前編 反逆と逃走
ふざけんな、このド低脳どもが!
叫びたいのをぐっとこらえて、あたしは唇を噛んだ。
言葉を荒げたところで状況は改善しない。むしろ感情を乱すこと自体、自分の選択肢を狭めかねない。
「では、『更新』はおろか、実験も許可されないということですね……」
声を抑えてあたしは確認した。
「そうなるな。やはり人体に適用するのはリスクが高すぎる」
だーかーら、そのリスクを調査するために、実験するんだろーが!
繰り返した議論を蒸し返しそうになる。ちょっと余っている白衣の袖を握るクセを思わず出してしまい、すぐに自分で気が付いてやめた。
なかば予想通りとはいえ、理事会の老人どもはあたしの研究を完膚無きまでに否定した。
なんとか譲歩を引き出そうと考え得る限りの案を出してみたが、無駄だった。流体遮断された空間における動物実験すら許可されないのなら、生物での適用実験は不可能だ。そして生物への適用ができないのなら、あたしの研究には何の意味もない。
「まあまあ、園原クンはまだ18歳なんだ、焦らずじっくり研究してくれたまえ。時間はたっぷりとある。私ら年寄りと違ってな」
理事長が言うと、他の理事たちが一斉に笑い声を立てる。
一見なごやかな雰囲気だが、9人の理事たちの目は一切笑っていなかった。
時間をいくらかけても無駄なのだと、あたしは悟る。
地上に楽園が実現した。
そう宣言されてから10年が経過しようとしている。
全地球物質管理システム、通称『コネクトネスト』の管理下に置かれて以来、長らく人類を悩ませてきた諸問題――環境破壊、食糧不足、貧困の多くが解決した。
さらに、世界各地の反政府組織の武装解除が進み、武力紛争も稀となった。
『コネクトネスト』とは、全世界のモノがどこにどれだけ存在するのか、ミリ単位でリアルタイムに把握しているシステムだ。
その中核にある技術が、『電糸』。
ナノエレクトロニクスと情報工学の結晶である、超極微の電子回路だ。
その特長は大きく3つある。
①高い汎用性
金属はもちろん、樹脂、繊維、ありとあらゆる固体の表面に書き込み可能。人間の生活圏における電糸の充填率は、面積にして99.998%にのぼるとされる。つまり、日常触れるモノ目にするモノ、すべてのモノの表面にびっしりと電糸は書き込まれている。
②位置情報の常時伝達
電糸上では、常に通信が駆け巡っている。やり取りされている情報はただひとつ、周囲の電糸との相対的な位置関係だけ。その位置関係情報が、どんどん積み重なって伝達されていき、最終的にシステム中枢で束ねられる。
その結果、ネットワークにつながる全ての電糸の位置関係が判明する。
そして電糸は全ての固体表面に書き込まれているわけだから、電糸の位置がわかれば、世界中の物体の位置がわかるという仕組みだ。
③自己増殖機能
電糸は勝手に殖えて、ウイルスのようにモノ伝いに拡大していく。
増殖に必要なエネルギー源は、日常的な光でこと足りる。
つまり、一度外界に解放された電糸は、人間が手を加えなくても、世界を覆い尽くしていくということだ。
その速度はすさまじく、人間の生活圏すべてを覆い尽くすのに5年かからなかったと言われている。
電糸は当初、工業製品に書き込まれることで工場における生産管理技術として用いられた。そして利便性ゆえに流通、小売り、インフラといった他産業へすぐに拡大し、さらに市民の生活の場に進出して行った。
電糸の網が文明の隅々まで行き渡ったことで、製造業レベルの資源管理が世界規模で行われるようになり、無駄が徹底的に排除された。それにより、環境問題や飢餓、貧困といった「配分の問題」が急速に解決に向かった。
さらに敵味方問わずあらゆる武器や戦略拠点・資源へも電糸は拡大したため、電糸情報を持つ陣営が、戦争において圧倒的に優位に立った。電糸によって敵側の装備も設備も丸見えとなったからだ。世界各地の紛争は体制側によって一方的に鎮圧され、表向き平和が訪れた。
『コネクトネスト』は、世界を掌握し、地上の楽園を顕現させたのだ。
しかしその代償として、人々は身の回りの全てのモノの位置を常に監視されている管理社会を生きることになった。
『コネクトネスト』のシステム拠点は、メインとなるものだけで世界に7つ。
その内のひとつが、東京の都心に高さ1000メートルでそびえる『トーキョー・ネスト・タワー』。ニューヨークや北京のそれをも凌ぐ世界最高の計算能力を持つ、システムの中枢だ。
その地上700メートルほどに位置する自分の研究室に戻るなり、あたしは猛然とコンピュータの操作を始めた。
先ほど理事たちの前では殊勝に振る舞い切ったつもりだ。
だが、あたしの研究を快く思わない理事たちは、あたしの自由を有形無形に制限してくるはずだ。時間が経てば経つほど状況は悪化する。
行動を起こすなら今しかない。
