表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
96/155

博打狂いの傭兵と白拍子

 高安彦右衛門は、昔から幼馴染の悪童共と一緒を引き連れて、近江国甲賀郡の鉄火場(博打場)によく出入りして、博打狂いとして有名だった。


 彦右衛門は、博打が好きながら滅法賭け事に弱く、いつも財布がスッカラカンになってるので実家の金蔵から、銭をくすねたりと若気の至りを繰り返していたので、父高安八郎一勝や高安九郎範勝などからは、甲賀にある実家へ出禁を喰らうなどしてた。


 彦右衛門は、この様に普段の行いが悪いので自然と自ら傭兵として近隣諸国での戦に参加して、そこで得た銭を再び博打に使っては、一文無しになる生活を十年近く繰り返して生きていた。


 二十歳を過ぎる頃になると戦場で度々目立つ戦果を上げて、六角家や北畠家などが彦右衛門の働きを認めて、仕える事になったが仕官した家で数々の博打問題を起こして何度も致仕していた。


 その為、彦右衛門は無頼漢との付き合いが増えて、一時は二~三十人の野盗紛いの食い詰め者達の頭領にまで上り詰めてた彦右衛門は、大名間の戦での傭兵稼業を行っており、その頃彦右衛門より年下の紀伊雑賀庄の鈴木孫六より鉄砲を習い、(たちま)ち鉄砲にハマって、戦場で稼いだ銭は鉄砲の弾薬購入に使うか博打に使うかで、後はほとんど手元に残らぬ生活を送っていた。


 そんな彦右衛門だが傭兵として三好家に何度か雇われた後、大きな銭が動く堺の町で次の傭兵の仕事を探す事にした。


 堺だと海外と貿易してる商船に乗って、海賊対しての用心棒の仕事もあるし、国内から数々の大名家が鉄砲やら火薬やら戦の為に買う事が多く、その際余裕のある大名辺りは傭兵を募って帰るのもあった。


 その中で甲武屋と言う商家が、甲州に異国の者を連れて行く為、腕利きの傭兵を募集していると言う話をいつも火薬を購入している納屋の今井宗久に聞いた。


 彦右衛門は用心棒の話には全く興味なかったのだが甲武屋に様子見に行ってみると、最近信州からやってきて、そこに出入りしてる白拍子に彦右衛門は一目惚れしてしまった。


 彦右衛門は、その白拍子に声をかけると信州高遠から、定期的に神楽を舞う為に上方に来ていると知り、彦右衛門は猫有光江(ねこうこうこう)に付き(まと)い始めた。


 変な傭兵の若侍に付き(まと)われ始めた光江(こうこう)は、同郷で姉妹の様な関係である黒松志麻に相談する。


 するとその話を聞いてた赤口関左衛門の妻志乃が、高安彦右衛門の正体を教えてくれた。


 何故、関左衛門の妻である志乃が知っていたかと言うと、納屋の今井宗久の店に時折小者の茂助を連れて、甲斐から届いた干し椎茸の取り引きした銅銭を夫関左衛門が忙しくて行けない時に、代理で行く事があったらしく、その時納屋の中で弾薬の取り引きしてる彦右衛門を見かけていたので、(おおよ)その正体が傭兵だと言うのは知っていた。


 志乃から話を聞いた志麻と光江(こうこう)は、彦右衛門をどうやって追い払うか考えていると、志麻の夫である黒松飛助が、原蹴煤(ぱらけるすす)の一行は荷物が多くて荷馬車で引いて信州高遠まで向かうので、護衛が必要だと言い出した。


 確かにそう言われると護衛が必要で、信州まで傭兵を使う必要があるのは間違いなかった。


 そして飛助は妹分の光江に彦右衛門の印象を聞くと、ちょっと粗野だが心底不快な気分にはなってないと言い、自分が四郎様の忍びであるから、見知らぬ者に心を許す積もりがないと答えた。


 ならばその高安彦右衛門の身の上を確認して、こちらが四郎様の忍びだと伏せて、神官である親族からの許しが無ければ、彦右衛門に神罰が落ちてしまうので、光江に対しての恋慕は親族からの許可が無ければ諦めてもらうのはどうか?と飛助は考えた。


 妻の志麻や関左衛門の妻志乃、それに光江(こうこう)は信州の誰からの許可と彦左衛門に伝えるのかと不安気に聞くと、窪谷又五郎家房様に事情を書いた文を送り、親戚代わりに高安彦右衛門を断ってもらうと言う考えを三人に示した。


