後編 邂逅と解放
……あたたかい。
眼前が光で埋め尽くされていた。数秒かかってようやく焦点が合う。
身を起こすと、身体のあちこちが枯れ枝のように音を立てた。
地下の下水道のようだ。
増水した流れに落ちてから、大きな何かに必死でしがみついていたところまでは覚えているが、その後気絶したらしい。
轟轟と流れる水路の脇の、六畳ほどの床の中心には、焚き火。あたしはその焚き火のすぐそばで、敷かれたダンボールの上に横たわっていた。濡れた白衣が肌に張り付く。
「お目覚めかな、お嬢ちゃん」
焚き火が生み出す光の球の外側から、巨漢が現れた。
……あたしは驚く。タワー脱出の目的が目の前にいたのだ。
隆々たる筋肉を覆う浅黒い肌に、スキンヘッド。
情報通りなら、日系の血が混じった黒人。あたしはかすれる声を無理に押し出すようにして言う。
「おまえ……ボブ・メイヤーか?」
黒い肌の巨漢は、白くキレイな歯を見せて笑う。
「そのとおり。そう言うお嬢ちゃんは、園原無花果だな?」
「そうだ。だが、なぜ……」
「なぜって、お嬢ちゃんが俺を呼んだからだろう?」
ダッハッハッハ! と笑いながら、ボブはあたしの頭をペシペシ叩く。
「俺が待ち合わせ場所に向かう途中、ネスト・タワーの異変が耳に入ってな。どうやら研究員が騒ぎを起こしたらしい。となると、タイミングからして、原因は連絡をくれた園原無花果に違いない。周辺の『コネクトネスト』の通信に妨害工作をしてから、付近を探していたら、川にダイブするお嬢ちゃんを見つけたってワケだ」
流されていくあたしを追ってボブも川に飛び込み、地下で引き揚げてくれたという。
「……手間かけたな」
ボブのフライパンのように大きな手のひらに閉口しつつも、あたしは礼を述べた。
あたしが川に落ちる前に見た黒い影はボブの姿だったのだろう。
あたしが助かったのはボブの機転のおかげらしい。
「さあ、時間がない。さっそくビジネスの話をしようか」
ボブは魔法瓶からあたたかいコーヒーを注いだコップを手渡してきた。ありがとうと言って受け取り、計画を話す。
「連絡したとおり、依頼はネスト・タワーの襲撃。あのタワー全体を完全に掌握する必要はない。あたしが中央制御室でハッキングする時間を、20分ほど稼いでくれればいい」
「OK」
ボブはうなずく。
「悪いが急な依頼だったからな、たまたま俺は東京にいたが、他のメンバは集められなかった。まあ、俺ひとりでもその程度なら可能だ」
ボブ・メイヤーは国際テロ組織『盲目の蝶』(Blind Butterflies)、通称BBの首領である。
BBは確固たる主義主張を持たず、体制側だろうが反体制側だろうが、金を払ってくれた方の依頼で破壊活動を行う、無節操なテロリスト集団だ。
電糸の網に隅々まで絡み取られ管理し尽くされたこの世界でテロを起こすのは容易ではない。
つまりBBは対電糸戦の希少なスペシャリストだ。電糸網の総本山に挑むのにはうってつけのはず。
理事会で研究を否定されたあたしは、即座にBBに依頼を出した。念のため、以前から接触ルートは確保しておいたのだ。さすがに時間がなかったため来たのは1人だけのようだが、依頼を完遂してくれるならかまわない。
報酬は前金1億円、成功報酬でさらに1億。
ボブの巨大な手に包まれるような握手を交わし、あたしたちは移動を開始した。
「なあ、お嬢ちゃんはなんでこんなことをするんだ?」
タワーを目指し下水道の整備用通路を進んでいると、前を歩くボブが背中越しに訊いてきた。
「その若さで世界に名だたる『ネスト・タワー』の主任研究員だろう? 前途有望じゃないか。なぜ体制に盾突こうとする?」
