1話 【徒花の呪い】
こどもの頃、見ていた夢がある。
「英雄譚の英雄のように、おとぎ話の勇者のように」
俺もそうなりたいと思っていたことを覚えている。
――バカげた夢だ。
今となってはそう一笑に付せるが、昔はそうではなかったことを記憶している。どうして覚えているかというと、この場所が記憶の風化を許さないからだ。
ちょっとしんどいぜ。
虚空からピントを外す。リアルが実像を結ぶ。
薄暗闇。埃を被った空気。
腰掛けた岩壁から伝わる、ひんやりした冷気。
天井から吊るされたロープ一本を除けば何もないこの部屋は、かつては宝物庫と呼ばれる場所だった。
地下室とも言う。
何を隠そう、俺の祖父の祖父のまた祖父は、世間からは大賢者と呼ばれる人だった。俺のご先祖様は、夢に届いた偉人だった。羨ましいね。
そんな家系に生まれたものだから、「俺もいつか、大賢者に」と、大志を抱いたものである。
自身の手の小ささも知らずに。
現実は非情だった。
心を、鋭い刃で切り裂いた。
どんな魔法も、適正はゼロだった。
――賢者どころか、魔法使いにもなれやしない。
その事実は、幼い俺には残酷過ぎた。お前には夢を持つ資格すらない。そう言われた気分だった。
もっとも、適性が無いのは、大賢者様を除く一族全員に共通する呪いのようなものなのだが、とにかく、当時の俺には到底受け入れられることではなかった。
そんな俺を見て、両親は、ある行動を起こした。
父の実妹の夫、つまり俺から見た叔父に、剣の稽古をつけるよう頼み込んだのだ。叔父は剣に秀でていて、国中を探しても五指に入るほどの実力者だった。
ちょうど同時期、彼の娘――つまり俺の従妹にあたるわけだが――も、「剣を習いたい」と駄々を捏ねていたらしく、話はとんとん拍子に転がった。
心の底では、賢者になる事を望んでいた。
それが叶うのならば、剣を振るう事すらなかっただろう。だけど、どれだけ杖を振るおうと、それは棒を振るのと同じこと。同じ棒を振るのなら、剣を振った方がよっぽどマシとも言える。
そんな人間だったからだろうか。
あるいは血統の差かもしれない。
俺と従妹の間には、目に見えて差が出始めた。
どうやら俺は、剣聖になる事も出来ないらしい。
この時だ。
賢者の一族に【徒花の呪い】と呼ばれるスキルが引き継がれていると知ったのは。
大賢者はかつて、魔王を倒した。
世界に終焉を齎さんとする、恐ろしい魔王だ。
あまりにも強大な魔王だったので、大賢者の力をもってしても殺し切ることはできなかったらしく、魔王の力を七つに分割し、世界各地の迷宮に封印したと言われている。
自身と、その子孫の能力を代償にして。
領地こそないが、賢者伯という爵位を賜った。
とんだ迷惑だな。
ああ、さぞいい思いをしたんだろうさ。
生まれてくる俺たちが、どんな惨めな思いをするかも知らないで。
【徒花の呪い】。
努力が決して実を結ばない。
これはそういう呪いだ。
魔法は使えない。武術の才能もない。
文学は叡智スキルを持つ奴の独壇場。
何も持たない俺たちが、破滅を行くのは必然だ。
愚かな賢者だな。
「なんにもなくなっちまったな」
部屋を見渡した。
この空っぽの地下室には、かつては賢者の遺産が溢れかえっていたという。だが、俺が幼い頃には部屋の片隅にこじんまりと残された程度になっていた。
名ばかりとはいえ、貴族は貴族だ。
税に、葬儀に、嫁入りに。
ありとあらゆる場面で出費はかさむ。
残された俺達は、賢者の遺産を切り崩した。
そうして、俺の父親、当主にして六代目。
ついに資力は底をついた。
今も覚えている。
この部屋から物がなくなっていく日の事が、脳裏に鮮明に焼き付いている。
崩れるうたかたの夢のように、喪失感の満ちる思いが残っている。
さて、進退窮まった。
行くも破滅、退くも破滅。
ましてその場に留まるならば、なおさら破滅。
そんな状況だったから、親父は一つの賭けに出た。
『大賢者の真の遺産を見つけ出す』
そう書き残して、家を後にした父の事を、俺は忘れない。
真の遺産というのはつまり、魔王の封印の事だ。
一族の力はそこに封印されているのだから、それを解けば当然力は戻る。
それが出来ればの話であるが。
「……バカ親父」
一体どれだけの人間が、これまで賢者の真の遺産を探し求めたと思っている。そいつらは俺達と違って、武芸に知識に富んだ奴らだぞ。あんた一人が勇んでも、事態は何も好転しない。
そんなの、賢者の行いじゃない。
ただのばくち打ちだ。
そんなに爵位が大切だったのか?
自身を危険に晒してまで守る価値があったのか?
答えろよ。なぁ。
それは俺より大事なものだったのかよ。
「くそッ」
敷石の隙間に埋まった指に、筋を立てた。
砕ける物なら砕いていただろう程、強く握った。
カチリと、何かがハマった音がした。
「……ん?」
握っていた石が外れた。
できた隙間からは鈍色の何かが顔を覗かせている。
取り出してみれば、それはクッキー缶だった。
随分と年代物の様で、口は錆びついていた。
それでも、力をこめれば簡単に開く程度だったが。
とにかく、中を調べてみる。
入っていたのは、所狭しと詰め込まれた手紙。
それと、一つのロケットペンダントだった。
手紙を一通手に取り、宛名を見る。
そこには、祖父の祖父の祖父の名が書かれていた。
「はっ、はは」
旅に出た親父を思い、乾いた笑いがこぼれた。
額に手を当てる。
賢者の遺産は残っていたのだ。
ただ無意味に危険を冒した親父は、やっぱり大馬鹿者だ。
封に指を挟み、一瞬固まった。
人の手紙を覗くのはいかがなものか。
いや、どうせ故人のものだ。
誰が悲しむわけでもないだろう。
中身は、平々凡々な文面だった。
だが、お互い好意を寄せているのが傍目に分かる。
捨てずにとってあることからも、賢者の特別な人だったことは明白だ。
そうなると、ペンダントは文通相手との思い出の品か。
写真の一枚でも入っているだろうか。
そっと手を伸ばし。
カチリと開いた。
――瞬間。
「ッ!?」
ペンダントから禍々しく、酷くどす黒い瘴気が溢れ出た。
水を得た魚のように生き生きと踊る邪悪が、底冷えするような空気が、室内に充満する。
『あはは!』
凍てつく。骨の髄から。
そう錯覚する悍ましい声。
吐き気を催す冷気が吹き荒れる。
『……ようやく! ようやく出られた!』
それは悍ましい怪物だった。
黒々とした霊魂。死神。悪霊。
どれとも形容しがたい闇だった。
歓喜に声を震わせて、意気揚々と蠢いている。
『私を解放したのは君かい? くははっ!』
いる。
影なき影が目の前に。
俺の前に立ち、俺の心臓を握っている。
面白そうに、ケタケタと笑っているのが視える。
「だ、誰だ」
閉まった喉から、声を絞った。
俺の問いかけを待っていたかのように、どす黒い邪気は笑みを浮かべた。ぱっくり裂けた三日月のような、酷く、悍ましい笑みだった。
『エウリディーチェ=イグニス=イザナリア』
深淵は、俺を見つめてそういった。
あり得ない。
だって、そいつは、そいつは。
『あるいはこう名乗るべきかな? 世界に終焉を齎す者。魔王、とね』