3話 線形計画問題
(くそっ、どこだ! パルティ!)
俺は走っていた。
どこまでも続く鏡の世界を。
いつまでも、いつまでも。
どこまで行っても同じ景色。
さっきも通った気がするし、実際既に通った道かもしれない。それでも、限られた時間の中で答えを導き出さなければ意味がない。
『シヴァ、方向性を変えよう』
「……はぁ、はぁ、ディーチェ?」
肩で息をしながら、走る速度を緩めた。
バクバクと唸る心臓が鼓膜にうるさい。
滴る汗を拭いながら、耳を傾ける。
『当てもなく彷徨い続けたって、辿り着くとは思えない』
「だったら、どうするんだよ」
『ひとまず、ここを地点Aとしよう。左右非対称の何かをここに記すんだ』
「記すって……俺は鏡に触れないぞ?」
触れた途端に、鏡の向こう側に渡ってしまう。
『君自身が無理なら、魔法でも何でもあるだろう?』
「……なるほど」
自分の力という実感が無かったから、すっかり頭から抜け落ちていた。確かに、今の俺には七天紋章がある。
「«白銀世界の怠惰領»」
水晶の柱に、右回転の渦巻きの氷を貼り付けた。
『よし。それじゃあひとつ向こうの世界に渡るんだ』
「……? 分かった」
一番手近な壁に向かって飛び込む。
何の抵抗もなく世界を移る。
『……やっぱりね』
「何がだ」
『見なよ。君がさっき刻んだ柱を』
ディーチェに言われて、それを探す。
そこには、氷が無かった。
「あれ?」
一つ世界を移ったのだから、鏡に映る左回転の模様がそこにはあって然るべきなのだ。だが、実際には存在していない。
『次だ。今入ってきた鏡を戻るんだ』
「ん? 分かった」
そして、先ほど作った渦巻きを探す。
あった。右回転の渦巻きだ。
『なるほどね。今度は鏡を同じ方向に二度超えるんだ』
「……了解」
分かってきた。
ディーチェがやろうとしていることが。
この広い解空間を、制約によって限定的に仕様としているんだ。今までの俺の探索方法は無駄が多かった。例えるなら、自然数の範囲で考えればいい問題を複素数の範囲で考えているようなものだ。そんな方法ではいつまで経っても答えに辿り着かない。
「あったぞディーチェ。渦巻き模様だ」
『オーケー。なるほどね、読めてきたじゃないか』
二つ先の世界には、元と同じ世界が広がっていた。
ということは、だ。
『この合わせ鏡の夢幻空間は、事実上二つの世界しか存在していない』
「だったら、まだ希望は出てくるな」
渦巻きがある世界をAと定義したから、渦巻きが無い世界はBとでもしておくか。
これまで無限だと思っていた世界は、実際にはこの二つの世界しか存在しなかったのだ。
『となると、脱出条件も限られてくるね。差し詰め、入って来たとおりの手順を踏んで引き返すっていうところかな?』
「どうして分かるんだ?」
『そうだね、しいて言うなら、経験則、かな』
言い換えると、直感ってことか。
あまり論理的とは言えないが、信じるに値するな。
なんて言ったって元魔王だからな。
「いや、待ってくれ。でも、最初に俺が迷い込んだのがA側の世界なのかどうかが分からないとだめじゃないか」
『あまり、私を見くびらないでほしいね。君が潜った鏡の枚数くらい覚えているさ。でないと、それぞれが独立した世界のときに元の地点に戻れないだろう?』
「……はい」
確かに。
今回は偶然、AとBの世界しかなかったが、場合によっては鏡の数だけ世界が広がっていた場合もあるんだ。自分が潜った枚数くらい数えておくべきだった。
『ちなみに、君が最初に訪れたのはAの世界だ。つまり、この世界のどこかに、元の世界に戻る方法があるはずだよ』
……そりゃご先祖様もディーチェと組みたがるわけだ。安心感が段違いだ。後でペンダントを磨かせていただこう。
「でも、俺は一体、どうやってこの世界にやってきたんだ」
結局、問題はそこに帰結する。
俺は気が付けばここに居た。
ここから先はどうやって絞り込む?
『残念だけど、今の私に分かることはこれだけだね。シヴァは何か気付いた事は無いのかい?』
「……そうは言われたってな」
あちこち、ぐるぐると見渡す。
「……あ」
分かったかもしれない。
◇◇◇
パルティは頭を抱えてうずくまっていた。
おかしいのは自分なのだろうか。
シヴァを疑っている自分なのだろうか。
認めてしまえば楽になる。
人を疑うのは心地の良い事ではない。
「パルティ、体調は良くなったか?」
パルティは小さく首を振った。
その半分は、よくなっていないという意味で。
残りの半分は、やっぱりこれはシヴァじゃないという意味で。
彼女が知るシヴァは、こんなにも頻繁にパルティと名前を呼んだりしない。一切口にしないわけではないが、呼び掛ける度に口に出したりしない。
彼女が知るシヴァは、こんな時に声をかけてきたりしない。するとしても、黙って横に座るくらい。それから、どうしてもここが危険なのだったら、彼女が嫌がっても無理やりにでも連れ出す。
そばにいる何かは「ここはヤバい」と口にしても、あまりパルティを気遣う様子はない。彼女の知るシヴァはそんなに薄情な人間ではない。
(それに、だんだん落ち着いてきている)
最初こそ、彼はそわそわとした態度だった。
だがしかし、時間が経つにつれ声に余裕が生まれ始めている。それこそ、彼女に体調の事を聞く程度に。
(普通、危険な場所に長くいるんだったら、だんだん焦るもんじゃないの……?)
事実、彼女はどんどん不安になっている。
悩んで悩んでドツボに嵌っている。
そんな恐怖に駆られている。
だが、目の前の存在はそうではない。
(どこにいるの、シヴァ……!)
そうしていると、シヴァルスの姿をした何かが、急に狼狽し始めた。ついさっきまでどっしりと構えていたというのに、どうして。
「パルティ! はやくここを離れるぞ!」
「いや、来ないで、近寄らないで!!」
「チッ! 置いていくぞ!」
やっぱり。
これはシヴァじゃない。
シヴァは見捨ててどこかに行ったりしない。
「くっ! いいから! 早く来い!」
「やめて! 触らないで!」
シヴァルスの姿をした何かが、彼女の腕を掴んだ。
だが、剣の修業を怠ってきたシヴァルスが、ひたすら邁進してきた彼女に適うはずもなく、それは無駄に終わる。
「助けてよ……っ! シヴァァァァァッ!!」
彼女が、そう叫んだ時。
「パルティィィ!」
血相変えた、二人目のシヴァが現れた。




