堺に一年暮らして
赤口関左衛門が命を助けられ四郎の配下になって、堺へ武田の拠点を作って活動する様になって一年が経っていた。
その間にも武野紹鴎や弟子の今井宗久と親しくなり、暫く武野紹鴎の屋敷に御世話になったが天文十八年秋頃には、武田家から送られた追加の活動資金と赤口関左衛門の妻を始めとした家族が堺へ到着して、一緒に暮らす様になっていた。
武田領に残ってる身内は、高遠四郎の小姓を務めている兎丸一人が残っており、後は皆堺での新生活を始めるようになっていた。
最近は、関左衛門の茶の湯や連歌の師匠になってくれてる武野紹鴎から、色々な誘いとかを受けたりしてたので、関左衛門はその様な催しに参加する時は、赤口董諷と言う法号を師匠と同じ臨済宗大徳寺にて授かる事で、関左衛門も紹鴎門下の弟子として認知されるようになり、堺の商人や京の商人や公家などに会えるようになってきた。
天文十七年晩秋にもなると、堺の甲州武田家の屋敷(通称甲武屋)に甲州から運び込まれた干し椎茸が、赤口関左衛門が上方に来た時よりも数倍の量が送り込まれており、さらにギヤマンが高遠領から送られてきて、四郎からの文では試作ながらギヤマンの器と水差しが完成したので、どれ位の評価を受けるのか確認して欲しいとの書かれており、早速師匠の武野紹鴎と兄弟子の今井宗久に送られてきたギヤマンを見せた。
「董諷殿、この前甲府で連歌火会に参加して、四郎様に会った時には南蛮貿易を進ませたいとの事を言っておられましたが、ここに見せられてるギヤマンの品は南蛮人が持ち込む物よりも素朴ですが、これはこれでアジがある器だと思います。しかし驚かされましたな、この日ノ本の国でギヤマンの品を作られるなんて初耳です。」
紹鴎師匠がギヤマンの器を様々な角度から眺め見て、高級な茶器が扱う様な審美眼で高遠領で作られたギヤマンを見た後、今井宗久に渡した。
そのギヤマンを紹鴎師匠から受け取った今井宗久は、ブツブツと独り言で価格の計算して、関左衛門に返してくれた。
「薫諷殿、私めに御預けしてくれますなら、このギヤマンの器に百貫の値段を付けさせましょう。こちらの水差しならば、華道をやってる池坊ならば、より高く値段を付けさせる事も出来ますぞ。」
関左衛門は、余りの大金が動くので何の話が全く理解出来なかった。 甲州に居た頃なんて、武田家もそれ程豊かな家ではなかったので、庶民である商人達が田舎の国人衆が年間入る収入分の銅銭の話がポンポンと会話で飛び交うので、これだけ上方と関東では貧富の差が違うのかと思考が停止している状態になっていた。
「なあ薫諷殿、これらの物を取り引きするならば、一躍堺や和泉国の中では有名になるだろう。そうなれば、四郎様が求められる職人も集めやすいのではないであろうか?」
四郎から、人材の確保は甲州から堺に来る時に言われていた任務の一つだったので、紹鴎師匠からその事を指摘されて、大変喜んだ。
「薫諷殿、確か朝倉家では継いだばかりの当主孫次郎延景様が妻妾達への贈り物に明の商人
から、ギヤマン玉の数珠などを買って送ったとの話を聞きました。その時の価格は、黄金二十五両を支払ったとか?」
今井宗久は、京に上った時に商人仲間から聞いた話を関左衛門に語ってみせた。
「ギヤマン玉の数珠で、そんな値段が付くとは!!」
「ええ、そうです。南蛮人や明人などは製造法方を知っておりますが、日ノ本では未だ製造法を知る職人がいないのです。何でも船で日ノ本に来る際、揺れて破損してる場合が多くて、壊れてない数少ないギヤマンが高くつくのです。」
「拙者は、四郎様よりギヤマン職人が上方に居られる様ならば、武田家に連れて参る命も受けてますので、もしその話が本当ならば、今ギヤマンを作れる職人は日ノ本には、四郎様の元にいる者達しかいないと言う事ですか?」
「どこかの大名や商人が囲いこんでいなければ、現状は武田家の四郎様の元にいるだけでしょう。」
その様な話を今井宗久から聞かされて、驚愕した関左衛門は腰が抜けて立てなくなってしまった。
また武野紹鴎は改めて甲府に支店を出す事に決めて、近い内にもう一度甲府へ訪れる事にした。
そして数日後には、今井宗久が赤口関左衛門を伴って、堺の会合衆の集まりに行って、ギヤマンの器などの高遠領で作られたこれ等の商品をどの位求められるか試してみた。
「宗久殿、このギヤマンの品々どこの作品なのですか? 南蛮や明の物とは違い、我々が知ってるギヤマンの姿とは違うのですな。」
