2話 パルティ
ハッと手元に視線を移す。
握られているのはパカリと開いたペンダント。
これを開いた瞬間だ。
邪気がそこらに満ちたのは。
こいつがこの世に蘇ったのは。
「大賢者の、真の遺産……?」
思い至ったのはその可能性。
魔王が封印されている必要性。
伝承では世界各地にちりばめたと言われている。
だがそれは、賢者自身の手元にないことの証明にはならない。
一つくらい、手元に残していてもおかしくない。
『あはは、知らずに封印を解いたのかい? まぁ、おかげで私は大助かりだけどね』
確信する。
これは本物だ。
俺は魔王の封印を、終末の扉を開いてしまった。
慌ててペンダントを閉じようとする。
『無駄だよ。私はこの世に蘇る。力を失った賢者の末裔ごときに、それを閉じることはできないよ』
ロケットペンダントはびくりとも動かない。
開くときは、あんなにもあっさり開いたのに。
俺がどれだけ閉じようと試みても、巌のように頑として動かない。
足搔く俺を、黒闇が嘲笑う。
(力を取り戻すために封印を解く? こんな化け物と対峙する? 冗談だろ!)
思い返すは『大賢者の真の遺産を見つけ出す』と言って出て行った親父の事。冗談じゃない。封印を解いてこんな奴を世に放つくらいなら、この血は俺で途絶えるべきだ。まったく合理的じゃない。
「くそっ、閉まれよぉぉぉ!!」
『無駄さ。いくら猛ろうと、力無き君には――っ!?』
俺が吠えた瞬間だった。
体の内側から、熱い何かが溢れ出した。
眩い光が弾け飛び、視界から色が抜け落ちる。
時間は水飴のように粘性を帯びて緩慢だ。
激流に身を任せれば、全能感が沸き上がる。
「あああぁあぁぁッ!!」
飛沫をあげる水面のように、ペンダントは黙った。
口を閉ざした貝のように、沈黙している。
周囲に溢れていた瘴気は、少しずつ薄れていった。
「は、ははっ……」
手が震えている。
死を、終焉を覚悟した。
「は?」
零れた笑みに、驚いた。
俺は今、どうして笑っていた?
世界に終焉を齎さんとする魔王の封印を危うく解きかけて、迫りくる絶対の死を眼前に据えて、どうして俺は笑えた?
俺の手の中には、ロケットペンダント。
魔王と、俺自身の力が封印された物がある。
自覚したはずだろう。
魔王を蘇らせてはいけない。
あれは死そのものだ。
次に相対した時が、俺の命日かもしれない。
そう、これは永遠に、表に出してはいけない代物なのだ。
そう、永遠に。
ペンダントを、ぎゅっと握りしめた。
その時だった。
屋敷の呼び鈴が鳴ったのは。
来客の予定はない。
あったら、こんな場所に長居なんてしていない。
アポなしの訪問、という事はあいつか。
ペンダントをポケットにしまって、クッキー缶を片手に持って。
俺は地下室を後にした。
◇◇◇
「また宝物庫に行っていたの?」
クッキー缶を自室に隠してから、来客に対応する。
訪ねてきたのは、やはり従妹だった。
応接間に通し、向かい合うように席に着く。
残念だが、粗茶どころか出涸らしのお茶すら出す余裕はない。まあ、彼女もそれは分かっているだろうから気にする事ではないか。
「そう言うパルティは今日もダンジョン巡りか?」
彼女は革製の、しかし一品の装備を身にまとい、獲物である双剣を腰に携えている。
俺と異なり天賦の才を持った彼女は、賢者の遺産を探すために世界の迷宮を渡り歩いているのだ。
「うん。賢者が残した七つの遺産。心躍るよね」
どいつもこいつも、賢者の遺産、賢者の遺産って。
どこにあるかも分からないものが、そんなに大事なのかよ。
近くの一人息子を放って探しに行くほど大事かよ。
親父も、パルティも、夢を見過ぎだ。
「さてな。俺にはさっぱりだ」
「昔は一緒に目を輝かせてたじゃん」
「今じゃ死んだ魚の目ってな」
「腐っても鯛は鯛ってね。心のどこかではまだ望んでるんじゃないの?」
俺は瞑目して答えた。
「どこにあるかも分からないんじゃあ、探してる間に土に眠るだろうな」
嘘だ。
俺は知っている。
子供の頃に描いた夢が、終生風化しないことを。
だが、届かない理想を追いかけるなんてできない。
種の無い鉢に水をやり続けることはできない。
そんなの、狂気の沙汰だ。
(叶わない夢なんて、ただ苦痛なだけだ)
ポケットに手を入れると、ペンダント。
たとえ手の届くところに今をぶち壊す手段があったとしても、俺はそれを選ぶ事は無いだろう。
アレはこの世に蘇らせてはいけない。
だから俺は諦めるのだ。
心に蓋をして、記憶に戸を立てて。
それがたった一つの冴えた生き方だから。
ペンダントを、ぎゅっと強く握った。
『流砂の楼閣に眠っているよ』
「っ!?」
驚いて、俺はその場で起立した。
音を立てて椅子が倒れる。
目の前のパルティと目が合う。
彼女は彼女で、驚いた顔をしている。
そもそも、今の声は彼女の声じゃなかった。
(……封印が、解けている……?)
いやな汗が、背中を伝って行った。
聞こえたのは間違いなく、地下室で出会った魔王の声だ。
ペンダントを閉じただけでは、不十分だったのか?
「ふふっ。急に立ち上がって、幽霊でも見た?」
パルティはくすりと笑ってそう言った。
どうやら、彼女に魔王の声は届いていないらしい。
俺がペンダントを握っているからか、俺が一度封印を解いたからか。
原因は不明だが、この声は俺にしか聞こえていないようだ。
完全に封印が解けたわけではなさそうだ。
「……あ、ああ。まあ、似たようなものだな」
安堵しつつ、そう返した。
なにかが体の底に沈んでいった。
祭りのくじ引きで、外れが出た時によく似ていた。
「へぇ? 一体何が見えたの?」
「対して興味ないだろ」
「興味津々だよ。シヴァが幽霊って言葉に真面目に取り合うなんて。どういう風の吹きまわし?」
「……あ」
確かにそうだ。
普段の俺なら、「馬鹿らしい」、「幽霊なんているわけない」と返しただろう。
魔王の封印体を目の当たりにしたばっかりに。
「……別に、何も見えてねえよ」
今は、と前に付くが。
「じゃあなんで?」
「知るか、何も見てないし、何も聞いちゃいねえ」
「ふーん、何かを聞いたんだ」
「聞いてねえっつってんだろ」
「私の目を見て言える?」
「……」
「ほら、昔からそう」
俺は口を開いたり閉じたりしたが、言霊は一つとして形にならなかった。
昔からそう、その言葉には、目を見て嘘を吐く事が出来ないと続くのだろう。
「……ただの、幻聴だよ」
「それでも、妙に現実味があったと」
「そこまで言ってねえだろ」
「言わなくても分かるわよ」
はぁ。
どうにも欺けそうにない。
このままだと、ペンダントの存在まで辿り着かれてしまうかもしれない。
「……流砂の楼閣」
「はい?」
悩んだ末に、俺は真実を打ち明けることにした。
ただし、一部だけ。
ペンダントの事も、魔王の事も口にしない。
「そこに、賢者の真の遺産があるって」
そう聞こえた。
俺は彼女にそう告げた。