あたしは正直に話すことにした。
「……あたしの革命的な研究を、理事会の老害どもに否定されたんだ」
「革命的な研究?」
あたしは説明する。
「電糸を進化させて、生物にも侵入できるようにする。生物の細胞を駆動するエネルギーであるATPを、電糸の増殖・拡大のためのエネルギーとして使用できるように変えるんだ」
「ほう」
「この機能によって、今まで侵入不可能だった生体の、しかも内部まで入り込めるようになる。家畜の管理や害虫の駆除、あとは野生動物の生態研究なんかにも有効だろうな。でもそんなのは表面的なメリットに過ぎない。生物に侵入できるってことはな、人間、しかも脳にまで侵入できるってことだ」
「電糸が脳にまで入り込むだって? ずいぶん恐ろしげじゃねえか」
あたしは自分の口角がニヤリと上がるのを感じる。
「そう。人間の脳が『コネクトネスト』に組み込まれるんだ。これが何を意味するか分かるか? 脳の位置が把握される……なんてのは些末事項だ。進化した電糸は、三次元位置情報に加えて、脳内で流れる信号も伝達できるんだ。つまりシステムは、世界のモノの配置だけじゃなくて、全人類の思考をも把握するようになる」
「そりゃ驚いた。現在以上の、究極の管理社会になるな」
本当に驚いているのかわからない飄々としたボブの声が、地下に響く。
「安心しろ、むしろ逆だ」
「逆?」
「モノの配置情報と全人類の思考は、システム中枢だけじゃなく、電糸につながる人間全員が閲覧できるようになるんだ。なんせ、全ての情報は電子網を勝手に駆け巡っているんだからな。全部オープンってわけさ。秘密も機密も陰謀も謀略も、一切ナシ。新たな発見も貴重な経験も、すぐに全人類に伝播する。誰も管理や支配や統治なんてできっこない、突風が吹き抜けるように風通しの良い世界になるんだ」
ボブは少し黙った。
「……てことは、全ての人間が、千里眼と読心術をマスターしてるってことか? 想像つかねえな、どんな世界か。本当だとしたら、すごいが」
「本来、これこそが発明者が思い描いていた、電糸による革命なんだ」
「革命ねえ。そんな大胆なこと考えてなさそうなイメージだったけどな。電糸の発明者っつったら、あいつだろ、官僚のほうが似合いそうな『コネクトネスト』の理事長」
「違う!」
思わず出してしまった大声が、暗闇の地下道に反響した。
ボブが振り返り、あたしはうつむく。
顔をのぞき込んで来るボブを避けるように、あたしは言葉を継いだ。
「電糸を本当に発明したのは、あたしの、父なんだ。理事長は、父の同僚で、友人でもあった。なのにヤツは奪い取ったんだ、父の成した業績を。そして革命的な研究を、ただの管理技術に貶めた。研究一筋で不器用だった父は、逆にハメられ、論文盗用の罪でアカデミズムから追放された」
ボブは何も言わない。
「あたしの研究を理事長が否定するのは、父の研究と同じだからだ。追放される前、まだ小さかったあたしに、父は本当に楽しそうに自分の研究について話してくれた。もちろん内容なんて何一つわからなかったが、研究を語る時の父は、輝いていた。パパみたいな科学者になりたいって、よく言ってた」
あたしはボブを見据えた。
「真に革命的な発明を成したのは誰であったか、全人類が電糸でつながった世界で満天下に知らしめたい。そして父の語った世界を、実現したい。それが、あたしの目的だ」
沈黙の後、ボブは静かに言う。
「お嬢ちゃん、その技術は、世界を滅茶苦茶にするかもしれない。自由や人権だって、概念からして変わってしまうだろう。それでも――やるのか?」
「世界を滅茶苦茶にしない技術なんか、技術じゃない」
