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零落する者、勃興する者

 牧原牛介政倫が三度甲府を訪れたのは五月下旬だった。 


 今度は家老衆の堀田孫右衛門正定を一緒にやってきて、正式に武田孫六信廉に斎藤山城守利政の息女稲姫を来年春輿入れさせると言う話に、トントン拍子に(まと)まった為、お互いの不審を解消する為に武田家と斎藤家の交流を増やそうと言う話で盛り上がっていた。


 斎藤家と武田家が親戚になる事が内定した事で、木曽家と遠山三塊は安堵する事になり、一方正月に斎藤家と姻戚関係になった織田家では、先月小豆坂合戦で今川方に敗れた為、武田家との和議と婚姻を成功させた斎藤家に対して、一気に警戒心を上げた。


 しかし織田家は、東から圧迫してくる今川家の対応に精一杯であり、三河国で残された最後の拠点安祥城を防衛強化に躍起(やっき)になってたので、斎藤家に対して手が回らず仕舞いだった。


 そんな中、二月~三月に敗れたばかりの村上家や小笠原家は、百姓達の田植えが五月下旬に終えると共に再び動員をかけて、武田家に離反した元家臣達の領地を荒らし始めていた。


 その事を憂慮した晴信は、小笠原勢の対処に馬場民部信房を当てて、村上勢の対処に春日弾正忠虎綱を当てて、武田家に臣従した国人衆を救援させた。


 その間に真田弾正忠幸綱には村上家に臣従してる国人衆に調略をかけさせ、高遠城の普請を終えた山本勘助晴幸には、小笠原家配下の国人衆に調略をかけさせて、両家の動員兵力を減らす事に力を入れた。


 のちに武田家は農繁期の大きな動員を避けて終始守りの状態になっていたが、敵対してる小笠原方や村上方は足軽を動員していた事により、田畑の荒廃が進み収穫量が落ち、民衆からも過酷な年貢の取り立てを厳しくしたので、百姓達が一揆を起こしたり離散して武田領に逃げ込んだりして、怨嗟(えんさ)の声も聞こえてきた。


 その間に限定した動員しかやらなかった武田勢は、真田弾正忠が次々と村上家の国人衆へ調略を仕掛けて、一昨年に板垣駿河守信方が攻略を失敗した砥石城を調略を使って、村上一門で城主山田越中守国政と仲が悪い副将吾妻下総守清綱を甲州金を使って離反させ砥石城で同士討ちを起こし、城主山田越中と吾妻総州は互いに命を落とした。


 晴信は真田弾正忠の手柄に大いに喜び、そのまま砥石城と千貫の土地を与えた上、十二歳の嫡男源太郎と六歳の徳次郎を晴信の小姓として出仕させた。


 他に六月に小笠原右馬助長時が離反した、妙義山城主三村駿河守宗親と修理亮長親親子を兵三千で攻撃してきたので、馬場民部と山本勘助は塩尻峠の砦から兵千八百を率いて朝駆けを行い、小笠原勢に鎧を身に付ける暇もなく撃破してしまった。


 その際に犬甘大炊助政徳亡き後、斜陽の小笠原右馬助を支え続けた神田将監重慶が小笠原右馬助の身代わりを務めて討ち死にし、敗れた小笠原勢も馬場民部と三村駿州から追撃を受けて、半数以上の千六百余りが討ち取られてしまった。


 林城まで逃げ戻った小笠原右馬助は、林城の防衛を諦め慌てて僅かな親族衆を連れて、平瀬城を護る平瀬甚平義兼の元に逃げ込んでいった。


 思わぬ所で、林城を手に入れた馬場民部と山本勘助は、逃げた小笠原右馬助の一族衆や国人衆の人質六百人を捕らえた為、それらの者達は一度皆甲府へ送られる事が決まった。


 林城を手に入った事を文で伝えられた晴信は早速林城主に馬場民部に任じ、旧小笠原領を慰撫して今年戦災があった百姓に今年の年貢は取らないと言う立札を城下に掲げ、民心を落ち着かせた。


 七月に入ると旧小笠原領の民心も安定して、その間も武田大善大夫晴信と嫡男信濃守喜信が林城に来訪し、信濃府中が落ち着く様に武田家に忠誠を誓う者には、身分や過去を問わず働き場所を与えると発表し、出仕を拒んでた地侍や武田家の粛清を恐れていた、小笠原一族の中からも出仕を希望する者達が出てきた。


 その中で特に晴信を喜ばせたのは、捕虜の中に元小笠原家臣で武士をを廃業し、京都で呉服商を始めてた茶屋の当主中島四郎次郎明延が偶然居た事だった。


 中島四郎次郎は、京に上って八年経って呉服商が大成功し、信州に残してた妻子や親族達を京に呼ぶ為に信濃府中へ来て引っ越しの作業を行ってたが、小笠原右馬助が林城を捨てて平瀬城に逃げたので、府中にいた中島四郎次郎も含めて、府中の町全てが武田勢の支配下に堕ちてしまった。


 中島四郎次郎は、武田勢に占領された信濃府中に軟禁されてると同じ状態に落ちた事に憂慮して、林城城代に任じられた馬場民部に早速掛け合いに行くと京都で大成功してた中島四郎次郎の訪問に喜び、明日御屋形様が府中へ到着するので、そこで話し合うが良いと伝えられた。


 翌日、再び林城へ訪問した中島四郎次郎は、武田大膳大夫晴信に会い、晴信からは京都と武田領を繋ぐ武田家に仕官しないかと伝えられ、中島四郎次郎も突然の要請だったが晴信からの要請を受け入れて、武田家との繋がりを持った御用商人に任じられた。


 晴信との話し合いで、甲府と信府に兄弟や親族を置いて茶屋の支店を置くことになり、親族会議を開いて、中島一族全員が京都に上がる予定が、中島四郎次郎の妹婿高田七兵衛政清を甲府へ、従兄弟の中島五郎太延光が信府に茶屋の支店を置く事に決まった。


 晴信は、信府を手入れた事で大いに喜んだのは、この中島一族が武田家の御用商人に任じた事で、畿内からの品々を入手する伝手が出来た事であった。





 

中島四郎次郎明延 元々小笠原右馬助長時の家臣。天文年間に武士を廃業した後、京に上り呉服商を行い成功した。 明延の子四郎次郎清延が初代茶屋を名乗って、茶屋四郎次郎清延となり、本業の呉服商の他に朱印船貿易で巨万の富をなして、1800年代に落ちぶれるまで、豪商の地位に居続ける。

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