた。表情に感情の変動は見られなかったが、手には過剰な力が籠められ、ウィクルの腕を軋ませていた。

「申し訳ありませんウィクル様。ご理解ください、ウィクル様がいけないのです。この私が問題ないというのだから、素直に聞き入れればよかったのに。」

「・・・ヤコダ?」

「いいですか、ウィクル。例え明日あなたが長老衆になったとしても、あなたは若い。私とあなたには決定的な格の違いがあるのです。己の未熟さを知りなさい。決して忘れてはなりません。驕ってはいけません。私に逆らうことも、二度としないことです。」

 ヤコダはそれだけ告げてウィクルを解放すると、それ以上は何もしなかった。二人が書庫を出る時、受付に戻っていた女は名簿を書き写す手を止め、怪訝な眼差しをヤコダに向けていた。

 月が綺麗な夜だった。ウィクルはうっすらと照らされた、ラエルを包むようにして並ぶ遠くの山々を一望した。高所では強風が吹いているようで、頂を飾る木々が揺れていた。眺めていると、その内の一本の影が翼を広げたように見えた。更には上部に鋭い光さえ浮かんできて、それらはウィクルを追いかけた。ウィクルは驚いて瞬きした。その一瞬の間に、木々は元の形に戻ってしまっていた。

「どうしましたか、ウィクル。来なさい、さあ早く。」

「・・・うん。行くよ、ヤコダ。」

 ウィクルは振り向き、とうに見えなくなった書庫を探した。

「ログ。やっぱり大人って、みんな違うと思うよ。」

 その後、イダは何故か路上に倒れているところを発見され、ヤコダによって運ばれた。



2’

 明け方、一行はラエルを発った。いつもより急いだ足運びで丘陵を越え、連なる山間を抜け、長い道程を歩き続けた。

 ウィクルはこの日は記録を休み、今朝から体調を崩していたイダに付き添っていた。ウィクルが案じて背を撫でると、イダはいっそ苦しそうにして呼吸を荒げた。

「大丈夫、イダ?昨晩はどうしたの?」

 イダは時間をかけて呼吸を整え、曲げていた背を僅かに伸ばした。

「・・・んああ、どうしたんだろうな。よく覚えていないんだ。町でよ、歩いてたら地上人に捕まってさあ。言葉分かんねえのに、俺を色んな場所に連れ回して飲み食いを始めるんだ。それがまあ旨そうに食うからさ、ついつい腹に入れちまったんだが、そこからの記憶が曖昧でな?本当に何してたんだろうな。怖いなあ・・・。」

「珍しいね。イダが誰かに従うなんて。」

「仕方なかったんだよ。あいつら、大人数で俺を囲うんだもの。クソ広い街中で迷わないように努力するので精いっぱいだった。・・・あー、ヤバい。ヤバいかも、気持ち悪い。」

 イダは説明もなく、持っていた細長い包みをウィクルに押し付けた。ウィクルは文句なく自身の身長を優に超えるそれを受け取り、担いだ。

「僕らはどこまで行くの?」

「うっ・・・龍のところさ。理由は知らないが、会って話す必要があるんだとさ。」

「へえ。」

 ウィクルがまた別の質問をしようとした時、イダはとうとう呻きながら口を押えて列を離れ、森の中へと走って行ってしまった。

「イダ!道はわかるの?」

 イダから返答はなかったが、代わりに大きく手が振られた。

 それからしばらくして、昼の頃。一行が到着したのは巨大な門が設けられた、どこまでも続く広大な山の絶壁だった。門は近づけばひとりでに開き、一行が通り抜けると音もなく閉じた。門の外側は自然で満ちていたが、内側は山の輪で閉鎖された荒れ地だった。立ち込める霧の中に、何かの呼吸音が木霊していた。見上げれば、それぞれの山の上に鎮座する存在があった。霧の為に全容は朧気だったが、ウィクルは確かに彼らに見覚えがあった。五体の龍が見下ろしているのだ。足が荒地の中央まで及ぶと、一行は五方向から龍に囲まれる形になった。龍の一つが首を下ろし、霧の中から鱗を纏った口が突き出した。

「おやおや、地底より何ゆえにここへ来たのだろうか。」

 龍が問うと、ヤコダが数名の長老衆を率いて口の近くへ寄った。

「龍よ、我々は地底に住む人類だ。願いがある。どうか我々の地上への移住を許してほしい。我々は数を増やしているが、反して地底は変動して狭くなっているのだ。辺境でも構わない。どうか!」

