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凶賊流入問題

 昨年、上杉越後守定実の家臣、宇佐美四郎右衛門定満の容赦ない策謀によって、長尾平三景虎が長尾左衛門尉晴景から離反して上杉越州陣営に走り、上杉越州の妻の妹の子供だった為、養嫡子となり上杉弾正少弼景虎と名乗り、長尾左衛門尉陣営側を状況をひっくり返した。


 ただ長尾左衛門尉との闘いの中で、宇佐美四郎右衛門はやり過ぎた。


 越中富山城の神保孫三郎長職に長尾左衛門尉陣営の松倉城主椎名弾正左衛門尉長常を攻めてくれと依頼した事で、神保孫三郎は越中瑞泉寺三百七十城寺、越中善徳寺、安養寺御坊、土山御坊等の門徒に声をかけ、寒い冬の時期ながら一向一揆等と共に出兵して、松倉城を包囲し椎名弾正左衛門尉を降した。


 長尾左衛門尉は、越中へ椎名弾左衛門尉救援の兵を送ろうとしたが、不動山城の上杉一族山本寺伊予守定長が上杉越州側に付いて、斎藤下野守定信・弥彦朝信親子の軍勢を越中への行軍を塞ぎ、越中国に未だ入れずにいた。


 越中での長尾左衛門尉陣営の城を次々と攻めて、加賀に続き越中も一向一揆が治めたる国へとあわや姿を変わろうとした時、能登守護畠山左衛門佐義続が軍勢を率いて越中に乱入してきた。


 この知らせが届いくと、一向一揆の大半は地侍や百姓の集まりだった軍勢は大いに動揺をして、一晩明けた朝には、大量の脱走者を出してしまう。


 そして神保孫三郎は越中統一に野望を燃やしていたのが、一転自らの軍勢が瓦解しかかったので、慌てて富山城に兵を引くと、一度降伏してた椎名弾正左衛門尉が再び蜂起して、一揆勢や神保勢の撤退に追撃して大戦果を上げた。


 この事により、瓦解した一向一揆の一部が北信濃の安曇郡へ逃亡し、信濃国内で山賊紛いの事を行うようになり、天文十八年の年始早々躑躅ヶ崎館にて、評定の問題に上がっていた。



「御屋形様、昨年末より越中国での一向一揆の騒乱起きて以来、信州に度々一向宗の落人達が流入して、大日方美作守直忠が領内の治安に苦慮しておると、知らせが届いております。」



 武田家唯一の両職である甘利備中守虎泰が大日方氏から届いた陳情を当主武田大膳大夫晴信を始め、嫡男武田信濃守喜信や晴信の次弟吉田典厩信繁などの一門衆や馬場民部信房や山縣三郎兵衛尉昌景等重臣達に状況を説明してやった。


 その説明を聞いた晴信の次弟吉田典厩信繁が兄晴信に一向宗の事を聞いて来た。



「兄上、越中から流れてくる一向宗門徒の対応を如何(いかが)しましょうか?」


「我が武田家では、日蓮宗であれ一向宗であれ、武田の法度を守らぬ者達には、我が家からの保護は受けられぬと法度が発布した時に領内全ての寺院に通達したはず。もし法度を破る者達がいるならば、法に則って処断致す。」


「ならば去年武田へ降った須田一族を遣わしましょう。浄土真宗を信奉してる須田氏の親族に越中の船見氏がおりますので、そこから越中勝興寺に話をつけられると思います。」



 武田の相州羽州と呼ばれる重臣の曽根出羽守政利が信州高井郡の須田一族を推薦し、越中一向一揆を統率している勝興寺の顕栄住職と交渉行うべきと提言した。(ちなみにもう一人の相州が今井相模守信輔である。)


 しかし越中の情勢に懸念する外交方の八重森主水丞家昌は、能登の畠山家が此度(こたび)一向宗の勝興寺に攻め入った為、松倉城が息を吹き返して反撃出来た事に留意し、一向宗に肩入れする事は越後の長尾左衛門尉を追い詰める可能性があり、結果的に上杉越後守定実への援護になってしまう事を危惧する意見を語りはじめた。


 父晴信と太郎喜信は家臣達の意見に耳を傾けて、どこに肩入れするかで武田家の舵取りを慎重に(こな)さないといけない為、この日の評定では結論は出さなかった。


 ただ信州の治安を守る為に武田信濃守喜信の名を持って、国人衆に治安維持の為の国境(くにさかい)の強化と共に、狼藉者に関しては甲州諸法度の元に処断せよと布告し、大日方領に関しては山縣三郎兵衛尉を派遣して、大日方家を支援する様に命じた。


 また越後上杉家の乱入によって、弱体化した高梨家に関しても春日弾正忠虎綱と原美濃守虎胤を派遣して、高梨家支援に回した。


 また越中からの一向宗の乱入は、父晴信に普請中の海津城の完成と強化を意識させ、川中島地域の領民を総動員させて、資金を大幅に追加して完成を急がせる事にした。



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 天文十八年一月二十日、武田家は越中騒動の元である安養寺御坊に甲州武田家の外交僧長延寺師慶住持と須田相模守満国、もう一つの(いくさ)の舞台となった越中松倉城に向山又七郎と日向大和守虎頭を派遣して、双方の(いくさ)が原因で敗残兵が凶賊となって信州に流れ込んでる事に対策を講じる様にと非難した。


