上杉弾正少弼景虎と長尾左衛門督景孝
虎千代が幼き頃から、父長尾信濃守為景に春日山城下の林泉寺に預けられ、天室光育住職の教えを受けて育った。
虎千代が林泉寺に入門した理由には、父長尾信州から疎んじられてたとも、実は虎千代が女性ながら軍才を見抜いた長尾信州が虎千代を護る為に五男として、林泉寺に預けて天室光育に武将として養育させる積もりだったのか定かではない。
ただ虎千代が女性だったとしても、成人した時の身長が五尺四寸(162cm)余りの高身長だった為、法衣を纏った虎千代は知らぬ者達から見ると、身長が高い美少年に見えたとも言われている。
虎千代は、林泉寺では武家の少年として養育された為、武芸や軍略の講義を嗜み、一間四方の城郭模型で模擬戦を行う事を好み、虎千代の武略は周囲の者達を驚嘆させてたので、虎千代の動向は密かに長尾信州の耳に入ってたとも言われてる。
虎千代が父長尾信州の命で、林泉寺に預けられた頃と同時期に越後の国人衆達から反発を受けて隠居して、虎千代より二十一年上な嫡男晴景が家督を継いだ。
虎千代がまだ林泉寺にいる頃、越後守護上杉越後守定実には後継者がいなかった為、親戚である伊達左京大夫植宗の三男伊達時宗丸を養子に迎える話が出た。
この話が伊達左京大夫の嫡男伊達次郎晴宗と数年前に父長尾信州から家督を継いでた長尾左衛門尉晴景から猛反発を喰らい、上杉越州と伊達左京大夫は挙兵して奥羽や越後の天文の騒乱が、勃発する事になった。
上杉越州は、伊達時宗丸の実父伊達左京大夫植宗方に立ち、長尾左衛門尉と対決姿勢を見せるようになり、大軍で長尾左衛門尉の居城春日山城まで押し寄せ、上杉越州の軍勢を破るが長尾左衛門尉の次弟長尾内記実景が討ち死し、さらに戦の最中に長尾信州は病死してしまう。
天文十四年になると上杉越州方から寝返ってた黒田和泉守秀忠が起こした春日山崩れで長尾左衛門尉の三弟弥七郎景房と四弟弥八郎景康が落命し、嫡男猿千代が負傷する事件が起こった。
長尾信州は死ぬ前に、林泉寺に預けた虎千代を五男として元服させよと遺言を残したので、父長尾信州の葬儀を終えたばかりの虎千代を兄長尾左衛門尉は、天文十四年八月に元服を行い平三景虎と名乗らせ、兄長尾左衛門尉の命により古志郡司に任じられ栃尾城に入った。
栃尾城に入った長尾平三は、若輩と侮られ(一説によると女子として侮り)上杉越州派の国人衆四千が攻めてきた為、栃尾城兵千五百を二手に分けた長尾平三は一隊を敵本陣の背後に廻して奇襲し、混乱させたところで、自ら先陣に立って突撃を行い、上杉越州勢を破った。
さらに黒田泉州の黒滝城を攻め滅ぼした為、この事から越後中に長尾平三の武威が知られるようになり、これをきっかけに上杉越州の軍師宇佐美四郎右衛門定満が、長尾左衛門尉と長尾平三との間を離間させる策を主君上杉越州に提言した。
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「殿、某は長尾左衛門尉に猛反対された伊達時宗丸を養子する代わりに、長尾左衛門尉と長尾平三を離間させて、長尾平三を養子にする策を提言したいと思います。」
「何故、長尾左衛門尉の妹を上杉家の家督を譲らんといけないのだ?」
「それは、長尾平三は長野信州が生前戦の才を御認めになられて、本来女子ながら男子扱いで五男と認めになられた人物です。その才豊な長尾平三を殿の跡継ぎに迎い入れれば、長尾左衛門尉を倒し、越後統一もかなうでしょう。」
宇佐美四郎左衛門の策に最初難色の顔を見たが、策を聞いてるうちに満更でもない表情になった。
「なるほど、長尾左衛門尉から疎んじられてる長尾平三を我が後継者にしたら、今まで煮え湯を飲まされてきた長尾信州の一族に強力なしっぺ返しが出来るな。」
「殿のおっしゃる通りでございます。」
「わかった、すぐにでも栃尾城に使者を送れ。」
「承知しました。某自ら参り長尾平三を口説いてみせましょう。」
宇佐美四郎左衛門がそう言うと、上杉越州は大笑いをして喜んでいた。
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頼りにする弟達三人を亡くし采配が不得手な長尾左衛門尉は、長尾平三の上げた功名が越後国内の国人衆から支持を受ける様になってきた為、長尾平三を警戒して春日山城へ召還の使者が栃尾城に到着した後、上杉越州からの使者宇佐美四郎右衛門が長尾平三を訪ねてきた。
「長尾平三景虎様、御初に御目にかかります。某は、宇佐美四郎右衛門定満と申します。我が主上杉越後守定美様は、姪である長尾平三様が兄長尾左衛門尉から虐げられてるのを肉親の情として、見るに見られぬと申しております。そこで長尾平三様には我々と和議を行い、和議の条件として未だ子がおらぬ主の養子へと迎い入れたいと申しております。」