 三人は窪谷又五郎に迷惑をかけると思いながらも彦右衛門に対して、傷つけぬように断る方法としては、最善だと思い、飛助の考えに同意した。


 その後、飛助から夜更けに帰宅した関左衛門にこの様な事があったので、信州に送る原蹴煤(パラケルスス)の護衛に彦右衛門ら傭兵達を雇うのはどうかと聞き、関左衛門もその考えに了承した。



 翌日、甲武屋の傍に光江(こうこう)の出入りを待っていた彦右衛門を見つけた飛助は、二月末に光江(こうこう)は、信州高遠へ異人達と共に帰る事になるが、荷物が多いので荷馬車を使って陸路で帰るので、山賊や野盗などに襲われる可能性があるから、傭兵である彦右衛門に信州高遠まで護衛の仕事を請け負ってくれないかと聞いてみた。


 すると彦右衛門は、先立つ銭が無いので半分前払いで報酬がくれるのと、かかる食費は甲武屋持ちにしてくれるなら、依頼を受けると申した。


 二月末に信州高遠へ出発する間にも何隻か南蛮船が堺へ入港していると、関左衛門と飛助は、天王寺屋の津田宗達や納屋の今井宗久に頼み込んで、南蛮船に積まれた商品の品定めに参加させてもらってた。


 その中で、何種類かの種芋や作物の種子をポルトガル船やスペイン船の商人達から売ってもらった。


 それをまず原蹴煤(パラケルスス)にどのような作物か聞いてみると、馬鈴薯と甜菜と玉蜀黍などの船員の保存食に近い物を売って貰ったりした。


 また売って貰った木箱の中には、緩衝材代わりに白詰草や除草菊などが使われてて、数年後高遠領の地で、偶然自生したのを四郎が発見し、大いに喜ぶ事になった。


 また信州へ向かうまで、堺にいる原蹴煤(パラケルスス)等六人は日ノ本の食事に慣れるように努力し、また原蹴煤(パラケルスス)妻林姑娘(りんこじょう)などは、関左衛門の妻志乃や飛助の妻志麻、それに光江(こうこう)らと一緒にお互いの故郷の料理を作って振舞ったりして、四人はとても仲良くなってた。


 原蹴煤(パラケルスス)は、オンデーィヌ、シルフィール、ピクシー、サラマンドラの四人の孤児に勉強を教えていると、いつの間にか関左衛門の子供八重と佐知が孤児ら四人と仲良くなってたので、短い時ながら一緒に学問をやる事になった。


 原蹴煤(パラケルスス)は、関左衛門の二人の子供が僅かな時間ながら、文字の読み書きや簡単な数学を知ってる事に驚き、後に関左衛門の妻志乃に聞くと甲州にいた頃から、寺院が行ってる手習(てならい)で学んでいたと聞き、四人の孤児達の勉強に(たちま)ち追いついてきた。


 原蹴煤(ぱらけるすす)は、この姉妹を預かって教え込みたかったが、結局二月末にはこの地を離れる為、とても残念だった。


 それでも姉妹二人にはある程度教え込む事が出来て、信州高遠に住むようになった原蹴煤(パラケルスス)と文のやり取りを行い、独学で知識を得ていった。


 そうこうしてるうちに二月末となり、荷物を満載した荷馬車を約束通り彦右衛門は護衛を引き受けて、舎弟の鈴木孫六等に二十人が猫有光江(みょううこうこう)原蹴煤(パラケルスス)等六人の護衛として、京都経由で陸路を二ヶ月余りかけて信州高遠に出発した。




高安彦右衛門一益 近江国甲賀郡出身。 幼き頃から鉄砲を嗜んでると言われてるが種子島の伝来が1543年である為、1525年生まれの彦右衛門にとって扱ってた鉄砲とは明国伝来の鉄砲と思われる。 博打が好きで故郷で親戚と博打の(いさか)いから、揉めた親戚を殺害してしまい故郷から追放されて、六角家や北畠家等に短い間ながら仕官していた。


幼い頃から扱ってた鉄砲の腕前は確かで、種子島に代わっても射撃の衰える事なく北伊勢などては有名だった。その腕前を聞いた織田上総介信長が彦右衛門の知り合いだった九鬼嘉隆と共に招聘し、1555年頃には織田家に仕えてたと言う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