7話 ターニングポイント
迷宮の最奥部には、入り口に繋がる通路があった。
現代の魔法理論では説明できない高度な文明跡。
それがダンジョンだから、不可解な技術があるのは当然と言える。
ダンジョンから出ると、日が昇っていた。潜る前にも昇っていたから、丸一日ほど潜っていたようだ。
砂漠では仮眠をとることもままならない。
そのまま帰路に着くことにした。
俺の屋敷の方が近い事もあり、パルティも一緒に着いてきた。家につく頃には日も暮れ落ち、空には夜の帳が降ろされていた。パルティは客間に通しており、今頃ぐっすり寝ている頃だと思われる。
(目が冴える)
対して俺は、まったく眠れなかった。
色々なことが起きた高揚感からだろうか。
いいや違う。
俺はただ、悩みの種にうなされているだけだった。
布団から抜け出して、水を汲みに行く。
一口呷れば、全身に潤いが行き渡る。
それで眠れるかどうかは別の話だが。
自室の窓から空を見た。
煤を流したように黒い一面に、銀砂をちりばめたような星々が瞬いている。一面に敷き詰められた大理石の床に、天心に坐する皓月の澄明が照り返す。
布団ではなく、椅子に腰かけた。
机には、一冊の日記。
題は『MEMENTO MORI』。
古ぼけた表紙を、指の腹でなぞった。
『何を躊躇っているんだい?』
声がした。
より明確に、鮮明に。
脳内に響く声は、直感が正しいと訴える。
魔王と、魂の領域で繋がっている。
心臓を、ぎゅっと掌握した。
「なんなんだよ、お前は。どうして俺を泳がせている。どうして殺さずに生かしている。答えろよ」
俺が魔王に対し、最初に抱いた感情は恐怖だ。
今もありありと思い出せる。
あのどす黒い悪意の波動が、俺の命を握る感覚を。
俺は決して忘れないだろう。
だからこそ、分からない。
こいつの、俺の心に巣食う、こいつの目的は、一体何なんだ。俺をどうするつもりなんだ。分からない。怖い、恐ろしい。分からないというのは恐ろしい。
それ故に、日記にも手を出せずにいる。
『君さ、人をなんだと思っているの? 意味もなく、全てを虐殺する悪魔にでも見えてるわけ?』
「……事実だろ?」
『いいや? 虚構だね』
「は?」
こいつは最初にあった時、こう言った。『あるいはこう名乗るべきかな? 世界に終焉を齎す魔王』と。そんなやつが平和的な訳がないだろ。
『何を素っ頓狂な声出しているのさ。人の手紙を盗み見ておいて、それはひどいんじゃないの?』
「人の手紙……?」
『覚えてないのかい? 君はどこでそのペンダントを手に入れたんだい?』
「……あ」
ペンダントが入っていたクッキー缶。
それに、確かに手紙が同梱されていた。
クッキー缶から手紙を一通取り出す。
宛名はやはり、大賢者。
だったら、差出人の名前は?
中から取り出した便箋を漁る。
最後のページを探り出す。
そこにかかれていた名前は――
――エウリディーチェ=イグニス=イザナリア。
「……は?」
どういうことだ。
わけが分からない。
大賢者は世界に終焉を齎す魔王を封印したんだろ?
どうして、その相手との、仲睦まじきやり取りが保管されているんだ。
『分かったかい?』
「……分かんねえよ。何がどうなってんだよ」
カラカラと、魔王が笑うのを感じた。
『日記、読んでみたら?』
「……」
そうだ。
また、鍵は俺の手中にある。
これが賢者の日記なんだとしたら。
すべての謎を解くカギが、記されているはずだ。
だが、これを開けば。
封印の解除をもう一段でも進めたら。
きっともう、後に戻ることは許されない。
『もう一度聞くよ? 何を躊躇う必要があるんだい』
「お前の望みが分からないからだろ……」
『あはは、面妖なことを問うね。分かりきっているだろう? 私の望みなんて』
俺の心に、ぱっくりと。
不気味な三日月がニチャリと笑う。
ああ、悍ましい、悍ましい。
己の心には、こうも恐ろしい魔物が潜んでいる。
『再び現世に蘇る、それだけさ』
「……蘇って、何がしたいんだよ」
『さてね、その答えは日記の中にあるかもよ?』
「また、それかよ」
堂々巡りだ。埒が明かない。
何の根拠もない二択問題だ。
いや、基準はあるか、一つだけ。
信用できるか、できないか。
畢竟するに、ここが分水嶺だろう。
どっちだ、シヴァルス=ヘイム=アルフォンス。
お前はどちらを選択する。
不信を煽る要素は分かりやすい。
こいつが魔王であること、ペンダントに宿る邪気。
悪であることなんて明白だ。
到底、信用できるはずがない。
だけど、どこかで。
信用したいと思っている自分がいる。
どうして俺はこいつを信じようとする?
どこにこいつを信じる要素があった?
ふと、脳裏によぎる、彼女の言葉。
『あの子を救うだけの力を授ける、その儀式さ』
……ああ、そうか。
(コイツがいなかったら、パルティは……)
こいつの目的如何は分からない。
だけれど、その結果、大切なものを取りこぼさずに済んだのは紛れもない事実なんだ。
少なからず、俺はそのことに感謝をしている。
簡単に悪だと割り切れずにいる。
「……エウリディーチェ、聞きたいことがある」
『いくらでも。信じられるならね』
「一つだけで十分だ」
よく分かった。
七面倒くさい駆け引きは無駄だ。
こいつは絶対に、自身の手札をひけらかさない。
だったら、最強の切り札で決着をつける。
「利害は一致しているか?」
要するに、それだ。
無償の信頼なんて、信用ならない。
求めるべきは、裏切りの無い確かな関係。
それさえあれば、信用なんて後から付いてくる。
心臓が早鐘を打つ。
これすら軽くいなされれば、もう判断材料は無い。
運否天賦による二択を、俺は選択することになる。
ああいやだ。俺にはそんな、勇気はない。
そんな願いが通じたのだろうか。
魔王が、そっと微笑んだ。
『ああ。私の利は君の利だ。君の害は私の害でもある。なくてはならない存在だと思うよ、お互いにね』
ホッと胸を撫でおろす。
そうかよ。
それだけ聞ければ十分だ。
『心は決まったかい?』
「ああ」
俺は日記に手を伸ばす。
左手の腹で背面を支える。
そして右手で、その留め具を外した。
それが俺の、選択だ。