宇佐美四郎右衛門からのいきなり和睦の話を言われた為、長尾平三や家臣達は警戒を露わにしたが、長尾嫡流の左衛門尉晴景からは、警戒されて春日山城へ召還命令も出された事に反発していたので、宇佐美四郎右衛門からの提案を拒否するまではいかなかった。
「宇佐美四郎左衛門殿、叔父上からの提案を暫し考える時間を作って宜しいでござるか?」
「勿論それは構いませんが、時間かけてる間にも長尾左衛門尉は名将長尾新五郎政景に兵を与えて、ここ栃尾城へ攻め寄せるかもしれぬぞ。」
「まさか? 兄上は釈明の時間も与えぬというのか?」
「長尾平三様は、源頼朝公と判官義経様の故事をお忘れですか? 兄である頼朝公は判官様が己の考えから外れた行動により判官様を疎みましたが、判官様は肉親の情を訴え和解を望みました。しかし判官様の武略に脅威を感じておられた頼朝公は、判官様が誰かに利用される前に殺してしまおうと追手を出しました。その時の故事に類似してると思われます。」
宇佐美四郎左衛門がその様に語ると、長尾平三と家臣一同は反論出来ずに黙ってしまった。
「殿は可愛い姪の為なら、上杉弾正少弼家の家督をすぐにでも譲りたいと申しております。そして平三様には、越後の静謐を御任せたいのです。」
「宇佐美四郎左衛門殿の言葉に一考する余地があると私は感じた。ここにいる者達と暫し考えさせて貰えないか?」
「わかりました。その様でしたら、私は結論が出るまで栃尾城にて人質になりましょうぞ。」
疎んじられた長尾平三は、当初兄長尾左衛門尉の態度に信じられなかったのだが、謀反の疑いあるので春日山城に出頭せよとの使者が到着した事と、宇佐美四郎左衛門から話を聞いた長尾平三の叔父の長尾十郎景信や側近本庄新左衛門尉実乃、直江与兵衛尉政綱、山吉善四郎行盛等が兄長尾左衛門尉からの離反を促され、上杉越州からの提案に乗る事を決断した。
長尾左衛門尉は、長尾平三が春日山城への召還を無視して、側近達に担ぎ上げられて栃尾城にて独立を意図し始めた事を知ると長尾新五郎政景、黒川備前守清実、発智源三郎長芳を集めて、討伐軍を編成中、長尾家と親族関係にある北信濃中野城主高梨摂津守政頼から、村上防州が軍勢を率いて攻めてきたとの急使がやってきた。
北信濃からの援軍要請に、長尾左衛門尉は直ちに評定を行うと、今度は神保孫三郎長職と一向一揆が攻め寄せてきたと、越中国松倉城主椎名弾正左衛門尉長常からの救援要請が届き、家臣達の間に一気に緊張が走った。
「皆の者、此度北信濃と越中での攻勢は、上杉越州家臣宇佐美四郎右衛門の仕業に違いない。これは、長尾家包囲網なるぞ。」
動揺しながらも何とか意識を保った長尾左衛門尉は、この危機をどうするかと家臣に伺うと北条下総守高定が意見を言う。
「殿、北信濃は村上防州が武田家に追い詰められた事で、生き残りの為に上杉越州と密約を交し高遠家を併呑しようとしたのかもしれませぬ。また越中の一向一揆は、殿の祖父能景様や父為景様からの因縁があります。そこに神保孫三郎が合力したと思いまする。」
そこに斎藤下野守定信・弥彦朝信親子は越中への援軍を志願を望み、椎名弾正左衛門尉を救援すると長尾左衛門尉に伝えた。
「殿、我々親子はすぐにでも越中に参ります故、某達に御命令を!!」
志願した斎藤親子に対して、煮え切らぬ態度の長尾左衛門尉の前に、片足に戦傷を負って、家臣に肩を借りながらやってきた長尾猿千代が評定の間に現れた。
「父上、ここは甲斐の武田殿に高梨摂州殿の救援を任せましょう。あと平三叔母上には、父上が謝罪して某を廃嫡して平三叔母上を長尾家の嫡子にしてください。」
「ならぬぞ、猿千代。其方は、長尾家の嫡子である。足を負傷して元服が遅れているが、本来なら元服を行っておった。」
「某の傷は、武将として戦場を駆ける事は無理でございます。平三叔母上ならば戦上手であり、長尾家の家督を継げば越後統一も容易いでしょう。」
「猿千代よ、あ奴は情に脆い故、弱者から救いを求められたら無償で助けようとする。その様な事する太守になど、越後の国人衆はついていくまい。其方なら、高所大所の俯瞰で状況を判断出来よう。」
長尾左衛門尉が猿千代にそう語ると家臣一同もその言葉に同意した様に、猿千代が長尾家の家督を継ぐ事を認める態度を示していた。
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その後十二月に長尾左衛門尉晴景から疎まれて離反した長尾平三景虎は、上杉越後守定実の養子となる事を内外に発表し、名を上杉弾正少弼景虎に改めて嫡子として奉じられた。
長尾平三が上杉越州の養嫡子になった事を知った春日山城の長尾左衛門尉は、すぐさま嫡子猿千代を元服させ長尾左衛門督景孝と名乗って、あくまで上杉家への対決姿勢を見せる事で、越後国人衆の支持を固めようとした。
しかし天文十九年に義父の上杉越州が亡くなった後、上杉家の軍勢の指揮権を得た上杉弾正少弼は長尾左衛門尉派の国人衆を次々と破って服属させていく事になる。
上杉謙信は、女性説を採用していきます。




