春が来ると
若狭屋での種子島との衝撃的な出会いを体験した後、宿に戻って食事を済ませて風呂に入ろうとすると若狭屋から丁稚が訪ねてきて、武野紹鴎が明日にでも御会いしたいと申すので、翌日関左衛門は再び若狭屋を訪ねて行く事にした。
翌日になって、関左衛門と小者の茂助は若狭屋を訪ねると、若狭屋にいた番頭が奥に建てられてる豪華な御殿に案内してくれた。
すると豪勢な作りの広間に入る様に番頭から進められてはいると、中に二人の趣味人みたいな者達が茶の湯を行っていた。
「赤口関左衛門様、昨日はお尋ねになられたのに私めが不在でしたのは、誠にすみませんでした。昨夜の内に三条西実澄様からの文を読ませて貰いました。今回、我々は武田宗家と不思議な縁を繋がったと思いました。」
「拙者は武野殿が多忙の中、前触れもなく訪ねてきたので、決して武野殿を責める気はない。それより隣の方は、何方でしょうか?」
「この者は、私めの女婿で納屋の今井彦右衛門宗久と申します。」
すると今井彦右衛門は、自らを紹介してきた。
「私めは、納屋の今井彦右衛門と申します。ここ堺では、主に鹿革などの皮加工品の取り扱う商いを行っております。甲州武田家高遠四郎様の御家来衆の赤口関左衛門様には、実はどうしても逢いたくて昨日義父殿に無理を承知で御願いした次第なんです。」
まさか自分に会いたがってると言われるとは思わず、関左衛門は大いに驚いてしまった。
「何故、拙者に会いたかったのですか?」
「京では持ち切りだった武田家が秘蔵にしてる干し椎茸を欲しかったからです。と言うより、ここ近年の武田家の躍進が商売の匂いを感じましたので、武田家との伝手が欲しかったのです。」
関左衛門は、まさかお互いに繋がりを持ちたがって、初めて知って好都合の展開になってきたと感じていた。
「今井殿は、そんなに武田家に魅力を感じるのですか?」
「ええ、昨日の会合衆の集まりで話題となってる大名家の一つですね。堺の商人ともなれば、細川京兆家、三好家、六角家、朝倉家、美濃斉藤家、織田三州家、今川家、甲州武田家、北条家、大内家、尼子家、大友家等には、皆関心を御持ちになっております。」
「それらの大名家の中では、拙者は我が武田家が今井殿から特別視される理由はないと思うのですが?」
「その中で武田家が昨年以来、何やら領内で変わった農作の手法を取られてると聞きましたし、京から下向した三条西様より、干し椎茸を籠一杯譲られたと直接聞きましたぞ。京や堺では、干し椎茸の取引金額が、末端で重さ十貫匁(37.5kg)で金五十両(銅銭五十貫文)にもなるんですぞ。」
「そっ、それは凄い値段ですな・・・・」
「今までは、明や朝鮮からの輸入品が自然に茂ってる椎茸しか手に入りませんなんだ。それを武田家は、大量に御持ちになるので、会合衆の中では一早く繋がりが欲しかったのです。」
「なるほど、そうなんですか。拙者は主の高遠四郎様より、この畿内において有力な商人達と縁を結んで、武田家が必要としてる物資の取引する拠点を作れと言われておりますので、もし宜しかったなら、どこか良い場所ありませぬか?」
そこで武野紹鴎が関左衛門に話かけてきた。
「赤口様、私めの父君は若狭武田家の血筋でございまして、大和国奈良に土着して在野に降って商人になった時に武野に改名しております。武田家の誼で良ければ、当分我が家を甲州武田家の拠点に御使い下さいませ。ここと京に屋敷と店を持ってますので、若狭武田家の者達も出入りしますから、沢山の情報も集まる事でしょう。」
「武野殿の御親切、痛み入ります。拙者、四郎様に言われて畿内にやってきましたが、伝手少なくほとほと困っておりました。」
「そうでしたか。それともし武田家の許可がもらえるのなら、我々の支店を甲府に開いておきたてとの考えもあるのですが、その辺りの考えはどうなのでしょうか?」
「甲府にも座がありますが、それらの座で入手が難しい物の取引を行うのなら、お互いの争いが増えないと思います。後は御屋形様の気持ち次第ですな。」
関左衛門は、甲州の商人達と利権争いを避けてくれるのなら、御屋形策や四郎様の承諾は得れるのではないかと思ってる事を話した。
「武田家でもし許しを得られるのなら、近いうちに甲斐へ番頭を派遣しますので、武田の御屋形様に文を送って貰いませぬか?」
「そんなの容易い事、今すぐ目の前でお書きしましょう。」