 ヤコダが言い放つとともに、長老衆らが背負っていた包みが大胆に開かれた。中からは肉や果実、それに地底で採られた希少な鉱石が転がり出た。

「これらは全てが供物だ。どうか、どうか願いを聞き入れて欲しい。」

 ヤコダの真上で短く火が熾り、狭い範囲で霧が晴れた。空までは見通せないものの、龍と、その足場の山の姿がハッキリと見えるようになった。黄色の眼がヤコダを睨んだ。

「叶わぬ望みではない。だが、その為には、まず。そこの巨人の正体を明かしてみろ。布の下に何かを隠しているのではないか?すぐに明かせ。この目の前で。」

 龍の熱い吐息がヤコダに吹いたが、ヤコダは龍から顔を背けなかった。

「あれは我々の守り神だ。害はない。姿こそ異形だが、同じ人類だ。」

「愚か者め。」

 龍がヤコダに小さな火を吐き付け、火はヤコダの衣に着いた。燃え広がる前に衣は破かれたが、それによってヤコダの腕と、より色を増した紫の鉱石が顕わになった。しかしヤコダはそれを巧みに隠し、一行の誰にも気づかせなかった。

「人の姿ならば、或いは人類ならば無害だと?それならお前の腕はどうだ。それは邪龍の証だろう。今に我らを、地上を陥れようと疼いている。隠したところで無駄だ。さあ、言え。あれは近くにいるのだろう。答えろ。あれはどこだ。あの巨人がそうか?」

「私は・・・知らない。」

「そうか、まあ、そうだろうな。あれがやつならば、狡猾が過ぎる。」

 龍が山から下り立ち、起こった風と振動でヤコダは飛ばされ、転倒した。龍の片足がヤコダの側へと及んだが踏みつぶされはせず、龍の顔は巨人へと向いた。

「巨人よ。自らを示してみろ。語れずとも身体は動かせるだろう。証明できないのなら地底へ帰れ。これまで通り静かに永らえるならば、わざわざ貴様を殺すことはしない。だが穢れてしまった分身共は我らが預かろう。」

 龍は待ったが、巨人は微動だにしなかった。

「まあ、いいだろう。せめてそうして、そこを動くな。」

 龍は巨人から、惑う小さな百人に目を移した。

「預かるとは?さっきから、あれは何を言っている?」

 長老衆の一人が呟いた。その肩にボンヌの手が乗った。

「詳しいことは分からんが、我々が気に入らないということなのだろう。奴の口を見ろ。あの火で我らを燃やすのだろうよ。」

 ボンヌが示した先で、龍が舌なめずりをしていた。滴り落ちた唾液は火を帯びて、土を湿らせるのではなく、焼いた。ボンヌは背負っていた斧に手を掛けた。同時に巨人がゆっくりと龍へと歩き出した。一行は巨人の為に道を開けた。巨人は歩きながら片手の布をほどいた。逞しい骨格によって角張った真っ黒な手を、まるで水面を撫でるかのような仕草で地中へと沈ませると、巨大な斧槍を拾い上げた。斧槍は龍へと構えられた。一行から歓声が上がり、戦える者らは揃って備えていた武器を掲げた。

「・・・貴様の価値を期待したが、所詮は外道か、異端か。」

 龍は囁き、喉を膨れさせて炎を溜め込んだ。牙の隙間から火花が散り、口が開かれると火花は迸る炎となって巨人を襲った。その轟音に歓声が飲まれた。

 巨人は斧槍を降ろし、炎を胴体で受け止めた。炎は後ろへは流れず、巨人はじりじりと龍に近づいた。轟音を退ける歓声が上がった。しかし段々に巨人の布が焼け崩れ、肉が溶け落ちると、炎は後方にも流れるようになり、歓声の一部は悲鳴に変わった。火に当てられた数人は落ち着いて対処しようとしたが、どうしても火は消えず、彼らは絶叫を残して欠片も残さず燃え尽きてしまった。途端に一行は逃げ惑った。転び逃げ損なってしまった者、巨人の足にしがみ付く者、怖気づき動けない者、門へと走る者。様々であったが、立ち向かおうとする者は一人としていなかった。

 ウィクルは門へと走っていた。走りながら、列の前方では見つけられなかったイダの姿を求めた。背後では繰り返し、悲鳴が迫っては離れた。すぐ後ろで誰かが転び、聞こえた甲高い泣き声は刹那の断末魔に変わった。

