4話 アポフィス・ナラヤナ
もう随分、会話らしい会話をしていない。
パルティは時折こちらを見ているが、口を尖らせるばかりで何も言わない。俺は俺で、この後の事を考えていたから、会話にリソースを割く余裕なんてなかった。
もし仮にだ。
魔王の声が本当だったとして。
この先に賢者の真の遺産が眠っていたとして。
俺は、どう行動するのが正解だ?
さっきから、頭の中をそんな疑問が占領している。
封印を解く?
あり得ない。魔王を蘇らせるなんて。
持ち帰る?
いや、迷宮に隠しておく方が賢明だ。
だったら、俺はどうしてここに来た。
もう、帰ってしまってもいいんじゃないか。
どうして俺は潜り続ける。
「シヴァ、着いたよ」
「……え?」
「最深部」
言われてみれば、ただっ広い部屋に俺はいた。
入ってきたと思われる出入り口を除けば、四方は壁で囲われていて、他に通路は無さそうだ。
突き当りの部屋。もう随分潜った。最深部らしい。
「言った通りでしょ? 見ての通り、最深部にも何もないわ」
パルティが鼻高々にそう言った。
部屋の四隅には流砂があるが、それだけだ。
それを除けばなんにもない、がらんどうだ。
「なんで自慢げなんだよ。夢は夢だったってことじゃねえか」
「うん。でも、夢の形を目の当たりにしたらさ、心に響くものってない?」
心、ねえ。
結局、何も無いものを目指していたわけだろ。
蜃気楼に手を伸ばした。
そんな徒労感くらいのものだろう。
感じる事なんて――
『――日は西に沈む。夜はその先で待っているよ』
「あがっ!?」
「シヴァ!?」
頭に直接、響く声があった。
あの声だ。ペンダントに封印された、魔王の声。
今回は、掴んですらいないのに。
どくどくと。脈拍が上がるのを感じた。
血液が沸騰しそうだ。
あるいは骨の髄から凍てつきそうだ。
全身から嫌な汗がどっと噴き零れる。
封印が解けるのは、時間の問題じゃないだろうか。
浮かんだのは、そんな最悪の想定。
「……パルティ。方位磁石はあるか?」
「う、うん」
「サンキュ」
パルティから受け取り、方角を確認する。
東西南北の先には部屋の角。
つまり、四つの流砂があった。
そこでふと思い出す。
このダンジョンに伝わる説話を。
全てが繋がる音を聞いた。
「夜の神だ」
「え?」
「夜の神だよ。流砂の楼閣は、太陽信仰に怒り狂った夜の神がもたらした天罰だ」
「何を言ってるの?」
俺は四つの流砂の内、一つに顔を向けた。
「ダンジョンは、流砂の奥に先がある」
ふらふらと、誘蛾灯に誘われる羽虫のように。
俺はそちらに歩き出した。
方角にして西にある流砂。
ずぶずぶと、足からそれに飲まれいく。
「シヴァ!?」
パルティに腕を引かれて、ハッと意識が釣り上げられた。その時にはすっかり膝上まで埋もれていて、足搔けば足搔くほど飲まれていくようだ。
「パルティ、離せ」
「嫌よ!」
「これは賭けなんだ。失うものが無い俺だからこそ成立する賭けなんだ。お前まで来る必要はない!」
「ふざけないでよ!」
俺の手を引くパルティの力が、いっそう強くなる。
「まだ、私がいるじゃない!」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
「だから、戻って、きて!」
勢いよく引き上げられる。
流砂に飲まれる体が釣り上げられる。
それから、ガゴンと大きな音がして。
床が、崩壊した
「きゃぁ!!」
「パルティ!!」
消失した地面。
俺はパルティを抱えて背中を地面に向けた。
時間が引き延ばされていく。
大丈夫大丈夫大丈夫。
下には砂が溜まっている。
衝撃を吸収してくれるさ。
重力に体が加速する。
だけどもし、底が存在しなければ?
緩衝材として十分でなければ?
俺はここで死ぬのか?
(パルティだけは!)
彼女をぎゅっと抱きしめた。
その直後の事だった。
ぼふんという鈍い音がして、砂山にダイブしたことを自覚したのは。
「がは……っ」
肺に強い衝撃が加わった。
口の中に、砂が入った。
でも、それだけだった。
骨が折れるような鈍い音や、血飛沫が上がるような事は無かった。
良かった。
「シヴァ!? 大丈夫!?」
「ああ、大丈夫、……てて」
抱きしめていた腕を緩めると、パルティの顔がそこにあった。俺の事を心配しているようだが、彼女自身に大きなけがは無さそうだ。
良かった。本当に、先があって。
「とりあえず、おりてくれ」
「ご、ごめんなさい!」
「いや、抱きかかえたのは俺だから……」
若干、気まずくなってしまった。
取り繕うように、彼女は話題を挿げ替える。
「と、とにかく、脱出経路を探しましょう」
「って言っても、見るからに一本道だぞ」
落ちた先は、一方向しか通路が伸びていない。
「でしたら、先に進みましょう!」
「あ、おい、待てよ」
そう言うと彼女はずんずん奥へと進んでいった。
置いてくなよ。こっちはお前が命綱なんだぞ。
慌てて後を追いかける。
……あれ?
歩くスピード、速くなった、か?
いや、当然か。
これまでは探索済みの場所だったが、ここから先は未知の領域だ。気持ちが逸るのも道理というものだ。
あえて指摘することはあるまい。
それから、目に見えてこちらを見なくなった。
先ほどまで定期的に、こちらを見ていたのに。
彼女にも、余裕が無いと見える。
せめて負担にならないように。
俺は黙って後をつけることにした。
だがそんな俺の配慮は、すぐに無用のものとなる。
本当の最深部は、存外近くにあったのだ。
「シヴァ、あれを見て!」
開けた場所に出て、彼女は開口一番そう言った。
指をさした先には台座があって、そこに何か、四角い物が鎮座している。
「本当にあったのよ。きっと賢者の真の遺産だわ!」
彼女は興奮気味にそう言った。
それから俺の手を取り、祭壇に向けて俺を誘った。
俺はというと、呆気に取られていた。
世界を終焉一歩手前に追い込んだ禁忌の力。
それが手の届くところにあっていいのだろうか。
おかしい。何かを見落としている……のか?
『夜は空に堕ちるものだろう?』
まただ。
またあの声が聞こえる。
頭に直接響く声だ。
夜が空に落ちる?
一体何を言ってるんだ。
ここの信仰だと、昼は空に、夜は大地に存在する。
夜は地下だ。空じゃない。下……だ、から。
半身に痺れが走った。
それの名は衝撃。
悪魔の囁きの意図を理解した。
意味するところが分かってしまった。
俺は今、その地下にいる。
錆びついたブリキ人形のようにぎこちなく。
俺は天井を仰いだ。
光の届かない暗幕に、7対の赤光が浮かんでいる。
「パルティ上だ!!」
「え? きゃあぁぁっ!!」
俺は俺を掴む彼女の手を引き後ずさった。
刹那、俺達が先ほどまでいた場所に、大きな化け物が佇んでいた。
黒い鱗、獰猛な牙。
とぐろを巻いた長い胴体から、これまた長い七つの首が伸び、独立した頭が不規則に揺らめいている。
「なに、あれ……」
それは蛇神。
あるいは夜を統べる者。
「……アポフィス・ナラヤナだ」
原初の虚空に生まれし精霊がそこにいた。