 まず隣国で大国である武田家から、越中国内の治安を厳しく対処する様にと要請された松倉城の椎名弾正左衛門尉は、使者である向山又七郎に武田家からの要請を受け入れつつもこの治安悪化の原因を作り上げたのは、一向宗と神保孫三郎側に有りと主張し、長尾左衛門尉陣営からの支援無き今、武田家に対して椎名家を支援をする様に逆に要請されてしまった。



「日向殿、向山殿、本来ならば主君長尾左衛門尉晴景様に救援を要請する事が筋であろうが、越後と連絡路である親不知子不知を不動山城の山本寺伊予守定長に抑えられてる為、主君長尾左衛門尉様の軍勢が越中に来られずにいるのだ。」



 向山又七郎は、その様な話は長尾左衛門尉の家臣である椎名弾正左衛門尉が、離反して武田家に従属する意志を持ってて要請してくるのかと問い(ただ)した。



「されど我等武田家は、越中の治安を治める大義名分など在りませぬ。それとも椎名殿は我が御屋形様へ臣従を()さるつもりなのか?」


「日向殿、向山殿、我等もこのまま神保孫三郎や一向宗に滅ぼされる位ならば、頼りにならぬ主君を捨てて、新たな主君も選ぶだろうよ。」



 椎名弾正左衛門尉の考えが、武田家に臣従する事は(やぶさ)かではないと言う事を(にお)わせてきたので、二人は最低限信州への賊徒の侵入は防いで貰いたいと伝えて、椎名弾左衛門尉正もそれは承知した為、一旦甲府に話を持ち帰るので、継続して話し合いを続ける事に決まった。



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 一方、一向宗門徒でもある須田相州と外交僧師慶住持が、越中一向宗の拠点の一つである安養寺御坊の勝興寺に訪れて、越中一向宗の指導者の一人玄宗住持との面会を果たした。



「玄宗坊主様、拙僧は武田家の交渉方に任じられてる長延寺の師慶と申します。そして隣の方は、武田家家臣須田相模守満国殿で御座いまして、一向宗の門徒で御座います。」


「遥か遠くの甲州から態々(わざわざ)勝興寺に訪れてきてくれた事に、大変な苦労を掛けてしまい、誠に申し訳ありませぬ。して此度(こたび)の要件は如何(いかが)に御座いますか?」


「実は、最近の越中の騒乱にて、戦から逃れた一部の一向宗の者達が信濃に流れ込んできて、生きる為とはいえ、信州の民百姓を殺生して物を奪うなどの乱暴狼藉を働いているです。その事を重視した御屋形様は新年早々評定を開き、例え越中の民なれど武田の領内にて暴れるならば、武田の法度を持って処分いたすとのを領内全てに公布しました。だずそれだけでは、今後も越中から流れる凶徒を止められる分けではありませぬので、玄宗住持様を訪ねて来た次第でございます。」



 師慶住持と須田相州は、武田家の方針を伝えて玄宗住持からの答えを待った。



「師慶住師持様に須田相州様、拙僧は先代住職実玄が入寂(にゅうじゃく)して以来、まだ日が浅かったので、門徒達への指導が行き届いていませんでした。武田殿には大変迷惑をかけて、本当にすみませんです。」


「さらに門徒達が乱れる原因になったのは、能登の悪太守たる畠山左衛門佐が越中に侵略してきて、この安養寺御坊を襲ったために門徒達が混乱に陥ってしまいました。幸い数日余りで、能登勢を追い返ししまたがこれによって、周辺国に門徒達が逃れてしまう事になった次第なのです。」



 すると須田相州は、武田家の方針は例え他国の者でも武田家の領内で狼藉を起こすなら、甲州諸法度通りの裁きを致すので、その辺りを承知して欲しいと伝えてから、玄宗住持に武田家の甲州諸法度の狼藉における裁きと罰則を書いた巻物を進呈した。


 そして玄宗住持と坊官達が、その内容を廻し読むと皆、(うな)る様な声を上げて、須田相州と師慶住持に避難の声を上げる坊官もいた。



「武田家の法度の内容は、余りに酷いと思うですぞ。各宗派の教えよりも武田家の法度が上に立つと言うのは、仏の教えは朝廷からも治外法権が認められておりますのに、武田家は御家の法度の方が上位なのか。」



 一人の坊官がこのような事を(つぶや)いていたが、武田家領内の各宗派の寺院は皆、それを受け入れていたし、自分達がいる越中での支配の法度ではないので、武田領内での越中門徒の狼藉に対しての武田家の対処は、法度の裁き通りに認めざる得なかった。


 但し、この様な法度をもし越中国内でも適応するならば、恐らく一向宗の反発を招き武田家相手の一向一揆の活動も起こりえたと言われてる。









入寂 徳の高い僧侶が自然死する事。


最後の文を少し変えました。

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