8話 ベルフェゴール・アルギュロス
覚悟は決まった。
彼女がそれを願うのならば、俺は全力で応えよう。
『とはいえ、ここからじゃ無理だ。風船クジラはその特性上、海面付近で爆発する。どうにか地上に上がらないと』
「……浮上する手段」
今から神殿を引き返す時間は無い。
北の山脈から再臨した海底都市に戻る暇もない。
もっと早く、最短で脱出する経路を。
「パルティ、お前、風船まだ持ってるか?」
脳裏に、電流走る。
上手くいく保証はない。
だが、それは元から承知のこと。
「え、う、うん!」
パルティは何もない空間から風船を取り出した。
いつの間にか持っていないと思ったら、アイテムボックス内部に隠していたようだ。
貸してくれと言う意味で手を出す。
パルティはすぐに手渡してくれた。
「……全然萎んでないな」
それはこの街に来てすぐに買った風船。
アッコロに押し売りされた風船だ。
「うちの風船やないか。風船クジラの浮袋は頑丈やさかい、適切な量に空気を制限してやればどんだけ圧力がかかっても大した負荷にならんのや」
「……なるほど。パルティ、ちょっと借りるぞ!」
「え!? シ、シヴァ!?」
俺は大きく息を吸い込んだ。
それから、風船を以て柱の裏手に回り込む。
シャボンの膜を破るように、海中に放り込まれる。
(おおおおおおお!)
風船を抱きかかえる。
大きくかかった浮力が、俺を海上へと導いていく。
(くっ)
水圧が体に重い。
全力で走った時に受ける風の抵抗なんて目じゃないくらいに、それは重く重く圧し掛かる。
放してやるもんか。
俺を、さっさと。
(海面に連れて行け、この風船!)
頭上に光芒が差し込む。
海面という空が近づく。
(間に合えぇぇぇ!!)
ばしゃんと、大きな音を立てて、海面を突き破る。
勢いづいた俺はロケットの如く。
トビウオが見る世界を目の当たりにする。
それと、ほぼ、時を同じくして。
とおく、果ての海から。
大きな魔物が産み落とされる。
――ズドォォォン!
母なる海が生んだ怪物。
その産声は、世界の終わりを告げるかの様。
人の抗うことが許されぬ、大津波という災害。
「行くぜ、ディーチェ」
風船から手をはなす。
空中だというのに、重力を忘れたみたいだ。
時間がどんどん引き延ばされていく感覚。
知覚がぐんぐん加速する。
『ああ、見せつけてやりなよ。海の魔物に王の力を。知らせてやりなよ、格の違いを!』
「おおおおおおお!」
右手を翳す。
手の甲の紋様が鈍色に輝く。
その光は徐々に神々しく輝く。
白銀に近似する光が完全に一致した時。
その呪文は完成を迎える。
「迸れ! «白銀世界の怠惰領»ッ!!」
体の内から、力の奔流が荒れ狂う。
熱い衝動が突き抜ける。
ホワイトアウトする視界。
来たるべき結末は一瞬のうちに訪れた。
何人も動くことを許さぬ静寂。
白銀色が世界を飲み込む。
それは海の魔物だろうと一律だ。
死がすべての生き物に平等に訪れるように。
それは等しく全てを凌駕する。
海に表情なんてありはしない。
分かっているが、その様は。
まるで驚愕に、表情が凍り付くようだった。
最後に残ったのは、凍り付いた海にそびえ立つ巨大な氷壁。
防波堤を遥かに超えるオブジェクト。
それを残して青海原は凍てついた。
「……やった」
世界が時間を思い出す。
重力が思い出したかのように働きだす。
「やべ……」
終端速度が思ったよりも速かった。
こんなに打ち上げられるだなんて想定していない。
まして着氷の準備なんてなおさらだ。
落下する感覚だけが、はっきりわかった。
「第二星剣、«明けの明星»」
「あああぁぁぁぁぁぁ!?」
砕氷しながら、上昇してくる影があった。
パルティと、絶叫しながらひっぱりあげられているアッコロだ。
俺を視認したパルティが、顔をほころばせた。
パルティの速度がゼロになる。
その瞬間、水平に翳した刀身に足を乗せたかと思うと、そのままその場で多段ジャンプをする。
落下する俺へと方向を修正するパルティ。
「まったく、無茶するんだから」
保護者のように微笑みながら、彼女は言う。
そんな表情を見ていると、俺の肩もほぐれて。
「……わり。かっこつけたくなった」
「うん、ありがとう」
片手にアッコロ。片手に剣。
両手がいっぱいの彼女を抱き寄せる。
パルティは剣を持つ手を天に掲げると、それを一気に振り下ろした。
「最終星剣、«龍星哀火»」
落下地点を中心に、凍り付いた海が融解した。
「あああぁぁぁぁぁぁ!!」
情けない声を上げるアッコロと共に、俺たちは飛沫を上げて海にダイブした。
忘却の海底神殿、攻略完了だ。
◇◇◇
「うちな、ちょっと、驚いたわ」
アッコロからそんな独白を受けたのは、迷宮攻略を終えて3日経った頃の事だった。
「いつも、育てた風船クジラを屠殺する度、苦しんどった。うちはてっきり、『うちが人らしいからそうなんや』って、そう、思とった」
ぽつりぽつりと、アッコロは言う。
まるで魂のこもっていない人形だ。
無気力に、無感情に、アッコロは言葉を紡ぐ。
「でもな、飼っとったみんなが死んでな、いや、もちろん悲しい思いはあるねんけどな、ほんのちょっぴりだけ、こう思うねん。……もう、殺さずに済む」
それはまるで、束縛から解放された人間だ。
自由を求めていたはずなのに、いざ与えられたそれはあんまりにも空っぽで、どう対応すればいいか分からない。そんな感情を、彼女は抱いている。
「うちはただ、海の生き物が好きなだけやったのにな」
なんでこうなってしもたんやろな。
口にはしなかったが、彼女の表情は、言葉以上に心を叫んでいる。
虚空を見つめる彼女の瞳が閉じられる。
きっと、それを開くために。
俺は今、ここに居る。
「安心しろ、これからは、好きに過ごしたらいい」
「……ぇ?」
事は、二日前までさかのぼる。




