2話 五里霧中
『君、このままだと消滅するよ』
そう言う彼女に、俺は何と返せばいい?
「……は?」
停止した思考の代わりに脊髄で返答した。
それを返事と言えるかどうかは微妙だが。
『ドッペルゲンガーにはもう一つ、こんな逸話があるんだ。自分の姿を見た人間は遠くない内に死亡する』
俺の深い意図の無い言葉に、ディーチェは新しい情報を開示する。だが、そんなこと言われても、ますます混乱は強まるばかりだ。
俺の内心を知ってか知らずか、彼女は続ける。
――原因は単純明快でね。同じ人間が別の場所に存在するっていうのは致命的な世界のバグなんだ。とはいえ、滅多に起こらないことだし、観測されない限りは問題ないんだ。
――問題は、本人を含めた誰かに、同じ時間異なる場所に存在することを観測された場合。この場合、過去改変を試みた場合の歴史の修正力のように、問題を修正しようとする力が働くんだ。
『本物か、偽物か。どちらかが、ドッペルミラーに放逐されて、場合によっては存在が入れ替わる』
――ちょうど、今の君のようにね。
そう言われて、自分の置かれた立場を理解した。
遅すぎるかもしれない。
「待て、この世界に居続けるとどうなる!?」
『言っただろう? 二つの世界の境界が曖昧になるのは滅多に起こらないことなんだ。このままだと、君は死ぬまでこの世界さ』
「死ぬまでって……」
冗談だろ?
「どうすればいい」
『……半ば、君はこちらの世界に受けられつつある。と、いうことはだ、元の世界にはこっちの世界の君が向こうの世界に現れているはずだ。完全に存在が定着する前に引きずり出し、元に戻る。これしかないね』
「つまり?」
『偽物に成り変わられる前に、悪事を暴け』
「了解」
危なかったな。
ディーチェがいなかったら、訳も居場所も分からないまま死に絶える所だった。彼女が物扱いで、一緒にこっち側に来てくれていて助かった。
「でも、どうやって元の世界に戻るんだ?」
『……それが、問題なんだよね』
「おい、まさか」
『ああ、不安にさせたね。手段が分からないわけじゃないんだ。まぁ、目の前の鏡面に触れてごらん?』
訳は分からないが、この場ではディーチェの言葉に縋る他ない。俺は目の前の水晶に手を伸ばした。すると、まるで水面に波紋が広がるように鏡が揺蕩った。
「っ!?」
驚いて、思わず指を引っ込める。
手の平を顔に向け、指先を確認するが異変は無い。
『それが、ドッペルミラーの住人の権限というかね、彼らは鏡の世界を自由に行き来できるんだ』
いま一度、水晶壁を覗き込む。
まるで一連の出来事が虚構の出来事だったかのように、頑丈そうな表面を保っている。
『だから、この鏡の向こう側に、ある筈なんだよ、君が元居た世界が』
「……この鏡の、向こう側って……」
目の前の鏡面は、背後の鏡面を映している。
鏡面に映った鏡面は鏡面を映し、また鏡面に映った鏡面を映している。地平線の向こうまで、四方八方に広がる合わせ鏡の世界。そこから、たった一つの元の世界を探し出せ……と?
『ちなみに、鏡の世界は今なお広がっている。元の世界に到達しようなんて天文学的な確率だね』
「……お前は、どうしてこうも冷静なんだよ」
『まぁ、この程度の絶望は、もう何度も味わって来たから、かな?』
……そうだった。
ディーチェはもっとたくさんの迷宮に潜って、愛した人に殺されて、世界を滅ぼす魔王に仕立て上げられて、何百年もの間封印されて今に至るんだった。
そう考えれば、彼女の態度も、少しは分かる。
『ま、私の最終目的は冥界に赴く事だからね。それができるならドッペルミラーの世界だろうが元の世界だろうが関係ないってことさ』
「……おいおい、契約を違えるなよ?」
『心配しなさんな。私だって七天紋章の力は惜しい。元の世界に戻れるなら、それに越した事は無い』
「オッケー。じゃあ、行きますか」
意を決して、鏡の扉に触れる。
触れた部分から、境界がぐにゃりと曖昧になり、自分という感覚があやふやになる。
「……分かっちゃいたが、外れだよな」
まるで抵抗なく、鏡の世界を渡り歩いた。
もはや、躊躇う事は無かった。
「っ!」
走り出す。
俺のいた世界を探して。
どこまでも、どこまでも。
パルティが待つ、あの世界に帰るために。
鏡を一枚潜る度、この世界に馴染んでいく。
そんな予感が胸をよぎった。
◇◇◇
一方その頃パルティ。
彼女は、幼馴染の豹変ぶりに困惑していた。
「パルティ。この洞窟は危険だ。今すぐ引き返そう」
一体、いつからだったか。
おそらくあの時だ。
後ろを歩いていたシヴァルスが、何か声を出した気がして振り返った時。あのタイミングから、シヴァルスは様子がおかしくなった。
「シヴァ、ルス。私は何も感じないよ?」
「だけど危険なんだ。すぐ立ち去らないと」
やっぱりおかしい。
彼女は今、意図的に呼び方を変えた。
普段はシヴァと呼ぶのだが、ふと思い付きで、シヴァルスと呼んでみた。だが、当の本人は何も感じていないようだ。
(呼び方が変わったことを指摘しないなんて、やっぱりおかしいよ)
幼い頃、共に剣を習い始めて以来、彼女はずっと「シヴァ」「シヴァ」と呼んできた。それこそ、「シヴァルス」と呼称したのなんて最初の数日だけだ。
それに違和感を抱かないというのなら。
ここに居るこの人間は、彼女の知る彼ではない。
「さぁパルティ! 早く!」
シヴァルスの姿をした何かが手を差し出す。
得体のしれない何かが、彼女に向かう。
「触らないで!」
パルティは思わず身を引いた。
それから、更にわけが分からなくなった。
――困惑したシヴァルスの表情は、彼女が良く知るシヴァのそれと瓜二つだったから。
「あ、えと、シヴァ、ルス……?」
訳の分からない感情が、彼女を襲っていた。
こわい。見知った顔が恐ろしい。
間違いなく幼馴染の体に、得体のしれない何かが入り込んでいる。
そんな悍ましさ。
「パルティ、少しおかしくなってるんじゃないか?」
「……おかしい? 私が?」
「ああ、やっぱり、この洞窟は危険なんだ。早く立ち去ろう」
おかしいのは、自分なのか?
彼女が男に抱いた違和感は、彼女自身の何かが形を変えてしまったからなのか?
今の彼女には分からない。
シヴァルス、目の前の男の言葉を信じるならば、今すぐにこの洞窟を離れるべきだろう。だが、直感は、この場に留まれと必死に訴えている。
(どっち、どっちを信じればいいの?)
自分かどうかも分からない自分と、シヴァかどうかも分からない彼。どちらも同じくらい信用ならない。
「……ごめん。確かに、体調悪いかも。少し休ませてくれる……?」
「パルティ……っ」
「ごめん」
とにかく、今は考える時間が欲しかった。
(助けてよ、シヴァ)
彼女は一人、すすり泣いた。