今井宗久と同じ武野紹鴎の弟子で茜屋の二代目の主太郎右衛門宗佐が、不思議そうに見ながらもギヤマンの品々に値踏みしてるような表情をしている。
「こっ、これは、私は茶道具として、扱いたいですな。もし宜しければ、私に売ってもらえぬだろうか?」
一目見て欲しがる油屋常祐に関左衛門は、親切心から一応ギヤマンが熱に弱いので、熱した茶に弱い事を伝える。
「油屋殿、ギヤマンの物ですが、これらの物は熱い湯を注いでしまうと割れてしまうので、茶の湯に使用する事は不向きだと思いますぞ。」
「そ、そうであるですな。でも拝見するだけの物として、南蛮とも明とも違うギヤマンの器などは、それなりの価値あると思いますぞ。」
油屋の挙動を見ると如何にも欲しそうな仕草なので、ここにも購入したがってる客になる人がいると関左衛門は実感した。
医師の北向道陳と薬種商人の小西弥左衛門行正は、南蛮人や明人と取り引きの経験上、茶器などの目利きに優れている為、四郎が送ったギヤマン物をマジマジと見つめていた。
「姿形としてはまだまだ甘いだろうが、ギヤマンが日ノ本で作れる事を証明しているのに大変評価出来るだろう。このまま腕を磨けば、ギヤマンの名器も生まれてくるであろう。」
道陳は、ギヤマンが日ノ本でも作られる様になった事をとても好意的に反応した。
一方、小西弥左衛門は別の視点から、ギヤマンを評価する。
「これは、南蛮医術を知る者にとっては大変渇望士ていた物です。南蛮の錬金術師なる薬師は、王水と言う色んな貴金属を溶解出来る危険な水を溜めるのには、ギヤマンの器が必要だと教えて貰いました。もしもっとギヤマンの器の作りが上達するならば、これは大変価値のある器になるでしょう。」
小西弥左衛門は、そう言うととても興味を持ってギヤマンの器を見ていた。
関左衛門も四郎が、母香姫の労咳を治療する為にも南蛮人や明人の知識が必要だから、甲州に連れて来るようにと命じられていたので、小西弥左衛門の口からその様な話が出た事に大変驚いた。
「こっ、小西殿!! 小西殿は、南蛮人や明人の知り合いがいるのでしょうか?! もしおられるなら主命として、その者達を甲府へ案内しなければいけません!!」
関左衛門が、小西弥左衛門に食い気味に話してくるのに皆は驚いたが、元々その様な命を四郎から受けている事をしってた今井宗久は、関左衛門の後押しをしてやった。
「小西殿、薫諷様が驚かせてしまったのだが、薫諷様の主四郎様の母御香姫様が労咳にて、苦しんでおられるので、病を治療する事に力を貸せる者達を甲州に送る事が、薫諷様の任務でござるのです。だからその様な錬金術師なる南蛮人に知己があるのなら、是非紹介して頂きたいのです。」
「なるほど、薫諷様はその様な事情がありましたか。私めは錬金術師なる南蛮人には会った事はございませぬが、南蛮の国から明や天竺に希少な薬品の材料を求めて、旅してる者もいると聞いた事があります。もしその様な者が日ノ本に訪れたなら、私めが甲州に御連れいたしましょう。その代わりと言ったらなんですが、私めに薬品調合の為のギヤマンの器を取り引きして欲しいのです。」
関左衛門は、その話を聞くと快くギヤマンの一部を小西弥左衛門に売る事を約束すると、他の会合衆の商人達も欲しがるようになり、これだけギヤマンの品々が求められてると四郎へ文を送った。
茜屋太郎左衛門宗佐 今井宗久と同じく武野紹鴎の弟子である商人。宗佐は自ら持つ商船永寿丸を持って、博多の島井宗室と取り引きしており、南蛮や明や朝鮮の品々を堺に運んで、大和国郡山の商人和泉屋慶助に委託販売させて、商取引を行う問屋である。
油屋常祐 武野紹鴎の弟子で、茶の湯狂いとして、商人仲間には有名。本業は堺で薬市問屋を行っており、南蛮や明から購入する漢方薬の材料や治療道具などを薬師相手に商売している。茶の湯が好き過ぎて、油屋肩衝、曜変天目、油屋釜などの名品を所有していた。
北向道陳 医師で茶匠。武野紹鴎と親しく、千利休の最初の師匠だったが、弟子の利休を武野紹鴎に紹介した。茶器の唐物目利として有名で、堂の墨蹟、甲肩衝、善好茶碗、松花の茶壷など名物茶器を多数所有していた。
小西弥左衛門行正 薬種問屋。 日ノ本に南蛮商人が訪れるようになった頃から、南蛮商人や明商人と付き合いがあり、通訳を通さないで明人の言葉を話せる数少ない商人。のちにイエスズ会の宣教師が来日すると宣教師の世話役となり、キリスト教の洗礼を受けた。行正の子が小西隆佐で、孫が小西行長。