暗視ゴーグルの視界の中、ボブがニヤリと笑い、白い歯がむき出しになる。
「テロリスト冥利に尽きるってやつだ。OK、じゃあ世界を滅茶苦茶にしに行こうか」
あたしたちは地下水路からタワー内部へ侵入した。
対電糸戦の要諦は、極論すればただひとつ。電糸に侵されていない武器を使用することだ。
ただし無電糸の武器の調達は非常に困難である。
困難である理由は、無電糸を維持しつつ製造・運搬するのが難しいからだ。特に製造時、無電糸のモノを作るには、工具・部品・材料・治具・作業スペース・加工機などなど、およそ対象のモノが触れ得る全てのモノが無電糸でなければならない。
ちなみに一度付着した電糸を取り除くのは、ほぼ不可能だ。衣服などの繊維については例外で、時間さえかければ『電糸洗浄』が可能だが、金属や樹脂は現在の技術では除去できない。表面ごと電糸を削り取ろうとしても、削った端から電糸が再浸食するからだ。
だが、その高いハードルを乗り越えて無電糸武器を得ると、その威力はすさまじい。特に電糸で完全に管理されている都市部において、無電糸の武器が持ち込まれることは全く想定されていない。相手にとって、無電糸武器は「見えない武器」なのだ。
電糸網に頼り切っているネスト・タワーの警備は、容易に突破できた。ボブが持ち込んだ無電糸武器、テロリスト首領としてのボブの戦闘技量、内部の人間であるあたしの手引きが合わされば、当然の結果と言えた。
上層階へ侵入したあたしたちは、理事長を人質に取り、中央制御室に立て籠もった。
理事長を脅してメインシステム最奥の生体認証をパスする。
電糸のアップデートを開始した。
もうこれで、途中で止めることはできない。進化した電糸は放たれた。
あたしたちは人質を利用して無事タワーを脱出した。
「なあ無花果、おまえ、盲目の蝶に来いよ」
地下道を逃走中、ボブが突然言った。
「は? テロリストになれってのか?」
「そうだ。というか、もうおまえ、テロリストみたいなもんだろ」
「あたしはテロリストじゃない。科学者だ」
「マッドな方のサイエンティストだろ。ちょうどBBはマッドサイエンティストを必要としてたんだ」
「どんな求人だよ」
あたしは苦笑する。
一呼吸おいて、ボブは言った。
「俺の読みだと、今回ぐらいの事件では、到底、世界は変わらない。管理社会は、管理社会のままだ。無花果だって、わかってたんだろ? あのタワーから脱出したのが、いい証拠だ。本当に世界が滅茶苦茶になるって信じているなら、逃げる必要なんざ、さらさらないはずだ」
そのとおりだった。
多少の混乱は起きるかもしれないが、あたしのアップデートはいずれ是正され、あるいは取り込まれて、システムは結局安定するだろう。
世界が簡単に崩壊するのは、物語の中だけだ。わかっていてなお、自分を止められなかった。
黙ったあたしに、ボブは続ける。
「たとえ完全に蜘蛛の巣に絡め取られていて、あらゆる抵抗は無駄なのが誰の目にも明らかであったとしても、盲目の蝶は暴れるのを決してやめない。無花果、おまえは盲目の蝶だ」
暗闇の中ボブは立ち止まり、梯子に手をかけた。
梯子を上って先に地上に出たボブが、下のあたしに手をのばす。
「『世界を滅茶苦茶にしない技術は技術じゃない』だったな? おまえの技術を、おまえの親父さんの技術を、真の技術だと証明しろ。テロリストは、世界を滅茶苦茶にするのが仕事なんだ。やることは同じだろ?」
あたしがその手を握ると、びっくりするほどの力で一気に地上に引っ張り上げられた。
地面に足を着けたあたしは顔を上げた。
地上もまだ暗かったが、夜明けの気配を感じる。
あたしは大きく息を吸って、叫んだ。