武野新五郎紹鴎と今井彦右衛門宗久は、赤口関左衛門の真摯な態度を気に入って、関左衛門が田舎から出てきた武士だと言うのに、茶の湯や連歌に誘うようになって、徐々に文化人として武田家の貴重な人材となっていく事になった。
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天文十七年三月、武田晴信率いる武田勢は、村上防州と小笠原右馬助と戦を行って甲府を留守にしてた頃、四郎は母香姫の労咳の症状を軽くする為、高遠家の家臣や近習衆を使って、様々な事を行い始めた。
まず昨年作った消石灰窯から消石灰を作り出して、伊那の山塩、胡麻油、蜂ヤニ集めの時についでに取った蜜蝋を材料に使い、永田徳本先生と共同で石鹸作りを行い始めた。
無論石鹸作りは、かなり難しく固形石鹸なんて材料の調合とかを作る事に苦労したが型箱に入れて、固めた後に取り出して、一ヵ月ぐらい風通しの良い場所で乾燥させたら出来るので、四月半ばには父上や太郎兄上に見せれるはずだ。
他に消石灰は肥料としても使えるから、水田以外の畑とかに撒いてみよう。
あと同時進行で、耐火煉瓦窯を一気に二倍に増やすことにし、耐火煉瓦は出来た物から反射炉作りに使ったり、硝子炉作りに使ったりとあっと言う間になくなるので、日産二百個から四百個へ生産力増大させるつもりだ。
また木炭の方も生産力ほ高めると同時に、甲府の商人から買えそうな時に買って、これ等の窯や炉の燃料とした。
これ等の作業には沢山の人達が必要だが此度武田勢が出兵中な為、流民の植木三木兵衛門ら百人に煉瓦作りを従事してもらい、反射炉や木炭窯、耐火煉瓦窯、硝子炉などの普請を人足頭の柿屋五兵衛にさらに人を集めてもらい、こちらも百人余りの人足達を使って造営してもらった。
これらの計画は、四郎一人の記憶の中にある物を現実化出来なかったが、傅役の中で出征してなかった安倍加賀守宗貞、工藤源左衛門尉昌豊の庶兄工藤玄隋斎喜盛、高遠家家臣団の上林上野介、黒河内隼人丞政信、そして義父の高遠紀伊守頼継などが人を手配したり、商人や職人の交渉を行ってくれたりと、去年に比べて、どんどん話が進んでいった。
こうした中、四月に入ると出征していた足軽達も戻り始めて、遅れていた稲作とかの作業が国中一斉に始まった。
去年、保坂惣郷の鍛冶広瀬紹徹斎重邦に作らせた農具の便利さが知られるようになったので、広瀬紹徹斎は大忙しだったし、仕舞には諏訪の商人諏訪春芳が己が抱え込んでる鍛冶職人に作らせてよいかと四郎に聞いて来たので、武田家に農具を販売する度に販売価格一割を納めるなら、製作や販売を許す運びとなった。
またその頃になると、春日大和守重房と木下日吉丸が何度か甲府に戻り、駿河の友野二郎兵衛との誼を得た御蔭で、少しづつながら農耕牛を手に入れた。
また鶏も手に入りそうだが、豚と羊は現状手に入れるのは難しかった。
羊は、湿度の高い土地は苦手な生き物で、高地で買う事を考えたら甲斐や信濃でも飼育出来そうだが、大陸から連れてきて代価を払う額が非常に大きいので現状は諦めた。
豚に関しては、喰う以外の目的でしか飼育してる様にしか見えない為、肉食を禁忌としてる人々が多い日ノ本では、薩摩と琉球の一部でしか流通されてない事が手に入れる事を苦労させた。
そして日吉丸が戻ってきた時にも、購入するより猪を家畜化させた方が現実的ではないのかと具申があったので、以前小原兄弟が捕まえた瓜坊達から、養猪する事に決めた。
猪を増やした後にそのまま殺して喰らうと穢れを嫌う僧侶や貴族が文句言ってくるかもしれないので、山鯨と称して、猪の正体を隠しながら徐々に民衆達に肉食の習慣を浸透させようと思った。
もし猪肉を食わせるなら、何か理由を付けて食わせようか、理由を考えてみる。そうだ、病や怪我から回復する時や身体を強くしたい者に対して、薬と言う理由にして食わせるか。
これだけの事業を行うようになったら、常に安定した人員が欲しいな。もっと河原者や山家者、それに流民を雇う事にしよう。 また農閑期で、人手が余る時は百姓達も積極的に使うか。
それにそろそろ硝石や蒸留酒も作る事も考えないとな。また鉄が大量に生産出切るになったら、やっと武田領内で、鉄砲とかも生産する為に職人集めもしておかないといけないな。
あと何れは徳本先生の力を借りて、抗生物質を作って母上の命を助けないと・・・・