電糸技術総合研究所の主任研究員であるあたしには、本来、部下の研究員が5人は付く。事務員や実験助手なども含めれば、この研究室は通常7、8人が働くスペースだった。
でも、あたしはずっとひとりでやってきた。
同僚など信用できないからだ。
実験装置や資料棚、加工機、無数のコンピュータなどが打ち捨てられた石像のように並ぶ研究室に、あたしが叩くキーボードの音だけが響く。必要なデータを携帯端末のストレージに移せるだけ移し、二重パスワードと生体認証を経てから全コンピュータに初期化をかけた。
全てのデータが消えていく間に、クローゼット横の『洗浄済み』と表示された密閉扉を開けて、衣類を取り出した。下着も含めて全て着替え、最後に白衣を羽織り、長い袖を3回折ってたくし上げる。
膝下まである男物の白衣のスソをひるがえし、あたしは研究室を出た。
どんなモノであれその表面を伝って増殖・拡大・伝染していく電糸だが、拡がって行きづらい対象も存在する。
まず、流体と気体だ。当然、これらの上ではいくら極微であっても電子回路を形成できない。
ただ、これは便利な足枷とも言える。例えば電糸のない実験環境を整えたい時には、流体で覆うことで、電糸の侵入を防ぐことができるからだ。
また、電糸は暗い場所も苦手だ。電糸拡大の主なエネルギー源は光エネルギーであるため、例えば可視光のない地下では拡大速度が極端に低下する。同じ理由で、閉ざされた空間にも入って行きづらい。そもそも電糸が物体の表面のみに広がるのも、物体内部では光エネルギーを受け取れないからだ。
次に電糸が苦手とするのが、生体である。生体は水分の割合が高いというのもあるが、加えて、新陳代謝も原因だ。生体の表面部、すなわち皮膚や毛は、特に新陳代謝が激しい。生き物の表面に電糸が付着しても、新陳代謝で表面の細胞が入れ替わるため、電子回路を安定して維持できないのだ。
ゆえに、例えば電糸を家畜の体に直接適用したいという需要を叶えることができていない。一方で、電糸が生体に侵入できないということは、人体も電糸から守られているということになるため、この点をメリットとして挙げる考え方もある。
『コネクトネスト』が抱える課題は、この「電糸における拡大対象の制限」の他に、もうひとつある。
計算リソースの絶対的な不足だ。
ナノエレクトロニクスの進展により計算機の能力は進歩し続けているが、電糸がもたらす三次元情報の爆発的な拡大には追いつけていない。
よって、『コネクトネスト』が世界のモノを全て把握している、というのは厳密には誤りだ。実際には、多種多様な近似を駆使して、計算負荷の低減を図ることで対応している。言うなれば、少しアバウトに把握しているということになる。とはいえ、『コネクトネスト』が世界にもたらしたインパクトを鑑みれば、そのアバウトさでも十分ということになるのかもしれない。
しかし、さらなるシステムの発展には、以上の「電糸の拡大対象制限」と「計算リソースの不足」は大きな障害となる。
そこで、あたしの研究の登場だ。
あたしの研究は「電糸の生体侵入」を可能にする。さらには副産物として、「計算リソースの不足」をも解決し得るのだ。
この偉大な研究が、評価実験すら許されず完全否定される理由、それはあたしの父が――いや、やめよう。目の前のことに集中だ。
あたしは地上900メートルに位置する中央制御室の扉の前に立った。
カードリーダにIDを通し、さらに生体認証をパスすると、エアシリンダのかすかな排気音と共に扉がスライドした。大小いくつものモニタが並ぶ部屋へ足を踏み入れる。
あたしは主任研究員なので、ここに入室するまでは普段から許可されている。
あとは、最低3人は常駐しているオペレータから、どうにかしてメインコンソールの操作を奪わねばならない。できるかぎり威圧的な声を出す。
「主任研究員の園原無花果だ。緊急事態である。即刻、操作権を明け渡せ」
オペレータの3人が顔を見合わせ、リーダらしき男がためらいがちに返答する。
「失礼ですが、命令書がありませんと……」
電子音がして、彼らの目の前のモニタに、緊急メッセージが表示される。
「り、理事長からです。システムにセキュリティホールの可能性あり、処理は急を要するため、研究所の園原主任研究員に一任せよ、内容は極秘のため、常駐オペレータは別室にて待機せよ、とのことです!」
こんなこと前例がないのだろう。「しかし一応上長に確認を……」となおも逡巡する3人に、あたしは一喝する。
「だから、緊急事態だと言っているだろう! おまえら、今この瞬間にセキュリティが突破されて責任が取れるのか! さっさと出て行け!」
もちろん命令は偽物である。理事長の電子署名入りの命令書を偽造して、ちょうど良いタイミングで送信されるようにセットしておいたのだ。詳しく調べられればすぐにバレるだろうが、勢いと脅しでごまかして、数分の時間さえ稼げればよい。