「・・・イダ、そこにいるの?」

 ウィクルは走りながら、僅かに開かれた門の外を見つめていた。

 イダが助けてくれる。その一心で門へと走った。脳裏で誰かの断末魔が反響していたが、恐れる余裕はなかった。火花が弾ける音が近づき、とうとう背に熱を感じて焦った。大きく右足を踏み出した直後、左足の感覚が失われ、転倒した。顎を強く打ったが、焦げた吐息に喉が焼かれ、息を吐けなかった。声も出なかった。最早、痛みも感じなかった。

 懸命に手を伸ばした。

 故郷と、仲間たちと、イダと、ログと、ムアと・・・。門の先に揺れた虚ろな思い出の数々が、灼熱の波に掻き消された。



3’

 火龍と燃える巨人を、山の上から四体の龍が見下ろしていた。龍らは火龍の後ろで固まっていた。それは巨人に応戦する為ではなく、火龍の炎から逃れるためだった。

 火龍はいつまでも燃え尽きない巨人に近づき、重ねて炎を浴びせた。それでも巨人は形を残したまま立ち尽くしていた。

「貴様は誰か。」

 巨人は炎によってほとんどの肉が溶け落ち、足元に蒸発せず絶えず煙と泡を発する濁った池を作っていた。しかし細くなった身体は溶ける様子がなく、口らしい部位では呼吸が行われ、炎を一定に揺らしていた。

 少しして水龍が荒野に降り、あちこちが灯る荒野に水を吐いて回った。火龍の火は、水龍でなければ消せなかった。それが片付くと水龍は巨人の前に座り、大きく口を開けたが、その顎を火龍の尾が制した。火龍は巨人が確かに果てるのを待とうとした。だが、その時はいつまでも訪れなかった。ついに巨人の呼吸が弱まったところで火龍は尾を引いた。いくらか激しさと高さを増した巨人の炎を前に、水龍は後ろ足で立ちあがって、ちょうど巨人の頭の上の辺りで喉を膨らませた。

 その時だった。巨人の手が動き出し、水龍の首根を掴むと指を深く喰い込ませた。喉に穴が空き、激しく水が迸った。水龍は翼と前足を駆使して抗ったが、巨人の力は緩まず、ついに首が捻られ、水龍の四肢が垂れ下がった。火龍が炎を吐いたが、水龍の亡骸を盾とされた。死して尚も溢れる水によって炎は阻まれた。

 巨人は水龍の首を両手で握って引き、胴体から背骨を抜いた。骨は鋭利で細長く、肉と油が付着しており、巨人の身体から火を受けた。巨人は火を纏う骨を火龍へと振った。骨は火龍の頭の至近距離にまで至ったが、突如として強風が起こり、巨人の身体を少しばかり浮かせ、火龍から遠ざけた。風龍が火龍を守ったのだった。巨人が再び構え直すより先に火龍が劫火を吐き、風龍が竜巻を起こした。更に二体の龍が、権威を得ている火龍には劣るものの加勢して火を浴びせた。炎の渦によって巨人は抵抗を封じられ、焼かれるのみとなった。熱によってとうとう肩の骨が剥き出しになり、片足が崩れた。

 地の底から雄叫びが響いた。それは山々を反響し、龍らをひるませた。それでも龍らは巨人に隙を与えず、形成が逆転することはなかったが、間もなくそれは来た。火龍の足元から紫の鉱石が急速に湧き出し、鉱石は火龍を侵食した。火龍の劫火が止まり、巨人が渦の中から飛び出した。巨人は骨で火龍の頭を砕き、そのまま力任せに切り刻んだ。

 風龍は鉱石を恐れて逃げようとした。彼は他のどの龍よりも素早く飛び回ることができた。しかし山の一つから一回り小柄な影が飛び、風龍の首に食らいついた。風流は首を鉱石に侵され、挙句には急所を噛み砕かれて絶命した。他の二体の龍も逃げようとしたが、二体とも翼に鉱石を患ってしまい、飛ぶことも叶わず小柄な影によって臓器を喰われた。