1人になったあたしは、全力でセキュリティを破りにかかった。
目的は、電糸の全面アップデート。あたしの研究は、既存の電糸網に対し、中央からのソフトウェア的な更新をかけるだけで、あとは電糸の増殖機能を利用して自動的に全世界に拡大していくのだ。
しかし――。
アップデートをかけるための権限が、セキュリティに阻まれて手に入らない。さすがにそんなに甘くはないか。
中央制御室の扉が外から開かれそうになる。ロックはかけておいたが、どれだけもつだろうか。
空調で一定温度に保たれているはずの部屋で、キーボードを叩き続ける手の甲に汗がポタリ、と落ちる。
駄目だ、どうしても時間が足りない。いくら天才のあたしでも、専用の機器と時間がないこの状況では、セキュリティを突破できない。
扉の外では、物理的にロックを破壊しようとしているようだ。もう猶予はない。
あたしは既にクリアした範囲内でできることを済ます方針に変更する。いったん退却だ。今ここで捕まる訳にはいかない。必要なデータを引き出すと、プログラムをセットし、椅子を蹴倒して扉へ走った。
あたしがスピードを緩めず扉へ突っ込むと、まるであたしに恐れをなしたように、衝突寸前で扉が最大速で開く。と同時に部屋と廊下の照明が全て消えた。
廊下にいた数人の悲鳴と怒号が交錯する暗闇の中、あたしは彼らの足元をくぐるように走り抜ける。非常灯も消え、廊下には窓もなく、完全な暗闇だ。あたしのように用意しておいた暗視ゴーグルでも装備していない限り、何も見えないだろう。
プログラムしておいた通り、辿り着いた瞬間にエレベータが開く。乗り込むと同時に他の階での途中下車を拒否したエレベータが、一目散に地上へ向かった。
『ネスト・タワー』を脱出するまではスムーズだったが、その後が上手く行かなかった。
端的に言うと迷った。
何しろあたしは普段研究室に引き篭もっていて、滅多に外を出歩かないため、タワー周辺の地理にすらうとい。探知される恐れがあるため、端末で現在位置や地図を調べるわけにもいかない。目的地はタワーからすぐだから問題ない、と考えていたが甘かったようだ。
迷っている内に、警察官やタワー職員が周囲を捜索し始め、あたしはとっさに隠れた場所から身動きが取れなくなってしまった。
結局、数時間、路地裏の汚い物置の中で身を潜め、夜が更けてからそっと這い出た。白衣に付いたホコリを手で払う。計画していた時間は大幅に過ぎてしまった。だがとりあえず目的の場所を目指すしかない。
周りにはまだ人影がちらついていた。もしかしたら無関係の人ばかりなのかもしれないが、逃亡中の身としては誰も彼もが追っ手のように思われた。
不安に追い立てられるように人気のない方へ移動していくと、灯りもどんどん少なくなってきた。
暗い。東京のど真ん中に、こんなに暗い場所があったのか。水の流れる音がする。近くに川でもあるのだろうか。もう目的地どころか、自分がどのあたりにいるのかさえ、わからない。唯一判別が着くのは、薄暗い東京の夜空に超然とそびえ立つ、タワーだけだった。
ふと、視界の端で黒くて大きなものが動いたような気がして、注意が逸れた、次の瞬間。
足裏の下に地面がなかった。
思わず叫び声を上げて振り回した腕が、ひどく固いものにぶつかると同時に、脚や顔が何かに激突する。激痛で視界が明滅する中、左手が触れた縄のようなものを反射的に握り、右足の靴裏に感じた凹凸に爪先を突き入れると、ようやく身体の動きが止まって、それで自分が落下していたのだと、わかった。
どうやら、あたしはフェンスの切れ目のような箇所から、用水路に落ちかけたらしい。
水の流れは、音からすると、相当速そうだ。今朝方まで雨だったか。川にダイブせずに済んだのは僥倖だろう。
跳ね回る心臓をどうにか抑え、腕に力を入れて身体を引き上げようとした時、頭上から声が降ってきた。
「こっちで声がしたぞ! 女の子だったような……」
「園原か?」
追っ手だ。あたしは頭を下げ、壁面に身体を押し付けて、できるかぎり身を縮める。
ライトによる光の円が川面を左右に走り、あたしをかすめた。
「誰もいない……。気のせいか。川に落ちた音はしなかった」
「まあ、もうこのあたりに留まっている可能性は低いだろう」
「くそ手間かけさせやがって。こういう時こそ、『コネクトネスト』で探せないのか?」
「もちろん使用している。だがさきほどからシステムが不調のようだ。妨害工作との情報もあるようだが……」
男の二人の声が去っていく。
妨害工作? やったのは誰だろう? あたしにとっては都合がいいが。
少し時間を置いてから、再び壁をよじ登ろうとして、腕にまったく力が入らないことに気がついた。貧弱な筋肉が限界を迎えたのだ。
やばい、と思った時には、縄から手がするりと抜け、脚だけで踏ん張ろうとしてバランスを崩し、背中から宙に投げ出された。
落下先には轟轟と流れる川が――。