 五体の龍が息絶えると、影は巨人に忍び寄った。巨人の炎によって影は照らされた。それは紫の龍、邪龍だった。邪龍は燃える巨人を笑った。

「悲劇だな、巨人よ。だが幸運だ。この俺はお前を救う術を知っている。」

「・・・。」

「だが、その前にお前を明かさなければならない。・・・巨人よ。お前は異端か?俺を知っているか、憎んでいるか?遥か昔のことを覚えているか?」

「・・・・・。」

「答えろ。もし俺に敵意がないのならば、ともに来い。ともに、この星を支配しろ。」

 巨人は答えぬまま、握っていた骨の端を折り、邪龍に投じた。回避するには間に合わず、邪龍は片側の羽を切り裂かれた上に火を受けたが、羽はたちまちに紫の粒子となって散り、鉱石によって新たな羽が生み出された。

「そうか、それが答えか。ならば仕方ない。お前も星の糧にしてやる。」

 巨人の周囲から紫の粒子が湧き、粒子は炎を越えて巨人の肉体を侵し、これまで炎に耐えていた部位すらも溶かし始めた。そのあまりの苦痛に巨人は暴れた。火と粒子とが散らばり、山の外側にまで届いた。巨人は暴れながら骨を砕いては闇雲に邪龍へと投じたが、どれも急所には至らなかった。巨人は最後に足を浸す池に手を沈め、斧槍を取り出した。斧槍は池を蓄え、その場の何者よりも激しく燃えていた。

 斧槍は水平に構えられた。そして直後、大きく弧を描いた力強い横薙ぎとともに一閃。鋭い暴風が大気を裂き、山を断ち、炎と瘴気をどこまでも果てしなく行き渡らせた。巨人を囲んで旋風が生まれ、邪龍を巻き込んだ。邪龍は風圧によって木っ端微塵となり、破片は空高く巻き上げられた。



4’

 遥か地平が見渡せた。視界を妨げるものは何一つ存在しなかった。だが、分身はどこにも見つけられず、痕跡すら残っていなかった。付き従っていた二人の老父も、手を振っていた少年すらも。敵も存在しなかった。敵が誰であったかも、覚えていなかった。

 巨人の耳に鮮明な泣き声が届いた。その声に導かれ、崩れた山を潰し、丘陵を荒し、辿り着いたのはあの町があった場所だった。だが、そこにも何者も存在しておらず、辛うじて根に面影を残した巨樹だったものだけがあった。黒焦げの巨樹の中心には燃える龍の骨が刺さっており、細々と付着した紫の粒子によって腐り始めていた。

 泣き声は真下から聞こえていた。巨人は指の肉を削りながら埋まった瓦礫をかき分けた。少し掘って、その頭が見えた。掬い上げられたのは、荘厳な鐘だった。

 巨人は遥か昔から鐘の使い方を知っていた。巨樹から龍の骨を抜き、それで鐘を打ち鳴らした。欠片が三つ散り、一つは空へ、一つは巨樹へ、一つは巨人の内に宿った。たちまちに空が曇り、頭の上で稲妻が走った。

「管理者ガーリンよ。私は全てを見ていた。故に全てを知っている。聞け、悲劇はまだお前の罪ではないが、いつか、お前も報いを受けねばならない。だが、このままではお前の身体は結末を待たずに滅んでしまうだろう。答えろ。星を愛するか?持てる権威の全てを星に託す意志はあるか。」

 空の声に、巨人は一度、深く頷いた。

「ならば急げ。龍の墓場へと戻ってお前の肉の泥を掬い、ここまで運べ。そして泥であの巨樹の根を潤すのだ。あとは触れるだけでいい。それで全てが移り行く。」

 巨人は声に従った。来た道を戻り、掌に泥を掬い、泥を巨樹の根に垂らした。巨樹を壊してしまわないように、巨人は指先でそっと、その真っ黒な表面に触れた。すると指を通じて、巨人の身体から巨樹へと炎が流れていき、不意に巨樹の表面が割れ、内から赤髪の乙女が産まれた。乙女が巨人の指に口づけし、炎を失った巨人は土塊に変わった。乙女は泣いた。その上で空が鳴き、稲妻が走った。

「聞け、乙女よ。亡き文明に崇められたお前は、その神格の故に星の管理者として生まれ変わった。その土はお前に全てを託した者の跡。彼の苦痛を悲しめるならば、星の為にお前の命を尽くし、邪龍を探し出し、滅ぼせ。」

 どこまでも黒々とした雷雲が空の隅々まで広がり、一方向へと稲光が線を作った。

「従って行け。」

 乙女は拭えども止まらない涙で頬を濡らしながら空を仰ぎ、稲妻を追って荒地を進んだ。乙女の後には緑が芽生え、鮮やかな色の道を作っていた。


わ!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